復帰摂理歴史の真実
イエスはダビデの血統になれなかった <トップ> 文先生の復帰摂理と現地の整備

■ 第三部 終章 
     a. 真の家庭における摂理完了の失敗


1. 未だに見聞きせぬ復帰摂理
 (1) 選ばれし民
  @ アベルのエバ国家として立つ日本
    (@) 神の立場における二つのハン
図1
 朝鮮における “ハン” は、単なる怨恨えんこんという意味でのハンではない。「恨み」といっても、ここで使われているのは、“残念に思う気持ち” や “心残り” としての悲しみや嘆きの感情の意味が込められている。
 神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。(『原理講論』p64〜p65)

 『原理講論』によれば、神の創造目的は、人間を含むすべての被造物が三大祝福を成就して、神が直接主管されるようになり、神が見て楽しまれるところにあったと記されている(p64〜p65)。この場合、原理によれば、神の直接主管となるのは人間であり、その他の万物は、人間を中保とした間接主管となる(『原理講論』p83)。いわゆる、万物は人間を媒介として神に通じるのであり、神の創造目的は、人間にはこのような媒介を必要とせず、直接にすべての人間一人ひとりと通じて無限の喜びを満喫されようとしたところにある。つまり、メシヤの中保を必要としない人間を再創造しようとするところにあった。そして、そのために必要なのが「神の三大祝福に対する御言」であったことは『原理講論』より明白である。ここから、み言さえ復帰できれば、神の再創造摂理は可能なのである。そのため、この再創造のための御言が復帰できいない方が「解けない恨」側となり、御言を復帰できる方が「解ける恨」側となって、神はこれをヤコブの家庭以降、段階的に摂理されてこられたのである。故に、文先生の家庭において復帰摂理が失敗したからと言って、神の再創造摂理も失敗に終わったわけではない。

    (A)「三大祝福」と1993年から1995年に語られた訪韓修練会における御言
 神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。(『原理講論』p66)

 神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。(『原理講論』p67)

 神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とした主管的な四位基台が完成されなければならない。(『原理講論』p68)

 『原理講論』には、「三大祝福」は先ず第一に個性を完成することが重要であり、この個性を完成した男性と女性が夫婦となって家庭を築かなければならないとしている。家庭における夫婦間の愛と美が子女に結実され、その子女が神の喜びの第三対象となった時、神を中心とした家庭的な四位基台となって、そこで完成された愛が万物世界を主管する(治める)ことによって衣・食・住における豊かな経済基盤を土台とした理想世界にあるとしている。
 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。(創世記1章30節)

 1993年から1995年に文先生が語られた『文鮮明先生の日本語による御言集』には、この三大祝福を完成に導くに必要な御言が記されている。第一祝福の個性完成に必要な御言は「真の自分を探しましょう」であり、その重要なポイントは「良心宣言」となります。次の第二祝福ですが、『原理講論』の67ページには「神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり」とあるように、“真のお母様(韓鶴子)と日本女性との一体化” によってもたらされる個性を完成したエバの到来でした。それは、正妻となるカイン(韓鶴子)が、御言によって個性を完成させた妾、正妻にとっては恩讐となる女のアベル(神の愛する女性:日本女性)と一体となることにあります。そうなることによって、正妻は女王(queen)としての立場を復帰完成させ、カイン圏である地上世界に “アベル女性” としての「真の母」が立ち(「四大心情圏と良心」参照)、“真の父による愛の権威”(「全体全般全権全能の日宣布」参照)が完成するはずでした。

文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1

 1993年、アラスカのコディアクで始まった日本女性特別修練会は、続いて韓国・済州国際研修院、中央修練院で開催され、延べ16万人の日本女性が参加しました。93年は成約時代の出発となった年であり、摂理的歩みにおいて真のお母様と日本女性との一体化が願われていました。お父様は、日本女性に対してみ言を語られる理由として「日本は母の国として子供たちを養育し、教育する使命がある」「このみ言は残さなければならない。先生はこのみ言を遺言のように思って語る」というものでした。修練会では「良心宣言」「四大心情圏と三大王権」「夫婦生活の芸術化」「子供に対する夫婦の姿勢」など、真の家庭を成し、氏族メシヤを成就していくために極めて重要な内容を語っておられます。

文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2

 16万人日本女性修練会に続き、1995年に韓国の中央修練院で開催された「日本男性訪韓修練会」。真のお父様は「真の自分を探しましょう」、「蕩減復帰の峠を越えましょう」というテーマでみ言を語られました。このテーマは、日本女性修練会でも語られましたが、真のお父様は日本男性に向けて、更に様々な観点から説明をされ、共に真のお母様を支えて天のみ旨を果たすことを願われました。


    (B) ユダヤ教からキリスト教を中心とした復帰摂理
 さて、ヤコブの時代にはまだ御言は無かった
 アダムの家庭で立てなければならない、そのことばの代わりの条件物とは、すなわち供え物であった。(『原理講論』p290)

 そもそも “神のみことばの代わりとなる象徴献祭” とはどの様なものを言うのであろうか。そもそも「献祭」とは、“神への供え物” のことを言う。この供え物が、神の御言の何を象徴しているというのであろうか。
 アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみこころにかなうように供え物をささげたから、神はそれを受けられた。(『原理講論』p293)

 神には“み心”(心情)と“こころ”(意思)がある。人間は堕落することによって、神との相対基準を失い、三大目的すべてを失った。これによって三大目的は、神の “解けないハン” となった。
 神は、天地創造後に三大祝福の御言(創世記1章28章〜30節)を語られ、その後語られた御言が創世記2章16節から17節の御言であり、これはアダムに語られた御言であり、そして創世記2章18節以降の御言によってエバをアダムの相対として立て三大祝福を実現しようとされたのである。
 ところが、創世記3章にあるようにエバを天使長ルーシェルが誘惑して堕落させ、この堕落はアダムまで至った。そこで、神の復帰摂理は先に “御言の実体となる真のアダム”(御言を絶対として生きる復帰摂理の中心人物)を復帰し、その真のアダムの相対としての “御言を「愛」として展開できる真のエバ” を復帰しなければならない。しかし、真のアダムは男のカインとアベルを通じた復帰摂理によって立てることはできるが、偽りの愛によって堕落したエバを真のエバとして復帰するには、御言に相対できる立場に立つアベルエバをかりに妾として立てて、真のエバに立つべきカインエバとしての正妻がアベルエバである妾と一体化して、神が愛する女性を愛して、真のアダムの相対に立つ基準を相続して、「真の愛」を実体的な神の愛として体現する地上世界に対しての “アベル女性の顕現” が神の復帰摂理の最終的彼岸となったのである。

<参照>
 四大心情圏と良心

図2
 ヤコブを中心とした摂理は家庭レベル(図2の図A)。その後、モーセによる二枚の石板に刻まれた神の御言がユダヤ教となってイエス誕生の時代を迎えた(図2の図B)。イスラエル12部族(「イスラエル12支族」参照)の時代からイスラエル民族の時代を迎えて、イエスの誕生によってアベル民族が立てるかどうかの摂理が到来し、イエスが福音を伝えたが、十字架によって霊的摂理に留まり、地上世界においては分立摂理を経ることとなった。
 パウロによって確立され、ローマ帝国の国教となった原始キリスト教は、西方教会のローマ・カトリックと東方教会としてのギリシャ正教に分立した。更に、カトリック教会から分立し、福音主義を理念とするキリスト教諸教派としてのプロテスタントが誕生した。これらは何れも、地上の復帰摂理において再臨のメシヤを迎えるための摂理であって、再臨主の相対となるエバを迎えるための摂理とはならない。エバを迎える摂理は、西回りのアダムの摂理とは逆に東回りとなって東洋において成されたのである。

    (C) 文先生を中心とした女のカインとアベルによる復帰摂理
図3
 文先生を中心とした復帰摂理は、イエスの霊的天使長型のキリスト教摂理から実体的アダム型の復帰摂理(図3)を構築させて始まるのであるが、この御言の中核となる原理が「カインとアベルによる蕩減復帰原理」である。この原理は、“初めに「真のアダム」を復帰” して、“次に真のアダムを中心として「真のエバ」を復帰” するための原理となる。
図4
 この男と女の復帰原理には、その立場の違いによって目的となる意味が異なる。「男のカインとアベル」は “復帰摂理の中心人物(真のアダム)を立てるための縦的摂理” であり、「女のカインとアベル」は、復帰された男性の相対として、“アベル女性(妾)” による “カイン女性” の復帰となる。この “復帰されたカイン女性” は、神側の長子権を復帰した長女(真のエバ)の立場に立って、真のアダムの相対である本妻となり、堕落世界における「アベル女性」となる。一方、妾の立場にあった “アベル女性” は、真のエバの妹の立場を復帰して、「皇族」としての立場に立つことになる
 実はこの時、“正妻としての妾に対するハン” となる恩讐感情から解かれて、「四大心情圏」から “姉妹愛” の結実 ―― 創世記2章17節の “善悪を知る木” に「善の実」が結実 ―― によって完成された「四大愛」によって子女による横的関係が復帰されれば、神の第二祝福となる “家庭的四位基台の成就” となったはずである(図4)。
 神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。(『原理講論』p67)

 しかし、これらのことが失敗に至ったのは、韓鶴子女子が父母の愛を殆ど受けることなく、兄弟姉妹間の関係も一切なく、ひたすらに祖母の愛のみを受けて育ったという境遇と、戦後の李承晩政権を始まりとした反日政策と反日教育がもたらした反日感情が天使長の立場に立つ韓国教会幹部らにも根強く蔓延はびこっていたと言っても過言ではない。

<参照>
 呉善花『なぜ反日韓国に未来はないのか』(小学館 2013年)
 李承晩政権の対日外交 (慶應義塾大学大学院法学研究科 尹錫貞 : PDF / 本サイト
 二つの「恨」と文先生の摂理
 エバの摂理完了と男性復帰(上)
 幻となった基元節(上)
 四大心情圏と良心



  A 女のカインとアベルと息子のカインとアベルの失敗と皇族圏問題
    (@) 皇族圏となる男系の嫡出血族となるには
図5
 先の「エバの摂理完了と男性復帰(上)」でも述べたが、皇族」とは皇帝の一族であり、日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称とされている。この皇族圏の条件を満たすには、女のカインとアベルが一体化し、正妻が四大心情圏が完成すれば、そのことによる四大愛によって天使長を主管できる立場に立てたはずです(図5)。
 四大心情圏を知らないと、堕落したということが分からないのです。堕落したことによって、良心を失ってしまい、良心が無力になってしまったのです。それで再臨主が、長成期完成級基準まで下がってきて、現状まで解決して梯子をつくったのです。ですから真の父母と絶対に一つになった場合には、真の父母の代わりに、どこにでも上がったり下がったりできるというのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p301〜p302)

 ところが、1993年から1995年にかけて日本食口を対象に成された修練会の後、韓鶴子女史は文先生の意向とは違った天使長の立場にある韓国教会幹部らによる意見を聞き入れ、2008年における特別儀式が成せなかった(「幻となった基元節(上)」参照)ことを結果として招き、日本を恩讐国家として確定させ、文先生の「アベル女性、母がいません」という嘆きの言葉(「四大心情圏と良心」参照)となってしまったのです。
 しかし、この失敗によって神の復帰摂理はその完成を成すすべを完全に失ったのではなく、文先生はその術を次のように御言に語られています。
 真の父母と完全に一つになると、良心が神様ともっと一体となるような道が近づいてくるので、だんだんと力が強くなって、肉身の主管は問題ではなくなります。そうして、肉身と一つになることによって、四大心情圏の因縁を結び始めるのです。四大心情圏は、良心の本然の基準を回復しないとできません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p302)

 つまり、長成期完成級に堕落したことによって生心が肉身を主管できなくなって良心の本然の基準を失ってしまったので、“生心が主体となって肉身を主管できる状態を回復させる” ことによって本然の良心基準を取り戻して四大心情圏を築くことができれば、それによる四大愛によって善の因縁を結び始められると言うのです。
 『原理講論』によれば、
 生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、始めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。(『原理講論』p86〜p87)

図6
とあるように、まず先に真理によって“生心が求めるもの”は何かを知りその通りに実践することによって生じる生力要素を陰性的栄養素として、生心が強くなって肉心を主管できるようになれば、良心の本然の基準が回復され、四大心情圏が発動されるようになる(図6)というのです。
 そこで、1993年から1995年にかけて日本食口を対象に成された修練会の最も重要なテーマとなるのは “第二の宗教改革” とも言うべき「良心宣言」と言えるでしょう。
 その為に、生心に最も必要となる真理としての「原理と御言」における “正しい理解” とそれに対する “強い信念” が必要不可欠であることは間違いありません。その為の「訓読」の「」には、“教えさと” という意味があり、決して棒読みはせずに “神の御心みこころを悟るように読む” のが「訓読」の本当の意味です。
 以上が皇族圏を形成する意味での最も重要なポイントとなります。

<参照>
 “心を養う” 必要性の根拠

    (A) 失われた “男性による愛の権威” と蘇る “男性の権力による支配”
<文先生のみ言葉>
 「全体全般全権全能の日」宣布 (PDF)
図7
 本来、文先生の摂理対象となるエバ国は、戦前の朝鮮が併合された日本でした。つまり、日本は米国を霊的天使長国として実体的天使長国である中国をアダム国に再創造するのが本来の復帰摂理でした。それが、日本の真珠湾攻撃によっで日米開戦となり、日本の敗戦によって日朝が分裂し、更には朝鮮が南北に分裂した状態(図7)となって文先生が復帰摂理を開始することになったのです。そのエバ国家の相対国として建国したのが満州国(「父なる神とアダム国家」参照)でした。満州国(図8)は、文先生の復帰摂理における実体的天使長国となるはずでした。そして復帰摂理の最後に、天の理念に立ったエバ国によってアダム国家として再創造されるべきでした。
図8
 ところが、日露戦争に敗戦(1905年9月)したロシア帝国は、1917年のロシア革命が起こり、1922年には史上初の社会主義国家となる「ソビエト社会主義共和国連邦」が樹立した。このソ連の影響下で、満州国建国をきっかけにして日本は太平洋戦争に引きずり込まれ(「米ソに翻弄される日本」参照)、敗戦に至ったのである。
 満州国は、1932年から1945年まで中国東北地方と内モンゴルを主な領域として存立した日本が満州事変によって創り上げた傀儡国家です。しかし、太平洋戦争終戦前の1945年8月9日のソ連参戦(「ソビエト連邦による満洲侵攻」参照)により満州国は崩壊、日本の無条件降伏後の8月17日に「解体」が宣言された。満州国は本来、文先生の原理と御言による実体的天使長国家からアダム国家としての摂理国家となるべきはずであったが、太平洋戦争の敗戦によってこれら全てが水泡に帰してしまったのである。
 こうして1945年の終戦と同時に始まった文先生を中心とした復帰摂理は、日本と韓国の関係は反目と対立の状況にあった。李承晩政権の交代(四月革命)で政治状況が代わり、摂理は1960年に日本を取り戻して(日本の教会設立は1959年10月2日)40年の蕩減路程が開始された。そして、2000年には全ての蕩減的摂理を終えての13年が最も重要な最後の摂理期間となった。その結論として迎える日が2013年1月13日に迎えた「基元節」の日でした(「幻となった基元節(上)」参照)。この13年という期間は、真の父母の完成によって神の第三対象としての子女が完成し、神を中心とした主管的な四位基台が完成(『原理講論』p68)するはずであったが、これが失敗したことで “男性による愛の権威” が立たず、それに代わって “男性の権力による支配” がぶり返す結果となって闘争が起こらざるを得ない情勢を迎えたことになる。

<参照>
 第一次世界大戦
 エバ国家という英国と日本

    (B) 摂理の失敗を挽回するには先ずエバ国の再構築から
 1959年10月2日、日本において世界基督教統一神霊協会を設立し、文先生は1965年1月28日には日本に到着されると南平台町(1957年3月〜1960年7月に自由民主党総裁を務めていた岸信介の私邸があった)にあった日本本部教会を訪問し、その後全国の教会支部を回ると、各地の信者からの歓迎を受けた。
図9
 同年2月12日に日本を発って米国へ向かい、日本を経済基盤として、米国において勝共理念に基づいたキリスト教刷新に向け、1974年9月18日のマジソン大会、1976年6月1日にはヤンキー大会、そして1976年9月18日にワシントン大会と一先ず成功を収めると、共産主義の抵抗が厳しさを増し、1984年7月20日から1985年8月20日にかけてコネチカット州ダンベリー刑務所に収監されてしまった。
  • 1984年1月2日、次男の文興進様昇華。
  • 1984年7月20日、コネチカット州ダンベリー刑務所に収監。弟子の神山威も(偽証罪)で共に入獄。
  • 1985年4月16日、米国牧師会議において、米国の牧師たちが統一運動のルーツを訪ねる韓国・日本ツアーが始まる。1988年7月まで、延べ7845名が参加。
 ダンベリーにおける文先生の収監は、“米国のキリスト教界を「覚醒」” させ、“教会の「新しい宗教改革」につながる出来事” とはなったものの、主流派のキリスト教徒からは統一教会を異端視する声も根強く、この出来事を巡る議論は「米国のキリスト教における多元性に関する複雑な側面」(「宗教改革、そして英国から米国へ」参照)を浮き彫りにした。
 この米国における摂理は、ヤコブの21年路程に相当し、文先生は1965年からダンベリー収監の期間を経て丁度21年を経た頃から米国のキリスト教会の覚醒が起こり始めたのである。これをもって、正妻国としての韓国に摂理的天使長国としての影響を及ぼす立場に立つようになって、3年後の1988年のソウルオリンピックの開催となった。
 一方の日本においては、この様な米国における基準が立たないうちに日中国交正常化(1972年9月)を結び、米中の板挟み状態を招くことになる。妾国としての日本は、中国共産党の支配する中国を、日本の経済的支援によってその支配力を強めてしまうことになってしまった(図9)。
 このように、日本が中国を正しく主管できない状態を招いてしまった失敗と、韓国の摂理的失敗によって、カインとアベルのエバ国を挟んで、民主主義の米国と共産主義の中国が対峙する構図となって、その火種が世界の至る所に飛び火してしまったのである。
 さて、ここで神の復帰摂理は行き詰ってしまったのかというとそうではない。御言に従って「良心宣言」を実行すれば良いということだ。もちろん、その中心的国は日本だ。日本には、宗教による神の摂理歴史とそれを成すための閉ざされた島国という環境があった。それをもう一度簡単に振り返ってみることにしよう。
図10
 左の図10を見て頂きたい。日本は、神道と仏教が神仏習合して一体となり、神道と仏教の異なった宗教が融合し、神とほとけが一体であるという「本地垂迹」を生み出した。これは、日本の神々が民衆を救うために仏や菩薩が姿を変えて現れた「権現ごんげん」であるとするもので、仏や菩薩を「本地ほんち」(本来の姿)、神を「垂迹すいじゃく」(仮の姿)とした。こうした宗教思想は、平安時代初期から広まり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて日本独特の文化となったのである。ところが、明治元年の1868年に「神仏分離」が発令され、神道は教派神道神社神道に区別され、仏教においては “廃仏毀釈” による日本各地での仏像や仏具類の破却、あるいは堂塔・寺院そのものの破却などが行われた。
 また、日本におけるキリスト教・カトリックは “キリスト教禁止令” と “国” によってその姿を消すことになったが、明治新政府による “高札制度廃止” によって息を吹き返し、欧米に向かった “岩倉使節団” を契機としてプロテスタント信仰が浸透し始め、女性解放運動自由民権運動が広まっていった。キリスト教のこうした機運の中で、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造は西欧社会に向けて『武士道』を出版し、国内では内村鑑三らによる「再臨運動」が盛んに催された(「内村鑑三の武士道とキリスト教」参照)。
 こうして、文先生の御生誕とともに、神仏耶三教合同(「神仏耶三教会同と帰一協会」参照)が企画されるまでに至ったのだが、世界の情勢は既に第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年8月15日)の方向に舵を切っていた。こうした中で開催された神仏耶三教合同の「合同」は、神道(教派神道)、仏教、キリスト教の三宗教の教義そのものを融合させるものとはならず、国民道徳向上と国民精神の統一を図る為の国民教化という国策への「協力」を目的とした政治的な会合として終始したため、国家による宗教利用の頂点として位置づけられる政教界の大問題となった。こうして太平洋戦争へと突入し、“日本がエバ国家として文先生を迎える” という日本の摂理は、敗戦国となってその幕を閉じたのである。

<参照>
 日本における摂理的概要


イエスはダビデの血統になれなかった <トップ> 文先生の復帰摂理と現地の整備