復帰摂理歴史の真実
怨讐を愛する原点 <トップ> 二つの「恨」と文先生の摂理

■ 第三部 第一章 
     b. 『原理講論』にないヤコブ家庭摂理


1. ヤコブ家庭における正妻(レア)と妾(ラケル)
<参照>
 訪韓修練会御言集
 世界基督教統一神霊協会の年表
文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1

 1993年、アラスカのコディアクで始まった日本女性特別修練会は、続いて韓国・済州国際研修院、中央修練院で開催され、延べ16万人の日本女性が参加しました。93年は成約時代の出発となった年であり、摂理的歩みにおいて真のお母様と日本女性との一体化が願われていました。お父様は、日本女性に対してみ言を語られる理由として「日本は母の国として子供たちを養育し、教育する使命がある」「このみ言は残さなければならない。先生はこのみ言を遺言のように思って語る」というものでした。修練会では「良心宣言」「四大心情圏と三大王権」「夫婦生活の芸術化」「子供に対する夫婦の姿勢」など、真の家庭を成し、氏族メシヤを成就していくために極めて重要な内容を語っておられます。まさに本書は真の家庭運動を推進していくための、全祝福家庭必読の一冊です。

文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2

 16万人日本女性修練会に続き、1995年に韓国の中央修練院で開催された「日本男性訪韓修練会」。真のお父様は「真の自分を探しましょう」、「蕩減復帰の峠を越えましょう」というテーマでみ言を語られました。このテーマは、日本女性修練会でも語られましたが、真のお父様は日本男性に向けて、更に様々な観点から説明をされ、共に真のお母様を支えて天のみ旨を果たすことを願われました。日本の食口に注がれた愛とみ言に立ち返ることにより、困難な状況を超えていく信仰の力が湧いてきます。


 (1)復帰摂理における母子協助
  @ ヤコブを中心としたレア(正妻)とラケル(妾)
 転覆して反対に上がるのですが、正妻一人では、二人のことができません。二人が必要です。ですから、こういうふうになったのです。こういうふうに降りていく者が、こういうふうにして行くには、正妻ではできません。正妻は、本妻とも言います。本妻としては上がることができないのです。これは妾です。妾の系統を中心として上がっていくのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p116)

 アダム家庭におけるカインとアベルにおける信仰基台と実体基台の蕩減復帰は失敗に終わっているが、そもそも堕落したエバ一人ではどうにもならない。アダム家庭はもちろん、ノアの家庭における復帰摂理においてもこれを実証したにすぎない。カインとアベルにおける摂理は、其々それぞれの母として “堕落したエバ(カイン的エバ:正妻)” と “復帰されたエバ(アベル的エバ:)” を前提にしなければ堕落問題の解決には至れないのである。
 人間始祖の堕落は、アダムが “神の御言葉に対す信仰” を失い、そのアダムがエバとの間に “神の御言葉による愛の関係” を結ぶことが出来なかったことが “堕落の本質的問題” である。結果としてカインとアベルの関係に現象化され、血統として相続された。その為、エバの “神の御言葉に対する不信仰” による堕落(霊的堕落)は、御言葉を信仰するアダムの相対となって愛の関係を結ぶエバ、霊的堕落のエバからみれば怨讐となるエバを愛することによって “蕩減復帰” されるというのが本来の摂理的原理観である。

    (@)古代メソポタミア宗教から分立したアブラハムとナホルの子孫における摂理
 アブラハムとナホルの父はテラであり、ナホルはラバンの祖父であり、アブラハムはヤコブの祖父である。ラバンの妹リベカがヤコブの母であったので、ラバンはヤコブの叔父である。テラが信仰していた古代メソポタミア宗教をみる前にも、そもそも古代における多神教をどう理解すべきかでるが、『原理講論』には次のように述べてあることが、これを理解するのに最もなポイントとなる。
 善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。(『原理講論』p120)

 宇宙創世の悪神や霊人たちが存在しなかった頃からノアに至るまで、唯一神と天使たちを総称して “神” と称していたが、テラ以降のアブラハムとナホルの頃から、アブラハムを始祖とする一神教、ナホルから始まる多神教として『聖書』では表記されている。古代メソポタミア宗教は多神教であるナホル側の宗教であるが、男女の交合(生殖)の物語になると、“男性の浮気” をめぐる物語が登場し、日本の神話においては、伊邪那岐イザナギ伊邪那美イザナミの “結婚の失敗” があり、イエスは “宇宙の姦淫” を罪であると述べている(「怨讐を愛する原点」参照)ことは実に興味深い。
 ナホル(父テラのカナン行きの旅には同行せずにカルデアに残った)を祖父とする北方セム族を代表するラバン(ハランに住む)は、南方セム族を代表するアブラハムの孫であるヤコブと、それぞれにおいて継承した神(古代メソポタミアの多神教と唯一神ヤハウェへの信仰)の名において契約を結ぼうとしたが、ラバンの神認識の曖昧さがアブラハムの信仰を継承したヤコブの神を理解できず、ラケルが父ラバンのテラフィムを盗み出す行為(創世記 31章19節)に至らしめた。この時すでに、レアはラケルをヤコブの愛を奪う怨讐として恨み、イッサカルとゼブルン、娘のデナを産み、ラケルの初産となるヨセフが誕生したのである。これらの事がレアをヤコブの復帰摂理上の正妻に立たせ、ラケルをヤコブの妾として、ヤコブが天使との組打の勝利によって “イスラエル”(「イシャラー(勝つ者)」と「エル(神)」の複合名詞)の名を得て(創世記 32章28節)天使に対する主管性を復帰した。こうして、ヤコブを中心とする復帰摂理が始動したのである。

<参照>
 創世神話の系譜 : 古代メソポタミアの資料から(1) (北海学園大学教授 桑原俊一 : PDF / 本サイト
 テラフィムの実相 (東北学院大学名誉教授 佐々木哲夫 : PDF / 本サイト
 怨讐を愛する原点

    (A)妾としての “愛の怨讐” に対する恨みを残してはならない
 み旨から見た時、神様を中心として母子協助を成すためには、父娘協助と夫婦協助が成され、次に母子協助が成されるのです。これが原則です。分かりますか。ですが、神様は逆に摂理してこられるのです。父親と母親の関係がないのに、母子関係があります。夫婦協助がある前に母子協助があり得ると思いますか。聖書を見てみると、今まで母子協助だけしてこられました。異常でしょう? 逆にしてきたというのです。(『神様の摂理から見た南北統一』p1080)

 正妻は妾と一つにならないといけません。
 一つにならなかったのはなぜかというと、ラバンの妻、レアの母の補助が必要であり、ヤコブのお母さんの補助が必要だったからです。この二人の母が一つになって、ラバンに対して、「何だ この悪辣あくらつな者 二人の女を売ってしまうとは そんなことはあり得ない」と言うべきです。それから、レアを呼んで、「この者 妹の愛を盗んだ泥棒どろぼう」と言うのです。ラケルを中心に心情的な痛みを残してはいけません。(レアに対して)「君は妾だ」、そういうふうに言うべきです。分かりますか? 本当にそうなるべきです。夫婦が共に、レアに対して、「この者」と主張した場合には、本妻は妾の立場で一つにならなければ駄目です。レアの子供たちとは、カイン・アベルです。これを屈伏させて、家族を統一するのです。二代の女が一つにならなければなりません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p120〜p121)

 父娘協助は、娘に対する父親の補助であり、夫婦協助は妻に対する夫の補助、母子協助は子に対する母親の補助である。夫婦協助は、子に対する補助を前提にしての妻に対する夫の補助のことである。
  • 本然:父娘協助 ⇒ 夫婦協助 ⇒ 母子協助
  • 復帰:母子協助 ⇒ 夫婦協助 ⇒ 父娘協助
 文先生は、復帰摂理においては母子協助が前提となって成されてきたと語られている。ヤコブは、母リベカの補助によって、兄エサウから長子の嗣業を奪い、エサウの恨みの難から逃れることが出来た。叔父ラバンの所へ逃れてきたヤコブは、レアの妹であるラケルに一目惚れするが、父ラバンが最初に妻として与えたのは姉のラケルであった。ヤコブは唖然とし、レアを妻としては愛さず、ラケルのために日々汗したのである。こうしたレアに対して、ヤコブを愛して仕えるように補助となったのは父ラバンの妻、レアの母である。レアは夫ヤコブの為に、接せと夫の身の回りを熟し子作りに励んだ。レアの子が誕生する度に神を賛美したのは、父ラバンの大切にしていたテラフィム(家の守り神の像)として偶像化された神であった。
 こうした関係性での母子協助の終点は、この段階での復帰摂理を完結すべきレアにあるので、レアを正妻として、正妻以上にヤコブの愛を受ける妾の立場に立つラケルを、文先生の言われる様に、正妻(本妻)としてのレアが「(リベカ)と婿(ヤコブ)の補助」によって、「本妻であるレアが妾の立場の様に成って」愛の怨讐としてのラケルを愛せば、ラケルを愛することを通して “レアはヤコブの愛する神を愛した” ことになり、レアが堕落エバを象徴した正妻の立場から、復帰されたエバの立場を取り戻した立場に立つことが出来る神の復帰摂理として課せられていたのです。

    (B)ユダとヨセフはペテロとパウロの摂理を象徴
 創世記32章において、ヤコブは兄エサウの恨みが解かれることを、父アブラハムと父イサクの神に願った(9節〜12節)。途中、イスラエルと言う名を与えられると、ヤコブは兄エサウに敬意をもって出迎えたことで、兄エサウは弟ヤコブを歓迎した(創世記 33章1節〜11節))。その後、ヤコブは兄エサウと別れ、カナンの地に着くと祭壇を建てて「エル・エロヘ・イスラエル」と名づけた(創世記 33章18節〜20節)。この祭壇の名を訳すると「イスラエルの神が神である」となり、イスラエルをヤコブと置き換えてみると「ヤコブの神が神である」となる。
 さて、ここから神の復帰摂理は、ヤコブを中心とした正妻と妾による摂理となっていくのですが、その前に、摂理の障害となる問題があります。それは、当時から南北に及ぶセム族には男尊女卑が根強くあったことであり、ラバンの娘に対するのもそうであったし、イエスの時も、女性信徒に対する男性信徒もそうでした。

      (B-1)創世記34章
 デナ事件の発端となるのは、ハモルの子シケムの直轄地を買い取り祭壇を築き、そこを取り囲むシケムの地の女たちに会おうと宿営から出かけた時のことである。シケムはデナと出会い、シケムはデナに性的暴行を行なった。シケムはねんごにデナを説得し、父ハモルの許しを得て妻とした(1節〜4節)ことである。
 ヤコブとその子らは、この事を非常に悲しみ怒った(7節)。その怒りの矛先を、シケムが割礼を受けていない事とし、シケムと町の人々に割礼を施すことでその場を引き払った(13節〜22節)。しかし、それはヤコブの財産が欲しかっただけで(23節)、決して “割礼による純潔の意義” を理解してのことではなかった。また、ハモルとその子シケムは、妹デナを遊女の如く扱ったので、ヤコブの子シメオンとレビはその怒りを抑えきれず、シケムの町を襲い、男子とハモルとその子シケムを殺し、デナを連れ出した(25節〜31節)。但し、ヤコブは死に際にこの事件を思いだし、二人の息子の残虐な行為を厳しくとがめている(創世記 49章5節〜7節)。
 この創世記34章の出来事は、単なるヤコブの物語の一節ではない。これから成される神の復帰摂理の重要な準備的出来事なのである。それは、血統に関わる割礼の問題と、「正妻と妾の摂理」を成す上で、レアを “復帰摂理上の妾に対する正妻としての立場” に立たせるため、レアの “恥” として起こった事件である。ところが、ヤコブの一人娘として生まれたレアの娘デナは、“愛らしく美しかった” のである。その為レアは、娘のデナを妹ラケルと重ね合わせ、この事件を軽視して自らの立場を顧みようとはしなかったのである。この事件のもう一つの問題となるのは、デナの貞操観念は希薄であったことで、シケムの誘惑にひかれる気配を見せたことで起きてしまったことにある。それは何よりも、レアが、夫ヤコブがラケルを愛するのは、正にそれであると頑なに思い込んでいたからに他ならない。

<参照>
 ヤコブの妻レアの人生(6)試練の連続
 2021年10月17日 主日礼拝説教「ヤコブの娘ディナの悲劇」

      (B-2)創世記35章
 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。(創世記 35章1節〜4節)

 創世記35章には、下記の4つの出来事が記されているが、ここからはヤコブを中心としたユダ(カイン)とヨセフ(アベル)の復帰摂理となっていく。
  1. 神によるイスラエルの祝福(9節〜15節)
  2. ベニヤミンの誕生とラケルの死(16節〜19節)
  3. ルベンの犯した姦淫の罪(22節)
  4. 父イサクの死(27節〜29節)
 レアは姉として妹のラケルを愛するのは当然とは言え、姉レアにとって、“妹ラケルはどこまでも●●●●●夫ヤコブの愛を奪った怨讐” となってしまった。である。そのため、姉レアが妹ラケルを愛することが出来なくなったので、神はユダとヨセフは各々レアとラケルを代理した立場に立てて摂理された。
 レアは、夫ヤコブの妻(正妻)であるという立場(有限性)を捨て、イスラエルとしての夫の愛するもの(唯一神とラケル)を愛する(無限性)ことで、新渡戸の言う「信仰の弁証法」によってヤコブの愛を受けることができるようになり、ヤコブを夫とする正妻としての立場を復帰することが可能だったのである。新渡戸の「逆説的に謙虚な信仰の勇気」とは、イサク献祭における勇気を言ったものではあるが、「正妻と妾の摂理」において、堕落したエバの立場から復帰されたエバとしての正妻の立場を取り戻す重要な点であり、“怨讐を愛する” とはそのことに尽きるのである。

<参照>
 キェルケゴールと新渡戸稲造 ―もうひとつの道― (キェルケゴール協会 早乙女禮子 : PDF / 本サイト

 さて、神はヤコブをイスラエルとして祝福し、ベニヤミンを産んだラケルが亡くなると、レアとラケルの正妻と妾の摂理は出来なくなった。レアが産んだ男子は先に産んだ4人と後に産んだ2人。後に産んだ2人は、レアがラケルを妬んで産んだ子なので摂理の対象外。次男シメオンと三男レビも、創世記34章のデナの事件における暴虐によって摂理の対象外(創世記 49章5節〜7節)。更に、嫡子としてのルベンは、父ヤコブの妻ラケルが死んだ直後に、そのラケルの侍女ビルハと姦淫した。その為、父ヤコブの嫡子となる立場は、ラケルの長子であるヨセフに移されることなった(創世記 49章22節〜26節)。
 ここで、レアの子で残されたユダは、母レアを代理するための摂理があり(創世記38章)、イスラエルとしての父ヤコブを中心としたユダ(カイン)とヨセフ(アベル)の摂理が始まることとなる。ただしこれは、『原理講論』のアダム家庭から始まるカイン・アベルの摂理ではなく、あくまでもレアとラケルを代理した「正妻と妾の摂理」として成されるもので、摂理上重要なのはヨセフではなくユダである

<参照>
 ヤコブの妻レアの人生(5)ラケルの死

      (B-3)創世記37章
 創世記37章は、ヨセフが夢を見て、それを兄弟たちに話したことに端を発している。ヨセフが預言の如く信じて話す夢の内容を妬んで、ヨセフを亡き者にしようと兄弟たちが企んでいた。そこで長子ルベンはヨセフを助けようとして穴に入れたのは、お仕置きとしてヨセフが身動きできないようにすることによって、兄弟たちの気持ちを鎮めようと目論んでのことである。
 丁度ルベンが不在となっていた時、他の兄弟たちはエジプトへ向かうイシマエル人の隊商に遭遇し、四男ユダはヨセフを隊商に売り渡した。 こうした経緯をず知らず、戻ってきた長子ルベンは、穴の中にヨセフがいないことに気付き、辺りの状況から “ヨセフは獣に食われた” と判断して、帰ってから父ヤコブに報告した。ヤコブは、最愛の子ヨセフが亡くなったことを知らされ大層嘆き悲しんだ。ユダは、父をこんなに悲しませ涙させたのは自分にあると、自らの行ないと父に対する無知を悔いたのである。

      (B-4)創世記38章
 ヨセフを売り渡したユダは、父ヤコブの悲嘆に暮れる姿を見て自責の念に駆られ、ユダは父ヤコブの元を離れて、異邦人でカナン人のシュアの娘を妻に娶った。そして彼女は、長子エル、次子オナン、三子シラを産んで、ユダは長子エルの為にタマルという妻を迎えた(1節〜6節)。
 ところが、長子エルは主の前に悪を行い、主によって彼は殺された。更にタマルは、ユダの言い付けでオナンの下に入ると、オナンは兄の代わりになって兄の子を儲けるのを躊躇った。そのため主は、オナンをも殺された。また、ユダは立て続けにシラまでも主に殺されることを躊躇い、タマルに寡婦のままでいさせた(7節〜11節)。
 ある時、シュアの娘ユダの妻が死んだ。その後、成人したシラの妻に成れないことを知ったタマルは、ユダの長子としての血統を残すことが出来なくなったので、それを絶えてはならないと舅を騙して関係を結び身籠ったのである(12節〜19節)。この時、タマルが被衣かずきで身を覆い隠していた(14節)ことでユダに無垢な娘と思わせ、血統をあんじて覚悟の上でユダの子をはらんだのはようの立場に立てるようになってのことである。
 媵とは、中国の周代の婚姻の形態による側室の一種のことで、当時の天子や貴族が正室をめとるときは、正室の女性の他に同族の姉妹や従妹が媵として付き従ったのである。正室となる女性が子供を産めなかった場合、その代理として媵が子供を産む役目を負った側室の一種である。媵が産んだ子供は正室の子として扱われたことは妾とは異なが、側室とは一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性指している。かつて儒教においては、直系の男子が先祖の祭祀を守ることが重視された。また、婚姻制度にも、子孫繁栄や男系相続者の存在が重要視されたことは、ヤコブ家庭の復帰摂理における重要な特徴となる。日本には、ヤコブの子ユダ家のであるタマルの取った行動の根底にある重要な要素を歴史的に培われて来たことは見逃すことの出来ない特質であり、これもまた「正妻と妾の摂理」という視点から捕らえることで浮き上がってくる重要なポイントとなる。

<参照>
 創世記 第38章
 タマル (創世記)
 花嫁衣裳の歴史
 白無垢には綿帽子を合わせるの?角隠しとは何が違うの?憧れの綿帽子について徹底解説
 【戦国ことば解説】将軍や大名を支え続けた「側室」とは? 徳川」家康の正室と側室も解説

 末の時期は、妾の子供が世界を指導して、こういうふうに切り返していくのです。ですから、なぜ離婚が末の時期に多くなるかというと、正妻が離婚することによって、妾が正妻の立場に立つようになるからです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p119)

 右図は、文先生が「妾が離婚することによって、正妻の立場に立つようになる」と語られたことを文先生自らが板書された図です。ここで、妾としてのラケルの夫となる立場にあるのはヤコブである。「妾が本妻になる」という事と「妾が離婚する」と言うのは、この場合、ラケルがヤコブと離婚してヤコブの本妻になるという意味になり、ましてやラケルはレアよりも先に死別したのだから、“離婚” というのは不適格です。この言葉は、末の時期に “離婚” が許されるようになる摂理上の意味を含めた内容として語られた言葉で、これをユダの嫁であるタマル立場に当てはめると次のように説明がつきます。つまり、「正妻が離婚、又は死別することによって、妾が(媵となって)正妻の立場に立つようになる」と。
 タマルの産んだ双子のゼラとペレヅは、次のように捉えると “血統転換” という「ユダとタマルの内的摂理完成と外的摂理」のページで説明した意味が理解できるでしょう。
 そもそもタマルが夫エルの死後、次子オナンと関係したのも長子エルの子を得るためでした(8節〜9節)。しかしそれも叶わず、タマルはその延長線上にあるユダと関係を持ち、その目的を果たさざるを得ない窮地に立たされたと言わざるを得ません。そうしたことから、タマルの産んだ双子のゼラとペレヅにおいて、ゼラが母の胎から手を出したのでその手に緋の糸を結んで長子としての印としたのだが、先に母の胎から出てきたのは糸の結んでいないペレヅの方だった(28節〜29節)。そこで、ゼラはユダとシュアの娘を母とする嫡子エルの長子とされた。これを整理すると、右図の様になる。
 ユダの妻の死後、嫁に入ったタマルは、ユダの子ゼラとペレヅを産んだ。シュアの娘をユダの先妻とするならば、タマルは後妻となる。しかしタマルの産んだ子は、その長子がユダと先妻の血統となるゼラであり、次子ペレヅはユダとタマルの子としての立場で生まれた。この先妻と後妻の関係は、広い意味で正妻と妾の関係とも言える。先にの述べたように、復帰摂理上の正妻は堕落したエバを、妾は復帰されたエバを象徴している。嫡子の印のついたゼラが後に母の胎から出て、印の無いペレヅが先に母タマルの胎から出てきたことは、兄が弟になり、弟が兄になって、ユダの摂理的血統は弟ペレヅの方へ転換したこことなる。これが文先生の言われる、血統転換の真の意味であり、ヨセフの夢見た「日と月と十一の星と が “わたし” を拝みました」(創世記 37章9節)の “わたし” は、ヨセフではなくユダとなったのである(創世記 49章8節)。また、このことがマリアという妾の立場から、イエスがキリストとして誕生できる典型的原理となったのである。

    (C)ラケルの子ベニヤミンとレアの子ユダ
 妾は本妻の怨讐、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ろうとします。抱き合って転んで、そこに行こうというのです。大変なことです。復帰された家庭には、これをなだめて一つにならなければならないという、そういう内縁があることを知っているので、神様はそれを収拾するために、「怨讐を愛せよ」ということを発表せざるを得ませんでした。分かりましたか?(「はい」)。
 聖書の「怨讐を愛せよ」という話は何かというと、一家においては兄弟です。レア・ラケルと同じように、姉妹きょうだいの関係で共に一つの愛の後孫を取り合って闘うようになっているのです。それを一つにしないと、天国に入れません。このような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それで神様は未来の世界を望みながら、こういうような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それを収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて、「怨讐を愛せよ」ということを発表せざるを得なかったというのです。分かりましたか?(「はい」)。どんなに難しいことであっても、これを収拾せざるを得ないのが、女たちの十字架です。堕落した女は、蕩減復帰の道を逆さまに行く、この運命を避けることはできません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p117〜p118)

 それで終末には、妾の子供が世界を指導していくのです。出世する者がたくさんいます。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p119)

 さて、タマルの取った行動は、とんでもない衝撃となってユダを悔い改めさせた。ユダが父ヤコブのために命がけの決意をさせたのも、それが大きな転換点となったからである(「ユダの覚悟と十戒」参照)。ユダの悔い改めによる決意と覚悟は、父ヤコブの愛による伝統を守り抜くという決意と覚悟で、それは父の最愛の末子ばっしであり、亡き愛妻ラケルの子であるベニヤミンに対するものである。このユダの決意と覚悟は、我が子エルとオナンの死からシラの死を恐れての保身的行ないとは正反対に、父ヤコブが我が子ヨセフの死からベニヤミンの死を恐れてエジプトに行かせることを頑なに拒んだ父の思いを、自己犠牲的決意によって乗り越えさせることとなったのである。
 この事は、正妻としてのレアをユダが代行して、イスラエルとして神が祝福するヤコブの愛する妾としてのラケルの子ベニヤミンをユダが愛したことは、レアが怨讐となるラケルを愛したことに繋がるのです。このことは、ユダ族とベニヤミン族の南朝イスラエルユダ王国)と北朝イスラエル北イスラエル王国)に分裂する遠因ともなっています。

<参照>
 ヤコブの妻レアの人生(7)死、埋葬、そしてメシアの誕生
 古代イスラエル


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