復帰摂理歴史の真実
“心を養う” 必要性の根拠  <トップ> 『武士道』に見るキリスト教精神(中)

■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     b. 『武士道』に見るキリスト教精神(上)


1. 崇高な価値観とその伝承
現代語訳 武士道新渡戸稲造 著 / 山本博文 訳)

 日本人は、宗教なしに道徳をどう学ぶのか――こうした外国人の疑問を受け英文で書かれた本書は、世界的ベストセラーとなった。私たちの道徳観を支えている「武士道」の源泉を、神道、仏教、儒教のなかに探り、欧米思想との比較によってそれが普遍性をもつ思想であることを鮮やかに示す。「武士道」の本質をなす義、仁、礼、信、名誉などの美徳は、日本人の心から永久に失われてしまったのか? これは武士道書というより、日本的思考の枠組みを外国人に示した優れた日本文化論なのである。

 ここからは、新渡戸稲造が著した『武士道』を3ページに渡って、そこに記された主張は何なのかを見ていきます。先に取り上げた、「武士道の源流となった儒教」や「 “心を養う” 必要性の根拠」なども踏まえた上で閲覧ください。



 (1) 教えの曖昧さを克服するために
 宗教上の問題、もしくは宗教活動家に言及した私の言葉が、万が一失礼に聞こえたとしても、キリスト教そのものに対する私の態度に、疑いを抱かれることはあるまいと信じている。私があまり共感を覚えないのは、キリストの教えをあいまい●●●●にする教会のやり方、およびさまざまな儀礼や形式であって、教えそのものではない。(『 現代語訳 武士道 』p15)

 新渡戸氏が『武士道』を著す動機となったのは、キリスト教そのものではなく、その教えの “曖昧さ” を長い間そのまま放置して来た為に、西洋キリスト教の教会のやり方や儀礼やその形式の中に、様々な問題を引き起こす歪みを抱えてしまっているからである。その為、新渡戸氏は敢えて日本人の拠って立つ道徳意識や思考方法を外国人に向けて書いたのです。そこでまず最初に、“なぜ曖昧に出来ないのか” を考えてみます。

    (@)曖昧ゆえに生じる問題
 キリスト教も原初のころは、それで十分と言える教えであった。しかし、その世界が拡大し、環境に変化が生じ、様々な事柄が流入してくると、一見して明確に捉えていたことでさえ曖昧な表現や認識と化してくるものである。宗教は特にそうした傾向が至る所に存在する。この「曖昧さ」は如何なる問題を生じさせるのであろうか。
 この “曖昧な状況” が生じるのは、その解釈や判断に十分な手掛かりに欠如していることによるもので、これによってその状況に陥った個人は、自ら改変できない不可抗力の事実の存在として認識し、“不安” や “不快” を感じ、目に見える行動として回避行動をとるといった選択をしてしまうということである。そのため、宗教においては時間とともに、教義に対する理解から信仰が強調、或いは強要されることが際立つようになったのである。
 ところで、パウロが主張した「信仰」は、こうした曖昧な状況から生じる不安や不快な状況を避けて行こうとするものではなく、イエスの御言葉を信じて、それを手掛かりとしてその解釈や判断となるを叡智を見出るすための気構えとしての覚悟だったのである。間違った「信仰」によって、真理に対する追究とそれを実現しようとする自由を奪っては決してならない。新渡戸氏の『武士道』には、そうした確固たる信念が見いだされる。

<参照>
 曖昧さへの態度と多次元構造の検討 (九州大学大学院人間環境学府 西村佐彩子 : PDF / 本サイト



  @ 父権政治と母親的美徳
    (@)徳と絶対的権力
 封建君主は、みずからが臣下に対して相互的な義務を負うとは考えなかったが、自分の祖先や天に対して、いっそう高い責任感を抱いていた。君主は民にとって父であり、天によって民の保護を委ねられたと考えられたのでる。
 中国の古い書物である『詩経』によると、「の王室がいまだ民の心を失っていない時、彼らは天の前に出ることができた」とある。
 また、孔子は、『大学』の中で説いた ―― 「民が好むところを好み、民の憎むところを憎む、これを民の父母と言う」と。このようにして、人民の世論と君主の意志、言い換えれば民主主義と絶対主義が融合したのである。
 このようにして、武士道もまた、ふつうその言葉に与えられているのとは違った意味で、父権政治を受け容れ、それを強化したのである。それはまた、関心のうすい叔父政治に対する意味でも父権的だった。
 専制主義と父権政治の違いは、次の点にある。すなわち前者においては人民はいやいや服従するのに対し、後者では「あの誇り高い帰順、あの品位ある従順、あの隷従の中にあっても高い自由の精神を保った心服」をもって従うのである。(『 現代語訳 武士道 』p54〜p55)
 このために、私たち日本人には、君主の権力の自由な行使がヨーロッパのようには圧政と感じられないだけでなく、その権力行使は、通常、人民の感情に対する父親らしい配慮によって緩和されていた。(『 現代語訳 武士道 』p56)

 ここで封建君主は、民にとって父であり、天によって民の保護を委ねられたとある。
 「天」とは何かと言えば、先に記した「日本における摂理的概要」における天道思想のところで述べたように、聖人が天命を受けて君主となり、天に代わって天下を治め、仁政を施さねばならないと言う “天下思想” とその下に王臣であるものは君主に服従すべきという “王土思想” を含んだ王道政治に根拠を持つ天道に由来する。この天道としての “天の思想” は、自然の必然的な法則、人格的な天地の主権者、天そのものや天体の運行として、儒教的、老荘的思想を背景として用いると共に、仏教における欲界、色界、無色界の総称として、或いは「おてんとうさま」と言うように日輪への親しみを持った言葉として『天』が用いられた。
 そして、その天に委ねられた民に対する保護には、人民の感情に対する父親らしい配慮が常に求められていた。ここでの感情とは、民が主君にに対して抱く気持ちのことであり、民が主君に対して、納得あるいは満足できる父親のような言動を期待し描いていたのである。

<参照>
 『大学』『中庸』を解読する

    (A)母親的美徳としての仁
 仁は、優しく、母のような徳である。真っ直ぐな義と厳格な正義が特に男性的であるとすれば、仁が施す慈悲は女性的な優しさと説得力を持つ。私たちは、義と正義をまったく考慮することなく無分別な慈悲におぼれることのないように注意されてきた。伊達政宗の「義が過ぎると硬直的となり、仁が過ぎると弱さにおぼれる」という言葉は、人びとによく引用されてきた。
 幸いなことに、慈悲は稀なものではなく、しかも麗しいものであった。というのは、「もっとも勇敢な者はもっとも優しい者であり、愛のある者は勇敢な者である」ということが、普遍的に当てはまるからである。
 「武士の情け」 ―― 武人の優しさ ―― は、私たちの中にあるおよそ高貴な情感に直接訴える力を持っていた。武士の慈悲が他の人びとの慈悲と異なっているからではない。武士の情けの場合は、慈悲が盲目的な衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認識した慈悲だからであり、また、その慈悲は、単なる心の状態としてあるのではなく、生殺与奪の権力を背後に持った慈悲だからである
 経済学者が、有効需要とそうでない需要とを説くように、私たちは、武士の情けを有効な慈悲と呼んでいいだろう。それは相手に、利益もしくは損害を与えうる実効力を伴っているからである。(『 現代語訳 武士道 』p57〜p58)

 次に、君主は天に代わって天下を治め、仁政を施すことにおいて、父の様に天下を治め、母のように仁政を施したと言える。
 これまでの天道思想に、中世以降には天に新たな意味が付加され、その変容が余儀なくされる。鎌倉期以降の武家支配から、徳川政権において、主として儒学によって仁政が確立されるようになる。いわゆる「武士の情け」である。
 武士の情けは、単に優しいというだけでは無く、説得力を持っていた。天の習わしとしての民の保護という正義に対する適切な配慮の上に立った慈悲だった。たとえ生殺与奪の権力を背後に持った権力者であっても、この武士の情けを施せる権力者は、徳を有した武将として慕われたのである。その様な仁政は、真っ直ぐな義と厳格な正義を兼ね備えた慈悲だったのである。
 この様に天道思想は、父のように義に厳しく、母のように民に優しい思想であって、民はそれを主権者に対する感情として持ち合わせていたのである。



  A 名誉と恥
    (@)礼の究極の本質
 礼儀を厳しく遵守することの中に道徳的な訓練が伴われていること、これこそ私が強調したいと思っていることである。
 礼儀作法は、たいへん細かい点まで入念に定められ、そのため異なる体系を唱えるさまざまな流派が現れたことは、すでに述べた。しかし、それらの流派もみな、究極の本質においては一致していた。
 この点について、もっとも有名な礼儀作法の流派である小笠原流は、次のように述べている。 ―― 「すべての礼儀作法の目的は、心を修練することにある。心静かに端座すれば、殺人者が剣を持って向かっても、危害を加えることができない」と。
 言い換えれば、正しい礼儀作法をたえず修練すれば、身体のあらゆる部分、あらゆる機能に完全な秩序がもたらされるようになり、身体そのものとそれを取り巻く環境とが調和し、肉体を精神が統御するようになる、ということである。(『 現代語訳 武士道 』p70)

 先のページ(「武士道の源流となった儒教」と「 “心を養う” 必要性の根拠」)で述べたように、礼儀作法によって心を修練するとは、気を整ることによって理が気を正しくコントロールできる心を養うことを意味する。右図で言えば、肉心が生心の対象に立てるようになることによって肉体が生心の主管下に置かれ、理に叶う統御が成されることを意味する。身体のあらゆる部分、あらゆる機能に完全な秩序がもたらされるようになが、これに陰陽の栄養がバランス良く与えられれば健康な肉体を得ることとなる。

<参照>
 小笠原流礼法宗家本部オフィシャルサイト

    (A)武士の一言いちごんの重さと廉恥心
 孔子は、『中庸』の中で、誠を尊び、それに超越的な力があると考え、ほとんど神と同一視している。「誠は物の終始なり。誠ならざれば物なし(誠は物の究極である。誠がなければ物もない)」。さらに孔子は、誠の遠大にして悠久なる性質、動かずして変化を生み、ただ存在するのみで無為にして目的を達成する力について、雄弁に述べている。「誠」という漢字は、「言(word)」と「成(perfect)」を組み合わせたものであり、そこから新プラトン派の「ロゴス」の説との類似性を想起する者もいるであろう ―― これほどの高みにまで、孔子は非凡な神秘的跳躍によって達したのだ。
 嘘やごまかしは、ともに卑怯とみなされた。武士は、みずからの社会的地位の高さゆえ、商人や農民よりも高い水準の信を要求されると考えた。「武士の一言いちごん」 ―― サムライの言葉、あるいはドイツ語で言う「リッターボルト(騎士の言葉)」とまったく同じ意味 ―― は、その言葉が真実であることの十分な保証であった
 武士の言葉には重みがあり、その約束は一般に証文なしで結ばれ、かつ履行された。証文などを書くことは、武士の威厳にもとることだと考えられたからだろう。「二言にごん」、つまり二枚舌を死によって償った人びとについて、多くの恐ろしい物語が伝わっている。
 は、このように重んじられたので、真のサムライは誓いをなすこと自体がみずからの名誉を損なうものと考えた。この点、一般のキリスト教徒が、彼らの主の「誓うなかれ」という明瞭な命令を絶えず犯しているのとは異なる。(『 現代語訳 武士道 』p77〜p79)

 今日、honour の訳語として通常用いられる「名誉」という言葉は、あまり用いられることがなかった。その観念は「名(名前)」「面目(顔)」「外聞(外への聞こえ)」というような言葉によって伝えられた。これらは、『聖書』において用いられる「名(name)」、ギリシャの仮面に由来する「人格(personality)」、および「名声(fame)」を思い起こさせる。
 令名 ―― 人の名声、それは「人自身の不死の部分、それ以外のものは禽獣きんじゅうである」 ―― は、その名の高潔さがいささかでも侵されると恥と感じることを当然と考えた
 その恥の感覚(廉恥心れんちしん)は、幼少時にいちばん早くから教えられる徳の一つだった。「笑われるぞ」「名を汚すぞ」「恥ずかしくないのか」などは、非行を働いた少年の行動を正すための最後の訴えだった
 こうして少年の名誉心に訴えるのは、まるで彼が母胎の中にいる間から名誉で育てられていたかのように、少年の心のもっとも敏感な部分に触れたのである。 ―― 名誉が出生以前から受ける影響であり、強い家族意識に密接に結びついているというのは、何より真実である
 バルザックは、「家族の連帯性が失われたことによって、社会はモンテスキューが名誉と名づけた根元的な力を失ってしまった」と言う。じっさい、羞恥心は、人類の道徳意識のあらわれを示す最初のものであると私は思う。私に言わせれば、「あの禁断の木の実」を味わった結果、人類に降りかかった最初にして最悪の罰は、子を産む苦しみではなく、イバラやアザミでもなく、羞恥心の目覚めだった。人類最初の母であるイヴが、胸を波打たせ、震える指で、憂いに沈んだ夫のアダムが摘んできたイチジクの葉に粗末な針を運ぶ情景ほど、悲哀に満ちた歴史上の出来事はない。(『 現代語訳 武士道 』p87〜p89)
 おおむね侮辱に対しては、人はただちに憤激し、死をもって報復した。それにひきかえ名誉は ―― ただの虚栄や世間的賞賛にすぎないことがほとんどだが ―― 人生の最高の善として貴ばれた。富や知識ではなく、名声こそが青年の追求すべき目標だった。
 多くの少年は、親の敷居から踏み出すとき、世の中で名を成すまでは再びこれをまたぐまいと心に誓った。そして多くの望みを抱いた母親は、その息子たちが、諺に言う「故郷に錦を飾る」のでなければ、再び会おうとはしなかった。恥を免れ、名を得るためなら、サムライの少年たちはどのような欠乏をも耐え忍び、精神的、肉体的苦痛のもっとも苛酷な試練にも耐えた。
 彼らは、少年の時にかちとった名誉は年齢を重ねるとともに成長することを知っていた。(『 現代語訳 武士道 』p94〜p95)

 儒教の説く徳目に “五常” があり、の5つのことである。
  • 「仁」: 同情心、思いやり、仁愛。
  • 「義」: 公正さ、正義。
  • 「礼」: 譲りあい、儀礼。
  • 「智」: 善悪の判断、知識。
  • 「信」: 以上の仁義礼智を誠実に実行すること。
 仁・義・礼・智に関してはこれまで述べてきたが、“” には、武士の「一言(二言は無い)」と「」の概念を欠くことができない。「一言」とは、嘘やごまかしのない言葉という意味である。また、言葉に発したことを成せない( “” でない)ことを「恥」として感じることは、サムライとしての令名としての高潔さを侵さず、むしろ「名誉」は年齢と共に昇華すると尊ばれた。その為、「恥」は自らに “泥を塗る” と表現されるように卑しまれた。これは、生命が誕生したときから、母の胎を通じて受け継がれる伝統となって来たのである。イエスの “誓うな” という御言葉は、この「一言」に相当することは言うまでもない。
 わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。(「マタイによる福音書」5章34節〜37節)




  B 忠義
    (@)親への考よりも主君への忠・個人よりも国家
 西洋の個人主義は、父と子、夫と妻に別々の利害を持つことを認める。それゆえ必然的に、人が他人に対して負う義務は大きく軽減されることになる。しかし武士道は、家族とその成員の利害は一体 ―― つまり一にして不可分 ―― だとみなした。この利害は、愛情 ―― 自然で本能的で誰も抗しえないもの ―― と結びつけられた
 そうであるなら、もし私たちが、(動物でさえ持つ)自然の愛情によって愛する者のために死んだとしても、それが何であろうか。「自分を愛する者を愛したとしても、何の報いを得られるだろうか。徴税人でさえ同じことをしているではないか」(『マタイ福音書』)。
 頼山陽は、その大書『日本外史』において、父清盛の反逆行為をめぐる平重盛の胸中の葛藤を、感動的な言葉で物語っている。
 「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。」
 なんと哀れな重盛! 私たちは、のちに重盛が、純粋であることと正義を貫くことが困難な現世から解放されるべく、情け深い天が死をもって自分を迎えに来てくれるよう祈るのを見るのである。
 多くの「重盛」が、義務と愛情の間で葛藤し、心を引き裂かれた。実際、シェイクスピアにも『旧約聖書』にも、日本人の親への尊敬の念を示す概念である「孝」に相当する適切な言葉はない。しかし、このような葛藤の場で、武士道は忠義を選ぶのに決してためらわなかった
 女性も、自分の子を励まして、すべてを主君のために犠牲にさせた。チャールズ一世の臣ウィンダムの未亡人とその名高い夫に劣らず、サムライの妻は、忠義のためにはその男子を棄てる覚悟ができていたのである。(『 現代語訳 武士道 』p101〜p102)

 アリストテレスや何人かの近代社会学者と同じように、武士道では、国家は個人に先立って存在し、個人は国家の構成要素ないしは分子としてその中に生まれてきた、と考えられた。そのため個人は、国家のため、もしくはその正当な権威を掌握するもののために生き、また死なねばならなかった。(『 現代語訳 武士道 』p102〜p103)

 ここからは、儒教における “三綱” に関する内容となります。三綱とは、君臣・父子・夫婦の3種類の関係において、尊者に対する服従を道徳の大綱とされています。いわゆるがそれで、それぞれ以下となります。
  • 」: 主君に対して裏表の無い態度を意味する概念。
  • 」: 子供が自身の親を敬い支えるべしと説く道徳的概念。
  • 「節」: 夫に対する妻の節操
 かつて日本は、聖人が天命を受けて君主となり、天に代わって天下を治め、仁政を施さねばならないという天下思想の五常仁義礼智信右図赤矢印)と、その臣下にあるものは君主に服従すべきという王土思想の三綱忠孝節右図青矢印)とを併せ持つ天道思想に成り立っていた。
 この天道思想は、その成り立ちは君主に下された「天命」にある。天命とは、天から与えられた命令のことであって、天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のことである。「」とは、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。西洋思想では「神(God)」のことを意味するが、その概念に違いがある。西洋では、人間には原罪があり、人間と神を切り離して結びつけようとはしなかった。しかし、東洋には、この様な原罪としての概念がなく、性善説の立場から、西洋における神のように人格的な存在としてではなく、絶対善としての最上位的存在としての “天” という概念が存在していた。中編の第1章でも述べたように、その絶対善に導く存在として、“龍” が想い描かれてきたのである。
 天は物のすべてに「しょう」、すなわちその物としての本質を付与した。そして人間としての本質とは何かといえば、仁義礼智信の5つの道理にほかならないという。ただし、このうちで信は仁義礼智が「真実にして無妄」(真に実質をともない、デタラメでないこと)であることを示している。こうした人間としての本質を意味する五常によって、君・父・夫という上位者が「綱」として臣・子・婦という下位者を指導し、秩序あらしめる責務をもつことによって、下位者が上位者の指示に従い尽くすとする忠孝節を説いたのが「三綱五常」でる。ここにおける「綱」には、綱目がバラバラにならないよう一つにまとめる元綱を意味している。それは為政者や上位者としての責務を象徴するものであり、下位者が上位者に「絶対服従する」というものでは無かった。元綱には、下位者の自発的な意志を引きだすという意味が込められている。真なる人間関係(愛)を結ぶ3つの綱(三綱:忠孝節)は、人間としての本質(仁義礼智)に基づいた行為(信)によって成されることを示している
 武士道で、個人は国家のために生き、また死なねばならないとしたのは、天(神)が最初に宇宙を創造し、万物を創造して、最後に人間を創造されたように、個人を取り巻く環境が先に存在している。国家としての概念は、為政者の影響の及ぼす範囲を表していたため、為政者の為に生き、また死ぬことは、天(神)の為に生き、また死ぬことでもあったのである。西郷隆盛の「敬天愛人」は、それを端的に表現した言葉とも言える。
 中国では “” を「心を集中専一の状態に保ち続けること」と定義した。朱子は敬を「聖学の始めを成し、終わりを成す所以のもの」といった。また、江戸時代初期の儒学者で朱子学を奉じた林羅山)はその著『春鑑抄』において、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「うやまう」というよりも「つつしむ」という意味の「敬」が大切であり、さらに、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべきことを説いた。

<参照>
日本における摂理的概要

    (A)忠義はへつらや追従ではない
 武士道は、われわれの良心を主君の奴隷となすべきことを要求しなかった。イギリスの詩人トマス・モウブレイの次の詩は、私たちの心を代弁するものである。

  恐ろしい主君よ、私の身体をあなたに捧げます。
  私の生命はあなたの命令のままですが、私の恥は違います。
  生命を棄てるのは私の義務ですが、しかし私の美しい名は、
  たとえ死んでも、私の墓に生きて行きます。
  暗い不名誉なことに使ってはいけません。

 自分自身の良心を、主君の気まぐれな意思や酔狂や妄想のために犠牲にする者に対し、武士道では低い評価が与えられた。こんな人間は、「佞臣ねいしん」すなわち節操のないへつらいでご機嫌をとろうとする卑劣な家臣として、または「寵臣ちょうしん」すなわち奴隷的追従ついしょうによって主君の寵愛を盗みとろうとする家臣として軽蔑された。(『 現代語訳 武士道 』p105〜p106)

 間違ってはならない。文先生の教示した「絶対服従」は、人間、上位者に絶対服従せよと言うものではない。自分自身の良心に対して「絶対服従」であって、自らの良心を上位者の奴隷とするなとの意味を含めて語られた言葉である。1993年から1995年に訪韓修練会で日本人だけに語られた「良心は両親にまさる、良心は先生にまさる、良心は神様にまさ」との言葉は、正しくこのことに該当する。

    (B)李朝儒教における『三綱行実図』によるの本意の偏向
 『三綱行実図』(右図)は、李氏朝鮮と中国の書籍から王と臣・親と子・夫と婦の三綱の道理に模範となる忠臣・孝子・烈女の話を集めて、ハングル訳を付して庶民の教化に努めた書である。1434年(世宗16年)直提学(朝鮮王朝の官職の一つ)のy循らが王の命令を受けて記したものである。
 古代儒教では一般に、夫婦 ➡ 父子 ➡ 君臣の順序が普通であり、父子 ➡ 君臣 ➡ 夫婦という順序になることもあるが、君臣が必ずしも首位に置かれてはいなかった。ところが、秦末から漢代にかけて国家権力による政治支配が強化されるのにともなって君臣関係や服従が強調されてくると、『韓非子かんぴし』忠孝編や『呂氏春秋りょししゅんじゅう』処方編など法家思想およびその影響を強く受け、三綱概念においては君臣が首位に置かれ、君臣 ➡ 父子 ➡ 夫婦という順序になり、下位者が上位者に従うことが強調されるようになった
 しかし再び李氏朝鮮において、この三綱概念を、子・臣・妻が父・君・夫に奉仕するものとして理解する捉え方が現れたのである。そのため三綱五常の理解は、下位者の上位者に対する「絶対服従」を要求するものであるとか、支配者に絶対的忠誠を尽くすことを求めるものであるという後世において生じた偏向にもとづくものとなり、朱子学本来の意味とは違うものとなってしまった
 こうして『三綱行実図』の出現は、明代の君主独裁を目指す思潮を反映するものとなり、その影響は日本にも及んだのである。

<参照>
 朱子学再考 : 「三綱五常」をめぐって (関西大学教授 吾妻重二 : PDF / 本サイト
 三綱行実図 | 収蔵品検索::国立中央博物館
 明初の政治


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