復帰摂理歴史の真実 | |||||
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■ 第三部 第三章 b. 日本敗戦後の2つの悲劇 1. 中国共産化に続く朝鮮戦争 (1) 日本の敗戦が招いた2つの悲劇 @ 中国共産化 1945年の第二次世界大戦終結後、蔣介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党との間で内戦(1946年6月〜1949年12月)が発生した(第二次国共内戦)。日本という共通の敵を失ったことで中国国内では国民党と共産党が統一戦線を維持する大義名分が消滅し、戦後構想の違いから内戦再発の不安が中国国民及び諸外国の間で募った結果である。 (@) 双十協定という一時凌ぎ 1945年8月30日に重慶において蔣介石と毛沢東による巨頭会談(重慶会談)が開かれ、会議は43日にも及んだ。10月10日に「双十協定」としてまとめられて内戦は一時的に回避された。しかし会談の結果も空しく、双十協定調印の日である10月10日に、山西省で第二次国共内戦の序曲となる上党戦役が起こり、共産党軍に閻錫山所属の11個師の部隊が殲滅され、中国共産党の起こした攻勢に対応できず山西の守備に中央軍の援助を受けなければならなくなった。 (A) 米国の不発に終わるマーシャル特使の調停 1946年1月10日、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催された、統一政府の設立では合意が成立したが、それぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になり、一致できなった。共産党はその支配下の解放区で、「減租減息」(小作料と利息の減額)を実施して民衆の支持を広げていった。アメリカも国共内戦の勃発を恐れ、マーシャル(左図)特使を派遣して斡旋を試みた。しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線もついに破綻を迎え、1946年6月26日に蔣介石は共産党解放区への進撃を命令し、本格的な国共内戦に突入した。 (B) 米軍の撤退と中華人民共和国の建国 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。トルーマン(右図)政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の大国化を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、ルーズベルトの「四人の警察官構想」を基調とするものとして始まったといえる。 アメリカは国民党を中心に、共産党と連立した民主主義的政権をつくることが望ましいと考え、アチソン(左図)国務次官は、「国民党や共産党が協調し、“中国統一政府” を成立させなければアメリカは中国に援助をしない」と述べた。これに対し、中国共産党はアメリカを中国から退出させるために、統一政府の樹立を是が非でも阻止しようと動き、アチソンの意図した方向とは真逆の事態となってしまいました。この責任をトルーマンは蔣介石に転嫁し、1946年8月に「蔣介石の好戦的な態度が内戦につながった」と非難声明を発表しています。 1946年6月以降、国民党と共産党の両勢力は全面戦争に突入し、共産党の紅軍は1947年3月、人民解放軍(右図は軍旗)と改称。「平和の使徒」ともてはやされたマーシャルはアメリカに召喚され、アメリカ軍も中国から撤退し、「アメリカは中国内戦に関与しない」と表明。当初、兵力の上では国民党は共産党よりも優位でしたが、次第に形勢が逆転し、窮した蒋介石はソ連に接近します。満州の権益を譲渡する代わりに、共産党への支援を控えるよう密約を結びました。それでも国民党勢力は共産党に押され、ついに1949年4月、国民党政府の首都南京が陥落。蒋介石らは台湾へ逃亡します。結果として、1949年10月1日に毛沢東中国共産党主席が北京市天安門広場で、 中華民国政府を台湾へ放逐しての中華人民共和国の建国宣言となったのです。 <参照> ・ 中華民国政府の台湾への移転 ・ 中国の"一党独裁"を許した米国の弱腰外交(1) ・ 中国の"一党独裁"を許した米国の弱腰外交(2) ・ 中国の"一党独裁"を許した米国の弱腰外交(3) (C) 朝鮮戦争によって分断国家となる 対中国政策で大失敗をしたにも関わらず、アチソンは1949年、マーシャルの後任として、国務長官に任命されました。アチソンは1950年1月12日、ワシントンD.C.のプレスクラブで米国の西太平洋における対共産主義防衛線(不後退防衛線)として、日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島を結ぶ線(左図のアチソン・ライン)を譲れない領域と規定した演説(アチソン演説)を行った。 1950年4月、金日成は対南攻撃計画への合意を得るべく、訪ソしてスターリンと会談した。金日成は、北朝鮮の決定的な奇襲攻撃によって戦争は3日間で終結すること、攻撃と同時に韓国内の多くの共産党員が蜂起するとともに韓国に潜伏しているゲリラも北朝鮮軍を支援するだろうから、米国が介入する時間的余裕はないとスターリンを説得した。 中国共産党が国民党に勝利したことで、朝鮮での行動開始に有利な環境となった。アメリカは中国から退き、もうこれ以上軍事的に新中国当局に挑戦することができなくなったのである。中国はすでにソ連と同盟条約を締結(中ソ友好同盟相互援助条約)したので、アメリカはアジアの共産勢力に対する挑戦を躊躇わざるを得なかった。このとき既に、毛沢東は朝鮮全体を解放するという金日成の計画を支持し、中国革命だけ完成させれば兵力も支援すると何度も話していて、金日成は朝鮮統一をやり遂げると確信していたのである。 金日成の説得に対してスターリンは、完璧な戦争準備が必須であるとしながら、ソ連が戦争に直接介入することは期待してはいけないと慎重な姿勢を示して、もう一度毛沢東と議論することを強調した。 この会談で金日成とスターリンは、1950年夏まで北朝鮮軍が完全な動員態勢を取り揃えて北朝鮮軍参謀部がソ連顧問団の支援を受け、具体的な南侵計画を樹立するという事に合議することで、1950年6月25日にスターリンと毛沢東の支援を受けた金日成率いる北朝鮮軍が突如38度線を超えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発したのである。 <参照> ・ 中国の"一党独裁"を許した米国の弱腰外交(4) ・ 朝鮮戦争をめぐる中朝関係の歴史的経緯と現代への含意 ・ 鮮戦争とアチソン演説 (琉球大学教授 金成浩 : PDF / 本サイト)
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