復帰摂理歴史の真実 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■ 第三部 第三章 c. エバ国家という英国と日本 1. 失敗したメシアの為の復帰摂理 (1) 本来の復帰摂理とは
メソジスト派とは、18世紀なかばにイギリス国教会内部に誕生した宗教運動で、ジョン・ウェスレーによって始められた一教派である。アメリカへは1760年代にもたらされ、19世紀初頭に西部の開拓地で目ざましい成功をおさめた。日本では美以教会とも言われており、韓国系の教会では監理会という名前を使う場合もある。 <参照> ・ 二つの「恨」と文先生の摂理 @ 西欧文明における霊的復帰摂理 (@) 復帰摂理上の「霊的」と「実体的」の意味
霊的真の父となったイエスは、地上人が「信仰」によって霊的イエスの対象となって、信仰による感動はそもそも霊的イエスとの授受作用によるもので、イエスの御言葉と心における正心との授受作用で生じる喜びである。その為、その喜びもイエスの地上生活における体恤によって語られた御言葉の範囲に限られる。そうした観点から、家庭を築くことのできなかったイエスが体恤できた実体的な喜びの範囲は、縦的には「庶子」、横的には「個人」レベルを超えることができなかった。「地上世界における授受作用による愛」とは、“実体的な喜びを得るための心情的衝動によるもの” と言える。 <参照> ・「原理講論」の誤解と正解 (A) 霊的真のアダムによる霊的復帰摂理 人類始祖における堕落の経路は、天使長とエバによって始まり、エバからアダムという経路を辿って結実した。神の復帰摂理は、その反対の経路を辿ると言うのが復帰原理の内容である。しかし、その堕落による暗黒世界は霊的真の父母の到来によって内的な神霊復興の輝きをもたらした。そして、復帰の経路に従って霊的摂理国家として建国されたのが、エバ国家としての英国と天使長国家としての米国である(右図)。 英国は世界の母として、聖霊がそうであったように、世界にける民主主義国家の価値観を正して善へと導き、天使長国家の米国はその価値観に基づいて世界的奉仕を担う摂理国家として、実体的摂理へ向けた環境とその摂理国家的確立を整える責任的使命を持ち合わせている。この英米両国は、それが整うことによってその輝きを失い始めるのである。 (B) 英国のカトリックとプロテスタント イギリス諸島とも呼ばれるブリテン諸島は、ヨーロッパ大陸の北西沖の大西洋上に浮かぶ諸島。グレートブリテン島とアイルランド島の2つの大きな島と、その周囲の大小の島々から成る。グレートブリテン島は、グレートブリテンと北アイルランド連合王国の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの国からなる(左図)。 北アイルランドは、1920年のアイルランド統治法によってアイルランドが分割された際に、1921年に北東部の6つの郡の分権政府として誕生した。北アイルランドの人口の大半は、イギリス国内に留まることを望むユニオニストであった。北アイルランドの人口の大半は、イギリスからの植民者の子孫であるプロテスタントの人々である。一方、南アイルランド(1922年にアイルランド自由国となる)の多数派と北アイルランドのかなりの少数派は、独立したアイルランドの統一を望むアイルランド民族主義者(ナショナリスト)とカトリック教徒であった。今日では、前者は一般的に自分たちをイギリス人と見なし、後者は一般的に自分たちをアイルランド人と見なしているが、北アイルランドやアルスターのアイデンティティを主張する人は、あらゆる背景を持つ多数の少数派である。 ちなみにアイルランドは、北西ヨーロッパに位置し、北大西洋のアイルランド島の大部分を領土とする共和制国家であり、北アイルランド(イギリス領)とのみ陸上で国境を接している。 <参照> ・ ブリテン島の先史時代 ・ イギリスの歴史|4つの国の連合とは? - アカルパ's Portfolio ・ イギリスはいかにして強国となったか (C) 清教徒分離派の人々 イギリスのピューリタニズムは、マルティン・ルターとジャン・カルヴァンの宗教改革により触発された学者や宗教関係者による “イングランド国教会批判” として始まった一種のキリスト教原理運動である。教会が国家権力と一体となり、キリスト教の解釈と儀式を独占したのである。 1517年ルターの宗教改革から17年後、ヘンリー8世(右図)は自分の離婚問題を解決するために1534年ヴァチカンから独立させ、教皇権と聖職者の特権を否定してイングランド国教会を設立した。イングランド国教会の母体となった聖公会はプロテスタントではあるが、カトリックの教会の運営とキリスト教に関する解釈をそのまま受け継いでいる。国王の教会を利用して人民を統治しようとする意図は全く変わらず、宗教改革運動の高まりが教会の保守性に批判の的となったのは当然であった。 イギリスの宗教の変革を求める運動は、エリザベス1世(左図)時代から始まり、王権神授説を信奉したイングランド王チャールズ1世の処刑(1649年)による王政転覆に続き、クロムウェルのイングランド共和国成立で頂点に達した(清教徒革命)。 イングランド国教会の分離派は、イングランド国教会から分かれたプロテスタントの諸派を指す。 国教会の改革を求めるプロテスタントはピューリタン(清教徒)と呼ばれたが、その中にも、国教会に留まって改革を図る者(非分離派)と国教会から分かれることを主張した者(分離派)がいた。分離派には、会衆派(組合派)、独立派、バプテスト、クエーカーなどを含むとされる。メイフラワー号でアメリカに渡ったピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)もこの分離派に含まれる。 また当ホームページで取り上げた新渡戸稲造も、分離派であるクエーカーの流れを汲む人物である(「『武士道』に見るキリスト教精神(下)」参照)。 <参照> ・ 宗教改革、そして英国から米国へ ・ メシヤ再降臨準備時代の幕開け ・ ピューリタニズムに関する一考察 (甲子園短期大学教授 山根邦雄 : PDF / 本サイト) A 東洋文明における実体的復帰摂理 (@) ヤコブの神とラバンの神、ラケルの神とレアの神 (@-a) ヤコブ家庭の原点となるアブラハムとナホル ここで、ヤコブ家庭に話を戻さなければならない。それは、アメリカが建国に至るまでのキリスト教プロテスタントの中に、“正妻と妾の分立摂理” に関する核心的ポイントが隠されているからだ。ここでは、「『原理講論』にないヤコブ家庭摂理」に付け加えて述べることにする。
高齢となっていた父テラが死(205歳)に、アブラハムは神からの啓示に従って、妻サライ(のちのサラ)と甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナンへ向かったのは75歳の時のことである。 古代メソポタミアの人々は神々を身近な存在と考え、その姿を人間に求めた。かくして人の形をした像を作って、それを拝む日々を送っていたのである。アブラハムの父テラは、唯一神(ヤハウェ)に反逆するニムロデの忠実な臣下だっとされており、「アブラハムの神」(唯一神・ヤハウェ)への信仰を持つことはなかったとされている。「ナホルの神」とは、テラとその息子であるナホルが崇拝していた古代メソポタミアの神々のことを言う。 <参照> ・ アブラハムの生誕 ・ 創世記22章-23章 ナホルからの知らせ/サラの死 ・ テラフィムの実相(東北学院大学名誉教授 佐々木哲夫 : PDF / 本サイト) (@-b) 夫婦共助によって偶像崇拝から唯一神崇拝へ ナホルの子ベトエル。ナホルはウルに残り、ベトエルはハランの地に残った。 ベトエルの子には、息子のラバンと娘のリベカがいた。リベカは、アブラハムの子イサクの妻になり、ラバンは妻を娶って、レアとラケルを儲けた。テラの崇拝した神(テラフィム:右図)は、ナホルからベトエル、ラバンへと継がれた。テラフィムの語源には「保護を与えるか危害を加えるかのいずれかを行う神々の霊」という意味があり、大切に扱えば “保護を与える神々の霊” として存在する家宝だったのだろう。テラフィム像は、相続権のしるしとして受け継がれていった。跡継ぎの男子がいない場合、養父と養子の間の遺産相続権を証しする家の神像が継承された。娘婿に財産を継承させる場合でも、その相続権のしるしとして、その家の神像を娘婿に渡すことが定められていたのである。 長女としてレアはヤコブの正妻となり、父ラバンの愛が希薄だったレアは父の愛を求めた様にヤコブの愛を求めた。そこで母は、ヤコブに愛されるためには妻としてどうあるべきかを(母子)協助したのである。一方のラケルは、父ラバンにとって美しく愛らしかったが故に父の愛を受け、父が貴重としたテラフィム像を、ヤコブの妻となったラケルは相続権の証しとして盗んだ(「創世記」31章32節)のである。 <参照> ・ メシア誕生のための内的摂理 ・ ヤコブの母リベカと妻レア (@-c) “恋なすび” に隠されたラケルの「不妊」という苦しみからの解放
<参照> ・ マンドレイク/恋なすび ・ 苦しみの多い人生 ―『イスラエルの家を築いた』姉と妹 ・ ヨセフ (人名) (A) 分離派と非分離派の違い <参照> ・ 宗教改革、そして英国から米国へ ・ エバの摂理完了と男性復帰(上) (B) 韓国は西学からプロテスタントへ 16世紀後半、反宗教改革の中心団体であるイエズス会は、異教徒文化への完全なる適応という新方針のもと、東アジアに対する宣教を積極的に開始した。中国におけるイエズス会の宣教活動は、マテオ・リッチ(1552年〜1610年:右図)によって本格的に始まる。リッチは、西洋の優位を印象付けるために西洋の科学知識を積極的に紹介する一方で、カトリック教理書の作成において、中国人に天主の存在や霊魂の不滅などを理解させるために儒教の経典を巧みに引用しつつ、カトリックと儒教の共存の可能性を強くアピールした。とりわけ『天主実義』の中に提示されたカトリックの天主と儒教の上帝は同じであるという補儒論的教理解釈は、中国の知識人の間に大きな反響を呼んだ。 17世紀の初めには、西学は閉ざされた朝鮮王国にも伝わったが、朝鮮王朝の西学研究は宣教師を全く介さず、純粋に書物だけを通した理解となった。そのため、西学に対する理解と言うのも儒教的普遍を越えた域には達せず、具体的にカトリック教理が儒教的教理を具現するための倫理道徳論として役に立つという程度のものであった。 「天主=上帝」というマテオ・リッチの親儒教的主張は、朝鮮の朱子学者には好意的に捉えられたが、あまりにも異なる存在論的伝統の重みのため、カトリックの本質的な内容は受け入れられなかった。 <参照> ・ 中世キリスト教霊魂論の朝鮮朱子学的変容 (東京大学大学院人文社会系研究科 金光来 : PDF / 本サイト) ・ 韓国キリスト教の歴史 1907年、平壌で韓国キリスト教における初期大復興運動が拡大した。その背景となるのは、日露戦争に勝利した日本が、列強の承認を得て韓国の併合を本格的に推し進め、1905年11月に乙巳条約(第二次日韓協約)を締結した(「日本と韓国との乙巳條約(後)」参照)。これに伴う日本による国権侵奪に対して、韓国民衆は国権を回復しようと、抗日義兵運動の武力抗争と愛国啓蒙運動の実力養成運動が展開された。韓国キリスト教は、民族の運命が風前の灯火となったとして愛国啓蒙運動に積極的に参加したのである。当時の愛国啓蒙運動の主導勢力は、宗教や道徳の精神文明の刷新なしに西欧の技術文明や制度だけを取り入れたため、既存の儒教的思想によっては国権の回復は不可能であるとの認識に至った。そのため、「宗教救国論」と「無形の自強論」などの社会的期待感に励まされ、韓国キリスト教は乙巳条約に反対する一時的運動だけでなく、学校教育による意識改革運動、言論と講演による大衆啓蒙運動、結社団体による政治社会運動などの愛国啓蒙運動の先頭に立った。 日帝下の韓国に派遣されたアメリカの宣教師は、ドワイト・ムーディーに代表される第3次大覚醒運動の宣教復興運動に直接的間接的に刺激された人物たちであり、その信仰と神学は「福音主義」だった。 ところが、彼らは厳密な意味で、アメリカ政府の指示と保護の下にある外国人であり、韓国の国権喪失については如何なる行動も出来なかったのである。アメリカは、韓国内の宣教師に対して「駐在国内問題に全く介入しないのが本国政府に対する国民の義務」であるとして、日本の政治的動きに関与しないように訓令を下していたのである。これによって宣教師たちは、「無能で腐敗した朝鮮王国の統治より、文明国である日本の統治の方が韓国人にとってよい事である」と思ったのである。そのため、乙巳条約に対する韓国人の抵抗と反発は「偽造愛国の狂乱」として認識され、宣教師の目的である「福音伝道」に邪魔しない限り、日本の韓国支配を指示した。特に、当時メソジスト教会の日本と韓国の兼任監督であったメリマン・ハリスは、1906年、初代朝鮮統監に伊藤博文が赴任すると、「優れた能力と知識を取り揃えた伊藤公のような人物が初代統監になったことは幸いなこと」と歓迎した。 初期大復興運動の直接的な発端となった1903年の元山復興会は、小さな祈祷会から始まり、1週間の祈祷会にカナダ出身のロバート・アレクサンダー・ハーディが医療宣教師として招待され聖書研究を導いた。彼はこの集いで強い霊的体験をして、主日礼拝で公に告白したのである。韓国人信徒らはハーディの告白を聞き、彼の信仰と宣教姿勢に強く影響を受けたのである。 本格的な全国的規模の大復興運動は、1907年に平壌で開催された復興会から始まり、平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれるようになった。1907年1月に「平安南道冬季男性査経会」という、聖書を学ぶ集まりが2週間に渡って開かれたのだが、徐々に興奮が高まり、通声祈祷(トランス状態に陥って祈りの言葉を叫びつつけること)や懺悔も相次いだ。それも横領、殺人、強姦など、墓場まで持っていくべき自分の犯罪行為を、何百人もの民衆の前で告白し、許しを請うたのである。その為この大復興運動は全国的に広がって、プロテスタント信者が急速に増えることで「平壌大復興」と呼ばれ、朝鮮半島にキリスト教が定着する大きなきっかけとなったのである。 <参照> ・ 北朝鮮の男女5人「秘密の地下教会」で公開処刑 ・ 韓国キリスト教における初期大復興運動に関する一考察 (同志社大学博士 李致萬 : PDF / 本サイト) (C) 日本の維新後に入ったプロテスタントの代表的人物達 (C-a) 新島襄
使節団は、最初はアメリカに渡って日米通商条約の条約改正の交渉が行われ、不平等条約を改正するため日本側の代表はかなり頑張って新生日本をアピールした。この使節団がアメリカ滞在時の通訳の一人として採用したのが新島襄(右図右)だったのである。 新島は、明治元年となる1864年に、函館から国外脱出を試み、見事に密出国に成功し、国禁を犯した重罪人であったが、使節団がアメリカを訪問することが決まった時、中米公使の森有礼(右図左)ら使節団を迎える側の役人が、アンドーヴァー神学校(会衆派)に滞在していた新島に目を付けたというのが経緯だ。これは、後に日本の初代文部大臣となる森有礼が、キリスト教思想を教育の根本に据えるべきと考え、アメリカでキリスト教徒となった新島を明治政府の指導者たちにどうしても合わせたいとの思惑によるものだった。 新島の脱出計画は、函館から上海に向かい、熱心なキリスト教徒であったH・S・テイラー船長にアメリカ行きのワイルド・ローヴァー号(右図)に向かい入れられて厚くもてなされ、英訳の聖書をプレゼントされている。新島は、香港に寄港した際、キリスト教書店でお金の代わりに帯刀していた小刀を差し出して漢訳聖書を手に入れた。 長い航海の末、アメリカの東海岸の都市ボストンに着いた新島は、ローヴァー号の船主アルフィーアス・ハーディー氏(左図)が身元を引き受けることになった。22歳でハーディー家にお世話になり、31歳で帰国するまでの9年間、その援助は絶えることがなかった。 神を信じ聖書の真理を求めて、アメリカにやって来た新島は、“アメリカの父” とする会衆派のハーディーがのアメリカン・ボードという伝道団体の理事長を務めていたこともあり、ボストンにほど近い所にあるアンドーヴァーの教会で、渡米翌年となる1866(慶応2)年12月30日に洗礼を受けました。 <参照> ・ アルフィーアス・ハーディーの系譜 (映像演出家 礒英夫 : PDF / 本サイト) ・「人一人ハ大切ナリ」と「倜儻不羈」 (C-b) 新渡戸稲造が『武士道』で解く日本独特の倫理観
<参照> ・ 武士道 ・ 友会について ・『武士道』に見るキリスト教精神(下) (D) エバ国による天使長国からアダム国へ <参照> ・ 幻となった基元節(上) ・ エバの摂理完了と男性復帰(上)
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