復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 終章 
     b. 文先生の復帰摂理と現地の整備


1.「現地の整備」における気概を持つために
 (1) 御言による皇室圏拡大が唯一の復帰摂理となった
  @ 長子権を復帰したカイン女性としてのあるべき道
    (@) キリスト教における「御意みこころ」と「御心みこころ」の差異






<参照>
 深く憐れんで

    (A) 自由と原理





    (B) 知情意ではなく情知意





<参照>
 パウロの伝道と三位一体論の展開
 理趣経と生殖器のみ言葉

    (C) 第二の神様である良心を探して真の自分を知る
 アダムは、第二の神様の位置に良心を立たせているのです。そして、自分自身を中心としては、絶対的な神様として良心を頂いているのです。分かりましたか? もしも神様が、先に知るとするならば、それは神様の体と同じです。神様が神様御自身のことを知っているのと同じように、神様と一体になったものだというのです。しかし、まだ愛の相対として一体になっていません。分かりましたか?(「はい」)。なぜ、良心が先に分かるようになっているのかというと、良心の相対である肉身は、神様の相対ではないからです。良心を中心として、肉身が相対になっているのです。それが先に一つになって、つなぐようになっています。分かりましたか? 良心を中心として、(良心と)体が一つになって、神様につながるようになっているのです。
 神様と一つになっているのではないということは、神様の相対の価値、別個の真理体として立たせるために、神様とは別個の中心の基準があるということです。自己完成というとき、自分を中心として良心と肉身が一つになるのが先です。それが一つにならないと、(肉身が)神様の相対としての良心と一つにはなりません。分かりましたか?(「はい」)。そういう面において、良心は、神様よりも先にすべて分かるのです。そのような立場に立っているので、人間は神様の愛の相対の価値的存在になるのです。分かりましたか? 神様をプラスとして、自分はマイナスとなって、プラスの相対の立場に立つのです。ですから、マイナスはマイナスとして、先に分かるのです。これが重要です。
 
(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p82〜p83)









 (2)「武士道」に見る重要な観点
  @ 夫と妻は愛における主体と客体
 女性が夫君や家のために身を捧げるのは、男が主君や国のために身を捧げるのと同じく、自らの意思で行い、名誉あることであった。いっさいの人生の謎は自己放下じこほうげをしなければ解決しないが、この自己放下こそが男の忠義、家に対する女の献身の本質である。男は主君の奴隷ではないが、女も夫君の奴隷というわけではない。女の役割は「内助」として正式にみとめられるものであった。主従関係は階層をなし、女は夫君のために自己を空しくし、男は主君のために自己を空しくし、主君は天に従うとされていたのである。たしかに、このような教説には問題があり、キリスト教がすぐれているのはまさにこの点にあるといえる。キリスト教では、この世にある一人ひとりの個人に、直接創造主への責務を負うことを求めているからである。しかし、ここには、たとえ個人としての自己を殺してでも、自らより高いものに仕えるという、奉仕の概念がある。キリストの教えのうちもっとも偉大で、キリストの地上の御業の聖なる核をなすものが、この奉仕の概念である。そしてそれを共有しているという点で、武士道は永遠の真実に根ざしているということができるのである。(『対訳 武士道』p288〜p290)

 ここまでの記述から、武士道の下で女性の地位がきわめて低かったという印象を持たれたとすれば、私は歴史の真実をゆがめたことになる。女性は男性と同じように扱われなかったということは、まちがいなく言える。しかし、「違い」と「不平等」は異なるものであることをきちんと理解しないことには、この問題についての誤解はたえないだろう。
 男性そのものが、今でも例えば法廷や選挙の投票などで、とうてい平等とはいえないということを考えると、男女間の平等の問題を論じることが虚しく感じられる。アメリカの独立宣言では、すべての人間は生まれながらにして平等であると述べられたが、精神的、あるいは肉体的な面での生まれながらの才能について触れられていない。ローマの政治学者ウルピアヌスがはるか昔に述べたこと、すなわち法の前ですべての人間が平等であるということを蒸し返しているにすぎない。この場合、法的権利が、平等かどうかを決める尺度であった。社会における女性の地位を調べるのに、法的権利のみが尺度であるなら、それがどのあたりなのかを述べることは、体重をポンドとオンスで述べると同じくらい容易たやすいことであろう。だが問題は、男と女の社会的地位を相対的に比べる正確な基準が存在するかどうか、ということである。金と銀の価値を比べて結果を数値化するように、女性と男性の地位を比較することが正しいのだろうか? それで十分なのだろうか? そのような計算方法では、人間に備わっているもっとも重要な価値、すなわち人間としての本性を考慮の外においてしまうのではないだろうか? 男性女性それぞれが、この地上での役目を果たすにはおよそ様々の条件が必要であることを考えると、男性と女性の地位を比較するのに用いる基準は、複合的なものでなければならないだろう。経済学の言葉を借りるなら、「多重的な基準」ということになる。武士道にはそれ独自の、二項的な基準があった。女性の価値を、戦場と家庭という二つの基準で測った。戦場では価値がなく、家庭での価値がすべてであった。女性の待遇は、この二つの判定に対応していた。社会・政治的単位としての扱いは小さかったが、妻・母として最大の敬意と深い愛情を受けた。ローマのような軍事的な国家で、婦人がなぜあれほどの尊敬を受けたのだろうか? それは、マトローナ、すなわち母親だったからではなかろうか? 戦士、立法家ではなく、母親として男の前に立って、平伏させたのである。武士道でも同じことである。父や夫たる者が戦場や野営地に出て不在のときには、すべて家を取り仕切るのを任されたのは母や妻であった。子の教育ばかりか、子を敵の手から守る仕事でさえ母親に委ねられたのである。先に述べた女性の武術修練は、子の教育を賢く監視し、実施することができることを主たる目的としていたのだ。
 なまかじりの知識の外国人の間で、とても浅はかな考えが広まっている。日本では妻のことを「荊妻けいさい」などと呼ぶが、これは女性が軽んじられている証拠だ、というのである。日本語では家族をさして「愚父」や「豚児」、自分のことを「拙者」などと謙遜するのが普通であるといえば、分かってもらえるだろうか?
 日本人の結婚観は、「夫と妻は一つの肉たるべし」という点において、いわゆるキリスト教徒の先をいくように思われる。アングロサクソンの個人主義は、夫と妻が別々の人間であるという感覚を捨てきれない。それゆえ仲違いすると別々の「権利」を意識し、仲がよいときは言葉のかぎりをつくしておよそ馬鹿げた愛称や愚にもつかない甘い言葉をべたべたと用いる。夫か妻が他人に向かって、つれ合いのことを「わたしのよき半身(better half)」が美しいだの、賢いだの、温かいなどと褒めそやすのは、日本人の耳にはたいへん理性にもとる所作である。自分自身のことをさして、「聡明なわたし」とか「愛すべき人柄」などと言うのは悪趣味もよいところではないか? 日本人には自分の妻や夫を褒めるのは、自分自身のことを褒めるのと同じだという感覚がある。そして自分を褒めるのは、控えめにいってもよい趣味とはいえないと、日本人は感じる。願わくば、キリスト教徒の国々でもそうであってほしいものだ!このようにくだくだと脱線に及んだのは、妻のことを謙遜する礼儀は、武士にとってはきわめて普通のことであるからだ。(『対訳 武士道』p296〜p302)







<参照>
 『武士道』に見るキリスト教精神(下)



  A 女は愛の神の相対者
 それで、聖書にはエバを象徴して、「善悪を知る木」とあるのです。善悪を知る木とは、女です。そして木の実とは、女のそれをいうのです。なぜ善悪を知る木というのかといえば、女は、善になれば善の実を結ぶし、悪になれば悪の実を結ぶからです。
 もし王子様と一つになった場合には、王宮を相続することも可能です。そして、王子を生むこともできます。反対に、悪辣なやくざの親分と結んだ場合には、悪魔世界の王子を生むようになるのです。善悪を知る木の実、それは善悪を知る女の胎をいいます。善にもなるし、悪にもなることを象徴しているのです。
 ですから神様は、堕落しないように、善につながるように、戒めているのです。「悪になったら大変だから、それを取って食べるな! 勝手にするな! 神様が命令するまで待て!」と。それは男のものであり、男のうちでも王様の男、神様のものです! ですから、その女の実が何を願うかというと、最高の男、神様までをも願うのです。女には、神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋があるのです。
 女の主人は男ですね? 女に聞いた場合、主人のうちで一番の主人は誰かというと、神様です。女をつくった目的は、アダムのためでもあるのだけど、一番は、神様のためにつくったというのです。なぜかというと、神様は相対が必要だからです。独りで住むのはかわいそうだというのです。先生でも、お母様がいなかった場合には、「八十代になるおじいさんは、かわいそうです」と言われるのです。相対がいなくなれば、すぐに除去されるのです。天運というのは、相対がいることで保護するようになっているのであって、相対のいないものは押し出すようになるのです。
 なぜ旦那さんが亡くなった場合に、女は、あんあに転がりながら泣き続けるのでしょうか? 誰が、何がそのようにさせるのでしょうか? 第三の力が加わって、押し出すような力で悲惨さを抱かせるのであって、自分の中にそういう力があるわけではありません。宇宙力、天運というものは、相対関係のあるものは保護するのだけれど、相対がいないものは押し出すようになっているのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p32〜p33)








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