復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 第一章 
 第一節 韓国キリスト教の歴史


1. 儒教からキリスト教へ
韓国とキリスト教 いかにして"国家的宗教"になりえたか浅見雅一安廷苑 著)

 宗教人口の過半数を、キリスト教信者が占める韓国。教派間の拡大競争は、大統領選挙の動向や、北朝鮮支援事業に強い影響を及ぼす一方、しばしばカルトや他宗教との衝突といった社会問題を引き起こしている。本書は、一八世紀以降の朝鮮半島における受難の布教開始から、世界最大の教会を首都ソウルに置くにいたった現在までを追い、日本では報じられなかった韓国社会の実情と問題を解き明かす一冊である。

 儒教の思想は、陰陽五行思想理気二元論で構成されていますが、陰陽説において、この世の万物は全て「陰」と「陽」の二気から構成されると考えられています。「気」とはガス状であり、万物の元となる微粒子の様なものです。「気」は密度が薄い状態であれば、軽いので空中に漂い、密度が濃くなると、物質として地上に現れるとされていました。
 理気二元論とは万物は陰陽五行に基づく「気」によって構成され、「理」という原理・秩序によって存在しているという考えです。「理」は「気」を統制している存在であることから、「気」によって構成されている人間も「理」を内包しており、その「理」こそが人間の「性(本質)」であるとされました。
 韓国では、国旗に象徴されているように陰陽五行をその理念として深く浸透しています。一方の日本では5世紀〜6世紀頃に伝わって国家を統治する機関・役職としての地位を失った反面、民間信仰として庶民の間で流行するようになり、今日まで脈々と続いています。しかし、本編「武士道の源流となった儒教」で述べたように江戸時代初期に朱子学派儒学者である林羅山の理気論が幕府に多大な影響を与え、日本の伝統的精神にも根深く浸透して行くこととなりました。

<参照>
 【五行思想とは】陰陽説との関連から日本への影響までわかりやすく解説
 徳川幕府治下における社会的・政治的背景



 (1) 朝鮮王朝の抵抗と迫害
  @ 西学から天主教へ
 キリスト教は、中国の北京から、ヨーロッパの学問である 「西学」 として受容され、次いで 「西教」 として伝播しました。17世紀半ば以降に、イエズス会の宣教師たちが 「漢訳西学書」 といわれるヨーロッパの学問やキリスト教の教義を、中国布教のために漢文に翻訳した書籍を、その後には、イタリア人イエズス会士のマテオ・リッチ(左図)が、中国布教のために中国語で著した教理書 『天主実義』 が、漢訳西学書として朝鮮半島にもたらされました。
 1637年、昭顕世子は李氏朝鮮の世子 (皇太子) でありながら、当時の清の都である瀋陽に妃の姜氏とともに人質として連行されていました。1644年11月、昭顕世子は清から朝鮮への帰還が許され、途につく世子にドイツ人イエズス会士アダム・シャールが自分の著書である天文・数学・天主教に関する書籍を贈ったところ、昭顕世子は西洋科学には高い関心を示しましたが、天主教には消極的でした。しかし、彼は朝鮮に帰国してからわずか70日後に死去してしまいますが、時間の経過とともに様々な種類の漢訳西学書が紹介され、儒教知識人のなかに異文化に関心を持って漢訳西学書に個人的に接する人々が出てきました。18世紀半ばからは実学運動の師とされる李ヨクとその門下生らの新しい学問として西学を研究する集団が出始めました。
 彼らは儒学者でありながら、当時の官学であった性理学に疑念を抱いており、社会において自分たちが直面していた矛盾を打開し、社会を改革していく原理を原始儒教に求めていました。彼らは経学研究に努める中で、古経における「」と「上帝」の概念を、漢訳天主教書に示されているキリスト教の神を意味する「天主」の概念と一体化させて理解するようになっていきます。こうして経学研究から天主教研究に進み、キリスト教に近づいていきました。
 1784年2月、朝鮮使節の一員として清に渡っていた李承薫は、北京の北堂でフランス人イエズス会士ジョセフ・ド・グラモンより洗礼を受けまし た。韓国では彼が最初の朝鮮人受洗者と見なされています。1783年、朝鮮の謝恩使(中国皇帝が朝鮮国王を冊封したことに対する返礼のための使者)黄仁點が北京に赴くと、李承薫は、黄の書状官を務めて北京に随伴した父親の李東郁とともに北京に赴きました。彼(李承薫)は北京で多数の天主教および自然科学関係書籍を収集し、やがてキリスト教にも関心を寄せて受洗しました。韓国では、北京から戻った李承薫から代洗(司祭に代わって洗礼を授けること)を受けて信者となる者が出始め、彼ら少数の信者たちによって天主信仰の共同体聖職者が存在しない信者だけの組織が組織されていきました。
 朝鮮のキリスト教の特徴として、宣教師が不在の状況で儒者が書物を通して受容しました。このため、知識人階級の間に広まったキリスト教は、ある面で特殊なものとなってしまいました。例えば、朝鮮末期のカトリック教会には、極端な禁欲主義が生まれたり、信仰を受け入れた為に迫害されて殉教した儒者の多くが、同じ政治的党派に属していたり、婚戚関係にあったりしました。このことは、キリスト教に体制や伝統に反する要素があったことや、初期の迫害は政争絡みのものであったためです。



  A カトリックの布教と迫害
 18世紀以降、朝鮮王朝によるキリスト教の迫害が断続的に行なわれました。王朝にとってキリスト教は、反体制的思想であり、危険思想と見なされたのです。李氏朝鮮の建国(1392年)以来、体制教学とされてきた儒学や鎖国政策にも大きな波紋を投げかけたのです。
 1791年、全羅道の珍山で、儒者の尹持忠権尚然が、先祖祭祀を廃して位牌を燃やしてしまう事件が起きると、朝廷はこれを伝統や体制に対する挑戦であると判断して、両名を処罰し西学書を焼却処分しました。これが、朝廷による最初のキリスト教に対する迫害で、辛亥迫害と呼ばれ受難の100年の始まりでした。李承薫は流刑に処せられ、棄教したと言われています。
 1801年、貞純王后による迫害の際、朝鮮のキリスト教徒の黄嗣永が絹布(衣類に隠して見つからないように絹布を使用)に書いた文書(黄嗣永帛書)を中国にもたらそうとしたところ、朝鮮国内で発見されて逮捕されてしまいました。文書には、朝鮮におけるキリスト教の迫害の状況が述べられており、中国教会に援助を求める旨が記され、朝鮮のキリスト教徒を救出するために、中国と西洋諸国に朝鮮を政治的・軍事的に制圧して欲しいと記されていたため、黄嗣永は反逆者として処刑され、関係した約100人が殉教、約400人が流刑に処せられたとされています。これに対して1831年9月9日、教皇グレゴリウス16世は朝鮮教会からの司祭派遣の要請に対して、朝鮮教区を北京教区から独立させました。そして、朝鮮地域の宣教の司牧権をパリ外国宣教会に委任しました。
 1839年3月、宮廷内の党派抗争からキリスト教の弾圧が承認され、翌年末まで大規模な迫害(己亥教獄)が行なわれました。このとき、摂政などによるものではなく、国王憲宗の名による初の禁教令 「斥邪綸音」 が発布されました。この迫害によって113人の信者が殉教したといわれています。
 1863年、幼年の高宗が王位に就くと、実父の大院君(左図)が実権を掌握し、翌年、東学を起こした崔済愚が邪教によって世を乱したとして処刑されています。1866年9月にアメリカ船籍のジェネラル・シャーマン号が朝鮮渡航後に焼き討ちされる事件(ジェネラル・シャーマン号事件)が起き、アメリカの軍艦が朝鮮に来航しました。同年10月、朝鮮がキリスト教を迫害したことを口実として、フランスの軍艦が江華島に来航し、略奪行為を行ないました。この軍艦にカトリックの神父が通訳として搭乗していたことから、神父が帝国主義の手先であるという非難を受けることになりました。
 こうした西洋列強の進出を背景として、鎖国政策に固執する大院君がカトリックの司教をはじめとするキリスト教の信者たちを大量に処刑丙寅教獄)したのです。
 また、1871年にはジェネラル・シャーマン号に対する報復(ジェネラル・シャーマン号事件)のような形で、再びアメリカの軍艦が来航すると、これを受けて発生した辛未洋擾は、朝鮮王朝による最後の大規模な迫害となりました。朝鮮王朝では、日本とは違い、たとえ処刑すべき信者が多数になろうとも、信仰を棄てさせる努力をするよりも全員を処刑することで問題を処理しようとしていました

<参照>
 尹持忠(ユンジチュン)パウロと123殉教者について (PDF / 本サイト
 韓国キリスト教小史



  B プロテスタントの布教
 1882年、米朝修好通商条約が締結されましたが、朝鮮側がキリスト教の布教禁止を盛り込もうとしましたが、果たせなかったという経緯があり、当時の朝鮮国王高宗は、修好通商条約の締結は西洋の宗教の伝播を許容するものではないかと考え、キリスト教を警戒していました。
 大院君による鎖国政策の間、2度にわたって朝鮮を訪問し、処罰されたイギリス人宣教師ロバート・ジャーメイン・トーマス(右図)は、韓国のプロテスタント史上初の殉教者として知られています。トーマスの死は、1871年の辛未洋擾の原因となり、1882年のアメリカとの修好通商条約の締結とその後のアメリカの教団の宣教師派遣に繋がっています。

    (@)聖書のハングル翻訳
 朝鮮の鎖国によって、宣教師の入国が困難な状況のなか、中国東北地方に駐在していたスコットランド出身の宣教師ジョン・ロスジョン・マッキンタイアーの主導で聖書がハングルに翻訳されました。朝鮮半島におけるカトリックの受容は、両班学者の学問的関心が契機になりましたが、プロテスタントの受容は、その出発点に朝鮮と清国の国境付近で貿易に従事していた中産階級の商人たちの働きかけがありました。ジョン・ロスらの聖書翻訳が継続した結果、スコットランド聖書公会の支援を受けて、1881年末に「ルカによる福音書」が出版され、1887年には『新約聖書』の翻訳が完成しました。同年、ハングルで最初の『新約聖書』は5,000部印刷され、とりわけ朝鮮半島の北部で数多く配られて布教に役立てられました。
 朝鮮半島の初期のプロテスタント布教には、聖書を人々に配布する方法が取られていました。1880年代の初めには、中国東北地方と朝鮮半島に信仰共同体が設立され、配布された聖書を読んだ人々が宣教師を訪ねて受洗する方法は、朝鮮半島北部から徐々に南下して、1883年には平壌だけでなく、ソウルでも見られるっようになりました。

    (A)朝鮮に宣教師を
 1882年9月、朝鮮使節の一員として日本に渡った李樹廷という両班の学者が、1883年4月にアメリカ人宣教師ジョージ・ノックスから受洗し、日本にいた朝鮮人留学生の受洗が続きました。ノックスは同年、アメリカ教会に李樹廷の受洗を報告し、朝鮮に宣教師が必要であることを伝え、朝鮮宣教への関心を高めました。
 李樹廷は、アメリカの聖書公会からの提案を受けて、1883年5月から聖書のハングル訳に着手し、同年11月には漢文聖書にハングルのカナを振る形で『新約聖書』の出版を開始し、1884年までに『新約聖書』のうち「使徒行伝」までを出版しました。
 プロテスタントの宣教師を最初に直接朝鮮に派遣した国は、アメリカでした。1882年5月、朝鮮王朝はアメリカと修好通商条約を締結したことで、朝鮮から遣米使節団を編成しました。監理派の牧師ジョン・ガウチャがサンフランシスコからシカゴに行く途中の彼らを偶然見かけて朝鮮に関心を持ち、1884年、彼はすでに日本で宣教師として働いていた友人のロバート・マクレーに手紙を送り、朝鮮宣教の可能性を模索するために朝鮮訪問を依頼しました。マクレー夫妻は同年6月末にソウルに到着すると、すでに日本で面識のあった金玉均という人物を通して、宣教師の許可を要請する書簡を高宗に上申しました。それに対して高宗は、医療と教育事業の許可を与えると、これを受けて、同年9月に中国にいた宣教師ホレイス・アレンが医師という身分で朝鮮に入国しました。
 イギリスの聖公会は1885年から中国から宣教師を釜山に短期的に派遣し、1890年からは本格的に本国から聖職者の派遣を開始しています。
 オーストラリアの長老派教会からは、1889年10月に牧師ジョセフ・デイヴィスが妹とともに朝鮮に派遣され、彼は翌1890年に釜山で病死し、妹も帰国しましたが、彼の死がオーストラリアの教会に朝鮮宣教に対する関心を呼び起こし、その後オーストラリアの教会は宣教師を増員して、朝鮮半島南部の農村部における教会の発展に貢献しています。
 日本教会の朝鮮布教は、日韓併合と前後して本格的に進められました。日本教会は、最初は朝鮮にいる日本人を布教の対象にしていましたが、やがて日本の国益を宣伝する目的から朝鮮の人々を布教の対象にするべきであるという 「朝鮮伝道論」 を提唱しています。

<参照>
 海老名弾正の朝鮮伝道と日本化問題について (釜山外国語大学校日本語学科教授 金文吉 : PDF / 本サイト
 海老名弾圧の思想と朝鮮伝道論 (韓国の宗教政治学者 池明観 : PDF)

    (B)アメリカメソジスト宣教師
 キリスト教会は韓国の近代教育に多大な貢献をなしており、一般の女子教育はキリスト教の宣教師の貢献なくしては存在し得なかったとさえ考えられています。ウィリアム・スクラントンの母メアリー・スクラントンは、1886年5月30日に女子教育のために貞洞に女学堂を創設しました。翌1887年、この女学堂は明成皇后閔妃の賜名によって梨花学堂と呼ばれるようになり、韓国女子教育の名門校である梨花女子大学の始まりでした。
 1915年3月には、高等教育機関として延禧専門学校が設立され、1957年、同校とセブランス医学校が合併されて、現在の延世大学になっています。

<参照>
 【神学】日韓プロテスタント宣教初期における「対象」の比較

    (C)キリスト教宣教後の朝鮮
 カトリックとプロテスタントの宣教活動では、当初は友好関係を築いていましたが、プロテスタントの宣教が安定した後には互いに牽制と対立の関係に変わっていき、宣教師間の対立は次第に双方の信者間まで及び、1899年には信者同士が衝突する事件が起きています。
 プロテスタント教会は、初期の段階から布教対象を上流階級ではなく下流層に定めていました。また当時は、儒教の倫理によって女性の社会的地位が低く、抑圧された状態にあったため、女性に対する布教にも関心を持っていました。しかし、女性は制度的に一切の社会活動が禁止されていたため、結婚後には本人の名前で呼ばれることすらなく、夫と家門のために尽くすことが奨励され強要されてもいました。女性や下流層の人々を近代の学問によって教育し、自立させ、社会に貢献できる存在にすることが、プロテスタント布教の機軸となっていたのです。
 1894年から1895年には日清戦争が、1904年から1905年には日露戦争が起こりましたが、教会はこれらの戦争によって急激な成長を遂げました。人々は戦争の極限状態にあって、信仰に精神的な拠り所を求め、キリスト教会が治外法権の領域として、一般の人々の生命と財産を守る避難所の役割を期待されていたからです。当時の教会は、圧倒的に平壌に集中しており、その傾向は平壌が共産化されるまで続きました。1907年の報告によれば、平壌では教会の日曜礼拝に約14,000人が参加しており、平安北道の定州では、当時の全人口に相当する約2万人が信者だったといわれています。1920年代の当時は、あたかも古きよき時代のアメリカの生活を見ているかのようであり、食べ物も、外国人宣教師の植えてくれた果実を口にし、朝鮮半島の人々の普通の生活と比較するならば、はるかに近代化された生活でした。女子でも教育の機会が与えられ、日曜日には、彼らなりに正装して男女がともに礼拝に参加していました。儒教の影響が根強く残っていた社会にあっては破格のことだったのです。
 朝鮮の人々は、日清戦争を通して近代化を遂げた日本が清国を追い落とすさまを目の当たりにしながら、伝統的、保守主義的思考から脱することを考え始め、西洋的近代化とは、キリスト教への転向を意味したのでした。
 事実、抗日運動の中心であった独立協会の主導者の多くは、キリスト教に改宗した人々でした。そのなかの一人である李承晩は、独立協会という政治団体に関与したとして投獄された過去を持ちますが、彼の伝道によって独立協会の多数の知識人たちがキリスト教に改宗しています。終戦後はアメリカ主導の政策によって初代韓国大統領にしました。
 このように、教会は抗日運動の中心的役割を担ったため、1907年から日本は抗日運動の拠点が教会であると非難し始めたのです。


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