復帰摂理歴史の真実

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黒船来航と開国前 <トップ> 征韓論について

■ 1. 幕末以後の日本
     b. 開国と大日本帝国の建国精神


大政奉還

 慶応3年 (1867年、土佐藩出身の志士、坂本龍馬らが幕府に自発的に政権を返上させる大政奉還案」 を提案します。

 欧米がアジアを侵攻するとき、あからさまな武力攻撃をすることはほとんどありませんでした。まず力ずくで国交を認めさせると、その国は混乱し、内戦が起こります。その内戦につけこんで侵攻していくという手法をとりました。

 は、1840年アヘン戦争無理やり開国をさせられて以降、国が混乱し、1850年には国家的規模の内乱太平天国の乱」 が起きました。この内乱につけこまれ、清の主要都市である上海は、事実上欧米列強の手に渡りました。その後も、「割譲」 や 「租借」 を繰り返され、国土は虫食い状態になってしまったのです。( 「アヘン戦争とイギリス植民地化政策と中国」 参照)

 幕末の日本にもそういう情報が入り、坂本龍馬らは、内戦を起こさずに、幕府を倒そうとしたのです。


坂本龍馬  (天保6年11月15日 (1836年1月3日) 〜 慶応3年11月15日 (1867年12月10日)


 天保6年 (1836年) 11月15日、土佐国土佐郡上街本町一丁目 (現在の高知県高知市上町一丁目) の土佐藩郷士 (下級武士) 坂本家に父・八平、母・の間の二男として生まれました。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭でした。

 安政元年 (1854年) 6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国すると、龍馬は中伝目録に当たる 「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」 を取得し、日根野道場の師範代を務めました。また、ジョン万次郎を聴取した際に 『漂巽記略』 を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎長岡謙吉らを紹介されています。

 文久2年 (1862年) 12月9日松平春嶽から幕府軍艦奉行勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助、近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となりました。

 慶応3年 (1867年) 1月13日、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は 「海援隊」 と改称しました。

 龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録ですが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、慶応2年 (1866年) 8月14日には松平春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていました。

 慶応3年 (1867年) 6月9日、龍馬と後藤象二郎は藩船 「夕顔丸」 に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かいました。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春獄、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていました。龍馬は 「夕顔丸」 船内で政治綱領 (船中八策) を後藤に提示しました。

一、政権は朝廷に返還し、今後の政権運営は朝廷がおこなう

一、上下二つの議会を設け、議員による公議で何事も決定する

一、能力のある人材を取り立てて、能力がないのに門閥だけ職についている者を取り除く

一、外国と広く交際するべし、外国との条約は新たに締結する

一、古来の国の仕組みを参考にしながら、新しい国家制度を作る

一、充実した海軍を作る

一、首都を防衛する新兵を設置する

一、外国との貿易の際には、金銀の交換価値を一定にする       (現代文意訳)

 第一条が特に重要で、龍馬の考えでは徳川家がみずから政権を手放すかわりに、新しく樹立される政権にも一候補として参加する権利が与えられています。徳川を存続させながら倒幕が実現するという策でした。

 また、龍馬は議政という議会を設置し、身分の別け隔てなく能力のある者を取り立てるべきだとし、海軍を拡張して天皇直属の軍隊を作ることなど、後の明治新政府の骨子となるような提案をしています。

 この船中八策は、龍馬がすべて考え出したわけではなく、各地の有識者を訪ね歩き、案を練り上げたものです。

 この策に飛びついた後藤は、すぐに国許の容堂に提案し快諾を得ました。



 慶応3年 (1867年) 11月15日、龍馬は京都河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階に宿していました。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けています。

 午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来ると、従僕の藤吉が取次ぎましたが、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入りました。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死状態でした。龍馬満31歳享年33) のときの事です。


薩土盟約



 慶応3年6月22日 (1867年7月23日、薩摩代表の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と、土佐代表の後藤象二郎、福岡孝弟寺村道成真辺栄三郎、それに有志代表として坂本龍馬、中岡慎太郎が出席し、京都三本木の料亭で会談が行なわれ、「薩土同盟」 が結ばれました。

一、政治の全権は朝廷にあり、国の制度や法は京都の議事堂から出るべきである

一、議事院は諸藩からの費用供出で成り立つ

一、議事院は上院と下院に分け、議員はさまざまな身分の中から選挙し、諸侯も職によって上院にあてる

一、徳川慶喜は将軍職を辞して、政権を朝廷に返すべきである

一、外国との条約は外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行なう

一、朝廷の制度を刷新する

一、議事にあたる者は公平無私を貫き、円満に議論を行なうべきである

 以上が、「薩土盟約」 の内容です。



 慶応3年 (1867年) 7月6日イカルス号水夫殺害事件イギリス軍艦 「イカルス号水夫暗殺一軒 宮永孝 参照) の容疑が土佐藩にかけられ (無関係であったことが判明) 日がたってしまった8月29日、前土佐藩主山内容堂は、重臣たちを集めて、大政奉還を幕府に建議することを宣言しました。

 これに対し、西郷ら薩摩藩は独自に討幕のため兵を挙げるといったため、後藤象二郎は、幕府に提出するための建白書の作成を急ぎました。

 建白書は山内容堂の名で本文がしたためられ、後藤象二郎ら四重臣が別紙を書いたという体裁の建白書で、坂本龍馬の 「船中八策」 とはいくぶん異なってはいましたが、10月3日幕府に提出されました。


王政復古の大号令


 慶応3年 (1867年) 10月13日夜、御所に招かれた大久保利通は、念願の薩摩藩あての 「討幕の密勅」 を武力倒幕派の公卿岩倉具視から授けられました。翌14日には長州藩に対しても 「討幕の密勅」 が授けられました。

 慶喜は大政奉還後も徳川家の立場は尊重されるものと思い、新しく樹立されるであろう天皇を中心とする公議政体に、徳川も参加するつもりで、13日の午後には一歩早く慶喜が大政奉還を宣言すると、翌14日朝廷に上表され、15日には承認の返答が下されました。

 しかし、「討幕の密勅」 を手に入れた武力倒幕派は、大政奉還がなされても朝廷側には新政府を発足させる準備が整っていませんでした。この状況を変えようと岩倉具視、西郷隆盛らによって 「王政復古の大号令」 が決行されました。慶応3年 (1867年) 12月9日朝、倒幕派の公卿と、薩摩、土佐、広島、福井、尾張の5藩の代表者が御所に集合し、反対派を排除した上で、日本古来の天皇中心の国家への復帰が宣言されました。

 その日の夜、御所内の 「小御所」 に関係者が集められ、会議が行なわれました。主な議題は徳川家の処遇問題でしたが、当事者である慶喜は呼ばれていませんでした。その席で岩倉は、これまでの徳川の失政を並べ立て、「慶喜が罪を反省し、自責する心があるならば、すみやかに内大臣の官位を辞退し、400万石の所領を返上して、その実を示すべきである」 と主張しました。小御所会議での岩倉側の主張が通って、慶喜に辞官、納地を求めることが承認されました。


戊辰戦争


 辞官、納地と進退に窮した慶喜は、徳川慶勝と松平春嶽の勧めで、事態の推移を見守るためいったん大坂へ下りました。慶応3年 (1867年) 12月12日松平容保松平定敬を従えて二条城を出発し、翌日には着坂し、大坂城に入城しました。

 大坂城に引きこもった慶喜にのあかない西郷は、新政府のほうから手を出すわけにはいかず、慶喜をいまく挑発して挙兵させ、戦争で決着をつけようと考えていました。

 そして12月25日、たび重なる浪士たちの悪事に我慢しきれなくなった旧幕府方の庄内藩士らが、報復のために三田の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が起こりました。ここに至り、大坂城内は一気に沸きかえり、旧幕臣や、会津、桑名の藩兵が薩摩を討つことを主張し、その勢いは誰にも止められないものとなってしまいました。

 開戦やむなしと慶喜も決意を固め、京都を牛耳る薩摩を討伐することを宣言すると、「討薩の表」 をしたため、京都の朝廷に提出しようと数千の軍勢を出発させることにしましたが、朝廷がそれを受け入れてくれるはずもありませんでした。


鳥羽伏見の戦い

 慶応4年 (1868年) 1月3日新政府軍と旧幕府軍が武力衝突する鳥羽伏見の戦いが勃発しました。この戦いを皮切りに、一年半にわたって繰り広げられた内乱を戊辰戦争といいます。

 最新の戦法を用いた新政府軍と、3倍の兵力を擁した旧幕府軍の死闘は激しく続けられましたが、薩摩の砲撃によって、伏見奉行所はついに夜中に炎上してしまい、これ以上の布陣は不可能とみた新撰組土方歳三は、午前3時頃、兵を淀方面へ引き上げさせ、鳥羽伏見の戦いは、新政府軍が旧幕府軍を圧倒する展開となりました。

 1月4日、新政府軍から奥羽征討総督に任じられて出陣した仁和寺宮の陣中に、「錦旗」 (左図) が立てられました。この旗のために、戦況は一気に新政府軍の優勢に傾き、それまでどちらにつくか態度を決めかねていた諸藩が、賊軍となることを恐れ、新政府軍の傘下に入ったのです。

 1月5日、譜代の淀藩が態度を変化させ、旧幕府兵の入場を拒否し、1月6日には、津藩が突然寝返り、味方であったはずの旧幕府軍を攻撃するなどの事態を受けて、同日、旧幕府軍は撤退し、慶喜は、まだ兵士たちが戦場で戦っている最中に、軍艦に乗って江戸へ逃げ帰ってしまいました。


江戸城無血開城


 徳川家の大奥には、新政府軍と関わりの深い二人の女性がいました。

 ・ 篤姫 (13代将軍家定の妻、前薩摩藩主・島津斉彬の養女)
 ・ 和宮 (14代将軍家茂の妻、孝明天皇の妹)

 彼女たちは、この徳川家最大の危機にあたり、それぞれの実家にあてて、徳川家の救済を嘆願する書状をしたためました。

 慶応4年 (1868年) 3月中旬

 篤姫の嘆願書を携えた侍女幾島が薩摩藩の西郷隆盛に面会。
 和宮の侍女土御門藤子が東海道先鋒総督・橋本実梁に、もう一人の侍女玉島が東山道先鋒総督・岩倉具定に面会。




 陸軍総裁・勝海舟は新政府軍参謀の西郷隆盛に使者を送り、江戸総攻撃の前に会談を持ちたいと申し入れました。勝にとって西郷は旧知の仲でしたが、敵味方に分かれたため、交渉の行方は予断を許さない状況でした。勝は交渉が決裂したときのため、新政府軍が江戸に進攻すると同時に、市中に火を放ち、敵の進路と退路を寸断するという作戦を準備していました。

 3月1314の両日、三田の薩摩藩邸で勝と西郷の会談が行なわれ、西郷は勝の要望を受け入れ、次のような結果が交わされました。

一、慶喜は隠居の上、水戸で謹慎すること

一、江戸城を明け渡し、尾張徳川家の預かりとすること

一、軍艦や武器はすべて新政府軍に引渡し、後日、徳川家の処分が決まったのちに相当分だけ返すこと

一、江戸城内に住む幕臣たちは城外に出て謹慎すること

一、これまで新政府軍に抵抗した者たちについては、寛大な処置を行なうこと

一、今後、新政府軍に抵抗する者があれば、徳川家が鎮圧し、手に負えなければ新政府軍が討伐すること

 慶応4年 (1868年) 4月11日江戸城は開城となり、最後の将軍慶喜は城を出て水戸に隠退しました。幕臣たちの多くはこれに従い、慶喜を警護しながら水戸におもむきました。

 その後、あくまでも新政府軍に抵抗しようとする旧幕府勢力と、北関東、会津、箱館などで戦争となりましたが、明治2年 (1869年) 5月、箱館で旧幕府脱走軍が降伏したことで内乱は終結しました。明治新政府は本格的な門出を迎えることとなりました。




大日本帝国の建国精神と明治の改革

 坂本龍馬は船中八策のほかに、新政府の組織についても具体的な提案をしています。「新官制議定書」 というもので、その中で政府の官職や人数までも提示していました。この 「新官制議定書」 は龍馬が公卿の家人だった尾崎三良から、旧来の朝廷の官職制度を聞き取って作成したものです。

 大政奉還直後の明治新政府は、「新官制議定書」 にほぼ即した形でつくることになりました。


五箇条の御誓文

 「五箇条の御誓文」 は、慶応4年 (明治元年) 3月14日 (1868年4月6日 に明治天皇が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、建国の根幹にある考え方です。

 この 「五箇条の御誓文」 は、福井藩士の由利公正が原案を出し、土佐藩の福岡孝弟が修正し、岩倉具視、木戸孝允 (桂小五郎) などが手を加えて作られたものです。

一、国の事は何事も国民の意見を広く集め、会議によって決める

一、身分が高いものも低いものも心をひとつにして国力を充実させる

一、役人、軍人、庶民すべての国民が、おのおの志を遂げられるように、人生が嫌になるような人が出てこない世の中にする

一、昔からの悪い習慣は改めて、合理的、人道的な世の中にする

一、知識を世界に求め、大いに国威を振るう                               (現代語訳)

 この御誓文には、当時、世界最先端の思想が織り込まれていました。後年なりますが、第二次大戦後、天皇が 「自分は現人神ではない」 と宣言した 「人間宣言」 の中でもこの五箇条の御誓文が次のように用いられています。

 「(これからの日本は)五箇条の御誓文の趣旨に立ち返り、官民を挙げて日本の復興に力を注がなくてはならない。」


版籍奉還

 明治維新では特権階級である武士が、自ら身を切って大胆な改革 「版籍奉還」 を断行しました。「版籍奉還」とは、幕府や大名の領地をすべて没収し、国に返還するというものですが、真の中央集権を作るためには、政権が朝廷に返された、というだけでは足りません。各地に散らばった藩主という存在をどうにかしなければならなおため、藩を解消し藩主と領地という制度を消滅させるというものです。

 戊辰戦争が終結すると、薩摩藩の大久保利通や長州藩の木戸孝允が中心となって、明治2年 (1869年、土佐藩や肥前藩にも働きかけ、薩長土肥の4藩主連名で、「版籍奉還」 の上表を朝廷に提出し、藩の領地を返還し、諸藩にも 「版籍奉還」 を勧告しました。

 薩長土肥の4藩は、政府内で幅を利かせるなど内々の特権は持っていましたが、藩制度や身分制度などで表だった 「特権」 は決して作りませんでした。


廃藩置県

 版籍奉還の後、旧藩主たちは、そのまま藩の最高官である 「知藩事」 に任命され、藩主の身分は保障されていたので、各藩は版籍奉還に同意したのです。しかし、この 「知藩事」 という職は世襲制ではありませんでした。藩主の特権を急にすべて取り上げると反発が大きいため、段階的に取り上げようとしたのです。

 次に行なったのは 「廃藩置県」 です。江戸時代の 「藩」 は、経済的にも政治的にも独立しており、ほとんど 「国」 と同じ形態でした。幕府は 「藩」 を指導したり、「藩」 から財を徴収することはありましたが、「藩」 の運営そのものには手出ししませんでした。

 「廃藩置県」 は、明治4年 (1871年) 7月14日、薩摩の大久保利通や長州の木戸孝允を中心に行なわれ、、天皇の親兵として東京に置かれた一万の兵力を背景として詔勅が発せられました。この瞬間に、270年続いた各藩による封建制度が一挙に解消し、中央集権国家が誕生したのです。

 当時のアジア諸国の大部分は、国を代表する中央政府のようなものを持っていましたが、その統治は不十分で、各地には中央政府の支配を受けない豪族や軍閥が点在していました。欧米列強はそこに目を付け、一部の勢力を支援するなどして内戦を起こさせ、それに乗じて侵攻するというパターンが多かったのです。日本は幕末から明示にかけて一時期の内戦状態には陥ったものの、それをすぐに収束させると、これまでにない中央集権体制の政府を作り、「廃藩置県」 でひとつの国としてまとめることに成功し、西欧列強につけいる隙を与えなかったのです。



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