1. 原理解釈の誤り
c. 父なる神とアダム国家
1. 神は唯一神
(1) 原理における神観
@ 愛の本質の現象化と実体化
『原理講論』では、“
父なる神” と呼んでいるが、“
父母なる神” を否定している訳ではない。信徒たちはこれらの観点を曖昧にし、明確な神観を確立せず、遂には分裂に至ってしまった。ましてや、
昼の神様と
夜の神様に至っては
二元論的認識と言っても過言ではない状態にまで至っている。
それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外・原因と結果、主体と対象、また縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨をとって、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリントT一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(『原理講論』p46〜p47)
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神は「
われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1章26節)、「
男と女とに創造された」(創世記1章27節)とある。この聖句をもとに述べられているのが『原理講論』の上記の部分である。図式化したものが右図となる。
右図において神の本性相を “夜の神”、本形状を “昼の神” としているが、これは文先生が神を昼と夜に分けて表現されたのかを語られた内容に基づいているものである。これは、「なぜ太陽神が女神であるのか」と言う問いに対する解答である。
さて、神の本性相と本形状は、本陽性と本陰性の属性によって男性と女性に現象化される。神に似せて創造された人間は、神の子として男と女とに創造されたから、
神の男性的要素を男子に、神の女性的要素を女子として創造された。男性(男子)と女性(女子)には、“
男” としての特質と “
女” としての特質が
量的・質的差[
男>女=男性(男子)、
男<女=女性(女子)]として現れる。
また、神の本性相と本形状は主体と対象の関係で、
本性相が現象化したのが “男性” であり、
本形状が現象化したのが “女性” であるので、男性と女性も主体と対象の関係にある。このことから、人間における男子と女子の関係も、主体と対象の関係にある。
ところで、
神の男性と女性は神様そのものではなく、主体である本性相とその対象である本陰性が授受作用して統一体としてあられる方(唯一神)である。
神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。(『原理講論』p50)
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神が創造主であられる以前に、神が神として永遠性をもって自存なさるためには、神御自身が存在のためのエネルギーを発しなければならない。統一思想では、神は “心情の神” であり、“神の心情が現象化されたのが愛” であるといえる。ゆえに、心情は「
愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。さらに、
神は人間を通じて、神の愛を実体化することによって、絶対不変なる愛として永遠なる喜びを満喫なさろうとされた目的の為に被造世界を創造され、アダムとエバを創造されたのである。これらのことから、
アダムとエバは神ではなく、神の属性の実体(このことを、原理では “個性真理体” と称している)であり、アダムとエバが一体となって完成すべき愛こそが、神の心情が愛として顕現された、“神の愛の表現体” となる。正しく、
神はアダムとエバの愛の中心点(中核)に臨在されるのである。『原理講論』で合性一体化と “性” の字を用いているのは、神の属性である男性と女性が合わさって一体となることを言い、神の愛を表現している言葉なのである。ゆえに、
神はどこまでも “唯一神” である。
<参照>
・ 再創造摂理と復帰摂理の分岐点
・ 原始キリスト教の聖霊と三位一体
・ 日本における摂理的概要
A 愛の本質
人間は、創造目的に従って、神の愛によって創造された。その
愛の本質は心情であり、愛することによって喜びを得たいという抑え難い情動であるとしている。
ある主体が、その対象を愛することで得る喜びを『統一思想』では “
価値” と言い、次のように述べられている。
価値は主体(主観)の欲望を充足させる対象の性質であると規定する。すなわち、ある対象があって、それが主体の欲望や願いを充足させる性質をもつとき、その主体が認める対象の性質を価値という。つまり価値は主体が認める対象価値であって、主体に認められなければ、それは現実のものとはならないのである。(『統一思想要綱』p287〜p288)
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さらに、次のようにも述べている。
価値とは、すでに述べたように、主体の欲望を充足させる対象の性質をいうのであるが、ここで価値を論ずるためには、まず主体のもっている欲望について分析しなければならない。(『統一思想要綱』p288)
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ここで、ある価値を生み出すためには、愛における対象の性質はもちろんであるが、
愛の主体として持つべきその “欲望” がその前提となり重要であるとしているのである。
ところで欲望とは、与えられた目的を達成しようとする心の衝動である。したがって欲望には、全体目的を達成しようとする欲望と個体目的を達成しようとする欲望がある。前者を価値実現欲といい、後者を価値追及欲という。(『統一思想要綱』p290p291)
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また、「与えられた目的」とは、人間にとって “
被造目的” のことであり、人間が、生育し、繁殖し、万物を主管するという三大祝福を成就しようとする
価値実現欲のことであり、真善美などの個体目的を達成しようとする
価値追及欲のことである。この真美善は、愛される対象に潜在していなければならない価値であり、愛する主体からみれば対象の評価要素となるのである(『統一思想要綱』p293〜p296)。
つまり、神(主体)の欲望(神の天地創造最大の喜び)を充足させるのは、まず対象としてのアダムが(三大祝福の成就しようとする)持つべき性質であり、これがその価値を実現しようとする欲望であり、神が
命の息をその(アダムの)鼻に吹き入れられた(創世記2章7節)ことで表現されておられる。アダムは神の愛の対象ではあるが、そのアダムの愛の対象はエバであることから、
エバは価値追究欲をその最大の評価要素とされるべき存在なので、アダムの
あばら骨からエバを造った(創世記2章22節)という表現は正にこのことを意味すると言える。
B アダムとエバの国家的概念
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これまでのことから、神の創造したアダムとエバの概念を踏まえて、アダム国家とエバ国家はどう有らねばならないかということを考えてみると、アダム国家は三大祝福を実現する国、エバ国家は真美善の価値を追及して止まない国ということになる。
しかし、ここで重要になるのが、どちらも明確な価値観に立って、円満な授受の関係築かなければならない。つまり、
アダム国家の実現しようとする三大祝福は、絶対的な真美善の価値で裏打ちされたものとならなければならないので、
アダム国家はエバ国家の価値観に基づいて、エバ国家とは別の国家として建国されなければならない。これなるアダム国家とは、1932年に建国された “
満州国” である。
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満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による
民族自決の原則に基づく
国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による “
五族協和” と “
王道楽土” を掲げた。ところが、この理想世界を標榜した満州国は、日本がその道を誤り、絵に描いた餅としてしまい、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦によって1945年8月18日、建国より僅か13年5ヵ月で滅亡したのです。
<参照>
・ まぼろしの満州国
・ 満州国の成立
・「 満州国」 の 法と 政治―序説 (京都大学人文科学研究所名誉教授
山室信一: PDF /
本サイト)
・ イギリスからみた日本の満州支配 (立命館大学法学博士
梶居佳広: PDF /
本サイト)