復帰摂理歴史の真実 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■ 第三部 第四章 第一節 原理の力 1. 神の人間創造の目的は霊人体の完成にある (1) 「原理」という武器をマスターする @ 「生心」が肉身の主体となるための “御言” の必要性 ![]()
愛は真善美としての価値の源泉であり、基盤であるから、愛がなければ真なる、善なる、美なる価値は現れない。我々が神の心情(生素)を体恤して(神が人間を愛そうとする心情で)、愛の生活をするならば、輝かしい絶対的価値を体験し、実現することができるようになる(p294〜p295)としている。ここにおける絶対的価値となる「絶対的価値観」は、“絶対者である神がいかなる属性をもっておられ”、また “いかなる目的(創造目的)と法則(ロゴス)でもって人間と宇宙を創造されたのか” ということを明らかにした基盤の上に立てられた「新しい価値観」として定立させる “絶対的真理” によって導かれた価値観である(p316)。 神は愛を通じて喜びを得ようとして、愛の対象として人間を創造された。また人間を喜ばせるために、人間の愛の対象として万物を創造された。絶対的価値とは、このような神の愛(絶対的愛)を基盤として立てられた真善美の価値、すなわち絶対的真、絶対的善、絶対的美をいうのである(p316)。 A 本を読み理解し、語って自分の力とする
“本を読む” とは、黙読と音読があるが、文字を目で見て耳で認識して心に刻むことであり、“「原理」の内容を語る” とはそれを確認することである。他の人が理解できるように語るのは “語る力” であるが、語るのは、それを “認識して行う” ためである。そうした “真理によの行い” は、人の心に感動と喜びを与える輝かしい光となって、環境を主管して引っ張っていく中心的な力となるのである。 (2)原理に通じる新島神学 @ 神の愛とイエスの復活によって証された福音による救い (@) 人為と天啓による宗教
![]() これに対して、真の神による全く神聖な方法によって人を求め、人を救おうとする「天啓の宗教」がキリスト教で、この一点において「人為の宗教」と異なっている。キリスト教の教義は、神より人を求める “啓示の書” としての『聖書』にあると主張した。 では、神から始まって、神から人間に近づいた宗教としてのキリスト教の本質は何なのか。新島は、それを “キリストを通して世に顕された神の完全な愛” であるとし、神が我々を救うために自らの愛する子を十字架に死なせたことによって明らかとなったしている。
<参照> ・ 新島襄と聖書(立教大学名誉教授 鈴木範久 : PDF / 本サイト) ・ エバの摂理完了と男性復帰(下) (A) 道理と信仰の関係 新島は、幕末に軍艦教授所で数学や航海術を学び、アマースト大学では地質学や化学、生理学、解剖学、天文学等も学び、日本人として最初に理学士という学位を得て欧米の大学を正規に卒業した理系の人物である。その彼が、神の啓示を受けてキリスト教に回心したということになるが、“信仰と理性” 或いは “キリスト教と自然科学” との関係によって次のように整理した。 新島の「道理と信仰の関係」において、「道理」はその語義として、物事の筋道としての “理” を表し、「論理」もしくは「理性」と解釈することが適当である。 野蛮な時代の人間は、自然現象を奇怪な鬼や神の仕業と考えて恐怖を感じていたが、それは「道理」が乏しいからであった。開明の時代になると「道理」が進んで恐怖が去り、その代わりに信仰がうまれ、文化が進に連れ、「道理と信仰」が二つながら進展していった。 親と子、夫と妻、主人と番頭、友人同士、書生と先生、病人と医者、人民と政府を挙げて、それぞれの関係は互いに相手を信じる目に見えない「信仰」によって維持され、それによって「道理」が進展してきた。この様な人間社会の「道理」は、「信仰」が無ければ維持できないと新島は説明する。 新島は、文化や社会の進展には「道理」と「信仰」の両方が不可欠しつつも、「信仰」を「道理」の上位に位置づけた。“神を知る” ことにおいて「道理」には限界があるからである。但し「盲信仰」とならないように、「信仰」には知識と理性の両方が不可欠であるとした。 <参照> ・ 新島襄の神学思想 (同志社大学社史資料センター第一部門研究会員 大越哲仁 : PDF / 本サイト) (B) ルターが宗教改革の火種となった意味 <参照> ・ マルティン・ルターによる新約聖書の翻訳 (九州大学大学院修士課程 広松淳 : PDF / 本サイト) ![]() こうした中世の名残を時代背景として、ルターは聖書の記述に重点を置いた “福音主義” を掲げ、真のキリスト者に相応しい思想が生まれてくることを最大の目的として「宗教改革」を起こしたのである。 (B-a) 肉身の死と霊人体の死 こうした当時のキリスト教徒におけるルターの懸念は、イエスにおけるキリストとしての行為を信じず、数々の奇跡行為における言動を重視し、虐げられた人々に寄り添った神の愛をないがしろにしてしまうことであった。そうなった原因が、聖句の “「死」に対する概念” にあったことにルターは気付いたのである。
しかし “霊人体の死” に対する無知は、黒下線Bにおける “すべての人が死によって亡骸(死んで魂の抜けてしまった体)となった人間は、復活したイエスに対する信仰によって生き返る(復活する)” ことを強く求めるに至ったことも無理からぬことである。 ここで、『原理講論』における “二つの死” に関する部分を下記に示しておく。
『統一思想要綱』では、こうしうた霊人体における霊性の成熟は人間自身が担う責任分担にあるとして、次のように定めている。
(B-b) ルターの福音主義とは 従来のキリスト教は、キリストの十字架による死によって神への贖罪が成立し、その贖罪への信仰にとって神との和解(コリント人への第二の手紙5章20節)に至れるのだから、イエスを証しすることで人間が義(コリント人への第二の手紙5章21節)とされ、義とはイエスの十字架刑の死によって成り立ったとしたいわゆる十字架信仰である。 ![]() <参照> ・ 宗教改革、そして英国から米国へ (C) イエスの復活にみる新島のキリスト教真理 新島の神学思想において、キリスト教の本質は神の完全な愛であり、それはキリストを通して初めて人間が理解できるようになったと論じている。そこで、新島の説教の中にイエス・キリストの生涯とその意義を包括的に述べているのがヨハネによる福音書18章37節である。
イエスの弟子たちが、イエスの生前にイエスをキリスト(主、救い主)であると十分に理解しておらず、イエスの復活後も、なかなかそれを信じず、復活したイエスの出会ったとき初めてそれを知り、それを恐れた。なぜなら、イエスの復活の預言が現実となったからである。
新島は、イエスが生前に復活を予告したこと自体、他の偉人の誰もが行えなかったことであり、それが嘘ではなく本当であったことをキリストは自らの復活を通して示された。この復活こそが「イエスの言葉」の “真理としての証し” であり “神の真理” であって、誰もがこれに従わなければならないと確信をもって述べたのである。
<参照> ・ イエス・キリストの死・復活・昇天に関する預言(聖句) ・ 新島襄のキリスト論 (同志社大学社史資料センター第一部門研究会員 大越哲仁 : PDF / 本サイト) (D) 新島の罪観と救済論 新島は、ニューイングランドの会衆派教会に通う中で洗礼を決意した人物である。この教会は、メイフラワー号でアメリカに渡った分離派に属しているピルグリム・ファーザーズと呼ばれるプロテスタントの一教派である(「エバ国家という英国と日本」参照)が、その特質は「教会の出発点とその基礎を各個教会の自由・自治・独立に求め、信徒一人ひとりと神との契約から考える」ことにある。それは、悔い改めて神を信じた一人のキリスト者が、自己と神(キリスト)との契約関係の中で自覚的に信仰を受けとめ、その神と契約した個人が、更に共同の礼拝を行うために、各個教会という交わりの中で、キリスト者同士で信仰の契約を結ぶという各個教会の独立自治を極めて重視するのが最大の特徴となっている。 新島の受洗の動機に、彼の主体的な悔い改めと自由意志による自覚的な神の受け入れを見ることができるが、それは会衆派教会で培った「個人の自由意志による信仰告白」によるものであったと言える。 (D-a) 人間堕落の根本となるのは “原罪” ではなく堕落的傾向(堕落性本性)の深層にある 新島は、罪には “顕在化した罪” と心に秘されて “顕在化していない罪” の2種類があるとした。いわゆる「法によって裁かれる罪(法的罪)」と「神が裁く(神学的)罪」のことである。 ところで、“罪を犯す” というのはその原因となる “動機” と、結果としての “犯罪行為”がある。法的罪として裁かれる場合、動機は考慮に入れても裁かれるのは犯罪行為である。神が裁くとする神学的罪には、結果としての “堕落行為による罪”(『原理講論』(p121)でいう遺伝的罪や連帯罪、自犯罪など)とその動機となる “ある情念”(顕在化していない罪)が関係しているとした。新島は、この神学的罪を犯す原因となる動機(ある情念)を「人の心の堕落的傾向」と呼んだが、これは原理でいうところの「堕落性本性」(『原理講論』p122〜p124)のことである。新島はこの「人の心の堕落的傾向」にある情念は「我意」と「情慾」であるとした。
こうした新島の観点は、エバは天使長ルーシェルの「情慾」(立場を弁えない “自己を中心” とした「過分な欲望」)と相対基準を結んで授受作用した(霊的堕落)結果、その「情慾」を受け継ぎ “神の御言を失って良心の呵責に苛まれることとなった”。良心の呵責から逃れようと「我意」によってアダムと結婚した(肉的堕落)。アダムとエバの堕落による罪は、血縁関係によって全人類に受け継がれる「罪の根」(原罪)となったことを物語っている。 そこで、新島の救済論は、自分たちの罪のためにこの世に降りて十字架で死なれ、後に復活された神の御子イエスを、人間の「自由・自治・独立」によって信じることを会衆派キリスト者として明確にした。また、それと同等に神の普遍的な救済意思を強調して、イエスが殺されて完結したのではなく、その後の復活によって “イエスの福音による「人類の救い」と「神との和解」” が始まったとしている。 <参照> ・ 新島襄の「霊魂の病」(同志社大学社史資料センター第一部門研究会員 大越哲仁 : PDF / 本サイト) ・ 新島襄における救済論(同志社大学社史資料センター第一部門研究会員 大越哲仁 : PDF / 本サイト)
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