復帰摂理歴史の真実

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■ 1. 幕末以後の日本
     d. 岩倉使節団


岩倉使節団

岩倉使節団

岩倉使節団の航路 (NHK動画)
その時 歴史が動いた 〜岩倉使節団 世界一周の旅〜 (YouTube 動画)



 岩倉使節団は、1871年 (明治4年) 末より約1年10ヶ月をかけて米欧12ヶ国を歴訪しました。

 使節団の大きな三つの目的は、第一条約締盟国への表敬訪問で、新生国家日本を代表する使節団として元首天皇の国書を携えての友邦歴訪であり、第二は政治的な目的で、幕府から継承した不平等条約の将来に向けての下準備であり、現今の条約 (1858年に締結された五カ国との修好通商条約) では、1872年7月1日以後条約を改正できることになっているので、条約更新の期限を延ばすべく、列強から同意を取り付けておく必要がありました。

 第三の目的は極めて実質的なもので、先進米欧諸国の実際を明治政府の最高権力者たちが自身の目で見て、その近代化の必要性を認識し、その秘訣を学び取ってくるというものでした。



<岩倉使節団>
特命全権大使 正二位 岩倉具視 (外務卿・右大臣を兼務)
副使 従三位 木戸孝允 (枢密顧問官)
 〃  〃 大久保利通 (大蔵大臣)
 〃 従四位 伊藤博文 (公共事業の次官)
 〃  〃 山口尚芳 (外務次官)

 らを首脳陣としての使節46名随員18名留学生43名と留学生を含む総勢107名で構成されました。



  1. アメリカ

 岩倉使節団 ―岩倉大使の条約改正交渉― 宮永 孝 (PDF 当サイトダウンロード本サイトダウンロード

 明治4年11月12日 (1871年12月23日、太平洋郵船会社のアメリカ号で横浜を出帆し、同年12月6日 (1872年1月15日 サンフランシスコに入港すると、時の人となり、訪問者と会ったり、歓迎レセプションなどの出席のため多忙をきわめました。合衆国政府が日本使節団の経費支払いのため5万ドル予算措置を構じるなどのもてなしを受けました。

 同月22日 (1月31日 サンフランシスコを発し、明治5年正月21日 (1872年2月29日 ワシントンに到着しました。当地の日刊紙 『ザ ・ ディリ ・ モーニング ・ クロニクル』 の記事には次のようなものがありました。

… 日本政府が合衆国政府から公正に扱われることから “旭日の国の人々” は、アメリカ国民の徳義と力とを心に刻み込まれた。日本人はアメリカ人ばかりか、とくに条約条項のすべてに全幅の信頼を置いている。宗教もまた大いに顧慮せねばならぬ要素である。大部分の日本人の頭の中には、1852年にペリー提督を日本へ運んだ艦がキリスト教とキリスト文明の種をまいたのだといった考えがある。このすばらしい考えを助長し、培うのが今当地に着いた使節団の主要目的の一つでもある。

明治5年 (1872年
 1月25日 (3月4日グラント大統領の引見を受け、国書を奉呈
 2月3日 (3月11日、条約改正に関する第1回目の日米会談が国務省にて行なわれる。

 使節に与えられた交渉権の範囲は、条約改正についての日本側の考えを相手国に伝え、使節らが帰国後正式に会談する際の手段とすることに限られていましたが、日本使節は海外事情に暗かったため、勢い開明進歩派と目された伊藤博文・森有礼 (代理公使) らに乗ぜられ、各市で大歓迎を受けたり、新聞でもてはやされるうちに得意になって自信を持つようになり、勅旨に反する行動となる、条約改正を協議して新条約に漕ぎ着こうとしました
 しかし、交渉の手続き上の重大なあやまりがあることを米国側から指摘され、第4開会談後、急きょ大久保・伊藤の両副使を帰国させることに決めました。

 使節団は、米国に検討してもらいたい七項目を指摘します。

一、日本政府は自由裁量により関税を定めることとする

二、戦時における局外中立を規定する一条を条約の中に入れる

三、日本が合衆国ならびにヨーロッパ諸国の最上の法典に基いて国法を制定したときには、領事裁判所ならびに裁判権を規定する条項を定める

四、通貨に関する規定を改める

五、逃亡犯罪人引き渡しの条項を条約の中に加える

六、外国軍隊の日本上陸を禁じる

七、日米両国がゆゆしい事態に立ち至ったとき、武力行使もしくは戦争に訴える前に常に平和的解決に努めるといった条項をもうける

 2月5日 (3月13日第2回会談が国務省で行なわれた。アメリカ側から条約改正の十ヶ条が提示されました。

一、現在未開の港となっている所に外国船が交易を行なうために入港することを許すこと。
 入港は入港料を支払い、免許証を交付されたのち許される(現行の入港料は一回の航海ごとに払っている)。
 定期的もしくはひんぱんに往復する船舶の場合は、通年の免許状を差し許すこと。

二、灯台および港税
 正当な料金を設け、どの船舶もトン数に応じて入港税を支払うものとする。日本政府は灯台の整備に努めること。港税は日本政府ならびに各国代表が一緒に定める。

三、条約規程のこと。とくに長崎における遊歩規程を拡大すること。

四、内地を旅行し日本人と貿易を行なう権利。
 この権利は守らねばならない。各国領事は通行証を発行し、それに大臣の査証をもらう。

五、外国人は貿易ができる全ての町とそこから一定の距離内において、条約規程のわく内で不動産を人に貸したり、所有したり、占有できるものとする。
 外国人は政府ならびに日本人より不動産を入手し、それを外国人もしくは日本人へ譲渡できうるものとする。

六、日本人はどんな職種であれ外国人に雇われ、また条約規程のわく内および開市の地において外国人を雇い入れることを自由とする。

七、日本人と外国人との間の商取引において、直接もしくは間接の制限を設けず、また免許状により格別の許可を与えざること。
 開港場に持ち込まれたる物品には、いかなる関税もかけざること。
 この条の趣意は、規則正しい、均一の税制に口出しするものではなく (税制はいずれ設けられ、一定期間帝国内の同一の全ての物品から広く税を取り立てることであろうが)、開港場の近くで貿易品に対して地方税もしくは特別税がかけられることを防ぐためである。

八、いかなる国から輸入するにせよ、輸出入税は均一であること。
 密輸は一切阻止されねばならぬ。

八、地方 (居留地) 規則
 ある制度を設ける場合には、外国代表が単独で行なうか、あるいは日本官庁と合同で行なうものとし、居留地のために外国人居留者より徴収される均一の税は、警察制度の維持税の取り立てが行なわれる町や開港場の衛生監理などのために使われる。

九、言論・出版・信教の自由を認め、宗教上の意見、礼拝に対して寛大であること。
 信仰故に迫害せざること。宗教上の象徴あるいは儀式に対してどんな侮辱をも加えざること。もし個人がそうした侮辱を加えたときには、処罰を受けるものとする。

十、他国の政府および人民に与えた特権もしくは貿易上の利益は、合衆国とその人民にも同等に与えられること。

 2月8日 (3月16日第3回会談が行なわれる。
 2月10日 (3月18日第4回会談が行なわれる。

 条約改正予備交渉の第4回会談で、信教の自由の規定を条文に盛り込むかどうか議論が行なわれましたが、日本側は、信教の問題は通商とは関係ないと主張しました。米国側は、信教の自由が保障されなければ自由に交渉できない外国の宗教を侮辱することは外国人を侮辱することであると反論しました。( 「歴史公文書研究サイト 『ぶん蔵』」 参照)

 しかし、翌明治6年 (1873年 には、岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、キリスト教禁止令は解かれました

 2月12日 (3月20日大久保、伊藤両副使が急きょ帰国し、条約改正交渉の全権委任状を取りに帰国
 2月19日 (3月27日第5回会談が行なわれる。
 3月8日 (4月15日第6回会談が行なわれる。
 3月15日 (4月22日第7回会談が行なわれる。
 3月24日 (5月1日、大久保、伊藤の両副使が東京に到着。
 5月3日 (6月8日第8回会談が行なわれる。
 5月17日 (6月22日、大久保、伊藤の両副使は再びアメリカに向けて横浜を出帆。

 東京の留守政府は、岩倉一行が本来の遣使目的を超えて、条約改正交渉を続けることに強硬に反対しました。

 6月5日 (7月10日第9回会談が行なわれる。
 6月15日 (7月20日第10回会談が行なわれる。
 6月17日 (7月22日第11回会談が開かれ、交渉は不調に終わる

 大久保、伊藤の両氏はこの日の朝ワシントンに戻りましたが、会談には参加できませんでした。

 イギリス代理公使フランシス・アダムズとドイツ公使マックス・フォン・ブラントが、使節団のアメリカ滞在が伸びると、歓迎準備をしていた欧州諸国に対して礼を欠き、もし日本が合衆国と条約を結んだら、最恵国条項により日本がアメリカ側にしたすべての譲歩を請求し、また日本が米国から得られる譲歩を日本に与えることに同意しないといい、片務的最恵国条項を振りかざし、改正交渉を止めるようにいいました。日本側は、「最恵国条項」 なることばを聞くのは初めてのことだったのです。

 6月19日 (7月24日、ホワイトハウスにグラント大統領を訪れ、決別の辞を告げました
 7月3日 (8月6日、イギリスのキューナード会社の郵船オリンパス号でイギリスへ向かいました。


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  7. ロシア

 岩倉使節団とロシア宮廷の謁見儀礼 坂内智子 (PDF 当サイトダウンロード本サイトダウンロード


 徳川日本政府は、1860年遣米使節団に続き、1862年に幕臣で下野守の竹内保徳を正史とする竹内使節団文久遣欧使節) をヨーロッパの条約締盟国に送って、江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港の延期を認めさせ、さらにロシアでは北方領域 (樺太) における日露の国境確定交渉を行なわせました。ロシアを訪れた最初の日本使節団は岩倉使節団よりはるかに厳しい政治的責務を担っていました。

 ロシアは、クリミア戦争の敗北により専制国家の威信と財政に大きな陰りをみせ、国内の産業や社会体制の後進性が明白となり、あらゆる面において抜本的な改革が必要とされていた頃でした。アレクサンドル2世は竹内使節団訪露の前年、懸案の 「農奴解放令」 を断行しますが、発布後短期間には効果が期待できず、むしろ反動的な側面が強く見ら現れ、農民の間に強い不満と不安を呼び起こし、各地で騒擾が続発する中、皇帝は有能な政治家、官僚に恵まれて次々に改革に着手していました。

 竹内使節団は皇帝に手厚くもてなされたのですが、難航する国境画定交渉に40日もの間露都に滞在することとなりました。

 その後幕府は、慶応2年 (1866年) 10月樺太国境画定交渉遺露使節団小出秀実を代表正使としてロシアへ派遣しました。ロシア留学生を伴なった使節一行は10月12日にフランス客船で横浜を出発し、マルセイユ経由で12月12日にペテルブルグ到着しました。ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見後、ロシア全権の外務省アジア局長ストレモウホフ慶応3年 (1867年) 1月2日から2月7日まで8回の交渉を行うが不調に終わり、日露間樺太島仮規則に調印しました。この条約は両国民の混住状態を認めるもので、かえってロシアの南下を招くものとなったのです。



 岩倉使節団は1873年3月17日明治5年 (1872年) 12月旧暦から新暦に変わります) の夕刻に、鉄道でドイツからロシアの国境を越え、ロシア側の国境駅であるヴィルジボロヴォ (現在のリトアニア共和国のヴィルバリス) でロシア皇室差し回しの皇族用車両に乗り換え、一路首都サンクト・ペテルブルグへと向かいました。

 1873年3月18日夜、ペテルブルグに着いた使節団は3月22日ロシア皇帝の謁見式があり、岩倉使節団が訪問した9つの君主国のなかで、唯一国会も憲法も持たず、皇帝による専制独裁の、宗教的にも君主が最高聖職者の上に立つ国でしたが、最高ランクの待遇で受け入れられました。


8. デンマーク 〜 9. スウェーデン 〜 10. イタリア 〜 11. オーストリア 〜 12. スイス 〜



 明治6年 (1873年) 6月29日、最後の訪問国となったスイスのジュネーブを訪れますが、7月9日政府より直ちに帰国せよとの電報を受けると、7月20日フランスのマルセーユより仏汽船 「アウア号」 乗船し、帰国に向かいました。

 帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地 (セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等) への訪問も行われましたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなりました。

 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年 (1873年) 9月13日に、太平洋郵船の 「ゴールデンエイジ」 号で横浜港に帰着した。


お雇い外国人

 お雇い外国人とは、西洋の優れた文化や技術、知識を学ぶために、日本が招致した専門技能を持つ外国人のことで、開国後の日本は、国の近代化のために、ありとあらゆる知識や技術を欲し、その声に応える形で来日しました。軍事や産業、交通、学術などの分野で日本人に知識や技術を教えたのです。

 お雇い外国人の雇用が活発化したのは、明治維新以降になってのことで、明治元年 (1868年 から明治22年 (1889年 までに政府や民間に雇われたお雇い外国人は、国籍が分かっている者だけで2,600人を超えます。20世紀初頭まで範囲を広げると、およそ1万人近くのお雇い外国人が日本で働きました。

 一方でその報酬の高さが問題となりました。たとえば、明治8年頃、右大臣をつとめた岩倉具視の月給は600円 (現在の価値に換算すると、約600万円) でしたが、お雇い外国人の中には大臣クラスの月給をもらう者もおり、中には1,000円を超える超高給取りもいました。富岡製糸工場の初代首長だったポール・ブリューナも高額報酬を受け取ったひとりで、工場の日本人職工の年俸が75円だったのに比べて、ブリューナの年俸は9,000円だったといわれています。



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