復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 a. “心を養う” 必要性の根拠 1. キリスト教的善悪観の不備 (1) 人間の心と堕落性の所在 @ キリスト教の善悪二元論的人間観 (@)人間堕落後の神とサタンとの関係
『原理講論』によると、人間始祖の堕落によってサタンとなった天使長ルーシェルとの血縁関係が結ばれ、人間はその子女となってしまったと表記されている。これをそのまま理解すれば、人間はアダムとエバの堕落以降にはサタンの子として生れ、創造主である神との関係が切れ、悪の子女のみを生み増やす立場に置かれた。そこで、創造主である神は、堕落した人間を取り戻すべく、神とサタンとの中間位置の立場に立ったアダムを復帰摂理上に立てるために善(アベル)と悪(カイン)に分立し、悪を善に従わせたうえでメシアによってサタンとの関係を断絶して、神の理想とされて天地創造に着手された世界を完成させようとする神の計画であるとしている。 しかしこれらの内容は、人間内部で起こっている悪なる問題を、人間外におけるサタンとの関係性のみに踏みとどめ、メシアによってその関係性を断ち切ってしまえば悪は消滅してしまうという余りにも短絡的な内容であり、ゾロアスター教における善悪二元が、それらの闘争によって善に終結するというキリスト教的表現にしか過ぎないと言っても過言ではない。そこには、常々 “善悪闘争” という言葉が共存していることは言うまでもない。 (A)罪と堕落性
さて、人類始祖であるアダムとエバは罪を犯して堕落した。しかし、「罪を犯した」というのは、天使長ルーシェルと時ならぬときに相対基準を造成して授受作用の関係を結んだことに他ならない。ここで、罪の根となった原罪とは、「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」だというのだが、霊的堕落とは天使長ルーシェルとエバとの間で生じた堕落であり、肉的堕落とは堕落したエバと未完成のアダムとの間で起こった堕落である。このことによって、エバはサタンの堕落性本性を堕落性として受け継ぎ、創造本性が未熟なアダムはエバから受け継いだ堕落性によっエバを主管し、性的関係を結んで “原罪を持つ子女” をその結実としたのである。つまり、父母の堕落性が霊的・肉的に掛け合わされて、血統として受け継がれた罪を原罪ということになる。 ところで、天使長ルーシェルは、堕落によって堕落性本性を持つサタンとなった。堕落性本性というのは、そもそもサタンの本性である。これは、堕落の原因となる “欲望” が動機となって実を結んだ結果である。それを次に示すと、
“神と同じ立場” というのは、「神と同じ心情に根ざした目的に立つ」ということであり、その上で自分の立場を定め、正しい授受の関係を結んで善行を繁殖するというのが、創造本性の立場に立つ本来の位置となる。故に、堕落人間にとって本当に必要なのは、メシアによる原罪の清算ではなく、「堕落性を脱ぐ」ことが何よりも優先される事項となる。復帰摂理で成されたのは、いずれにしても「堕落性を脱ぐための蕩減条件」であるが堕落性を脱いだことにはなっていない。 エバは、未完成期で知恵が未熟な時に、サタンと不倫なる霊的性関係を結んで堕落した。この時、サタンと授受の関係が成され死に対する恐怖心が発動されたと言うのであるが、エバはその恐怖心を踏み越え霊的死とサタンの堕落性本性を堕落性として相続した。すぐさま霊的死は、良心の呵責による恐怖心を発動させたが、恐怖心から逃れようとサタンと同じ行動を取り、アダムを誘惑して肉的堕落を犯してしまったというのである。この時アダムも未完成期にあり、知恵が未熟であったことは当然であるが、まだ良心の指向する善の基準が未熟であったため堕落してしまった。人間が善を指向する知恵を一般的に「叡智」と呼んでいるが、叡智とは深く物事の道理に通じる知恵であり、真理を捉えることができる最高の認識能力のことをいう。 霊的堕落によって霊的死を引き起こし、サタンの堕落性本性を堕落性として定着させ、それを綿々と “原罪” として相続してきたのである。しかし、サタンの直接の授受の対象は霊界にいる悪霊人たちであるとされているのは、地上に在する人間も、悪を行わない限り、サタンの授受の対象とは成り得ないのである。この点を踏まえれば、如何なる人間にも、善を前提にした授受の関係を結ぶための性善説は正しいと言える。 <参照> ・ アブラハム家庭はノア家庭のやり直し(本編参照) A 儒教的善悪観と統一思想 (@)林羅山と統一原理に於ける心性論の相似性
さて『原理講論』では、“人間の心” を生心と肉心が主体と対象の関係で授受する作用体としている。これは、林羅山が説いた心の “性(理)” と “気” の関係に全く似ている。つまり、性(理)と生心、気と肉心は同じことを意味すると捉えられる。ここで、サタンと人間の肉心が授受作用してその力が発せられ、良心の呵責からくる恐怖心を発動させて “霊的死” に至った。この霊的死とは、本来肉心の主体となるべき生心が、肉心の発した力によって拘束された状態を意味している。 堕落した人間において、サタンとの授受の関係が成り立たなければ、生心を拘束させる力は生じない。先にも述べたように、サタンは直接堕落人間に働くのではなく、先ず悪霊人をその対象として働き、その悪霊人が地上の悪人に働くという順序である。この地上の悪人と言っても、悪人の霊人体が悪霊人と相対基準を結び、相対基準を結ぶ要因となるのが生心ではなく霊体における陰と陽の栄養となる(負の)生素と(負の)生力要素である(右図)。 人間の堕落性は、先ず第一に悪行によって “負の生力要素” を生じさせ、次に悪霊人との授受によって “負の生素” としての怨みや憎しみなどを生じさせる。この “負” としての陰と陽の要因が悪循環し、悪霊人と相対できる負の生心と化し授受の関係を築いてしまうのである。悪行を引き起こすのは、あくまでも人間の堕落性であって、この堕落性を発動させないためにも心身の修養が必要なのである。 人間は生心(主体)と肉心(生心の対象であるが肉身の主体でもある)にした心と霊体が合わさって肉身が善に向かって行動する。その “善” が何かを教えてくれるのが真理であり、その真理による行動が “生素”としての「喜び」が帰ってくるのである。この善行とそれに伴う喜びが善循環して神の愛に向かうのであるから、心を養うことは絶対に必要なこととならざるを得ない。 堕落人間は、堕落性によって肉心が生心と相克関係となり、肉身に作用し悪を行なうようになる。この点で、林羅山の悪の発生源は “気” にあるとした心性論は正しいと言える(本編参照「武士道の源流となった儒教」)。肉心が生心と相克関係になるのは、肉心が堕落性を基にして霊人体による悪霊人との授受作用を築くことによって発動し増幅する。この霊人体は、父の精子と、母からの胎中における胎教やその生理的作用と、誕生後の環境と教育による様々な要因に拠るところが大きい。 結論として、堕落性を克服できるのは肉的死ではなく、堕落による霊的死から生じる怨みや憎しみなどを押し殺し、性善説に立脚した “愛による喜びに生きる” ことである。「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(「ルカによる福音書」第17章33節)というイエスの御言葉は、このことを率直に表現している。 <参照> ・ パウロの伝道と三位一体論の展開(本編参照)
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