復帰摂理歴史の真実 | ||||||||||||||||||||||||||
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■ 第三部 第二章 a. 幻となった基元節(下) 1. 基元節の失敗によって失ったもの (1)閉ざされた「解ける恨」 @ キリスト教と「解けない恨」 『概説 統一原理 レベル4』(右図)は、天地正教が1987年に宗教法人として認可された翌年1988年1月25日に初版発行となった。現在は発刊されていないが、編者はレベル4編集委員会となっている。序論には、次のように記されている。
(@) み言葉による人間の成長と完成
完全であられる神は、完全な対象だけを主管なさるようになっているので、未完成段階にいる人間と万物は、神が直接主管する対象とはならない。神は原理、すなわち創造の秩序によって人間を間接的に主管されるのである。つまり、神は原理の法度の主管者としておられ、人間と万物が原理によって成長する結果を見て間接主管される。 ところで、万物は原理自体の自律性と主管性によって成長期間を通過していくが、人間は原理自体の自律性と主管性だけで完成するのではなく、神が人間にのみ与えられた戒めを、人間自らが信じて守るという人間の責任分担を完遂することによって完成するように創造されたためである(『概説 統一原理 レベル4』p72〜p74)。 では、この人間に適応された間接主管圏の目的はどこにあるのだろうか。右図をよく見てみると、人間は肉身と霊人体からなっているが、これまでの内容からみると、人間の肉身には原理自体の主管性と自律性がそのまま適用されるが、霊人体には人間自身の責任分担が必要と言うことになり、人間が万物を主管するということは、霊人体が肉身を主管するということに等しい。つまり、霊人体の主体となる生心が、肉身の主体となる肉心を主管して心を完成することにある。文先生は、こうした心の状態を「良心」と呼んでいる。 霊人体は、生心と霊体から構成されている。生心は人間の永遠の生命と愛と理想を主管する霊人体の中心である。生心の機能は真、美、善、愛などを求め、価値ある生活をするように作用する。生心は、神が臨在される霊人体の中心であり主体である。 霊体は、肉身においての肉体と同じく霊人体の体である。霊人体の成長と完成のためには栄養素が必要である。陽的な栄養素は神からくる生素である。生素は神の生命の要素として人間(霊人体)に心情をもつようにさせ、また真理体となるようにする根本要素である(『概説 統一原理 レベル4』p83〜p84)。 文先生は、「生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げる動機的心です」(『天国を開く門 真の家庭』p162)と語られたが、人類始祖の堕落により、これまで人間の心と霊(神霊)が合わさることは無かった。霊人体の陽的(無形)な栄養素としての「生素」は “言魂” とも呼ばれていて、聖書でいう「命の息」(創世記2章7節)を意味する。言魂は、言と魂が合わさった言葉であり、ここでは “神の心情によって発せられた言葉” と解することができる。『概説 統一原理 レベル4』では、霊人体を「霊魂」とも表現している。
<参照> ・ パウロの伝道と三位一体論の展開 ・ “心を養う” 必要性の根拠 ・ 内村鑑三の武士道とキリスト教 (A) 霊的イエスと聖霊から見たキリスト教の恨 (A-a) 新生と重生 『原理講論』において、従来使用されていた “新生” が “重生” に表記が変更された。では、新生と重生にどんな違いがあるというのであろうか。 「新生」とは、キリスト教では神の恵みによって聖霊が人の心のうちに働き、罪を知らせ、悔い改めさせ、イエス‐キリストの救いを受けて、その心のうちに変化の起こることをいう。また「重生」とは、“生まれかわる”という意味では新生と同じだが、“死んだ人間が再び生まれてくること” としての意味が含まれていることから、堕落による霊的死を意味したものと捉えることができる。しかし、『原理講論』の前編での「キリスト論」で “重生” の言葉を用いるのは適切ではない。 『原理講論』で言う “霊的死” における「死」の意味は、“肉身の死” とは全く違う。人類始祖の堕落によって肉心とサタンの授受作用が生じサタンを主体とする肉心が堕落性本姓として実を結んだ。この肉心によって生心が機能できなくなってしまったため、生(心)に対して死(心)としての表現になったのであり、決して生心が肉身の様に死んだのでもなく、消滅した訳でもない。肉心が主体となって生心を “拘束” してしまったことを「死」と表現したのである。復帰摂理は、長い歴史をもって徐々にこの拘束を解いてきたのである。 (A-b) 霊的真の父母としてのイエスと聖霊 聖霊は慰労と感動の働きをされるのである。イエスは天において、女性神である聖霊は地において、罪の悔い改めの業をしてこられた。 我々がイエスを信じるということは、霊的な真の父である復活されたイエスと、霊的な真の母である聖霊の一方的な愛の懐に入るようになるということである。イエスを信じて聖霊を受け、新たに生まれるということは、霊的真の父母の愛によって、真の生命を受けて、新しい霊的自我として生まれてくるのであり、これを霊的新生という。(『概説 統一原理 レベル4』p217) イエスは地上界において、アダムとエバが堕落した長成期完成級までの第一祝福完成のみ言葉となる福音のみ言葉を実体化され、天上(霊)界へと行かれた。復活されたイエスは、長成期完成級を肉的死をもって超えられた立場に立ち、霊的真の父の立場を復帰された。霊的イエスの相対の立場に立つ聖霊は、イエスのように地上界を経て天上界へ着た霊人体ではなく、昼の神が女性神として人格化された霊体である。昼の神は、原罪を持った堕落人間には直接干渉できない。しかし、聖霊は、“イエスに対する信仰” と “福音のみ言葉” を条件として、その道を歩む信徒に慰労と感動を与え、悔い改めによってイエスの再臨までの道を直くされてきたのである。 (A-c) 恨を解くためにイエスの再臨が必然となった キリスト教では、神を三位一体の神として理解し、一人の神が我々に啓示される時は、父・子・聖霊、このように三人格として現れると考えてきた。すなわち、神は自分を創造者として啓示され、このとき神は、私たちの父なる神であり、次に神は和解者として啓示され、このとき神は子として現れ、最後に彼が贖罪者として啓示されるときは、聖霊として現れると言ってきた。 人間の堕落がなかったならば、神はイエスと聖霊を立てて、救いの歴史を摂理なさる必要はなかった。イエスと聖霊は、神を中心とした霊的な三位基台をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。それゆえ、霊肉共の真の父として真の母を迎え、霊肉共の三位一体をつくるために、イエスは再臨されなければならなくなったのである。(『概説 統一原理 レベル4』p217〜p219) そもそも、人間始祖の堕落によって “心情の神” は、神と人間の断絶が生じたこによって哀痛され、これが「恨」となった。神ご自身の「恨」を解かれるために、人類歴史を三次に渡る復帰摂理として開始されたのである。 <参照> ・ 二つの「恨」と文先生の摂理 A 「解ける恨」とメシヤ再臨摂理 原理によれば、神は愛と心情の本体であられ、神の創造の動機は、神の愛の理想を実現しようとすることにあった(『概説 統一原理 レベル4』p22)。 心情は対象を愛そうとする心的な衝動として愛の源泉となる。それゆえ神は、必然的に愛することのできる対象を要求するようになり、被造世界を創造された。神が創造された被造物のなかで、人間は神に最も近い心情の対象であるが、神のみ旨と心情を知って応答することで神の子女となるのである(『概説 統一原理 レベル4』p59〜p62)。つまり、神の “み旨” を知らしめるのが “み言葉” であり、成長期間の各段階におけるみ言葉の実践に応じて、神との心情体恤における応答が “父子の絆” となるのである。 メシヤの仲保を必要としない本来的な神の創造目的の成就が「解ける恨」の意味するところであり、文先生のみ言葉、特に1993年から1995年に日本の食口に語られたみ言葉はそれを可能にするとしても、神の創造目的は具体的な理想世界の実現にある。そこで、又しても次のことが幻となってしまった。 B 失った「霊連世協会」と「天一国憲法」 (@) 霊連世協会の目的
(A)「天一国」としての憲法
ところで、文先生の描いた基元節は幻となり、現実的に行われた基元節は、これまで述べてきたことからも分かるように、天使長の誘惑に陥り堕落に至ったエバの “完全蕩減復帰完成” をひっくり返してしまう結果となった、いわゆる再堕落である。この人間の責任分担不履行によって神様の恨を解けなくしてしまったことに対抗して、悪戯に霊連世協会を成したりするのではなく、寧ろ文先生のみ言葉と原理を正しく理解し直して、神の原理結果主管圏における人間自身の責任分担を全うすることに務めるべきである。何故なら、神は4番目の鳩を放つ摂理などはせず、人類始祖の堕落によって失われたみ言葉を文先生が完全に復帰されたことで、間接的にではあるが、神は原理によって堕落人間を再創造し完成に至らしめることが可能となったからである。
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