復帰摂理歴史の真実 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
≪ “心を養う” 必要性の根拠 | <トップ> | 『武士道』に見るキリスト教精神(中) ≫ | |||||||||||||||||||||||||||||
■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 b. 『武士道』に見るキリスト教精神(上) 1. 崇高な価値観とその伝承
(1) 教えの曖昧さを克服するために
(@)曖昧ゆえに生じる問題 キリスト教も原初のころは、それで十分と言える教えであった。しかし、その世界が拡大し、環境に変化が生じ、様々な事柄が流入してくると、一見して明確に捉えていたことでさえ曖昧な表現や認識と化してくるものである。宗教は特にそうした傾向が至る所に存在する。この「曖昧さ」は如何なる問題を生じさせるのであろうか。 この “曖昧な状況” が生じるのは、その解釈や判断に十分な手掛かりに欠如していることによるもので、これによってその状況に陥った個人は、自ら改変できない不可抗力の事実の存在として認識し、“不安” や “不快” を感じ、目に見える行動として回避行動をとるといった選択をしてしまうということである。そのため、宗教においては時間とともに、教義に対する理解から信仰が強調、或いは強要されることが際立つようになったのである。 ところで、パウロが主張した「信仰」は、こうした曖昧な状況から生じる不安や不快な状況を避けて行こうとするものではなく、イエスの御言葉を信じて、それを手掛かりとしてその解釈や判断となるを叡智を見出るすための気構えとしての覚悟だったのである。間違った「信仰」によって、真理に対する追究とそれを実現しようとする自由を奪っては決してならない。新渡戸氏の『武士道』には、そうした確固たる信念が見いだされる。 <参照> ・ 曖昧さへの態度と多次元構造の検討 (九州大学大学院人間環境学府 西村佐彩子 : PDF / 本サイト) @ 父権政治と母親的美徳 (@)徳と絶対的権力
「天」とは何かと言えば、先に記した「日本における摂理的概要」における天道思想のところで述べたように、聖人が天命を受けて君主となり、天に代わって天下を治め、仁政を施さねばならないと言う “天下思想” とその下に王臣であるものは君主に服従すべきという “王土思想” を含んだ王道政治に根拠を持つ天道に由来する。この天道としての “天の思想” は、自然の必然的な法則、人格的な天地の主権者、天そのものや天体の運行として、儒教的、老荘的思想を背景として用いると共に、仏教における欲界、色界、無色界の総称として、或いは「おてんとうさま」と言うように日輪への親しみを持った言葉として『天』が用いられた。 そして、その天に委ねられた民に対する保護には、人民の感情に対する父親らしい配慮が常に求められていた。ここでの感情とは、民が主君にに対して抱く気持ちのことであり、民が主君に対して、納得あるいは満足できる父親のような言動を期待し描いていたのである。 <参照> ・『大学』『中庸』を解読する (A)母親的美徳としての仁
これまでの天道思想に、中世以降には天に新たな意味が付加され、その変容が余儀なくされる。鎌倉期以降の武家支配から、徳川政権において、主として儒学によって仁政が確立されるようになる。いわゆる「武士の情け」である。 武士の情けは、単に優しいというだけでは無く、説得力を持っていた。天の習わしとしての民の保護という正義に対する適切な配慮の上に立った慈悲だった。たとえ生殺与奪の権力を背後に持った権力者であっても、この武士の情けを施せる権力者は、徳を有した武将として慕われたのである。その様な仁政は、真っ直ぐな義と厳格な正義を兼ね備えた慈悲だったのである。 この様に天道思想は、父のように義に厳しく、母のように民に優しい思想であって、民はそれを主権者に対する感情として持ち合わせていたのである。 A 名誉と恥 (@)礼の究極の本質
<参照> ・ 小笠原流礼法宗家本部オフィシャルサイト (A)武士の一言の重さと廉恥心
かつて日本は、聖人が天命を受けて君主となり、天に代わって天下を治め、仁政を施さねばならないという天下思想の五常(仁義礼智信;右図赤矢印)と、その臣下にあるものは君主に服従すべきという王土思想の三綱(忠孝節;右図青矢印)とを併せ持つ天道思想に成り立っていた。 この天道思想は、その成り立ちは君主に下された「天命」にある。天命とは、天から与えられた命令のことであって、天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のことである。「天」とは、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。西洋思想では「神(God)」のことを意味するが、その概念に違いがある。西洋では、人間には原罪があり、人間と神を切り離して結びつけようとはしなかった。しかし、東洋には、この様な原罪としての概念がなく、性善説の立場から、西洋における神のように人格的な存在としてではなく、絶対善としての最上位的存在としての “天” という概念が存在していた。中編の第1章でも述べたように、その絶対善に導く存在として、“龍” が想い描かれてきたのである。 天は物のすべてに「性」、すなわちその物としての本質を付与した。そして人間としての本質とは何かといえば、仁義礼智信の5つの道理にほかならないという。ただし、このうちで信は仁義礼智が「真実にして無妄」(真に実質をともない、デタラメでないこと)であることを示している。こうした人間としての本質を意味する五常によって、君・父・夫という上位者が「綱」として臣・子・婦という下位者を指導し、秩序あらしめる責務をもつことによって、下位者が上位者の指示に従い尽くすとする忠孝節を説いたのが「三綱五常」でる。ここにおける「綱」には、綱目がバラバラにならないよう一つにまとめる元綱を意味している。それは為政者や上位者としての責務を象徴するものであり、下位者が上位者に「絶対服従する」というものでは無かった。元綱には、下位者の自発的な意志を引きだすという意味が込められている。真なる人間関係(愛)を結ぶ3つの綱(三綱:忠孝節)は、人間としての本質(仁義礼智)に基づいた行為(信)によって成されることを示している。 武士道で、個人は国家のために生き、また死なねばならないとしたのは、天(神)が最初に宇宙を創造し、万物を創造して、最後に人間を創造されたように、個人を取り巻く環境が先に存在している。国家としての概念は、為政者の影響の及ぼす範囲を表していたため、為政者の為に生き、また死ぬことは、天(神)の為に生き、また死ぬことでもあったのである。西郷隆盛の「敬天愛人」は、それを端的に表現した言葉とも言える。 中国では “敬” を「心を集中専一の状態に保ち続けること」と定義した。朱子は敬を「聖学の始めを成し、終わりを成す所以のもの」といった。また、江戸時代初期の儒学者で朱子学を奉じた林羅山)はその著『春鑑抄』において、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「うやまう」というよりも「つつしむ」という意味の「敬」が大切であり、さらに、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべきことを説いた。 <参照> ・ 日本における摂理的概要 (A)忠義は諂いや追従ではない
(B)李朝儒教における『三綱行実図』によるの本意の偏向 『三綱行実図』(右図)は、李氏朝鮮と中国の書籍から王と臣・親と子・夫と婦の三綱の道理に模範となる忠臣・孝子・烈女の話を集めて、ハングル訳を付して庶民の教化に努めた書である。1434年(世宗16年)直提学(朝鮮王朝の官職の一つ)のy循らが王の命令を受けて記したものである。 古代儒教では一般に、夫婦 ➡ 父子 ➡ 君臣の順序が普通であり、父子 ➡ 君臣 ➡ 夫婦という順序になることもあるが、君臣が必ずしも首位に置かれてはいなかった。ところが、秦末から漢代にかけて国家権力による政治支配が強化されるのにともなって君臣関係や服従が強調されてくると、『韓非子』忠孝編や『呂氏春秋』処方編など法家思想およびその影響を強く受け、三綱概念においては君臣が首位に置かれ、君臣 ➡ 父子 ➡ 夫婦という順序になり、下位者が上位者に従うことが強調されるようになった。 しかし再び李氏朝鮮において、この三綱概念を、子・臣・妻が父・君・夫に奉仕するものとして理解する捉え方が現れたのである。そのため三綱五常の理解は、下位者の上位者に対する「絶対服従」を要求するものであるとか、支配者に絶対的忠誠を尽くすことを求めるものであるという後世において生じた偏向にもとづくものとなり、朱子学本来の意味とは違うものとなってしまった。 こうして『三綱行実図』の出現は、明代の君主独裁を目指す思潮を反映するものとなり、その影響は日本にも及んだのである。 <参照> ・ 朱子学再考 : 「三綱五常」をめぐって (関西大学教授 吾妻重二 : PDF / 本サイト) ・ 三綱行実図 | 収蔵品検索::国立中央博物館 ・ 明初の政治
|