復帰摂理歴史の真実
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■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
     d. 宗教改革、そして英国から米国へ


1. 宗教改革



 (1) カトリック教会の七つの秘跡

・洗礼式
入信。
・聖体拝領(聖餐式)
聖職者が信者に、キリストの肉と血の象徴としてのパンと葡萄酒(または葡萄のジュース)を与える。
・堅信
信者が聖体拝領の式に出るのを許す。
・告解
信者が聖職者に犯した過ちを話して懺悔をし、聖職者はそれに許しを与える。
・病者の塗油
病人の回復を祈り、死に際しては、聖油を塗布することでなぐさめや力を与える。
・叙階
司教によって、教会の聖職者の地位を与えられる儀式。
・婚姻
聖職者の手によって教会で行われる。

 (2) マルティン・ルター

 マルティン・ルター(1483年11月10日〜1546年2月18日:ドイツ人神学教授)は、「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらしました。
 ルターは聖書」をキリスト教の唯一の源泉にしようと呼びかけ、1525年6月、自身41歳の時にカタリナ・フォン・ボラ(1499年1月29日〜1552年12月20日:右図)という15歳年下で26歳の元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における聖職者の独身性を否定する立場をとりました。
 時は前後しますが、ルターは1506年に司祭の叙階を受けるとドイツのヴィッテンベルク大学に移って哲学と神学の講座を受け持つことになりました。ここでアリストテレスの手法を適用したスコラ学的なアプローチの限界を感じ、「神を理性で捉えることは困難である」という理解に達しました。ルターの心を捉えたのは、パウロの『ローマ人への手紙』に出る「神の義」の思想でした。

 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。(『ローマ人への手紙』1章17〜18節)


 「真理に対する信仰によって義とされる」と言う結論に至ったルターは、「信仰義認」と呼ばれるようになったのです。

  @ 贖宥状

 古くは十字軍の頃から始まったもので、中世以降のカトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できると言う思想が「贖宥」です。免罪符とは善行や献金に対しての代償として一時的に与えた罪の免罪証明書のことで、贖宥状は免罪符とはその償いの程度は全く違うものとされていました。問題は、贖宥によって義を行い善を成そうとする努力を全くなさなくなってしまい悪がはびこってしまったことです。多額の献金を行えば贖宥によって全ての罪が償われてしまうとしたことから、善を志向する心が失われて、怠惰やエゴが蔓延してしまった事です。
 さて、教皇レオ10世サン・ピエトロ大聖堂の建築のため全贖宥を公示しました。贖宥状購入者に免償を与えると布告したのです。これに対して枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (1490〜1545)はとんでもない野望をむき出しにし、贖宥状販売の独占権を得ると、贖宥状販売のための「指導要綱」を発布して稼ぐだけ稼いでローマ教皇庁の心証を良くしマインツ大司教位を得ようと考えたのでした。
 これに対してルターは、贖宥状によって罪に対して果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えたのです。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄(れんごく)の霊魂の罪の償いが行える」ということでした。
 本来罪の許しに必要な秘跡の授与悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であるとしたのです。

<参照>
 枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク
 贖宥状 1481年(「早稲田大学リポジトリ」PDF)

  A 95ヶ条の論題

 ルターは、1517年10月31日アルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送りました。それが「95ヶ条の論題」です。

<参照>
 95 Theses - Luther (英文)
 ルター95ヶ条の提題(日英対訳)500周年



 (3) ジャン・カルヴァン

 ジャン・カルヴァン(1509年7月10日〜1564年5月27日)は、フランス生まれの神学者。ルターに先駆けて改革を唱えた人物です。フランスのパリからスイスのバーゼルに亡命後『キリスト教綱要』を刊行しました。
 生まれ育った土地柄も関係してか、その短気さゆえに人との衝突が絶えなかったカルヴァンは、度が過ぎた厳格さから問題も多かった様です。

  @ キリスト教綱要

 1536年、ラテン語で執筆されたプロテスタント神学最初の組織神学書。聖書に対する神学的な手引書となっており、「神の権威と聖書における唯一の啓示」を主張していて次の四篇からなっています。

<第一篇>
 創造主なる神に関する認識について。
<第二篇>
 最初律法の下に父祖たちに次いでまた、福音に於いて我々に明らかにせられたる、キリストに於ける贖い主としての神に関する認識について。
<第三篇>
 キリストの恩寵を受くる様式、およびその恩寵より我々のために生ずる結果、並びに其に随伴する効果について。
<第四篇>
 神が我々をキリストとの交わりに招き、その中に留めおき給う外部的手段或は援助について。


<参照>
 カルバン「キリスト教綱要」

  A 予定説

 『原理講論』では、カルヴァンの予定説を明確に否定しています。

 復帰摂理の目的を完成するに当たって、神の責任分担と人間の責任分担との間には、果たしてどのような関係があるかを知らずに、すべての「み旨成就」を、神の単独行使として見てきたところに誤りが生じてくるのであり、カルヴィンのように、頑固な予定説を主張する人が出てくるのである。(『原理講論』p250)


 アウグスティヌスの全的堕落の救いに関する解釈の問題として、神は救われるべき人々をあらかじめ選ばれるという予定説を、原理では明確に誤りであるとしています。もちろん、神の救いはその順番はあっても、地上はもちろん霊界までも全ての人類に適合されるものです。予めその救いに選ばれるものと選ばれないものが生じるのは、全く神様の創造と人間の堕落を理解していないと言えるでしょう。この点において当時のローマ教皇庁の腐敗を解決できないどころか、むしろ助長してしまうことになりかねないとも言えます。カルヴァンが宗教改革の中心的人物に今ひとつなのはこの様な問題があるのかもしれません。

<参照>
 予定説(エンペディア)



2. 英国から米国へ

<参照>
 米国の歴史の概要−初期の米国

 (1) 北米の草創期

  @ 北米先住民としてのインディアン

 紀元前34000年から30000年の氷河期には、アジア大陸と北米大陸の間に「べリンジア」と呼ばれる陸の橋が出現し、シベリア海岸に沿って狩りをし、獲物を追ってアジア大陸から北米大陸に渡ってきた最初の人類がいました。この最初の北米人が今のアラスカ川から、大氷河の間を縫って南下して来たのです。
 時を経て、大型な獲物の絶滅が増えるにつれて、紀元前8000年頃には現在のメキシコ中部に存在したとされる先住民のトウモロコシやカボチャ類、豆類などを栽培知識は、徐々に北へ広がり、紀元前3000年までには、今のニューメキシコ州の河川流域で、原始的なトウモロコシ栽培が成されるようになっていたのです。さらに灌漑が行われるようになると、紀元前300年には初期の村落が出現しました。
 このような先住民(インディアン)の習慣や文化は、驚くほど多様で、土地との結び付きが強く、自然や天候との一体感が信仰の不可欠な要素となっていました。また、様々なグループ間の通商が盛んに行われており、近隣の部族間では、友好的にせよ敵対的にせよ、公式の関係が維持されていたことは確かです。

 (2) イギリスの北米進出

  @ ヴァージニア植民地とタバコ生産

 1607年北米に、ヴァージニア植民地が設立されました。英国王ジェームズ1世バージニア会社に与えた特許状に基づいて、1607年におよそ100人の男性の集団がチェサピーク湾を目指して出発したのです。この入植者たちは、農業より黄金探しに関心のある都会出身者や冒険家の集団でした。1609年から1610年にかけての冬の間に、入植者の大半が病に倒れ、当時の入植者の300人のうち、1610年5月の時点で生存していたのは、わずか60人となっています。
 その後間もない1612年ジョン・ロルフが西インド諸島から輸入したタバコの種を土着の種と掛け合わせ、ヨーロッパ人の嗜好に合う新種のタバコの生産を始めたのである。タバコはバージニアの主要な収入源となり、1619年に議会が開設されると、1624年にタバコ栽培のために必要だとされて、黒人奴隷の輸入が決定され、1624年王領植民地となったのが始まりです。

<参照>
 ヴァージニア植民とは何だったのか(新潟国際情報大学 情報文化学部 教授 高橋正平:PDF / 本サイト

 1616年には、イングランドで入植者の募集が行われたことにちなんでニューイングランドが、1629年マサチューセッツ湾植民地ニューハンプシャー植民地(1680年、マサチューセッツから分離)、1636年にはロードアイランド植民地コネチカット植民地など各地に自冶植民地がつくられました。入植者らによって、キリスト教の布教はなされたものの、狩猟用のために与えた “銃” が争いの武器となって長い間インディアン戦争1622年1890年)が続いたり、樹木がむやみに伐採され森林破壊がなされました。
 ヴァージニアにおけるタバコの生産に伴う繁栄がすぐにもたらされなかったのも、病気インディアンの襲撃による死亡率も、依然として驚くほど高かったためです。1607年から1624年までの間に、おおよそ1万4000人が移住しましたが、1624年の時点での生存者数は、わずか1132人でした。同年、英国王は王立委員会の勧告に従って、バージニア会社を解散させたのです。
 ヴァージニアの地域名は、当時の処女(バージン virgin)王であったエリザベスにちなんで付けられています。



  A マサチューセッツ植民地

   a)神の国と神の義を求めたメイフラワー号

 16世紀の宗教の変動期に、英国国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたことから「ピューリタン」と呼ばれるようになった清教徒。カトリックは教会の権威主義と世俗化に流れる中で、宗教改革に対しで迫害が激しくなり、イギリス国教会も中途半端な改革にとどまると、ピューリタンのある一団がローマ・カトリック教に基づく儀式と組織に代わって、より簡素なカルビン派プロテスタントの信仰と礼拝の形式を採用することを要求したのですが、この様な清教徒の改革思想は、国教会の統一性を破壊することによって国民を分裂させ、王室の権限を弱めかねない脅威となったのです。  1607年、英国国教会の改革は不可能だと考える急進的な清教徒の一派である「分離派」という小集団が、オランダのライデン市へ向かいそこで亡命を認められました。しかし、カルビン派のオランダ人は、彼らに低賃金の肉体労働しか与えませんでした。このため、深刻な生活苦にみまわれ、分離派教会の中には、こうした差別に不満を募らせる者が現れたのですが、たまたまアメリカの植民地の話を耳にした清教徒の一団が、バージニア会社から土地特許状を確保すると新大陸への移住を決意し、乗客102名と乗員25〜30名を乗せて、1620年9月6日に三本マストの帆船メイフラワー号に乗って一路アメリカに向かいました。同号に乗っていた25〜30名の乗員を除く乗客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属していたました。
 三本マストの帆船はもともと人を乗せる客船ではなく、フランスからイギリスへワインを運ぶ使い古した小型の商船でした。冷たい季節風が吹き荒れる中で、船は木の葉のように揺れたのです。雨風が吹き込む死と隣り合わせの航海でした。
 アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers:Pilgrims は「巡礼始祖」の意味)は、11月11日、プロビンズタウン港の沖合ケープコッド半島の先端にある入り江ケープ・ハーバーに錨を下ろし、上陸する前に「メイフラワー誓約書」に船上で署名し、12月12日までの1ヶ月間その半島に滞在していました。その後、マサチューセッツ植民地(現在のニューイングランド地方のマサチューセッツ州プリマス)のプリマス港にたどり着いたとされています。そして、冬の間に植民地の建設を始めました。入植者の半数近くが寒さと病気のために死亡したのですが、ピルグリムファーザーズが上陸した土地には先住民インディアンのワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリムファーザーズに食糧や物資を援助した。ワンパノアグ族のスクアントはイギリスに連れられて行った経験があるため英語を知っており、ピルグリムファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えました1621年には収穫があったため、ピルグリムファーザーズは収穫を感謝する祝いにワンパノアグ族を招待したのです。祝宴は3日間におよび、料理が不足すると、ワンパノアグの酋長マサソイトは部族から追加の食料を運ばせました。この祝宴が感謝祭のもとになったと言われています。
 プリマス港には清教徒上陸記念像(上左図)やピューリタンが創立したアメリカ最古のハーバード大学などが当時を物語ります。

<参照>
 アメリカ移民史

   b)メイフラワー誓約

 自由の天地アメリカに理想の都をと、ピューリタンは「メイフラワー誓約」を基に確固たる信念でアメリカ社会を建設して行きました。メイフラワー誓約の原稿は失われてしまいましたが、メイフラワー号に乗船していたウィリアム・ブラッドフォードの日誌にある写しには下記の様に記されてあり、誓約の内容との一致を認められています。
 
 神の名において、アーメン。下に署名した我々は、グレートブリテン、フランスおよびアイルランドの神、国王、信仰の守護者、等々の恩寵によって、崇敬する君主である国王ジェームズ1世 (イングランド王)の忠実な臣民である。
 神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、バージニアの北部に最初の植民地を建設する為に航海を企て、開拓地のより良き秩序と維持、および前述の目的の促進のために、神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。
 これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する。君主にして国王ジェームズのイングランド、フランス、アイルランドの11年目、スコットランドの54年目の統治年11月11日、ケープコッドで我々の名前をここに書することを確かめる。西暦1620年。


 これらの出来事に関して、文鮮明先生は次のように語っておられます。

 中世のローマ教皇庁を越えて神様を自由に信じ、より大きく世界へと進むことのできる教会を夢見た群れが、新教運動を主導していた人たちでした。そうした中、アメリカ大陸があるということを知り、ヨーロッパ的、教条的、全体主義的な教団よりも、もっと素晴らしい自由の国、信仰の自由世界を夢見て立ち上がった人たちが、このアメリカ大陸に初めて渡ってきて暮らすようになった「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)」ではありませんか。彼らはそのような国があることを知って、自由な大陸に行って神様が願う自由の天国をつくり、神様が願われる世界でより自由な信仰生活をしようと立ち上がった群れなのです。
 大西洋を渡るということは当時、命懸けの冒険です。信仰の自由を見つけるために自分の愛する父母とも離別し、愛する故郷を捨て、家庭を捨て、さらには、国まで捨てようという覚悟で、神様だけを愛し、信じ、頼りながら立ち上がった冒険の道でした。
 彼らは、長く険しい航海路程で困難にぶつかったとき、自分たちを出発させておいてこのように苦労させ、すべて死んでいくように捨てておくのかと神様を恨みはしませんでした。彼らは台風が来ても、神様にすべてのものを任せ、神様が願う自由信仰の国を建設して神様に永遠に侍ろう、という覚悟と決意をもって前進した群れでした。
 航海する一行は病気にかかれば神様のために祈祷し、神様を中心として完全に一つの心になりました。殉難の道を克服しながら、終わりまで耐えて神様を慰めるそのような場面を見るとき、神側でも決心したはずです。
 「歴史始まって以来、このように私のために冒険した人たちはあなた方が初めてであり、家庭を捨て、民族を捨て、国を捨てて立ち上がったので、私があなた方が捨てたものよりも、もっと素晴らしい国と民族と氏族とすべてのものを与えよう」と神様が決心しただろうと思います。
 皆さんはメイフラワー号がニューイングランドに到着したことをよく知っていらっしゃるはずです。冬に到着しました。十一月に到着したので、寒く、食料はなくなり、みな飢え死にする事態が展開されました。彼らが素晴らしかったのは、食べるものがないのに、明くる年に蒔く種を残しておいて、飢え死にしていったという事実です。
 彼らには、神様が未来のために行べき道を開いて、自分たちのために神様の願った祝福の国と自由天国を築いてくださる、という信仰がありました。それゆえ、後孫たちのためにその種を残しておかなければならないという心をもって、死の道を喜んで行ったと考えます。このような苦労の道を選んでいきながら、後代のために福を願うことができたのは、その人たちに、ひたすら神様を愛する信仰心があったので可能だったのです。彼らの中で残りの四十一名が協定書を書くときも、神様の名前で宣誓したことを皆さんはよくご存じです。皆さんの先祖たちが、この世を離れる最後の瞬間までも、神様の名前をつかんで信仰を死守したという事実は歴史的な事件でした。
 信仰による出発でなかったならば、ほとんどの人々が死んでいくときに神様の前に感謝できたでしょうか。皆さんの先祖たちは、出発しながら、寝ても覚めても、どこに留まっても、一切を神様をお迎えした中で行おうと努力したという事実を知らなければなりません。さらに、ローマ教皇庁が腐敗したことをご存じの神様は、皆さんの先祖にたいして祝福をしてあげざるを得なかったのです。
 皆さんの先祖が故郷を離れるようになった動機が、他の移民の場合と違う点が何かといえば、世界を救うことのできる国と、自由信仰の祖国を追求したという点です。これは偉大なことです。ローマ教皇庁を越えて世界を救おうというこの思想がまさに、神様が願われる思想と一致したので、祝福をしてあげざるを得なかったのです。(『神様の摂理から見た南北統一』p101〜p103)


<参照>
 ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書 (駒澤大学名誉教授 落合和昭:PDH / 本サイト

   c)プリマス植民地

 ピルグリム・ファーザーズらによって設立されたイギリスの北アメリカにおける初期の植民地で、マサチューセッツ湾植民地と合併して比較的短期間で消滅しました。
 インディアンとの関係は最初の頃は良かったのですが、互いの理解不足からの誤解が小競り合いを生み、小競り合いがついには戦争となって、プリマス植民地インディアン戦争で最も血なまぐさいところとなってしまいました。
 そもそも、インディアンとの争いは中米におけるコロンブスの金採集のための奴隷化から始まっています。異民族や白人と黒人との人種間の問題が根深いものとして残っているのもアメリカ大陸の大きな課題と言えるでしょう。

 清教徒団は目的と希望とにあふれてこの地にやってきました。彼らは自分たちの命を全うするより、彼らの目的のほうが重要であることを知っておりました。神への信仰を除いて何が彼らにこの勇気、献身、犠牲の精神を与えたでしょう。彼らがプリマスに着いた時、航海に耐えた四十一人の男は一緒になって政府に対する彼らの考えをまとめました。「メイフラワー盟約」は神のみ名によってアーメンと結ばれ署名されました。これは本当に素晴らしい話です。この小さなグループは神に希望をおいてヨーロッパをあとにしたのです。彼らは神のもとにあって病にかかり死んでいきました。そして神のもとで生きのびたのです。彼らは最初の政府をつくりその公式文書に “神のみ名によって” と署名しました。
 アメリカの清教徒の話は神の歴史の一つです。それは歴史上の義人アブラハム、イサク、モーセ等のパターンのうち、これらの清教徒たちは現代歴史のアブラハムの家庭に当たります。ですから「メイフラワー盟約」がサインされたのちも多くの苦労に立ち向かっていかなければならなかったのです。
 アメリカでの最初の冬、大胆なメイフラワーの生存者は最初の人数の半分になっていました。来る日も来る日も、その冬は愛する者との心を引き裂くような別れの日々でした。これらの勇敢な開拓者が次々に死んでいきました。しかし、朝から晩まで、晩から夜明けまで彼らの生活は神のみ意を中心としていました。神が彼らの唯一の慰めであり、彼らの唯一の希望であり、彼らの唯一の安全でありました。神が彼らにとって第一の仲間であったのです。ここにまれなる純粋な神の人の一団の例があったのです。彼らはあくなき信仰を証明し、神は代わりに力と勇気を与えられました。彼らは決して神への信頼を失わず未来の展望を失わなかったのです。アメリカに来ることの目的は神を中心とした国をつくり、神が住むことのできる、そして本当に親交を分かち合い神と共に親交を喜ぶことのできる天地をつくり上げることにあったのでした。これはすべて神の摂理の中にあることでした。なぜなら神は最終的な永遠の世界救済のため、神の闘士として仕える一国を必要とされているからです。
 それから、もう一つの奇跡が清教徒たちにもたらされたのです。辛うじて彼らが生き残り彼らの人口が半分になった時、インディアンの一撃は簡単に彼らを全滅させてしまうことができたのでした。しかし、ここでも神は彼らの盾となりました。メイフラワー号の生き残りの人々が出会った最初のインデアンは敵ではありませんでした。インデアンは、移住者を歓迎しました。もしその時清教徒たちが殺されたとしたら神のためのアメリカは多分存在しなかったでしょう神はここアメリカでも神の人々を救うため介在されたのです。これは私の信念です。神は、彼らが定住することを望まれたのです。そして清教徒にその機会を与えられたのです。
 人口が増すにつれて、彼らは自分たちの植民地を拡大するためにインデアンを追いやらなければならなくなりました。もちろん、この地はもともとは新しいアメリカ人のものではありません。インデアンはこの地の住民であって清教徒たちはインデアンの目から見れば侵略者であったに違いありません。それでは、なぜ神はこれらの新しい移住者に大きなチャンスを与えたのでしょう。私の説明はこうです。神はアメリカの移住者に味方されました。それが、神の御計画の中にあったからです。さらに、これらのアメリカの移住者たちは神の要求に見合い、真に神への揺るがない信仰を証明したからです。神は彼らに約束事を与え、その約束事を成就せずにはいられませんでした
。(『御旨と世界』p296〜p298)


  B インディアン戦争の原因は移民増加による混乱

   a)移民の波と清教徒の分裂

 1630年、英国で清教徒は宗教行為が厳しく禁じられるようになると、英国王チャールズ1世から植民地建設の特許を得ると、ジョン・ウィンスロップを指導者としてマサチューセッツ湾に到着しました。彼らは宗教的信条に従った生活をし、すべてのキリスト教徒の模範となるよう、信者を促したのです。その後、総会でジョン・ウィンスロップが総督に選出され、清教徒による厳格な統治が行われました。ところが、総会に対して牧師であるロジャー・ウィリアムズが公然と反対を表明したのです。彼は植民地がインディアンの土地を没収したことに反対し、政教分離を主張したのです。また、アン・ハッチンソンという女性も、清教徒の神学理論の主要な原理に異議を唱えたため、この2人は彼らの信奉者たちとともに追放されてしまいました。
 ウィリアムズは1636年に、ナラガンセット族のインディアンから土地を購入しました(現在のロードアイランド州プロビデンス市)。1644年には、清教徒の支配する英国国教会が彼を支持し、ロードアイランドに、完全な政教分離と宗教の自由を実現する植民地を創設する特許を与えたのです。

<Check!>
 1642年清教徒革命によって権力を握ったクロムウェルは、王政を否定すると共に国教会を否定し、ピューリタン精神に基づく厳格な独裁政治を行いました。

<参照>
 清教徒の信仰、ピューリタン

 マサチューセッツを離れたのは、ウィリアムズのような、いわゆる「異端者」だけではありませんでした。間もなく正統派の清教徒も、より良い土地と機会を求めて、マサチューセッツ湾植民地を去り始めたのです。例えば、コネチカット川流域の肥沃な土地の噂が、やせた土地の農耕に苦心していた農民の関心を引きました。1630年代初めまでには、多くの人々がインディアンによる襲撃の危険を冒しても、深く豊かな土壌と平らな土地を求めようとしていたのです。
 オランダ東インド会社に雇われたヘンリー・ハドソンの名前が付けられた、現在のニューヨーク市とハドソン川周辺の地域には、オランダ人が初期の入植地を建設したり、1617年には、ハドソン川とモホーク川の交わる地点、現在のオールバニ市に砦を構築しました。また、ハドソン川流域に入植者を誘致するために、オランダ人は「パトルーン制度(荘園地主制度)」と呼ばれる一種の封建貴族制度を奨励することによって、1630年には巨大な領地の第1号が建設されたのです。パトルーン制度の下では、株主である荘園領主、すなわちパトルーンは4年間で50人の成人を領地に連れてくる代わりに、同川沿いの25マイルに及ぶ土地を与えられ、漁業と狩猟の専有権、およびその土地の民事・刑事裁判権を与えられました。その見返りとしてパトルーンに借地料を払い、剰余作物の先買い権を与えました
 その3年後、さらに南ではオランダと提携していたスウェーデンの貿易会社デラウェア川沿いに初の植民地を築き始めたのです。しかし、この植民地「ニュースウェーデン」は独自の地位を固めるだけの資源がなく、徐々にニューネーデルランドに吸収され、後にはペンシルベニアおよびデラウェアに吸収されてしまいます。
 1632年、カトリック教徒のカルバート家が、ポトマック川の北、後のメリーランド川に入植するための特許状を英国王チャールズ1世から与えられました。カルバート家は、英国国教会の支配する英国でますます迫害されるようになっていたカトリック教徒のための避難場所を確立する一方で、利益を生む領地の建設にも関心がありました。故に、英国政府の間との問題を避けるためにも、カルバート家はプロテスタントの移民も奨励したのです。

   b)植民地とインディアン

 1640年までに英国は、ニューイングランド沿岸とチェサピーク湾の沿岸に植民地を確立しました。その2カ所の間には、オランダ人の共同体とスウェーデン人の共同体があり、西方には、アメリカ先住民(インディアン)が住んでいました。
 北米大陸東部のインディアン部族は、ヨーロッパ人にとって時に友好的、時に敵対的な存在でしたが、新しい技術や貿易による恩恵を受けはしたものの、入植者がもたらした疾病や彼らの土地所有欲は、長い間培った生活様式に対して深刻な問題をもたらしました
 インディアン部族のヨーロッパ人入植者による恩恵は、そうでないインディアン部族との間に格差を生じさせるだけでなく、初期の植民地時代における入植者との関係は、協力と対立の入り混じる不安定なものでした。ペンシルベニア植民地が作られてから最初の半世紀間に見られたような模範的な関係があった一方で、長期に渡る関係悪化による小競り合いや戦争が発生した時などは、いつも決まってインディアンが敗北して土地を失っていきました
 インディアンによる初期の重要な反乱のひとつは、1622年に発生し、ジェームズタウンに到着したばかりの多数の宣教師を含む白人347人が殺害されましたジェームズタウンの虐殺)。
 コネチカット川流域への白人入植者がきっかけとなって、1636年から1637年にかけてピクォート戦争が発生しました。1675年には、フィリップ王がニューイングランド南部の各部族を団結させて、ヨーロッパ人による土地囲い込みを食い止めようとしました。しかし、その戦いでフィリップ王は死亡し、多くのインディアンが奴隷として売られたのです(フィリップ王戦争)。
 東部の未開拓地へ入植者が続々と流入したため、インディアンの生活は混乱しました。多くの獲物が殺されて絶滅していくに従い、インディアンは飢えるか、戦うか、あるいは西へ移動して他の部族と対立するかという困難な選択を迫られたのです。

  C テレビドラマ『大草原の小さな家』

 『大草原の小さな家』は、アメリカ合衆国のテレビドラマで、原作はローラ・インガルス・ワイルダー(1867年2月7日〜1957年2月10日)による一連の半自叙伝的小説シリーズです。西部開拓時代のアメリカ(1870年代〜1880年代)を舞台にしており、自立と挑戦を最上位におくアメリカのフロンティア精神で貫かれ、楽観、勤勉、家族愛や隣人との助け合いといった価値観が大自然の美しさと共に描かれているドラマです。
 ところが、ワイルダーの作品には、米先住民や有色人種を非人間的に描く表現が使われているとの批判もあり、白人米国人に典型的な人種差別であると問題視され続けてきたことも事実です。しかしこの問題は、北米における先住民時代から植民地時代、さらに独立から現在に至るまでの様々な問題が歴史的に蓄積されたものであることは否めないことが理解できます。

<参照>
 「大草原の小さな家」著者ワイルダーの真実(篠田真貴子)
 「大草原の小さな家」作者の名前、米文学賞から外され 人種差別で
 ローラ・インガルス・ワイルダー / Laura Ingalls Wilder
 大草原の小さな家 - NHK再放送予定
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