聖母マリアと独生女論の誤り |
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■『原理講論』の曖昧さとキリスト教神学の欺瞞が生んだ独生女問題
5. 聖母マリアの虚像 1. 民間信仰とマリア <参照> ・ 信仰の対象となったマリア (敬和学園大学国際文化学科 古俣貴彦 / 本サイトPDF) (1) 月の女神 なぜ “月の女神” なのか。この月と対比されるのが太陽である。それは、光として発する「輝き」と「エネルギー」とを象徴している。つまり、豪華絢爛とした力強さではなく、優雅であるとともに、生命を生み殖やす豊穣の女神として “月の女神” と表現したのである。 これに対して、文先生の “夜の神” と “昼の神” の概念は「夜」は全く光のない暗闇であり、昼は煌々と太陽に照らされた明るい様を表現している。この夜の期間は天地創造以前、天地創造後の期間を昼として表している。前者は「唯一絶対で不変」の神様であり、後者は神様の「愛の永遠性」を表している。もちろん神様は、御独りなる神であられるが、文先生は唯一なる神様を二つの側面から表現されたのである。 この様な観点から、二性性相であられる神様を、“月” に象徴される男神と、“太陽” に象徴される女神としてみることができる。 では、なぜヤコブの子であるヨセフは、夢に現れた日と月を父と母に解釈したのかと言えば、ヨセフがエジプトの神話に影響されていたことを示している。 <参照> ・ ユダとタマルの内的摂理完成と外的摂理 @ ギリシャ神話のアルテミス ギリシア神話に登場するアルテミスは、ギリシア先住民族の信仰を古代ギリシア人が取り入れたもので、月の女神とされ、神話では狩猟・貞潔の女神である。古くは山野の女神で、野獣(特に熊)とかかわりの深い神であり、その神像は人身御供を要求する神であった。 a)エペソスのアルテミス崇拝 エペソスは、トルコ西部の小アジアの古代都市で、アルテミス女神崇拝の一大中心地である。アルテミス神殿(右図)は現在遺跡が残るのみであるが、近くの市庁舎に祀られていた女神の神像(左図)は現存している。この像は胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっており、あたかも “多数の乳房” を持つように見える。このことから「豊穣の女神」として知られており、独特なアルテミス崇拝が存在していたと想定されている。それは植物の豊穣や多産を管掌する地母神としての信仰であった。 キリスト教における使徒パウロは、『エペソス人への書簡』を通して、エペソスの人々にキリスト教徒のあり方を語っているが、パウロは、アルテミス信仰と正面から戦いを挑んでいた。『使徒行伝』の「エペソ人への手紙」には、エペソスにおける女神信仰の様を偶像崇拝と記していて、“偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない” とまで述べている(下記)。女神の壮麗な神殿は、キリスト教の地中海世界への伝播とともに信仰の場ではなくなり、やがてゴート族の侵攻で灰燼に帰した。
<参照> ・ 真の崇拝と異教が衝突した場所 A ローマ神話のディアーナ ディアーナは、ローマ神話に登場する狩猟、貞節と月の女神。 日本語ではディアナ、英語読みではダイアナと呼ばれている。ギリシア神話ではアルテミスに相当し、南イタリアのカプアとローマ付近のネミ湖湖畔のアリキアを中心に崇拝されていた。 B エジプト神話のイシス <参照> ・ アスワンとイシス神殿(フィラエ島) 名前は、「椅子」という意味で玉座(現世の王権)を神格化した女神ともされ、その場合は、頭頂に玉座を載せた姿で表される。これは、夫オシリスや息子ホルスを守る者を意味する。 またイシスは、女神でありながら王権の守護神が持つ「権力と支配」を意味するウアス杖(普通、男神や王が持つ)と「生命」の象徴アンクを持った姿で表されることもある。 a)処女神イシスと聖母マリア イシス信仰は、他の女神を習合することで拡大した。エジプトでは、ムトやハトホルに代わって信仰を集め、紀元前1千年紀に地中海沿岸全域に広がった。ギリシャでは、デーメーテールやアプロディーテーと同一視された。共和政末期にローマへ持ち込まれて発展し、200年頃にほぼローマ帝国全域で崇拝された。 ギリシア・ローマ時代には「アレクサンドリア港の守護女神」から「航海の守護女神」にもなった。 イシスは、永遠の処女でありオシリスの死後、処女のまま神(ホルス)を身ごもったとされ、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などさまざまな二つ名を持った。しかし信者が基本的に女性に限られたことや、信者の女性が一定期間の純潔を守ることを教義としたため、男性からの評判が悪く衰退し、やがてキリスト教の隆盛とともにマリア信仰に取って代わられた。「ホルスに乳を与えるイシス女神」像などが、イエスの母・マリアへの信仰の元になったといわれる。オシリスは夫ヨセフを、ホルスはイエスを、イシスは母マリアを示している。 エジプトにコプト派キリスト教が広まるとイシス神殿は聖母マリアを祀る教会として使用された。 <参照> ・ 孤立化するコプト教はかつてキリスト教世界を三分した大宗派だった (2) 月の女神と太陽の男神 a)夜の神様と昼の神様 文先生の語られた “夜の神様” と “昼の神様” は、「明暗」 における神様の違いであり、「夜」 と言っても何も見えない 「闇」 のことである。月明りも何もない、あるとすれば 「音」 だけであろう、視界が全く閉ざされた真っ暗闇の世界である。人間はこの様な状態に立たされた時、そこに “ある” のは 「心」 のみであり、自分の姿さえも目で確認できない世界と言える。このような中での邪心からの解放によって、自らの心に浮かび上がってくるのは出エジプト記第3章14節にある「わたしは、有って有る者」である。文先生は、これを「宗教を必要とする時代は終わった」と表現された。これは、宗教が必要でなくなったのではなく、人間の心、特に良心においての神の実存が明示されたことによって、全ての宗教の究極的目的が達成可能となったことを意味している。そのことが端的に表現されているのが、「良心は、神様に優る」という文先生の言葉である。 <参照> ・ 心で感じることに従う また文先生は、自身が 「母の胎から生まれた」 と何度も語られていましたが、“母から生まれた”のではなく、“母の胎中という閉ざされた暗闇から誕生した”、 つまり、“夜の神様”によって 「心」 が生成され、母の胎によって「体」が形成され、誕生したということを言われたのである。この場合、“胎”が主眼であるが、“母”を主眼とみてしまったために、その主要な部分が全く抜け落ちてしまったのである。このため、聖母マリアの虚像としての足跡を独生女が引き継いで行くことになってしまったのである。 <参照> ・ それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 ・ 胎内記憶を持って生まれてくる赤ちゃん b)太陽神と神の独り子イエス エジプトのカイロは北緯30度にあり、九州の鹿児島(31度)とほぼ同じである。気温はさほど変わらないが、大きく違うのは降水量である。カイロの降水量は冬場の10日程で30mmにしかならない。夏の期間は全く雨が降らず、乾燥した毎日が続く。この様な地中海性気候特有の現象は、日中の焼けつく様な強い日差しと、夜の月明りが与える違いの大きさが、月が太陽よりも優位に立つ原因となったのである。 同じ地中海性気候(右図の黄色は夏季乾燥)におけるギリシアやローマでは、キリスト教は神の独り子イエスを、異教の神である太陽神(ヘリオスやソル)になぞらえ提示することで、異教の民を改宗させその勢力を拡大してきたのである。 <参照> ・ 光と熱のメカニズム ・ エジプトの気温と降水量 ・ 月の女神 ・ ニサンの月 (3) マリアの神格化
キリスト教では、蛇は悪や罪の象徴である。マリアが月の上に立ち、蛇を足で踏み付けているということは、マリアが月経を司る月を克服し、神がエバを誘惑し堕落させた蛇に向かって言ったのろいの言葉(創世記3章14節〜15節) が、マリアによって成就されたと解釈できる。つまり、マリヤは月経なくしてイエスを産み、無原罪のマリヤが罪を克服したということを意味しています。これらの事からキリスト教カトリック教会における “無原罪の御宿リ” の教義として、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」と、1854年に正式に信仰箇条として宣言決定されるようになっていったのです。 <参照> ・ ディエゴ・ベラスケス-主要作品の解説と画像・壁紙 ・ 無原罪の御宿り 絵画・美術作品の解説 ・ マリア ・ 「マグダラのマリア」と「聖母マリア」 ・ 聖母マリアはイエスの死後どこで何をしていたのか (4) アンナ・カタリナ・エンメリックの幻 アンナ・カタリナ・エンメリック(1774年9月8日〜1824年2月9日)は、カトリック教会聖アウグスチノ修道会の修道女で、神秘家である。2004年10月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。 イエスの受難、聖母マリアの晩年など聖家族の様子、終末の時代の教会の様子などを幻視し、記録している。エンメリックが幻視したイエスの最期は、2004年にメル・ギブソン監督によって映画化された(『パッション』)。 エンメリックが幻視した聖母が晩年を過ごした家は、19世紀にトルコ・エフェソスで発見された。現在では、聖ヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世といった教皇たちも訪ねる巡礼地となっている。 a)時代的背景 エンメリック氏の生存していた18世紀後半から19世紀初頭においては、宗教改革と科学の発展に伴い、イエス・キリストに対する信仰によって義とされるカトリックに大きな衝撃が走った。その一つは、信仰を大義としてきたカトリックの主権者に腐敗が蔓延してくると、聖書における真理を義としたプロテスタントはカトリックの中で芽生え繁殖し、反旗を翻すようになったのである。こうして起こったのがピューリタン革命(1639年〜1660年)である。 また、近代科学と自然科学の追求は静まり返っていたフリーメイソンに光明をもたらしたのである。理神論によるメーソンの神を打ち立て、理性の光となってカトリック信者を照らし始めたのである。イギリスのロンドンにグランド・ロッジが誕生したのが1717年。カトリックにおいて、マリヤ信仰が本格化し、無原罪の御宿りが教義化されたのが1854年のことである。 <参照> ・ 「聖母マリア」神聖化の隠された理由 ・ 聖母マリアは無原罪で生まれたか? ・ 「無原罪の宿り」の視覚化( 早稲田大学 文学学術院 特別研究員:福田淑子 / 本サイト ) <本編参照> ・ メシヤ再降臨準備時代の幕開け ・ フリーメーソンと理神論・汎神論 ・ ヘーゲル弁証法の正しい理解 ・ 共産主義の台頭 ・ 宗教改革、そして英国から米国へ ・ アメリカの独立とイギリス b)数々の幻視とカトリックの対応 エンメリックは、沢山の幻視を見ました。契約の箱がゴルゴタの丘の真下に位置していて、そこにイエス・キリストの血が地震で生じた亀裂の中に流れ込んだという幻視の記録は、1981年1月にロン・ワイアットという探検家によって発掘された。 <参照> ・ 聖書考古学・契約の箱 ・ 2.2 ノアの箱舟 さらに、1820年から1821年にかけての教皇を取り巻く危機の予知的幻視は、フリーメイソンとの対立に対する警告ともいえるものでした。その脅威は、エンメリックの死後、現実のものとしてカトリックに次々と襲い掛かってきたのです。 <参照> ・ アンナ・カタリナ・エンメリックの預言 ・ 橋爪大三郎氏 フリーメイソンの敵はカトリック教会 ・ フリーメイソンとカトリック教会が対立したワケ ・ フリーメイソンとカトリック(キリスト教)との関係とは? この様な状況下で、幻視の中でも輝きを現わし始めたのが「キリストのご受難を幻に見て」に記された聖母マリヤ像です。四大福音書におけるイエスに対する母マリヤとは相反する印象のマリヤ、更には、聖書にはほとんど記されていない十字架後から昇天までの聖母とその周辺の状況などその場に存在していたかのように表現されています。このようなストーリーはキリストの産みの親としての偉大さを引き立たせ、キリスト以上の尊さを表現させました。このことはキリストによる(堕落からの)救いではなく、キリストを産んだ母という価値。すなわち、人類始祖アダムとエバの堕落から受け継がれてきた自らに内在する罪からの救いの価値ではなく、罪のないキリストを産んだ母親の価値へと転換され、自らの罪の克服から聖母への尊敬と敬愛へと変化したということになります。このことは、贖罪による神との関係改善よりも、許しと癒しの母性的愛による恵みを望んだと言えるのかもしれません。 1812年、エンメリックは修道院を出るとすぐに病気になり、1813年には寝たきりになってしまう。エンメリックが胸に十字の形の聖痕を受けたのはこの頃であった。エンメリックは長い間、荊冠の聖痕による痛みに耐えていたが、さらに胸の十字の聖痕の痛みそして、両手、両足、右わき腹に聖痕を受けることになった。 この様な状況下で、著名な詩人であるクレメンス・マリア・ブレンターノとの出会いはエンメリックの人生で顕著なものとなった。ブレンターノは1819年、最初の訪問以来、5年間にわたりデュルメンに滞在し、後に出版することになるエンメリックの幻視を記録するために毎日エンメリックを訪問した。 ブレンターノによると、エンメリックを最初に訪問した際、会うと同時にエンメリックは自身が神から託された使命を果たすことを可能にする人物がブレンターノであることを認識した、と伝えてきたという。 <参照> ・ キリストのご受難を幻に見て(「御聖体と聖母の使徒」より) ・ キリストのご受難を幻に見て(「Eucharistic Adoration Japan / 日本 聖体礼拝」より) ・ 6 神のお告げ 『聖家族を幻に見て』 ・ 5 マリアの結婚 『聖家族を幻に見て』 エンメリックの死後1833年に、ブレンターノは『キリストのご受難を幻に見て』をアンナ・カタリナ・エンメリックの著作として出版した。ブレンターノは、その後、『聖家族を幻に見て』の原稿を用意したが、ブレンターノが1842年に死亡したため、同書はその後ミュンヘンで1852年に出版されている。 ウェストファリア教区は1892年にエンメリックの列福について調査を開始したものの、当時の反ユダヤ的なモチーフの反映と強調、それが来た由来が明確でないことから、1928年にバチカンはエンメリックの列福についての調査を凍結した。その後1973年3月にドイツの司教たちの連名によるエンメリックの伝記、エンメリックの教会における重要性と意義、歴史的背景を含めた嘆願書が教皇に提出された。教皇パウロ6世により反ユダヤ的モチーフに関する問題はエンメリックの列福に直接影響するものではないとして調査への許可が下り、2004年10月3日に教皇ヨハネパウロ2世によってエンメリックは列福された。 エンメリックがヴィジョンとして観た『聖家族を幻に見て』には、聖母マリアがエフェソスの近郊にある丘で暮らしていたとの記述が載っている。 ただし、エンメリック、また彼女のヴィジョンを口述筆記し、この本としてまとめたクレメンス・ブレンターノもエフェソスに入ったことがなかった。そして実際、この場所は発掘がされた訳でもなかった。しかし、1881年、フランスの司祭であるジュリアン・ゴヤット神父は、この本の聖母マリアの家に関して描写している個所をその情報源として使って、聖母マリアが亡くなるまで暮らしていた家を捜索し、その本の記述に基づく通りの場所で、その家と思われる遺跡を発見した。 ローマ教皇庁は、まだこの場所が聖母の家であったことの確実性について、公式の立場をとっていない。 しかし、1896年に、教皇レオ13世が訪問し、1951年に教皇ピウス12世はこの家を聖なる場所であることをまず最初に宣言した。教皇ヨハネ23世は、後にこれを永久宣言とした。パウロ6世が1967年、ヨハネ・パウロ2世が1979年、そして教皇ベネディクト16世が2006年にこの家を訪れ、この家を聖地とみなした。 <参照> ・ トルコ46 エフェス 聖母マリアの家は教会に ・ トルコ/エフェソス/聖母マリアの家と黒いマリア c)原理的観点から
イエス・キリストは独身のまま昇天された。しかし、その後は聖霊の導きによってキリスト教が出発したのである。イエスは結婚できなかったため、女性や結婚に関することはもちろん、人類始祖の堕落に関する問題には一切言及していない。ましてや、イエスの身の上話などどこを探しても見当たらなのである。イエスがキリストとされたのは十字架からの復活後、それまでの業績が認められるようになったからである。そこで問題とされてきたのが、イエス出生時のことである。イエスは、神なのか人なのか、確かなのは母マリアから誕生したということだけである。カトリックはキリストは神性と人性の両性的存在であるとする両性論を確定させ、それ以上の追求と論争をやめてしまった。やがてローマ教皇庁が腐敗し、キリスト教が分裂してくると、イエスがキリストとして誕生したことの根拠を母マリアに求めたのである。しかしそれは極めて非科学的で非現実的な、信仰のみによって義とされるべく聖母マリアの無原罪論と処女懐胎論だったのである。これには、神とは如何なる存在か、また人間堕落による罪とは何であり、どの様に罪からの救いが必要なのかなどの根本的な問いを明確な解答にせず、忽然と現れたエンメリックの幻視は、聖母マリア信仰を後押しする絶好の現象となったのです。 ところで、幻視された聖母マリアは何を語り、何を行ったというのか。幻に見た聖母マリアの姿を『キリストのご受難を幻に見て』と『聖家族を幻に見て』という2つの書籍に収め、確証のない聖母マリアの家を次々と教皇らが訪れ聖地とし、無原罪のマリアとしての聖母マリア信仰を確実なものとさせてしまった。 イエスの説いた御言葉や、十字架と復活に至るまでの路程が示した神の愛や、イエスを迫害したパウロが、霊的にイエスの愛と出会い回心し、命がけで異邦人の伝道に向かったその姿勢と比較した場合、マリアを聖母とて崇拝しその信仰に至らしめたエンメリックの幻視は、上記『原理講論』の内容による “善神の業” なのか “悪神の業” なのかの判断は、これまで内容を総合的に見ればその答えは簡単に導き出せるものではないだろうか。 <参照> ・ キリストの意味 ・ 御聖体と聖母の使徒
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