復帰摂理歴史の真実

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島原の乱とキリシタン禁制 <トップ> 幕末と東アジア

■ 2. キリシタン禁制と寺請制度
     j. 寺請制度と隠れキリシタン


寺請制度と宗教 (仏教) 弱体化

 1623年徳川家光が第三代将軍に就くと、幕府の諸制度は完備され、キリシタン弾圧も徹底的に組織化されました。

 イギリス東インド会社が東南アジアでオランダ東インド会社との競争に敗れ、インド経営に専念することになると、1623年平戸イギリス商館は閉鎖され、日本から撤退しました。翌1624年、幕府がスペインと国交断絶し、対外貿易を一手ににない危険なキリシタンを排斥するために鎖国体制を固めていきました。

 1639年にはポルトガル船の来航が禁じられ、1641年には平戸のオランダ商館は長崎の出島に移転させられました。

 日本中の教会や修道院はすべて破壊され、当時日本に滞在していたイエズス会員115人中89人フランシスコ会員10人中4人ドミニコ会員9人中2人アウグスチノ会員3人中2人教区司祭7人中2人追放されています。その他の宣教師たちは、日本の各地に分散して潜伏しました。

 しかし、追放された宣教師たちは禁教令下の日本に再潜入しました。1615年から43年の間に日本に戻ってきた宣教師は101人に上っていますが、その多くは各地で捕らえられ、一部の棄教者を除いて殉教を遂げています。


五人組と寺請制度

 徳川幕府は鎖国政策を、島原・天草の農民一揆 (前ページ) を契機に一気に完了させ、キリシタン取り締まりは全国規模で行なわれました。

 宣教師たちは、封建領主や知識層などと接触をはかり、上からの布教を進めました。他方、地域住民や都市の貧民などに対しては、教育事業や社会福祉的な活動に取り組んだことによって、幅広い社会層から信者を獲得していきました。

 幕府が禁教政策を実施すると、キリシタンは三通りの立場を採りました。

@ 棄教あらゆる階層)。
A 追放殉教組織によるキリスト教の継承領主や武士層)。
B キリスト教を継承農民などの民衆 隠れキリシタンとなる。

 キリシタン弾圧の中で生き残ったキリシタンは、背教するか、地下に潜伏するか、二つに一つの道を選ぶしかありませんでした。

 背教した者は、本人も類族も 「類族改」 制度によって毎年厳しい殉教者一族監視を受け続け、地下に潜伏した者は、全国に掲げられた懸賞訴人の高札 (キリシタンを見つけた者に懸賞金を与える制度)、五人組連座制による相互監視と密告往来手形 (仏寺の檀徒であることと旅行目的を書いた証明書) などによって取締りをうけ、踏絵 (絵踏)、寺請制度など数々の検閲制度に順応することを強いられました。

 キリシタンたちの誰かが死んだ場合、檀那寺の僧が来て読経し、死体にキリシタン的なものがないことを確認してから、その立ち会いのもとに納棺しました。キリシタンも表面上はどこかの寺の檀徒になっているため、宗門人別改帳は踏絵の台帳ともなって、戸籍の役目を果たしていました。



 この様な制度や政策によって、寺院は社会的基盤を強固なものにしました。しかし、一方では仏教の世俗化が進んだのです。

 これらは寺院の安定的な経営を可能にしましたたが、逆に信仰や修行よりも、寺請の主体となった末寺は本山への上納などの寺門経営に勤しむようになりました。

 寺院では、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなったのです。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化すると、本来の宗教活動がおろそかとなり、また僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていくなど汚職の温床にもなりました。

 新規寺院建立の禁止も、廃寺の復興といった名目で行なわれ、末寺を増やしていくこととなりました。 「家」 「祖先崇拝」 の側面が先鋭化すると、本来の仏教の教えは形骸化して、今日に言われる葬式仏教に陥ったのです。

 いずれにせよ、このような寺院の強権的な立場や、民間信仰 (祖霊信仰) とのより強い混合などによる寺院の堕落は制度ができた当時から批判があり、それらは明治の廃仏毀釈に繋がっていくことになったのです。




隠れキリシタン


宣教師の見た日本 ―キリシタン時代の資料をもとにして― 』 駒沢大学講師 柳堀 素雅子

マリア観音と天草の隠れキリシタン信仰 ―サンタ・マリア館所蔵資料を中心に― 』 沈 薇薇


カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容 』 宮崎賢太郎 著 吉川弘文館


 激しい弾圧に耐え、仏教を隠れ蓑としてキリシタンの信仰を守り通してきたとされる “隠れキリシタン”。しかし、彼らが今日まで大切に伝えてきたものはキリスト教ではありませんでした。

 長崎県各地の現地調査を通して、オラショ (祈り) や諸行事に接し、彼らが370年余り祈り続けてきたものが本当は何だったのかを探り、日本民衆のキリスト教受容の実像に迫る。





  宣教師の伝道とその理解

 <参照> フランシスコ ・ ザビエル

 ザビエルは少しポルトガル語を理解することができたヤジロー (アンジロー) に、聖書や祈りの文句を翻訳させました。しかし、キリスト教の専門用語は仏教用語を用いて翻訳するしかありませんでした。

 たとえば、「キリシタンの教え」 のことは 「キリシタン仏法」、天国を意味する 「パライゾ(paraiso)」 は 「極楽」、キリスト教の唯一絶対なる神 「デウス(Deus) 」 は、仏教の諸仏の中でもっとも宇宙を司る性格を持つ 「大日如来」 と翻訳しました。

 ザビエルが黒い僧服を着て、「キリシタン仏法」 を大切に思い、街頭で 「大日如来」 を拝めと説教したということは、仏教の布教をしていたことになります。ザビエル一行のことが 「西域より来朝の僧」 と書かれるなど、キリシタンは西域からやってきた 「天竺宗」 という新たな仏教の一派と認識されていたため、その後ザビエルは 「大日を拝んではならない」 と反対の説教をすることとなり、翻訳すると原意が誤解されるような言葉は、原語であるラテン語やポルトガル語をそのまま用いることにしました。

 翻訳をして 「大日を拝め」 と言えば仏様を拝めということになり、原語を用いて 「デウスを拝め」 と言えば、デウスとは何か、仏様とどう違うのか、納得がいくように説明せねばなりません。仏様を偽りの神として捨てさせ、キリシタンに改宗させるには、仏教に対する深い理解が必要となってきます。

 異なる文化、異なる思想、異なる宗教といった抽象性の高い問題について、相互理解をし合う際、その当時、言語の壁というものがどれほど高い障壁となったかは想像に難くありません。



 さて、民衆がキリスト教に出会った場の一つに、宣教師の医療活動がありました。相次ぐ戦乱で財産を失った農民は、京都や山口などの都市に集まると、傷つき病める彼らに治療を施したのはキリスト教の宣教師たちだったのです。民衆はそこでキリスト教と出会いました。

 ミゼリコルディア (医療活動などに取り組んだキリスト教の組織) やコンフラリア (共済的性格を持ち、キリシタン迫害下で信仰を守るための組織) などの組織によって病人を訪問して世話をし、食べる物のない人たちに炊き出しをしました。


  キリシタンの拡大と “日本の情 忠孝の源” の是非


 日本におけるキリシタンの布教事業をになったイエズス会は、新たな土地において布教を行なう際の基本方針を二つ定めました。

一、量的拡大を最優先し、質的深化は改宗後の課題とする。
   (まずは洗礼を授けて信徒となし、その後、時間をかけて少しずつ質を深めていく)

二、上層から下層への改宗を基本方針とする。
   (まずは武士や大名のようなトップを改宗させる)


 この二つの布教方針は功を奏し、キリシタン大名の領内では、家臣団、領民はほとんどキリシタンとなりました。領主は自分の領国の住民をすべてキリシタンとすべく、家臣団や領民はもちろん、仏僧に対してもキリシタンへの改宗を進め、拒む者は領内から追放し、寺を没収して教会として宣教師に与えました。その最大の動機は、南蛮貿易のような経済的、政治的な関心からでした。

 「日本人は領主たちの命令によって改宗を行なったのである。そして領主たちは、ポルトガル船から期待される収益の為に、彼らに改宗を命じたのである」

ヴァリニャーノ著 『日本巡察記』 松田毅一他略


 「神の道を開くには、まず浮世の欲望を満足させて誘惑しなければならない。」

宣教師フロイス


 「私が大村に来る二、三年前にこの殿は全民衆にキリシタンになること、もしそれを希望しないならこの領内を出て行くことを通知し、命令した。それだから私が大村に来たときにはすでに全領民がキリシタンであった。しかし彼らはキリシタンの諸事についてはただ洗礼を受けるのに必要なこと以外には何も知らなかった

ヨゼフ・フランツ・シュッテ編 『大村キリシタン史料―アフォンソ・デ・ルセナの回想録』 佐久間正他略


 弱小戦国大名として生き残るためには、キリシタンとの密接な関係を築き、南蛮貿易による莫大な経済的利益を得て軍費を賄う必要がありました。日本におけるキリシタン改宗者の大部分は、経済的な利益の関心から改宗したキリシタン大名による強制的な集団改宗によって生まれました



 a) 宣教師の殉教

 殉教録の多くは宣教師の手によって書かれ、ポルトガルやスペインなどの本国に送られたものです。その記録には、自分たちの布教の成果として、日本のキリシタン信徒や同僚の宣教師らが迫害、拷問にも屈せず、雄々しく信仰のために命を捧げたと感動的に記しています。

 1614年、宣教師の国外退去が命じられたにもかかわらず日本に残留し、また一度国外退去した後に、再び迫害下の日本に潜入した宣教師たちの目的は、日本信徒の世話をするためでしたが、個人的には死を恐れずというよりは、むしろ殉教したくてそのような行為に及んだ確信犯といってもいいでしょう


 b) 一般信者の信仰

 その当時、殉教者は100%天国への道が約束されていると言われていました。当時の人々にとって、天国は魅力的なところとして画かれ、キリシタンはこれまで接したことのない、まったく新しい、来世における魂の救いを中心とする絶対的一神教としてではなく、慣れ親しんできた日本古来の神仏より一層強力な、南蛮渡来の何でも願いを叶えてくれる頼りがいある助っ人として受け止められました。

 キリシタンとなる以前には、神符、経典の一節、神仏の小さな像などをお守りとして身に着けて出陣していましたが、受洗後は代わりに十字架、メダイ、ロザリオ、聖遺物、聖人の名や聖書の一句などを書いた御札などを護身符として、それらを熱心に宣教師に求めました。

 お守りを身に着けていれば鉄砲の弾は当たらず、勝利を収めて無事生還できるであろうという日本人の伝統的な呪術的信仰には何の変化もありませんでした。

 キリストのためではなく、武士としての己の名誉を守るために道を選び、農民や漁師などの民衆層は領主の命に従い、キリシタンがいかなるものか十分にわからないままで受洗しました。

 キリシタンに改宗するために仏像、仏壇、位牌、数珠、御札、お守りなどを捨てねばなりませんでした。彼らは宣教師に対して、それらにとって代わるキリシタンの奇跡を起こす呪術的な信仰対象を求めました

 このように目の前で命がけで自分たちのために働いてくれている、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為御恩と奉公) であり、共同体の強い精神的絆と、先祖や家族との信仰の結びつきからキリスト教徒は異なった日本独特の “隠れキリシタン” として変化していきました。

 潜伏したキリシタンたちは、伝承した物と儀式の伝統を異常に重視しながら、指導する宣教師のいない長い年月とともに信仰の精神はうすれ、変質していきました。

 彼らの家の中では、仏像にキリストやサンタ・マリアなどの名をつけて、奥座敷には仏壇を、居間には神棚を、床の間には天照大神の掛軸を、竈 (かまど) には荒神様を、井戸には水神を、戸口には御札をというように、仏も神も民間信仰も一緒に祀られていました



 さて、当時のキリスト教経典を翻訳することに難を極め、言語のまま用いられたことによって高い壁ができ、宣教師の活動や領主の勧めによって入信した一般領民が深い智恵と広い知識をもって、キリスト教に対する正しい理解を持つということは極めて難しいことでした。

 細川ガラシャでさえ(「細川ガラシャとおたあジュリア」参照)、経典を入手して理解することは大変な労力と時間を要したのです。

 こうした中で禁教令が施行されると、宣教師は不在となり、領主の棄教や追放などで指導者を失った農民や漁師などの民衆は、結束すると同時に他宗教を取り入れて身を潜めて生活するよりありませんでした。

突然として指導者を失った一般信者は、その理解や批判に対する努力の程度に応じて徒党を組んで様々な行動をとったことが、当時の主権者には脅威となって、ますます厳格な監視体制を敷いていくことになったのです。

 なぜ邪教と批判されるのか理解に苦しんだ一般の信者らは、先祖代々から受け継がれてきた慣習や記憶を頼りとしていくしか術がなかったのです。しかしながら、やがてそれも形骸化され、形式だけの異質なものになってしまいました。

 この様なことの本質は、キリスト教に対する理解不足と、それに対する批判に目を背けて独善的な行動を続けてきたことにあると言えましょう。

 こういう点から、我々は、新しい立場で我々自身を見直し、また批判しなければなりません。統一教会を指導している者もそうでなければならないし、また指導者のあとをついて行く皆様もそうでなければなりません。我々はこの目的のために生き、この目的のために死ななければならないのです。あらゆる努力をこの目的のために集中させなくてはなりません。

(「御旨と世界」55頁3行〜6行、『生涯において何をなすべきか』より)



  拡大する監視とキリシタン迫害

1614年、有馬地方。
       44人 (殉教)。

1619年、京都。
       52人 (火刑)。

1622年、長崎の西坂。
       55人 (火刑25人、斬首30人)。

1623年、江戸。
       50人 (火刑)。

1627年、雲仙。
       16人 (温泉の熱湯をかけられ殉教)。

1657年、「大村郡崩れ」。
       603人が捕縛 (無罪99人、406人斬罪、78人牢死、20人永牢)。

1660年、「豊後崩れ」。
       220人が捕縛 (57人死罪、59人牢死)。

1661年、「濃尾崩れ」発生。
1665年、207人 (処刑)。
1667年、756人 (処刑)。
1669年、33人 (処刑)。

1805年、「天草崩れ」。
 四ヶ村5,000人余りのキリシタン発覚。数の多さのためキリシタンとしては扱わず、心得違いの異宗徒として踏絵を行い、改心誓詞を差し出させて無罪赦免。

1856年、「浦上三番崩れ」。

1867年、「浦上四番崩れ」。
       浦上一村3,400人余り、西日本各地に流罪。

  「崩れ」 とは、密告によって父祖伝来のキリシタンの神を拝む人々が集団的に存在することが露見し、取り調べの結果、一網打尽的に捕らえられ処分された事件のこと。



 キリシタン史の初期から明治時代のキリスト教解禁1873年) までの殉教者数、氏名が明らかなものだけで4,045人を数え、記録に残らない殉教者の数まで入れると延べ4万人に上るといわえれています。



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