復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
第一節 日本における摂理的概要 1. 島国日本の特異なる摂理史 (1) 日本の伝統文化を築いた思想史 @ 融合によって築かれた特異文化 前編 第二章 第二節「イスラエル12支族」で述べた御神輿の鳳凰(左図)のところで、これは大和朝廷が1世紀ごろに日本に到来した “失われた10支族” が中国南方の太陽神文化を持ち込んだものと考えられます(右図:参照「黄河文明と長江文明」)。 鳳凰とは、「鳳」という雄と「凰」という雌のつがいを意味していたため、陰陽の象徴であり、男性と女性の厳格な関係を代表するものとされていた。記紀神話による祭政一致を目指したヤマト王権による神権政治も、平安時代以降の武士の登場によって祭政分離を余儀なくされていくことになるのである。 ところが、一般庶民の間では神道の「神」と仏教の「仏」の違いが不明確なためその融合(神仏習合)が起こり始めた。これは、神道を主張する朝廷が仏教を学問として広めていた為に、庶民の間では混同が起こったのである。やがて武士が台頭し始めると、天皇の主権者としての証のために国学が起こり、神話と天皇の関係性を定義付けた。ところが、これは「神」とはどの様なお方であられるのかを明確にしないまま、天皇を「現人神」としてしまった。これらのことは、キリスト教における「両性説」の成立と同じような様相が見受けられるのである。 ところで、日本では “神仏習合” という土着型の古神道と仏教が融合して再構成された宗教現象によって、特異的な信仰体系を生み、文化として定着したのである。 <参照> ・ 鳳凰の伝説 ・ パウロの伝道と三位一体論の展開 ・ 「神を祀る存在」天皇とローマ教皇の決定的違い ・ 日本人にとって神(カミ)とは A 要となった神仏習合期 (@)神道 古神道とは、日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教のことで、その要素は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム、またはその延長線上にある先祖崇拝などであるとされている。 538年の仏教伝来以降、朝廷内で仏教が学問として扱われるようになると、国内外に天皇の立場を明示するための建国神話として古事記と日本書紀が編纂された。しかし、江戸期になって幕府は儒学や朱子学を標榜し、国学として記紀の研鑽が盛んになり、江戸前期に儒学者である山崎闇斎によって垂加神道が提唱され、江戸後期には荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤らの国学者によって復古神道が提唱されたのである。 垂加神道とは、吉川神道や伊勢神道と並ぶ儒家神道のひとつとされ、日本書紀の研究にも関係があったとされる。 しかし、垂加神道において特異とされるのは、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした。この尊王論が幕末に攘夷論と結びつき尊王攘夷思想となったが、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきであるとする「大開国・大攘夷」が唱えられ、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「公議政体論」、「倒幕」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。 1868年、明治維新が起こると、新政府は神仏習合の状態から仏教を切り離す “神仏判然令(神仏分離令)” が発布された。結果、全国各地で壮絶な廃仏毀釈が起こり、政治権力を内包した国家神道が一種の国家的圧力となって台頭してきたのである。これが当時、併合されていた朝鮮半島の宗教者に対して信仰的屈辱をもたらし、恨となって “三・一運動(1919年)” の勃発を招いたのである。 一方、復古神道とは、古神道の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神の道」が重視された。国学者たちによって、より学問的な立場でつきつめられていった神道といえる。もともと国学は、17世紀に日本の古典研究に端を発した「学問」であったが、幕末における社会変革に伴い、国学も宗教的な思想として変容していくのである。結果として “神々の意思” に対するとらえ方も変化を余儀なくされたと言わざるを得ない。これは、そもそも “古神道” とは何なのかを明確にすることが出来なかったためと考えられる。 1868年明治維新が成されると、1889年には大日本帝国憲法(明治憲法)が公布され1890年に施行されることとなった。 <参照> ・ 天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録 ・ 面白いほどわかる神仏分離令!目的や内容を徹底解説! ・ 日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか? ・ 日本の伝統的国体法と神道 (法学者・憲法学者 小森義峯: PDF / 本サイト) ・『幕末維新期における平田国学思想の潮流』 (弘前大学大学院教育学研究科 奈良真由子: PDF / 本サイト) ・ 惟神の道(かんながらのみち)とは?神道でよく用いられる言葉の意味を解説 ・ 明治維新以降の神道についての研究 (日蓮宗現代宗教研究所研究員 山田孝行: PDF / 本サイト) ・ 韓国併合の背景と実態(下) (A)天道思想 天道は、古代中国における「天下思想」と「王土思想」を含んだ王道政治に根拠を持つ。前者は聖人が天命を受けて君主となり、天に代わって天下を治め、仁政を施さねばならないという思想であり、後者はその下に王臣であるものは君主に服従すべきという思想である。しかし、王臣は王が仁政を施すことを前提としており、もし施さないならば最終的には放伐革命(易姓革命)が正当化される。 ところで、日本の天道は、承久の乱(1221年)における院政から武家政権への交代を正当化する根拠として持ち出されたことに始まる。北条氏による鎌倉幕府は、天皇制支配原理に対して、天道をその正統的根拠としたのである。これは、武家政権の棟梁と、天皇という二人の主君が存在するからこそ天道が持ち出されたと言える(天皇の神孫為君と武家の天道)。 中国での “天の思想” は、自然の必然的な法則、人格的な天地の主権者、天そのものや天体の運行として、儒教的、老荘的思想を背景として用いられていた。日本ではこのほかに欲界、色界、無色界の総称として、或いは「おてんとうさま」と言うように日輪への親しみを持った言葉として用いられた。中世以降、天に新たな意味が付加され、天の思想の一類型としたのが天道思想である。これは自己の運命神、倫理的根拠となり、とりわけ鎌倉期以降の武家支配にとっての正統的根拠を付与する「カミ」となっていく。しかし、徳川政権安定のためにこの天道思想を変容せねばならなくなり、主として儒学によってなされた天道思想の変容は、天皇との関係を天道の下で再解釈させることなった。 天道の変容以降、天の中身が定められず、直接天の中身を巡っての様々な解釈の広がりを生むことになる。天の解釈を天照大神にするのか、儒学的な天とするのか、或いは家康とするのかという事である。結果として、天道思想の変容は、天の中身を天照大神にする国学等の解釈を生み、近代天皇制の正当化を準備させることとなった。 <参照> ・ 天道思想の変容 序説 (佛教大学総合研究所研修員 新矢昌昭: PDF / 本サイト) ・【天皇制とは】古代から現代までの歴史と要点をわかりやすく解説 ・ 鎌倉幕府の政策〜北条氏の政治〜 (B)修験道 日本古来の山岳信仰と密教の呪法・修行法が習合して成立した実践的宗教。その行者を修験者または山伏という。奈良時代の役行者を開祖と伝える。平安中期に密教系の行者の中から山々の回峰修行により霊力を強めようとする験者が台頭する。 中世には各地の霊山を拠点とする御師、山伏が先達となり、御家人や土豪を峰入り修行に引率した。自由通行が慣例とされた山伏は、武将に仕える者もいたという。近世に入ると山伏の定住化が進み(里山伏)、加持祈祷などによって庶民生活に浸透していく。修験道が通過儀礼、行事祭礼、芸能などに及ぼした影響は少なくない。一方、師檀関係の成立を背景に、講の世話や霊山登拝を案内した。ただし、近世までの霊山はほとんどが女人禁制であった。 明治新政府によって「神仏判然令」が発布(1868年)されると、権現に社僧や別当として奉仕していた修験道の解体が行われた。修験は寺院として存続するか、復飾(還俗)して神主になる、帰農するなどの選択を迫られたのである。さらに明治四年(1872年)になると、政府は「修験宗廃止令」によって、修験は仏徒(仏教徒)と見なすという見解を出し、修験道は宗派として消滅し、天台宗と真言宗に帰入された。こうして修験道は禁止されたが、第二次世界大戦後、教団として復活したのである。 <参照> ・ 山と宗教(前編) (日本山岳修験学顧問 長野覺: PDF / 本サイト) ・ 明治維新と修験道 (慶應義塾大学名誉教授 鈴木正崇: PDF / 本サイト) ・ 明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察 (愛知学院大学教授 林淳: PDF / 本サイト) ・ 修験道 - ジャパンサーチ ・ 修験道の歴史 (C)仏教 538年に伝来して以降、日本人の生活と文化に溶け込んでいる仏教。聖徳太子による我が国の仏教興隆は目覚ましく、以降1500年という長い年月を経るうちに、13の宗派へと分かれていった。 国家仏教として、国家を鎮護することを祈るとともに、経典や教義の研究を行う奈良時代の仏教寺院は、一寺一宗の体制が整えられておらず、ひとつの寺院に複数の宗派が混在した。東大寺では、華厳宗のみならず諸宗を兼学した。こうした環境で、各宗の僧侶は自分の宗派の枠を越えて教えを学び合ったという。 <参照> ・ 【仏教解説】華厳宗とは?歴史や教え、特徴など 平安時代になると、仏教に対し神秘的な力が期待され、最澄を開祖とする天台宗(台密)や、空海を宗祖とする真言宗(東密)といった密教が盛んになった。 最澄は比叡山に延暦寺を開き、空海は高野山に金剛峯寺を開いた。天台・真言の両密教系の宗派の本山の特徴としては、都を離れ、深山幽谷の険しい山林に開かれたことで、とくに比叡山は都の東北、つまり鬼門の方角に位置し、鬼門封じという呪術的な性格も付加された。また、弘仁14年(823年)に空海が朝廷より東寺を賜り、以来密教独自の道場とするよう企画したように、一宗一寺の傾向が徐々に整いつつあったといえる。但し、ここで注目しなければならないのは、空海が東大寺の教学に密教を入れ、東大寺のなかに真言院をたて、東大寺の本尊である毘盧遮那仏(大仏)の宝前で、密教の重要経典である理趣経を誦むべく規定し、こんにちにいたるまで東大寺の大仏殿で毎日あげられいるお経は理趣経としたことである(『空海の風景』(下)p118〜p119)。 さらに平安末期から鎌倉時代にかけて成立した、良忍の融通念仏宗、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗などでは、宗祖やその弟子たちの思想に沿ってそれぞれ各地の多様な場所に建立されていった。また、室町・戦国時代を通じてこれらの宗派は日本の文化・芸術に大きな影響を及ぼしながら、日本人の生活と精神に深く浸透していった。 <参照> ・ 象徴天皇の信仰 (D)キリスト教 仏教は、使徒トマスによってもたらされたキリスト教が融合され、大乗仏教が生じた。これが中国において景教と融合され密教として大成したのである。これを空海が、長安で体得し日本に持ち帰って成熟させた。空海は、長安で直接景教徒と接してきた人物である。 <参照> ・ 原始キリスト教と融合した大乗仏教 キリスト教が直接日本に入ってきたのは、スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭であるフランシスコ・ザビエルによる1549年の室町時代(1336年〜1573年)後期のことである。しかし、ここで注意しなければならないことは、『東方見聞録』を契機として始まった大航海時代は植民地政策と奴隷制度が行われ、日本でも伴天連追放令や禁教令が出され鎖国に至った。この鎖国は、神の摂理を誤ったカトリックの侵入を防ぎ、イギリスからアメリカに渡ったプロテスタントの入国を待って開国と倒幕が成されたことである。ペリーの黒船来航は、開国の契機とはなっても、開国の原因とはなっていない。 <参照> ・ 洗礼ヨハネと12使徒 ・ マルコポーロとコロンブス ・ インドへの大航海と滅亡した文明 ・ 葡・西の盛衰と英・蘭の台頭 ・ 宗教改革、そして英国から米国へ
(D-1)宣教師フルベッキ オランダ人宣教師フルベッキ(右図)と妻マリアがサープライズ号に乗って、ニューヨーク港を出発したのは1895年5月7日。約五か月余り、大西洋から喜望峰をまわり、インド洋を経て、清の上海に寄港し、11月7日の夜遅く長崎の港に着きました。当時鎖国していた徳川幕府は、長崎の港をオランダや上海からの船を受け入れ、外国との交流を暗黙の内に認めていました。 左図は「フルベッキ群像写真」である。この写真は、我が国最初の写真家とも言われた上野彦馬が長崎のスタジオで撮ったもので、中央に写っている外国人がフルベッキで、右横が長男。ここには、西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟、伊藤博文、大隈重信、桂小五郎、高杉晋作といった幕末維新を導いた指導者たちの若き日の姿も写っています。 1830年、オランダの裕福な商人の家に生まれたフルベッキは、モラビアン派の学校に学びました。モラビアン派はヨーロッパでは少数派の信仰共同体に属するのですが、聖書の真理に堅く立ち魂の回心を重んじていた宗派です。その信仰姿勢は、ジョン・ウェスレーなどキリスト教の歴史的人物にも大きな影響を与えました。 フルベッキが日本にやってきた1859年頃の幕府は、長崎、横浜、函館三港の開港を決めたため制限付きながらアメリカからのお客を迎え入れるようになりましたが、まだキリシタン禁制の高札が掲げられていたころで、浦上崩れなどのキリシタン弾圧事件のあった頃でした。英語教習所の教師として難を逃れたフルベッキは、1866年に佐賀藩が長崎に設けた藩校の一つで英語伝習所である致遠館の教師に選ばれ、この致遠館には佐賀藩士のみならず、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥後(熊本)といった各藩の志士たちが集まって来たのです。 <参照> ・ フルベッキの背景 (桃山学院大学 村瀬寿代: PDF / 本サイト) ・ 長崎におけるフルベッキの人脈 (桃山学院大学 村瀬寿代: PDF / 本サイト) (D-2)西郷が説いた「敬天愛人」 フルベッキと出会った西郷隆盛は、聖書を入手すると、それをよく読み人に教えてもいました。西郷が説いた「敬天愛人」という言葉の背景にあるのは、新約聖書マタイの福音書5章43から45節と言われています。
西郷隆盛が遺した言葉を集めた『南洲翁遺訓』には、次のようにあります。
ここに出てくる「天」という言葉は、聖書に出てくる神を表すもので、西郷隆盛の読んでいたのは漢訳聖書でした。幕末維新の武士たちが手にしたのは中国(当時は清の時代)の上海から渡来した漢訳聖書か、フルベッキら宣教師が持ってきた英語の聖書だったのです。 <参照> ・ 19世紀の漢訳聖書と 『 古新聖経』 について (関西大学 YU Yating: PDF / 本サイト) (D-3)神仏耶三教会同 時は1873年、キリスト教禁止の高札が撤廃され、キリスト教は当面黙認されることとなった。しかし、明治政府として、キリスト教の活動を公式に認めるのは、1899年(明治32年)のことであり、1912年(明治45年)2月25日神仏耶三教会同、翌26日には三教者協議会、28日には宗教家・教育家懇親会という三つの会合が開催された。この三教会同は、実質上キリスト教の公認を意味していたかに見えたが、内務省の狙いの重点はむしろ宗教家を社会事業に引き込むことにあった。 <参照> ・ 明治末年に現れた神仏耶三教会同と帰一協会の意義 (関西大学文学部教授 陶徳民: PDF / 本サイト) (D-4)札幌農学校 1872年(明治5年)、北海道開拓に必要な人材を養成する目的から、札幌農学校が、開拓使仮学校として東京・芝にある増上寺境内に設立され、1875年(明治8年)には札幌学校と改称、同年8月には札幌に移り、一年後札幌農学校と改称。クラーク博士(右図)は、一年間の起源で教師として赴任する。新渡戸稲造と内村鑑三は1877年(明治10年)札幌農学校生徒募集に応じ、第二期生として札幌に出発し、クラーク博士が札幌の地を離れ程なく第一期生たちからキリスト教が伝えられた。 (D-5)新渡戸稲造 1881年(明治14年)に札幌農学校を卒業してからの新渡戸稲造と内村鑑三の進路は大きく分かれた。稲造は、1884年(明治17年)アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学し、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。3年後ドイツのボン大学で農政学を研究、1891年にメリー夫人を伴って帰国した稲造は、母校の札幌農学校教授に就任し6年間教壇に立ちます。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。このカリフォルニアでの療養中に、名著『武士道』を英文で書きあげた。1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。 <参照> ・ 新渡戸稲造 | 新渡戸記念館 ・ キリスト教女子教育と近代日本文化 (東京基督教大学教授 湊晶子: PDF / 本サイト) (D-6)内村鑑三 一方の鑑三は、1883年(明治16年)安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って結婚した。しかし、半年後には破局して離婚。1884年(明治17年)失意の中にアメリカに旅立ち、知的障害児養護学校の看護人として働き、その後ペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。この頃米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師ジュリアス・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、理学士の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国した。 帰国した鑑三は、しばらくして植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)の嘱託教員となった。1891年(明治24年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。 1892年(明治25年)のクリスマスに鑑三(32歳)は、京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子(18歳)と結婚した。静子は穏やかでやさしい女性で、以後38年間内村鑑三の内助者になった。翌1893年1月に夫と共に教会学校を開催した。4月より熊本英学校の教師に就任した夫と共に熊本に行った。8月末にまた夫と共に京都に戻り、1894年(明治27年)より京都で日曜学校を再開した。同年3月19日に静子は長女ルツ子を京都で産んだ。鑑三の愛読する旧約聖書の「ルツ記」からとられ、ルツ子と命名された。 ルツ子は 1911年に実践女学校を卒業して、父鑑三が経営する聖書研究社の社員として働いていたが、その2ヵ月後に原因不明の難病を発症し、12月4日には医師から死の宣告が下された。その後、鑑三の頼みで東洋宣教会の笹尾鉄三郎が信仰を指導した。臨終の3時間前に、両親と共に聖餐式にあずかり、「感謝」「感謝」と言い、「もう行きます」という臨終の言葉の12分後に死去した。この時ルツ子は数え年19歳であった。その死は父内村鑑三に衝撃と大きな影響を与え、キリスト教会全体に波及する再臨運動の原動力となったのである。 1918年(大正7年)より再臨運動を開始された。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の「四重の福音」の一つとして “再臨” を強調していた。 運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、1919年(大正8年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。熱狂的な運動から身を引いた鑑三は終生再臨信仰を保ち、YMCAでの聖書講演会では再臨問題を度々述べていたという。こうして、内村鑑三は1930年(昭和5年)家族に見守られて死去した。 この時期にキリストの再臨運動が強調されたのは、第一次世界大戦を通して、西欧文明の破綻が明らかになり、科学の進歩や合理主義について深刻な反省が生まれてきたことによるのである。しかし、社会主義を批判し非戦論思想を説いた鑑三の思いに反して、1941年(昭和16年)には太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦された。 <参照> ・ 近代日本におけるキリスト教と国家神道 (同志社大学人文科学研究所客員研究員 麻生将: PDF / 本サイト) ・ 内村鑑三 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞 ・ 内村鑑三 -非戦の論理とその特質- (国際基督教大学名誉教授 千葉眞: PDF / 本サイト) B 十字架と平和思想 これまで見てきたように、イエスの十字架によって巻き起こった原始キリスト教の波は、イエスの異父兄弟である使徒トマスによって東回りで伝えられた。一方、シモン・ペトロの兄弟である使徒アンデレによって西回りとなって伝えられた原始キリスト教は、イギリスを経てアメリカへと伝えられます。 <参照> ・ 洗礼ヨハネと12使徒 イエスの十字架は、「アガペー(神の人間に対する愛)」をイエスが身を挺して表現されたこととされています。「アガペー」とはギリシア語で、“自己犠牲的な愛” を意味する。ヘブライの伝統を引く原始キリスト教の信徒たちは、後の教父たちがギリシア哲学(特にプラトン哲学)を援用したとはいえ、初期には、ギリシア的伝統や、ローマの伝統とは別の形で彼らの信仰を表現したいと考えたと思える。「アガペー」は家族愛のような意味を持ち、それ以外に、特に限定された強い用例のある「愛」ではなかったので、原始キリスト教の福音書記者たちやパウロは、この言葉を「神の愛」を意味する言葉に採択したと考えられる。
西暦1世紀の終わり頃書かれた外典『エズラ第四書』には、次のようなことが書かれている。
十部族が行ったという「アルザレト」とは、ヘブル語で「もう一つの土地」、あるいは「果ての地」、「最も遠い地」の意味とされ、その地は “日本” のことと考えられている。ここから見て取れるのは、イスラエル10支族が日本まで来たのは、彼らの意志と言うよりも、神の導きによるものであることが示されている。 さて、この10支族が日本に来て最初に成したことは、八百万の神々を容認し、キリスト教と融合した仏教を受け入れることであった。その上で記紀神話によって天皇を元首とし、国としての体裁を整えはしたものの、武士の台頭によって混乱を招き平和が失いかけたに見えたが、その中で “道”(人の従い守るべき正しいおしえ)としての精神的支柱は研鑽され、維新後に『武士道』が著されたのは自己犠牲的道(愛)であり、それをもって再臨運動が起こったのである。 <参照> ・ 海民の日本史1 (東洋大学国際地域学部教授 西川吉光: PDF / 本サイト) “神は愛なり” と言われるが、愛そのものは目に見えるものではなく、その表現によって顕示されるものであって、仏教における密教と顕教の違いもそうであると言える。パウロは、異教徒の神を “知られざる神” として容認して伝道し、回心に導いた。天皇の本質を『祭司的な王』とするのは正統なことであろうが、神はキリストをもってその愛を顕示されたのであるから、そこに向かおうとする伝統的精神を切磋琢磨するのが何よりも大切なことである。内村鑑三の平和思想は、それを土台として提唱されたのである。
<参照> ・ 武士道:日本人の精神を支える倫理的な礎 ・ 日本の伝統精神とは、「誠の道」「日に新た」「素直な心」の3つにあり ・『キリスト教と天皇(制)』 (星城大学教授 加藤知子: PDF / 本サイト)
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