復帰摂理歴史の真実

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■ 1. 幕末以後の日本
     c. 征韓論について


吉田松陰


吉田松陰 文政13年8月4日 (1830年9月20日)〜 安政6年10月27日 (1859年11月21日

 文政13年 (1830年) 8月4日、萩城下松本村で長州藩士 ・ 杉百合之助の次男として生まれます。天保5年 (1834年、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となりますが、天保6年 (1835年 に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。11歳の時、藩主 ・ 毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められると、松陰の名声は萩中に広がっていくのです。

 嘉永3年 (1850年) 8月、九州へ旅に出ると、海外情報を集めていた平戸藩には50日も在住し、8年前、中国がイギリスに敗れたアヘン戦争につき記した 『阿芙蓉彙聞』 を熱心に読み、書き写しています。資本主義を確立した欧米列強が市場を求め、強引にアジアに進出して来ることに、松陰は強い危機感を抱きました。

 次に嘉永4年 (1831年) 3月、軍学稽古のため江戸行きを許されると、さらにその足で東北地方の防備視察に出かけ、萩に帰着したのは嘉永5年 (1832年) 5月のことでした。

 嘉永6年 (1833年) 6月3日、アメリカのペリー率いる黒船4隻が江戸湾浦賀沖にあらわれ、幕府に開国を迫りました。このアメリカの態度に憤った松陰は、敵情視察のアメリカ密航を企てたのです。安政元年 (1854年) 1月、ペリー艦隊が再来すると、3月27日松陰は下田沖に停泊中だったペリー艦隊に小舟で近づき、連れ帰って欲しいと頼みます。しかし、アメリカ側はこれを拒否し、松陰は捕らえられ、江戸の伝馬町獄に投じられてしまいます。

 幕府は半年ほど伝馬町獄に繋いだ後、萩に送り返されましたが、長州藩はかえって恐縮し、松陰を野山獄に投じたのです。1年2ヶ月の在獄中、松陰は500冊以上の書籍を読み、さらにアメリカの獄制にヒントを得て、獄中教育を行ないました。“” とは更正施設の 「福堂」 と考えて、囚人相手に 『孟子』 や 『日本外史』 を論じたり、俳句の会も催しました。

 安政2年 (1855年) 12月獄を出た松陰は親元である松本村の杉家に帰り、謹慎生活に入ると、父や兄、親戚の者を相手に 『孟子』 を講じ始めました。やがて近所に住む、主に下級武士の子弟たちが、松陰の教えを受けに集まって来るようになりました。3畳半の幽囚室は手狭になり、庭の物置小屋を改築して塾舎としたのです。こうして松陰が主宰する 「松下村塾」 が始まりました



 吉田松陰と久坂玄瑞との接触は、久坂17歳の安政3年 (1856年) 5月、久坂が自分の時局に対する考えを述べた手紙を、松陰のもとに送りつけて来たのが最初で、久坂は幕府がペリーの恫喝に屈して開国したことを非難し、アメリカの領事ハリスを斬るべしと主張しました。これに対し松陰は、「上っ面だけで思慮が浅く、至誠から発せられた言ではない」 と打ちのめし、世の中の悲憤梗概を装い、名利を求める連中と変わらぬとも非難しました。

 これには、久坂も激しく反論しました。しかし、しょせんは実践を伴わない大言壮語。地に足が着いていなかったと思い知らされた久坂は、やがて松下村塾の門を潜ったのです。実は松陰は最初から久坂を期待し、大成させたい思いから徹底的に打ちのめしましたが、“防長年少中第一流” と評し、自分の末妹フミを嫁がせています。



 高杉晋作16歳の安政元年 (1854年) 2月、江戸に赴くと黒船騒動を体験し、時世に強い関心を抱きます。藩校明倫館の形骸化した学問では飽きたらず、19歳の時、松陰の門を潜りました。高杉のようなエリートは、欠点を指摘すればかえってをまげ、逆効果になりかねないとみた松陰は、高杉がライバル視している久坂を晋作の眼前で誉めました。面白くない高杉は、ひそかに猛勉強を始めると、学問はめざましく進み、議論は卓越したものとなりました。



 松陰は、ひとりひとりの個性を見抜きながら、的確な指導を行なった結果、松下村塾は2年ほどの間に100人近くを数える塾生となりました。

<幕末>
 高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿入江九一寺島忠三郎杉山松介松浦松洞有吉熊次郎赤禰武人時山直八駒井政五郎

<明治>
 前原一誠伊藤博文山縣有朋山田顕義野村靖品川弥二郎

など。



 松陰は父の影響を受け、熱心な皇室崇拝者でした。嘉永6年 (1853年) 10月、はいじめて京都を訪れた際、勤王詩人の梁川星巌から、「時局多難なおりから、天皇が大変心を痛めておられる」と聞かされ、新鮮な感動を覚えた松陰は、「神」が黒船来航といった生々しい政治問題に関心を抱き、日本の将来を案じていると思って、藩の大学山県太華に、「天下はひとりの天下なり」と主張しました。すべての民は天皇の臣なのだと説いたのですが、これに対して山県は、大名は将軍の臣であり、松陰の思想は過激で危険だと注意しました。

 松陰は士の心得を説いた 「士規七則」 の中で、「志を立てて以って万事の源と為す」 と語り、志を立てることが人生のすべての始まりとしました。松陰の志とは、「聖賢天皇の志を存して忠孝の志を立て、国威を張り海賊外敵を滅ぼす」 ため働くことでした。

 ところが、幕府は安政5年 (1858年) 6月19日、井伊直弼が孝明天皇の勅許がないままに、自由貿易の骨子とする日米修好通商条約に調印し、つづいてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に同様の条約を結びました。これに対し、天皇は退位を口にするなど激怒し、松陰は 「征夷将軍は天下の賊なり、今を措きて討たざれば、天下後世これ吾を何と謂わん (後の人たちから何と言われるだろうか) 」 と幕府を激しく非難しました。

 こうして松陰は、井伊の下で反対派の弾圧を進める老中間部詮勝を暗殺すべく、門下生17名と、藩に武器弾薬の貸し付けを願い出ました。松陰は純粋なだけに、ひとたび自分が信じる 「正義」 にのめり込むと、歯止めが利かなかったのです。

 暴走する松陰を危険視した藩は、嘉永6年(1853年)暮、松陰を野山獄に投じました。獄中で松陰は、「伏見要駕策」 を練りました。これは、藩主の参勤の駕籠を伏見で待ち受け、攘夷派の公卿と結びつけて、京都で勅を手に入れ、幕府の非を突いて改革を進めようというものでした。

 やがて、幕府が進める安政の大獄に連座した松陰は、江戸に送られますが、これを自分の所信を幕府に伝える好機会と考えていました。

 安政6年 (1859年) 6月25日、江戸に到着した松陰は、伝馬町の獄に投じられ、10月16日の審理で、松陰は死罪を覚悟せざるをえなくなり、10月27日、伝馬町獄の刑場で斬首に処せられたのは享年30歳のことです。



 晩年、松陰が唱えたのは 「草莽崛起論」 です。草莽とは、藩の進路決定には参加できない足軽などの下級武士のことで、そうした者たちが力を合わせ、大名や公家といった権力者に頼るのではなく、世の中を変革せよと説きました。松陰の門下生の大半は下級武士であり、悲嘆に暮れる門下生は、松陰の志を継ぐ決意を固めたのです。




征韓論

 征韓論は、日本の明治初期においての、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張です。日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を 「三韓」 と呼び、国学思想においては朝鮮半島を下に見る思想がありました。日本では江戸時代後期に、国学水戸学の一部吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと 『古事記』 ・ 『日本書紀に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられました。さらに幕末期には、松陰勝海舟橋本左内の思想にその萌芽をみることができます。

 慶応2年 (1866年) 末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔「征韓論」 の記事を寄稿し、清 ・ 朝鮮の疑念を招き、その後の日清 ・ 日朝関係が悪化した事件がありました (八戸事件)。また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾シャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていました。

 そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、大日本帝国で朝鮮半島の征服が初めて朝議に上がったのは、明治元年 (1868年 のことでした。その頃、新政府は戊辰戦争で戦った 「官軍」 の置き場所に困っていました。新政府は彼らを正式な兵士として採用することは考えておらず、必然的に官軍の大半は失業することになっていました。そうなれば、彼らは新政府に牙をむく恐れがあったため、新政府は 「官軍」 を朝鮮に派遣してしまおうと考えました

 当時、朝鮮はまだ開国しておらず、明治新政府との国交も樹立していなかったので、朝鮮に対して日本は、対馬藩を介して新政府発足の通告国交を望む交渉を行いますが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮か拒否しました。当時の朝鮮は、欧米諸国との間で摩擦が生じていたため、いち早く開国して欧米化していく日本のことを警戒していたのです。

 明治3年 (1870年) 2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣しましたが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白しました。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年 (1872年) 1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派遣しました。

 朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれました。ここに、日本国内において征韓論が沸騰すると、明治6年 (1873年) 6月、朝鮮から森山茂が帰国した後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられました。

 参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張しました (征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として、自らが朝鮮に赴くというもので、むしろ 「遣韓論」 でした)。この西郷使節派遣に賛同したのが板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣桐野利秋大隈重信大木喬任らであり、反対したのが大久保利通岩倉具視木戸孝允伊藤博文黒田清隆らでした。

 岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことは大久保らの態度を硬化させました。大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まりましたが、翌日この案を上奏された明治天皇は 「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」 という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで (岩倉の帰国は9月13日) 待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下しています。

 大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される (殺されずとも大院君が使節を拒否した場合は開戦の大義名分になってしまう)、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる (その帰結として戦争を遂行する) だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場清との琉球帰属問題台湾出兵)、ロシアとの樺太と千島列島の領有権問題イギリスとの小笠原諸島領有権問題不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えました

 10月には収拾に窮した太政大臣三条実美は病に倒れました。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定されました。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野征韓論政変または明治六年政変) し、明治7年 (1874年 の佐賀の乱から明治10年 (1877年西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となりました。

 しかし、その2年後、日本は結局、朝鮮に兵を差し向けることになります。明治8年 (1875年、未だに開国していなかった朝鮮に対し、英米の意向も受けた日本は軍艦3隻を派遣して威嚇し、開国させようとしました。軍艦3隻のうちの雲揚号9月20日に江華島の砲台と交戦し、翌日、陸戦隊を上陸させ軍民を殺傷、城塞に火を放ちました。この事件を口実にして、日本は黒田清隆を全権大使として朝鮮に派遣し、開国を迫ったのです。翌年2月26日、朝鮮は日本の要求をのみ、日朝修好条規に調印しました。

 この日朝修好条規は、朝鮮での日本人に対する裁判権を認めないなど、不平等な内容の条約でした。日本は、ペリー来航時に欧米からされたことをそのまま朝鮮に行なったのであり、またこの日朝修好条規には、「朝鮮は自主の国」 と明記されていました。これは、朝鮮を清の支配から切り離すための布石だったのです。



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