復帰摂理歴史の真実
幻となった基元節(下) <トップ> 中国の国共合作

■ 第三部 第三章 
 第一節 神仏耶三教会同と帰一協会


1. 神仏耶の帰一志向とその前と後
 (1) 天皇制とキリスト教
  @ 神観の相違によるキリスト教への軋轢
<参照>
 天皇制国家とキリスト教 (同志社大学名誉教授 西田毅 : PDF / 本サイト

    (@) 神道と仏教とキリスト教における明治初期の混乱
 江戸時代に国学が流行すると、神道が優位と説かれるようになり、神道から仏教的要素を取り除くことが主張され、明治維新後には神仏分離が行われた。 維新政府の宗教政策とする神道国教化と廃仏毀釈によって、1869年9月には神祇官内に宣教使が設置された。これによって天皇崇拝中心の神道教義の布教をめざす大教宣布運動が開始され、祭祀の主宰者にして「現人神」たる天皇が即位された。これによって天皇の下に、広範に国民が服属と恭順を調達することによって、神道中心の祭政一致と惟神かんながらの道の支配体制が創出された。
 しかし、こうした「復古」政策の成果は挙がらず、1872年には神祇省を廃して教部省が新設された。それまでの宣教使が廃止され、教部省は教導職を設置し、神仏協力体制を整備するために「三条教則」(1872年)を発布したのである。神道と仏教における宗教団体すべてを動員し、全国の神職と僧侶をすべて教導職に任命した上で、「敬神愛国」と「天理人道」の明示し、「皇上奉戴ほうたいと朝旨遵守じゅんしゅ」を下付して、教院や講社を通じて説教を行わせたのである。ところが、こうした教部省が企図した合同布教も、信教の自由を求める真宗各派の運動や、教化政策に批判的な開明派官僚の批判を受けて1877年には教部省が廃省になり、教導職も1884年には無くなるなど神道国教化政策は大きな転機を迎えることとなった。
 これに対し、妖教や邪教などと長らく異端扱いされてきたキリスト教は、1873年2月にキリシタン禁制の高札が撤去され、キリスト教を黙認する姿勢が示された。そのため、欧米から新教・旧教を問わず各派のキリスト教団の宣教師が続々とやってきて、1873年には日本人最初の日本基督公会が押川方義(左図)らによって横浜に設立された。
 明治国家において、キリスト教とマルクス主義は天皇制イデオロギーに対する2大対決原理であった。明治国家の支配層がいかに社会主義、マルクス主義を恐れ、「主義者」の根絶に躍起になっていたか一目瞭然である。明治10年代はキリスト教にとって比較的順風な時代であったとはいえ、キリスト教が時の支配層によって、天皇統治と臣民の忠孝を国体の精華と定めていた教育勅語(1890年)の理念に合わない危険な思想と扱われていたことは確かである。明治20年代に発生した内村鑑三の「不敬事件」(1891年1月9日)や「教育と宗教の衝突」論争や、加藤弘之によるキリスト教害毒論の展開などはそれを象徴する典型的な事例となった。
 大日本帝国憲法28条では “信教の自由” を認めたが、信教の自由の前提として「安寧秩序」と「臣民たる義務」があった。国民道徳の本旨を定めた教育勅語は天皇の尊厳性を高め、人倫五常の権威を確立して家父長的な儒教倫理の再編成を図り、“忠孝一致の道徳” を国民の徳目として掲げた。さらに政府は「天皇の影像」を全国の諸学校に下賜かしし、文部省は「御真影」と教育勅語謄本(右図)を校内の一定の場所に安置するよう訓令を出した(1891年11月)。それ以降、全国の学校で奉安庫奉安殿の設置が始まり、なかには神棚を設けてこれを祭り、酒や榊を供えるなど天皇の絶対化、神聖化が進められた。

<参照>
 加藤弘之の一側面 (関西学院大学 初代社会学部長 大道安次郎 : PDF / 本サイト
 「教育と宗教の衝突」論争をめぐる仏教側の対応 (日本大学教育制度研究所 山本哲生 : PDF / 本サイト
 御真影と教育勅語の謄本を厳重に守る「奉安庫」 GHQが撤去指令、「金庫に使いたい」で今に残る
 戦時下の子どもたちは必ず最敬礼した「奉安殿・奉安庫」 今なお残る「戦争遺産」から学ぶ教えは

    (A) 混乱の根本は曖昧な神観
 国家主義者が好機至れりとばかりに、キリスト教が国体と相容れないと攻撃の火蓋を切った。議論の急先鋒は、当時東大の哲学教授であった井上哲次郎(右図)であった。井上は、「耶蘇教は唯一神教にて其徒は自宗奉ずる所の一個の神の外は、天照大神も阿弥陀如来も如何なる神も如何なる仏も決して崇敬せざるなり。 ―(中略)― 多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し、唯一神教たる耶蘇教は至る所激烈なる変動をなせり」(『教育と宗教の衝突』1893年)と不敬事件の原因をまさに内村鑑三の信仰するキリスト教の一神教たる特性に見出し、それが憲法28条に定める「安寧秩序」の維持、「臣民たる義務」の2つの制限事項に反することを挙げて論駁している。
 ところで、ここにある井上哲次郎の神観は実に曖昧でいい加減な神観であるとしか言いようがない。その一つが「多神教たる仏教」である。そもそも仏教とは2500年ほど前に、仏陀は「目覚めた人」を示す言葉であり、釈迦の死後の初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人が仏陀とされるようになったため、仏教では仏陀の説いた教えに従い、僧侶や在家信者それぞれの立場で修行・実践して悟りによる解脱によって成道することを目的としている。
 仏教の究極的な実践目的とされる涅槃の境地は、生死を超える程に煩悩を滅尽めつじんして悟りとしての智慧(菩提)を完成した世界とされる。釈迦の “完全な解脱” による “完全な涅槃” に入ることを「入滅と呼んだ。完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことを意味するようになった。
 この様に、仏教において多神教どころか神については一切触れてはいない。

<参照>
 仏教について

 また、キリスト教は単なる唯一神教であろうか。外典において、イエスが弟子たちに次のように述べている。
 主が言った。「父は自らのためにこの世界を確立したとき、多くのことを万物の母の手にゆだねた。それゆえに、彼は種をまき、働くのである。(『イエスが愛した聖女』p128)

 見なさい、真の言葉が父のもとから深淵へと、沈黙と稲妻とともに降りてくる。それは生み出す力をもつ。(『イエスが愛した聖女』p129)

 イエスは、唯一神を父なる神と母なる神とその役割を区別して表現している。父なる神は種を撒き、母なる神によってその種から万物が創造された。更に、父なる神から真の言葉が沈黙のうちに稲妻の如く降り注がれ、母なる神によって生み出された万物はそれによって繁殖したと言うのである。
 『イエスが愛した聖女』の著者としての米国の宗教学者であるエスター・A・デ・ブールはこれを次のように結論付けている。
 こうした男女の統合は、同等性や等価性を基盤にしているわけではない。古代世界においては、女性であるより男性であるほうが有利であり、男性は女性を導いて進歩させなくてはならなかった。両者の統合がもたらすのは、現代的な感覚でいうところの両性具有ではない。前提となるのは全体論的な男女観ではなく、女性は男性に組みこまれ、女らしさは男らしさに包含されることを理想とする、根の深い二元論的価値観なのである。(『イエスが愛した聖女』p161〜p162)

 この根深い二元論的価値観とされる男女観は、文先生の提示された二性性相としての神観を基としたものである。唯一神ではあるが、その本質は完全な授受の関係において一体で唯一なる絶対愛としての神であられる。愛であるが故に、愛する側の男と、愛される側の女としての二性が必要となり、愛の種となる心情は、喜びとして結実する。女偏の付く喜び「嬉」という漢字は、その成り立ちが「神が喜ぶ」を意味する会意兼形声文字である。

<参照>
 「嬉」という漢字

 この捉え方は、紀元1世紀のユダヤ人哲学者アレクサンドリアのフィロンによるものであるが、フィロンは「男らしさ」と「女らしさ」についてこう述べている。
 男性的な思考が柔らかさに触れて弛緩しかんし、女らしくなるのではなく、女性的な要素である感覚が男性的思考に従い、そこから生殖のたねを受けることで、男らしくなることはある。すなわち知識や分別、正義、勇気、ひとことで言うなら美徳●●によって(事物を)うけとめるのである。(「創世記注釈」2章49節)(『イエスが愛した聖女』p161)

 こうした観点は、昇天志向を持った水中に住む大魚とされた「」が、水面の “龍門” を飛び越えることで「」に変わる(登龍門)とされた中国北方の龍神文化において、「龍」を男の予兆(陽の極致)、「鯉」を女の予兆(陰気の極致)を代表するとして陽と陰の一対として考えた(「黄河文明と長江文明」参照)ことに観点を同じくしている。龍が「天」を象徴する存在であるならば、天もまた男(陽の極致)と女(陰気の極致)の特徴である「男らしさ」と「女らしさ」を具備していると言っても過言ではない。この様な天を神とする神観を文先生は、唯一神であると同時に二性性相としての “夜の神(男神)” と “昼の神(女神)” としての神であることを明確にされた。
 ところで、日本神話のにおける「造化三神」は(「日本神話に見る復帰摂理」で述べたが)、「独り神として成る三柱の神」の内の二柱である高御産巣日神たかみむすひのかみ(男を象徴する神)と神産巣日神かみむすひのかみ(女を象徴する神)の天における神が、国土形成後には宇摩志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこぢのかみ(活力の神)と天之常立神あめのとこたちのかみ(天の永久性を象徴する神)が「独り神として成る二柱の神」となって地に降り、八百万やおよろずの(もといとなる二性としての)神” となってその身を隠された(別天津神)と言う表現になっている。
 明治政府は神道は宗教ではないと規定し、宗教的観点を仏教とキリスト教に分けて多神教と唯一神教とに分類し、仏教においては廃仏毀釈を試みたが上手くいかず、政府の委嘱によって井上哲次郎が著述した『勅語衍義ちょくごえんぎ』(1891年)で教育勅語を注釈し、『教育と宗教との衝突』(1893年)でキリスト教を反国体的であると攻撃し論争を招いた。

    (B) 三教会同と帰一協会
 三教会同は第2次西園寺公望内閣(1911年8月30日〜1912年12月21日)期に内務次官の床次竹二郎が主導して、1912年(明治45年)2月25日に東京麹町区の華族会館で開かれた。会場では内務大臣の原敬は政府関係者とともに教派神道13名仏教系諸派51名キリスト教7名の代表と懇談し、宗教家たちに国民道徳振興への協力を求めた。そして翌日の2月26日、三教の代表者は皇運扶翼ふよく、国民道徳の振興を誓い、あわせて政府に宗教の尊重、政治・宗教・教育の融和をもとめる決議を採択した。ただし、この場には神社非宗教論の立場から神社神道は参加を拒み、文部省と真宗大谷派は参加しなかった。
 三教会同は文字通りの「会同」で、諸宗教が国家のために協力するという気運の表現であったことは確かであり、キリスト教が仏教や神道と同列に扱われた意義も大きかったと言える。しかし、これをまたず、すでに1911年には帰一協会結成の萌芽があった。その原動力となったのは、1901年に日本女子大学を創立し校長となっていた成瀬仁蔵(右図)であった。成瀬は沢山保羅により受洗し、牧師としての経歴を有している。この成瀬が日本女子大学設立資金調達をめぐって、もともと縁あった渋沢栄一森村市左衛門に語って、1911年頃から「現代思潮界改善」ないし「宗教統一」のための会合の準備を始めたのが帰一協会の起源である。その後、1912年4月11日に渋沢邸で帰一協会準備会が行われ、同年6月20日に成瀬のほか、渋沢栄一森村市左衛門姉崎正治浮田和民が幹事となって帰一協会が正式に発足した。この日本女子大学と帰一協会は、成瀬自身における、米国の宗教思潮を深化させた宗教的ヴィジョンであった。帰一協会は、研究問題要目案として「信仰問題」「風教問題」「社会・経済・政治問題」とともに、国際並みに「人道問題」を掲げている。会として一番成熟していたのは1914年前後の頃となる。
 しかし、1919年に成瀬仁蔵が没し、1923年9月には関東大震災があり、渋沢も1928年には「今では宗教団体でもなく、学問的研究の会でもなく、単に一種の相談会として存在している始末で、私も滅多に顔を出さない」と述べるまでに活動は落ち込み、1931年には帰一協会の財政的支えだった渋沢も失い、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃があり、1942年12月21日に姉崎正治による会員への解散通知を最後に帰一協会はその幕を閉じた。

<参照>
 帰一協会の理念とその行方 (国際宗教研究所 高橋原 : PDF / 本サイト



  A 天皇は「祭司的な王」
<参照>
 『キリスト教と天皇(制)』(星城大学教授 加藤知子 : PDF / 本サイト

 天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した「終戦の詔書」が1945年(昭和20年)8月14日発布され、戦争終結が公式に表明された。1946年(昭和21年)1月1日に発せられた詔書において、昭和天皇は、天皇を現御神アキツミカミとするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定された。同日、ダグラス・マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。そして、1946年11月3日には、日本国憲法の公布となった。
 以下の内容は、1945年以前からの日本近代史におけるキリスト教界に見られる半天皇制の立場とは一線を画すこととなった笹井大庸の著書『キリスト教と天皇(制)』に、幾つかの重要な論点が記されているので、ここで取り上げることにする。

<参照>
 天皇「人間宣言」

    (@) 笹井大庸著『キリスト教と天皇(制)』とは
 笹井大庸は、1950年5月に岩手県胆沢郡金ケ崎町に生まれ、1969年中央大学文学部入学。その後日蓮教学を学び、新右翼民族派の思想探求団体としてあった一水会の活動家となった。1985年にクリスチャンとなり洗礼を受けた。1986年に仏教系の暁書房をキリスト教出版社として、日本のキリスト教界に天皇制の再評価を求めた論争を起こした。
 笹井は、天皇は擁護しても神社参拝は認めていないこと、天皇の御真影を拝むなどのような偶像礼拝的行為を勧めない、全体主義や独裁主義を確立するための天皇を擁立するような動きに反対することを『キリスト教と天皇(制)』で明言している。更に、中田重治著『聖書より見たる日本』から「国の歴史は偶然によるものではなく、造り主なる神の御意思によって生れ出たものであとする見方が聖書的である」という箇所を引用し、「天皇を巡る日本の成り立ちも、キリスト教の神(God)の摂理として何らかの目的の上に存続している」として、『キリスト教と天皇(制)』では、「天皇の本質が『祭司的な王』である」(天皇は God そのものではない)ことを再確認することで日本におけるキリスト教宣教の突破口とすることを提案している。その上で笹井は、使徒言行録17章22節〜24節と同じ論法で、日本でもキリスト教宣教が展開できると主張した。
 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒言行録17章22節〜24節)

 聖書のこの箇所は、使徒パウロが、アテネの人々が拝んでいる「知らない神」がどのような存在なのかについて説明しようと試みている。ここでパウロは、アテネの人々が名も知らないで拝んでいる神こそが全知全能で万物の創造主である God なのだと彼らに告げることをきっかけとして、イエス・キリストの福音へと誘おうとしているのであるが、笹井はこれと同じ論法で、日本でもキリスト教宣教が展開できるのではないかと主張した。すなわち、皇室に敬意を表し、神道の伝統を大切にする日本の民に対して、天皇家が代々祀ってきた神は、実はキリスト教で聖書が啓示する God なのではないか、という切り口からイエス・キリストの福音へと彼らを誘おうというわけである。
 しかし、これはこれまで見てきたことからも明らかであるが、キリスト教の神(God)観をそのまま神道に当てはめても難しく、むしろ文先生の説いた神観や、本論での「失われた10支族の行方」と「日本へ向かった10支族」で述べた日本とイスラエル選民との繋がりや、「日本神話に見る復帰摂理」などで述べた日本神話の摂理的背景などから明確化されると言えるであろう。

    (A) メシアニック・ジュダイズムと天皇(制)
 現在メシアニック・ジューと呼ばれる人々は、ユダヤの出自でありながらイエスがメシアであるという信仰を持ち、その信仰告白後もユダヤ的伝統を保ち、イエスをメシアとして讃えている。彼らの信仰の在り方は、メシアニック・ジュダイズムと呼ばれている。
 イエス自身も弟子たちも皆ユダヤ人であり、彼らが頻繁に引用した聖書は、ユダヤ人が代々受け継いできたものである。しかし、次第にユダヤ的考え方がキリスト教徒たちの間から忘れられ、明治期に日本に入ってきたキリスト教は、ユダヤ色の薄い欧米型のものであった。
 笹井が指摘した天皇の本質は「『祭司的な王』である」と言うのは、アロンの家系である祭司がそうであった様に、天皇家が代々祀ってきた神こそが、実はキリスト教聖書の God なのではないかという主張なのである。このことを、日本キリスト者は頭の中だけで納得するのではなく、天皇を核として国を成してきたいまだイエスをキリストとして告白されていない日本の民に対して明確に発信することは無謀なことではないとしている。

<参照>
 主イエス・キリストの聖なる父。これこそ聖書の中心題目


幻となった基元節(下) <トップ> 中国の国共合作