復帰摂理歴史の真実

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幕末と東アジア <トップ> 開国と大日本帝国の建国精神

■ 1. 幕末以後の日本
     a. 黒船来航と開国前


黒船来航と不平等条約


教科書には載っていない大日本帝国の真実
   武田知弘 著
   彩図社

<内容>
 19世紀末のアジアに突如現れた謎の国、大日本帝国。
 その国はまたたく間に中央集権体制を作り上げ、富国強兵のスローガンのもと、怒濤の勢いで成長を続けた。
 そして誕生からわずか30年で、当時、アジアの盟主の座に君臨していた清国を打倒。
 その10年後には、ヨーロッパ最強の陸軍を有する大国ロシアをも打ち破ってしまった。
 大日本帝国は、いかにして作られ、成長し、そして倒れていったのか。



黒船、ペリー艦隊の来航


マシュー ・ ペリー (1794年4月10日〜1858年3月4日)

 ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれます。

 1809年に自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加します。

 1833年ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進しました。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得ました。

 1846年米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進しています。

 蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられ、海軍教育の先駆者とされています。



 嘉永6年6月3日 (1853年7月8日、アメリカのペリー提督が率いる黒船が三浦半島の浦賀沖に来航しました。黒船は江戸湾 (東京湾) の測量などを始めると、空砲を撃ち鳴らすと、初めて見る巨大な黒塗りの蒸気船に大パニックに陥りました。

 幕府は、オランダの情報であらかじめ黒船がくることを知っていました。しかし、幕府の内部には危機感を抱く者が少なくありませんでした。

 以前のように、断ると大人しく帰っていったのと同じだろうと考えていたところ、ペリーはそうではありませんでした。断れば一戦も辞さずの覚悟で乗り込んできたのです。

 ペリーは日本の開国を求める大統領親書を持ってきて、幕府の下級役人がそれを受け取りにいくと 「もっと上役を出せ」 と言って譲りませんでした。それどころか、身分の高い役人がこなければ、兵を率いて上陸し、将軍に直接渡しに行くとまで言っていました。

 結局、幕府はペリー一行の浦賀への上陸を許し、浦賀奉行に親書を受け取らせました。その際の会談で親書の返事は一年後に決めると、ペリーは去っていきました。

 ペリーが帰った後、幕府は対応を協議し、外様大名や民間の有識者にも意見を求めましたが、結局方針は決まりませんでした。とりあえず、ペリーの再来に備えて東京湾沿岸に砲台を築き、海外に軍艦を注文するのが精一杯でした。

 ペリーは日本を去った後、立ち寄った香港で病気療養中だった将軍家慶の死を知り、幕府が跡継ぎの問題で混乱する中、安政元年一月、約束の期日より半年も早く、不意をついて再来しました。


不平等条約の締結

 一ヶ月にもわたる協議の末、幕府は日米和親条約を締結しました。幕府はこの条約によって、下田と箱館を開港。さらにその4年後、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫を開港 (下田は封鎖) し、貿易の自由化を認めました。

 大老井伊直弼が朝廷の勅許を得ることもなく、独断で条約を結んだ幕府には任せておけないと、条約を破棄せよという声がわき上がってきました。幕府はそれらの反対派を弾圧して、1,000名以上が処罰された安政の大獄を引き起こします。

 しかし、反対派の声はますます勢いを増し、やがて幕府を倒し、新たに天皇を中心とした国家を作り上げようとした 「尊王攘夷運動」 が起こりました。



日米和親条約

第一条
 「日本と合衆国とはその人民永世不朽の和親を取り結び、場所 ・ 人柄の差別これなき事」
 → 条約名に 「和親」 が冠せられているのはこの第一条も基づく。

第二条
 下田と箱館を開き、薪炭 ・ 食料 ・ 欠乏品の供与。

第三第四第五第十条
 遭難海員・漂流民の保護を定め、下田か箱館で返還する。

第二第六第七第八条
 欠乏品の取引方法を具体的に定めた。

第九条(片務的最恵国待遇)
 日本政府が、アメリカよりも有利な待遇を他の国の外国人に与えた場合、即時に同様の待遇をアメリカにも与えるという趣旨。
 → これは日本側が不利で一方的に結ばれました。いわゆる不平等条約です。これが先例となって、その後、イギリス ・ ロシア ・ オランダとの条件にも同じ条項が入ることになりました。

第十一条
 下田に領事館を駐在させること。

第十二条
 批准書交換を約束したもの。

 1854年3月3日調印。5月22日、下田で条約付録十三カ条を調印しました。そのためこれを下田条約ともいいます。



日米修好通商条約

 安政3年 (1856年 日米和親条約の中には、日本国内にアメリカ公使を常駐させるという項目があり、これにのっとってタウンゼント・ハリスが開港場となった下田に来日しました。

 この来日から1年あまり後、ポーツマス号というアメリカ軍艦が下田に来航し、この武力を背景に、ハリスは江戸城に登城して13代将軍家定に謁見して、アメリカ大統領の親書を上奏しました。その後、幕府は海防目付・岩瀬中震と下田奉行・井上清直を交渉役に命じ、具体的な条約交渉が始まりました。

 翌安政5年 (1858年) 4月、、井伊直弼が大老に就任。その直後に中国では、アロー号事件が決着し、イギリスから押しつけられた屈辱的な天津条約を、清朝が受け入れました。6月13日、アメリカの商船が香港から下田に来て、この情報を伝えました。

 続いて軍艦ポーハタン号も来航すると、ハリスは、この武力と中国情勢を背景に、即時調印を迫ったのです。中国沿岸に集結していたイギリス艦隊がヨーロッパに帰る際に、日本に立ち寄り、不利な通商条約を押し付ける可能性があるので、先にアメリカと通商条約を結んでおけば、イギリスに対する調停役を勤めるとハリスは約束しました。

 岩瀬中震と井上清直は、これを受けて江戸城で大老・井伊直弼に日米通商条約調印の許可を迫りましたが、勅許のない条約を結ぶことには反対だった井伊直弼も、彼らに言い負かされる形で調印を認めてしまいました。そして、ついに横浜近くの小柴沖に投錨していたハリスと、駆けつけた岩瀬と井上は1858年6月19日、ポーハタン艦上で日米修好通商条約に調印しました。

 これに続けとばかりに、イギリスフランスオランダロシアと通商条約が結ばれて、安政の五ヶ国条約と呼んでいます。

 勅許なしで新たな条約が結ばれたため、攘夷派の幕府批判派はエスカレートし、井伊は反対勢力を次々と処分して安政の大獄に発展しました。




薩英戦争と倒幕

薩英戦争


島津久光 (文化14年10月24日 (1817年12月2日) 〜 明治20年 (1887年) 12月6日)

 文化14年 (1817年 に10代藩主島津斉興の5男として鹿児島城本丸で生まれました。母は側室の由羅で、異母兄弟の斉彬と、斉興の後継を巡って嘉永朋党事件お由羅騒動) が起こりました。幕府の介入もあって、嘉永4年 (1851年 斉興が隠居し、斉彬が第11代薩摩藩主となりました。

 安政5年 (1858年) 7月一橋派の中心となって活躍した斉彬が急死した後、、久光の実子である忠義が後継藩主となると、斉興の死後、久光は幕府から国父の称号を得て、西郷隆盛大久保利通を中心とする下級藩士の政策集団である 「誠忠組」 を取り込み、家老に小松帯刀を抜擢して国事周旋の準備を整えました。

 文久2年 (1862年) 4月、久光は1,000人もの武装兵を率いての上京を決行し、亡兄の斉彬の遺志を継いで国政に乗り出しました。藩士でもない無位無官の久光が武装兵を大挙率いて中央政権に登場して以降、幕末政局の中心的存在となっていきました。

 これを契機に、舞台は江戸から京都に移行し、朝廷の権威が急激に浮上し、尊王志士が息を吹き返して王政復古を志向し、幕府への対決姿勢を強めました。



 文久2年 (1862年) 4月16日、入京した久光は近衛邸に参殿して建白を行ないました。

 率兵上京の趣旨は、将軍家300年来の厚恩に報い、亡兄斉彬の遺言である公武合体の実現のためであると述べ、幕閣の横暴と尊王志士の陰謀を阻止し、朝廷の権威の回復に尽力したいという強い決意を示しました。

 建白そのものは、公武合体朝廷権威の振興幕政改革の実現を目的としたもので、中でも、安政の大獄時の処分者の復権、関白大老後見職などの人事改変による朝廷幕府改革が主な要求でした。

 文久2年 (1862年) 4月23日寺田屋事件孝明天皇の絶大なる信頼を得た久光は、6月7日江戸に到着すると、大原勅使と共に悲願である一橋慶喜松平春嶽の登用を執拗に求めました。
 7月6日一橋慶喜は将軍後見職に、9日には松平春嶽が正式に政事総裁職に任命されると、久光はそのまま江戸にとどまり、幕政改革の要求を、自分が登用を促した慶喜・春嶽に突きつけました。

 その内容は、

@ 幕府において対外方針を審議した上で、春嶽が上京して奏請 (天皇に申し上げて、その決定を求めること。) すること。

A 老中は慶喜・春嶽と忌憚なく国政を評議するように努めること。

B 内政を外政より重視すること。

C 安政5年以来の国事犯を大赦し、井伊大老のの協力者を処罰すること。

D 朝廷を尊崇し待遇改善を実行すること。

などでした。中でも、久光が最も期待を込めたのが参勤交代の緩和妻子の国許居住手伝普請の廃止による諸侯の負担軽減でした。

 これにより、海防強化を全国規模で実現することを目指し、外国との応接に関して、外様大名を含む8大名を任命することを求めて、雄藩の幕政参加を志向しました。




 久光も攘夷派でしたが、一方的に通商条約を破棄することは、外国に侵攻の口実を与え、武備不十分の現状では勝ち目がないとの現実的な判断がありました。

 攘夷実行に慎重なはずの薩摩藩でしたが、8月21日、江戸での周旋を終えた久光一行は、京都に戻る途中で英国人4名と出くわしました。英国人らは乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことから、奈良原喜左衛門らは無礼討ちとして斬りかかり、英国商人リチャードソンを殺害、女性を除く他2名にも重軽傷を負わせました。

 この生麦事件以降の薩摩藩は、犯人の逮捕・処刑や賠償金を強く求める英国の動向に大きな制約を受けることになったのです。

 英国艦隊による報復攻撃の脅威のため、久光は中央政局からの離脱を余儀なくさせられ、度重なる上京の命令ににもかかわらず、久光は鹿児島にとどまらざるを得ませんでした。

 英国は生麦事件に関して幕府に談判を強要し、文久3年5月に賠償金を支払わせ、その余勢を駆って、英国公使代理ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、自ら艦隊を率いて鹿児島に向かったのです。

 薩摩藩は総動員体制に入り、寺田屋事件処罰者の謹慎も解かれ、7月2日五大友厚寺島宗則らが乗船する薩摩藩の汽船が拿捕されたことを契機に、薩英戦争が勃発しました。

 英国は、脅せば薩摩藩は簡単に屈服すると考え、十分な戦闘準備を怠り、開戦当初から暴風雨のため思うような操縦が叶わず、その損害ははなはだ大きく、旗艦ユーライアラスの艦長・副長を含む死者13人、負傷者50人に及びました。艦隊も大破船が出るなどほぼすべての艦船が何らかのダメージを被りました。

 一方、薩摩藩は戦死者こそ5人程度でしたが、艦砲射撃によって鹿児島城の一部、集成館、鋳銭局を始め、民家約350戸、藩士屋敷約160戸が焼失しました。

 久光は英国との戦争をこれ以上継続することは困難と悟り、過激な攘夷行動に走る長州藩に牛耳られて、天皇親征が実現直前の中央政局を打開するために、英国との講和談判を急ぎ、11月幕府から借用した賠償金を支払い英国と妥結しました。

 戦争を契機に薩摩藩と英国は接近し、パークス公使を鹿児島に招待して歓待し、15名もの留学生を英国に派遣するなどの友好関係を築き、倒幕の際には大きな後ろ盾になりました。

 その後、久光を警戒した慶喜との対立から、幕府と距離を置き、中央政局では小松帯刀を名代とし、大久保利通や西郷隆盛が薩摩藩を代表して、久光の意に沿う国事周旋に活躍することとなります。


薩長同盟

 @ 長州藩

 長州藩は、関が原の戦いにおいて不完全燃焼のまま、敗者同然の処分を受け、徳川への怨恨を抱くことになります。

 長州藩は、徳川への復讐を悲願としながら、徳川との共存を強いられました。江戸後期になると、他藩と同じように商人からの借金の増加により、藩財政は破綻状態に陥ってしまいます。借金の総額は百万両以上に達し、利息の支払いのために借金を重ね、その総額は鼠算式に増加していきました。

 天保8年 (1837年毛利敬親は長州藩主に就任すると、その翌年には、村田清風に全権を一任し、藩財政の抜本的な改革にあたらせました。

 村田の先進的な改革路線により、長州藩が雄藩として動乱期に活躍する活躍する基礎体力を整えていくなっかで、村田の流れを汲む改革派と保守派がありましたが、最終的には保守派が改革派によって壊滅させられ、桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞などの若き志士たちが明治維新を達成する原動力となりました。


 A 薩長同盟


 薩長同盟は徳川幕府の第一次長州征伐第二次長州征伐の間の時期に結ばれました。元治元年7月19日 (1864年8月20日、第一次長州征伐とされる禁門の変では、天皇の住まいである御所に銃を向け、朝廷の敵とされた長州藩に幕府が兵を送りました。長州藩では保守派が藩の実権を握り、幕府に謝罪して、責任者として3人の家老を切腹させるなどの対応を行い、実際には戦いは行われませんでした。その後、長州藩内で高杉晋作や桂小五郎がクーデターを起こして政権を握りました。

 この時期はまた、イギリス公使のパークスが先頭に立ち、イギリスフランスオランダアメリカ4ヵ国連合艦隊長州に攘夷砲撃の報復戦争下関戦争 1863年〜1864年) を実行した時期でもあります。

 京都朝廷、特にその利害関係に最も敏感だった岩倉具視は薩摩藩と手を結ぼうとし、慶応2年の時勢にあっては、幕府、京都朝廷、長州藩、薩摩藩四者四様の利害関係がからみ、そこへ日本進出をたくらむイギリスとフランスの競合関係も加わって事態はきわめて錯綜していました。

 「この年5月上旬、坂本龍馬がたまたま鹿児島より大宰府に来て、桂小五郎に面会して薩摩の事情を述べ、長州と薩摩が助け合うことの利益を説いた。土佐藩浪士の坂本龍馬・中岡慎太郎は、長薩の両雄がたがいに争うのが大局的に不利と察し、双方の和解を切に願った。桂は心中では坂本らの意見に賛成だった。しかし、長人の薩人に含む所があることは久しい。当時、桂は和解の事などうっかり口にできる空気ではなかった。」 (『防長回天史』)

 元治元年 (1864年) 7月蛤御門の変の時、あと一歩で宮中に突入しかけていた長州勢を阻止したのは薩摩藩の砲火でした。それに対して、長州は兵士が弓槍を用いて不利を招いたことを知り、咽喉から手が出るほど欲しかったのは新式の銃一万挺と蒸気船でした。

 そこに飄然として現れた坂本龍馬中岡慎太郎は、薩摩藩と仲介の労を取り、薩摩藩の名義を借りて銃砲汽船を購入させると請け合いました。

 「長州の四方面の国境はみな敵国である。しかし薩摩は天下のため我が国を受け入れようと言う。その言葉がもし真実ならば銃を長崎で調達しようと思う。」 (『防長回天史』)

と、桂は腹を割ってありのままに現状を語り、確かめたところ、龍馬たちは承諾し、小銃7,000挺・蒸気船1隻の購入に成功しました。



 慶応2年 (1866年) 2月5日、京都薩摩藩邸で、西郷隆盛) と小松帯刀坂本龍馬の三者が会談し、薩長両藩が和解し攻守同盟を結ぶ旨の約定が成立しました。当日は口約束だけでしたが、翌日桂が文章化しとものでは6ヵ条から成り立っています。



 長州では高杉が、薩摩では西郷が “封建割拠” を唱えていました。“封建割拠” とは、徳川幕藩制度を無視して藩が半独立国家化し、勝手に外国と交易してしまえという主張です。


 B 長州征伐

 慶応2年 (1866年) 4月14日、薩摩藩建白書。

 「幕府が長州に寛大な処分をという朝意に反して再征するというので、喧々囂々の議論が起きています。征伐は天下の重典・国家の大事と申します。後世の歴史に恥じないような大義名分が立ち、声を大にして非を鳴らさなくても、おのずと四方が呼応するほどでなければ至当の戦いとはいえません。古来 『兵は凶器なり』 の戒めもあり、兵力はみだりに動かしてはなりません。近年は世論の力も大きいから、無名の兵を起こせないのはもとより、内乱は極力避けるべきものであります。幕府といえば世を安穏に保つのが御職掌なのに、先頭に立って乱を発するとはいかなることか。天理にもとる戦いは、大義によって支持しがたく、たとえ出兵の命令があっても止むを得ずご辞退申し上げます。」


 薩摩藩の出兵辞退で長州包囲網の一角にヒビが入った幕府は、平和交渉を無視され続け、さんざん翻弄され、威信に関わると戦争を始めざるを得なくなり、再度の開戦 (第二次長州戦争) に引きずり込まれてゆきました。

 慶応2年6月7日、長州に攻め込んだ幕府軍を待ち受けていたのは、当時最新鋭のミニエー銃 (左図) を装備し、数度の内戦と対外戦争で鍛えられた騎兵隊を初めとする諸隊でした。関が原同然に法螺貝ブウブウで攻めかかった幕府軍は連戦連敗でした。

 かくして幕府軍が全面的に不利にあるなか、慶応2年7月12日、14代将軍徳川家茂が20歳で死に、8月21日、幕府は家茂の死を口実に休戦へ持ち込みました。



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