復帰摂理歴史の真実
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■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
     a. フリーメーソンと理神論・汎神論


1. フリーメーソン

 「フリーメーソン」とは厳密には各個人会員の事を指しており、団体名としては「フリーメーソンリー」である。

<参照>
 フリーメイソン300年の歴史(英国ニュースダイジェスト)
 【カトリック新聞】 フリー・メーソンとは何か (1950年1月29日付)
 フラムの子らによる革命と共産主義の樹立



史上最大の秘密結社フリーメーソン』(鬼塚五十一 著 / 学研出版)

 アメリカの歴代大統領をはじめ、政財界の大物が所属する世界最大の秘密結社フリーメーソンとは、いかなる組織なのか。慈善団体と称す一方で、世界支配を目論んでいるとも噂される巨大組織の実態を豊富な資料を交えて、その歴史と目的について平易に解説する。

 著者の鬼塚五十一は、社会派のジャーナリスト。国際社会で起こっている様々な事件や出来事を独特の視点から読み解いた評論は定説がある。フリーメーソンに関しては、多くの著作がある。聖書や預言に関する著書も多数ある。



 (1) フリーメーソンとは何か

 フリーメーソンは、カイン型人生観の思想を背景にして、イギリスのロンドンで誕生しました。その思想は共産主義の誕生にも影響を及ぼしたと言われます。
 フリーメーソンの組織誕生の年は1717年、共産主義の生みの親であるマルクスの誕生した年は1818年ですから、ちょうど一世紀を経て無神論の思想が確立したと言えるのですが、その原点はキリスト教徒、それも腐敗したローマ教皇にあると言えるでしょう。
 デカルトの理神論を主として取り入れたメーソンは、その特異的な神観から反キリスト教会の立場をとるようになり、啓蒙思想を生み出すと「理性の光」としての輝きを放ち、人本主義を確立することによって無神論を定着させたのです。
 ここでなぜフリーメーソンを採り上げるかと言えば、カイン型人生観をもたらした思想家達や、共産主義が出没するまでの地下水脈の様な役割を果たしていたのがまさしくフリーメーソンと言えるのではないかと思えるからです。
 旧約聖書に端を発し、ローマ教皇庁の腐敗と淪落の副産物とも言えるフリーメーソンは、まさにキリスト教徒指導者らによって始まったのですが、やがて自らのもっとも厄介な抵抗勢力となって、ローマカトリックはその勢力を衰退させて行くことになるのです。



  @ フリーメーソンとは

 フリー(自由な)メーソン(石工)、つまり「自由な石工」の発端は、旧約時代に神殿などの建築などに携わっていた人たちのことで、ソロモン王時の神殿建設に携わったツロの王 “ヒラム” とツロの住人である金属細工師 “ヒラム・アビ” の二人のことに由来します。

 「そこでツロの王ヒラムは手紙をソロモンに送って答えた、『主はその民を愛するゆえに、あなたを彼らの王とされました』。ヒラムはまた言った。『天地を造られたイスラエルの神、主はほむべきかな。彼はダビデ王に賢い子を与え、これに分別と知恵を授けて、主のために宮を建て、また自分のために、王宮を建てることをさせられた。
 いまわたしは達人ヒラムという知恵のある工人をつかわします』。」 (歴代志下 2章11〜13節)


 ツロとはカナン語で “陸から数百メートル離れた岩の地(島)” のことを意味し、海岸都市として有名なフィニキアでした。ここに住んでいたのは、バール神を崇拝するカナン人だったのです。

 神のみ言葉では、

 「すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約ををもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。また彼らと婚姻してはならない。・・・」 (申命記 7章2節〜)


 と戒められていたにもかかわらず、神殿建設そのものを通じて戒めを犯すことによって、フィニキアの偶像崇拝がイスラエルにはびこっていくことになったのです。
 この様に、ソロモンの時に建設された神殿が第一神殿。そのソロモンの神殿はバビロンの捕囚のときに破壊され、その後バビロンから帰還したユダヤ人によって建設されたのが第二神殿。現存する第二神殿はユダヤ戦争の時に破壊され、現在ユダヤ人が祈る「嘆きの壁」はその基礎石の部分にあたります。
 ユダヤ教によると、メシアは世の最期のときに降臨し、ソロモンの神殿を再建して(第三神殿)、ユダヤ人を中心とした理想世界を建設するとされています。そのメシアは “愛による救い”をもたらす救世主ではありません。実際、二千年前には “神は愛である” と宣言し、ユダヤ教の腐敗ぶりを批判したイエスを十字架で殺害してしまったのです。



  A “ヒラム”に象徴されたサタン崇拝

 さて、ヒラムに関して記載した聖書の箇所があります。

 主の言葉がわたしに臨んだ、
  「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、
  あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と、
  しかし、、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
  見よ、あなたはダニエルよりも賢く、
  すべての秘密もあなたには隠れてはいない。
  あなたは知恵と悟りとによって富を得、金銀を倉にたくわえた。
  あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富は増し、
  その富によってあなたの心は高ぶった。」 (エゼキエル書 28章1〜5節)


 この様に、ソロモン王によって建設された神殿。しかし、その神殿建設と同時に信仰を失い、南北に分立して摂理しなければならなくなったイスラエル民族。
 はたしてソロモンがツロの王ヒラムに神殿建設を託したことが間違いだったのでしょうか。それではなぜ神様は、出エジプトの目的地をあえてその様な危険性を伴うカナンの地とサれたのでしょうか。
 こうして傲慢極めた王ヒラムの統治するツロの町は、東西の貿易の要となった所ですが、天災によって海の下に沈んで滅びてしまいます。

 また主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え、主なる神はこう言われる、
 あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。
 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。
 ・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
 これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。
 わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。
 あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。
 あなたは造られた日から、あなたの中の悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。
 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。
 それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。
 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見世物とした。  あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
 もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。
 あなたは恐るべき終わりを遂げ、永遠にうせはてる」。 (エゼキエル書 28章11〜19節)


 このエゼキエル書はツロ王ヒラム対して神様が語られたところではありますが、上記下線部分の「知恵に満ち、美のきわみである完全な印」や「自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚した」などのところは堕天使ルーシェルそのものです。つまり、神様から見ればツロ王ヒラムこそ、堕落した天使長ルーシェルの典型的なこの世の雛形だったのです。
 なぜ、ヒラムがこの様な存在になってしまったのか、当時のソロモン王がその信仰と愛によってヒラムを正しい方向に教育と指導ができなかったところに問題があるのです。むしろ、ヒラムのその輝きに魅せられてソロモン王の方がその影響を全面に受け、信仰を失いイスラエルを南北に分断させてしまった中心人物と言えるでしょう。
 この様に、ローマ教皇庁がこの世の支配者たる王たちを本来のキリスト教が掲げてきた信仰と愛によって指導できなかったことが、結局イギリスにおいてフリーメーソンとして実を結んだのです。

   a)コンパスと直定規

 フリーメーソンのシンボルマークにコンパスと直定規が組み合わされているのも、この世の君としてのサタンが意のままにこの世界を作り上げて行く建築道具としての象徴です。
 ところで、このコンパスと直定規は、フリーメイソンによって初めてシンボルとして用いられたのではなく、それは古代バビロニアにおける石工職人が使用するコンパスと直定規を示すもので、当時のバビロニアでは、幾何学が発達し、エジプトや古代ギリシャにも伝えられました。
 また右図は、中国少数民族の苗族が信奉した神、伏義(ふっき)と女カ(じょか)の図ですが、その姿は蛇身人首でコンパスと直定規を手にしている。
 フリーメーソンと中国の伏羲と女カの示すコンパスと直定規は、どちらも同じ古代バビロニアを発祥としています。これについては後の章で説明いたします。

<参照>
 平面図形の幾何学と歴史(高知工科大学マネジメント学部 山岡緑:PDF / 本サイト



 (2) 「技術者メーソン」から「思想的メーソン」へ

 さて、この様にツロ王ヒラムを起源とするフリーメーソンは中世に始まりましたが、もう少し具体的にみていきます。
 中世において、神殿、大聖堂、教会、城などの建築が盛んになると、それに携わっていた建築家や土木工事者などが情報交換や技術取得のため親睦を兼ねて集まりの場所を設けました。そこは、卓越した技術者の場であるため、その秘密保持のため外に漏らすことは固く禁じられていたのです。その様な場所をロッジ(集会所)と呼んでいました。
 これが始まりでしたが、その様な技術者は上層階級の人たちとの交流がある中、当時の先端技術の持ち主であった彼らの知的欲求から、オカルトや秘教といった世界にまでその範囲を拡大していったのです。結局 “思想的メーソン” として、知識人や思想家、王族や政治家などの人たちが主導的になって行きました。
 そして、ついに1717年6月24日、イギリスのロンドンにおいてグランド・ロッジが誕生して、近代メーソンが出発したのです。



  @ フリーメーソンの神観

 メーソンは、自然の石から教会や建物を建てる実務メーソンではなく、“理性である精神から神殿(テンプル)を建てる思想メーソン” にならなければならないと主張しました。
 ジョン・ デザギュリエ(1683〜1744:左図)の意向により、1723年プロテスタント説教師だったジェームス・アンダーソン博士(右図:神学・哲学者)によって「アンダーソン憲章」が出版されました。
 デザギュリエは、神を “理性の神” であるとしました。理性の神の導きによって、人間は進化したとし、人間はもともと粗野な理性をもっていて、その人間の理性が “理性の神の照らし” によって磨かれ、自らが神殿となっていくのだと主張したのです。
 これは、当時イギリスの哲学者ジョン・トーランドの「理神論」や「汎神論」の影響によるものでした。
 このジョン・トーランドの著書「神秘的でないキリスト教」(1696年刊)では、神の啓示が中心となったキリスト教を排除して、神の啓示の代わりに理性的な自然法に置き換えました

<参照>
 トーランド『キリスト教は神秘的でない』とその匿名批判書(1696) (横浜国立大学 教授 有江大介・PDF:本サイト

 つまり、神は天地を創造しましたが、その後は人間社会に恣意的に介入することなく、自然に内在する合理的な法(自然道徳や理性)に基いてのみ、宇宙を統治するという考え方であり、もはや信仰の神ではなく、理性によって宇宙を創造した最高の神ということになってしまったのです。
 これはキリスト教の正当性を、彼らながらの「一般的で理性的な道徳と宗教の一致」に求めたものですが、これに目をつけたのがジェームス・アンダーソンだったのです。ところが、これはキリスト教から見れば、三位一体と神とイエス・キリストの否定につながる全くの “異端” であるとみなされ、ローマ・カトリックは1738年4月28日クレメンス12世(左図)によって、メーソンに入会するものを破門すると言う回勅がだされました。
 フリーメーソンの主張する “神” は、神の子としてのメシアという人間の形をとって、神様自身の愛を示すものではなく、人間の理性的能力に内在する自然の光(イルミネ)” として顕現されると主張し、この光を正しく志向して、その光によって自らを照らし、磨き、新たに生まれ変わらなければならないとしています。
 しかし、この様な “理神論” も後のフランスメーソン “グラントリアン” (大東社)では、この神の概念までも憲章から削除してしまったため、フランスやラテンアメリカ系のメーソンには無神論者が少なくありません。
 ところで、メーソンの組織は右図の様になっていて、これまでの内容の様な情報は30階級以上のメンバーにのみ知らされており、「メーソン団の信仰は、高階位に属するわれわれ全員の手でルシファーの純粋な教義を維持することにある!」とされ、29階級以下の多くのメンバーらには、「自由平等兄弟愛」のスローガンを掲げ、自分たちの生活態度や行動を律することとされています。

<参照>
 バラ十字会の歴史

   a)唯一神、汎神論、多神教の相違

 ここで、唯一神や汎神論、多神教における神観の違いを簡単に見ておきましょう。(左図)
 唯一神としての神は、宇宙の創造者であり、絶対者で人格神であるとしています。人間や被造万物と向き合う存在とされています。
 一方、汎神論においては神が被造物において内在し、人間においては「理性」として存在しているとするものです。
 多神教においては、人間は神によって創造されたが、人間以外の万物は、万物固有の神が存在するという神観となります。




 (3) イギリスからアメリカ、フランス、ドイツへ

 イギリスで確立したフリーメーソンは、フランスで成熟し、アメリカやドイツに波及しました。

  @ イギリス王室とメーソン
  1. フレデリック・ルイス(1707年2月1日〜1751年3月31日)
     イギリス王ジョージ2世の長男で、1737年11月5日にロンドンのキュー宮殿で、デザギュリエが主催する「臨時ロッジ」で入会したとされています。メーソン最初の王子。

  2. エドワード・オーガスタス(1739年3月25日〜1767年9月17日)
     フレデリック・ルイスの息子で、1762年に入会。

  3. ウィリアム・ヘンリー(1743年11月25日〜1805年8月25日)
     フレデリック・ルイスの息子で、1766年入会。

  4. ヘンリー・フレデリック(1745年11月7日 - 1790年9月18日)
     フレデリック・ルイスの息子で、1767年に入会。

  5. ジョージ4世(1762年8月12日〜1830年6月26日)
     1787年2月6日、「オカジョナル・ロッジ」入会。英国メーソンの“大保護者”として君臨し、メーソンに名誉と格式を添えました。また、アヘン戦争によって巨額の富を得ました。
     こうしてジョージ4世以降、英国王室は代々メーソン入りする様になったと言われています。

  A 理神論

 やがて、メーソンは近代科学と自然科学を追求することによって、従来の “神” と “信仰” を否定し、理神論による “メーソンの神” を確立しようとしました。
  1. デカルト理性的合理主義
     ニュートンの様に物質界に神の力やアンマ(魂や生命)が内在することを否定して、自らの理性的思考のみに依存するという理性的人間の自立性を説きました。これは、のちの “啓蒙主義” の原点ととなって、メーソンの基本的思想のひとつとなりました。

  2. アイザック・ニュートン(合理主義を否定したニュートン力学)
     ニュートンは、宗教的な絶対者としての神の存在を認め、『至高の神がかならず存在することはあまねく認められるところです。この必然性より神は「いずれの時」「いずれの所」にも存在するものです。』と述べている。このことからニュートンの神が汎神論的傾向を持つことが示される。
    <参照>I.ニュートンと J. - J. ルソー ―18世紀ヨーロッパにおける自然と神― (文教大学国際学部紀要 荒井宏祐本サイト・PDF)

  B メーソンと啓蒙思想

 「啓蒙」は「光」からの派生語で、「照らす」や「視覚的に刺激する」、「教え導くもしくは知識を増大させる」などの語義が存在します。
 これはこれまで見てきたように、人間が宗教を手先として利用し、あるいは虐殺するような、狂信的振る舞いを招いてしまったキリスト教の腐敗によって起こったもので、フランシス・ベーコンがロンドンで公刊した『真理について』(1625年)と題した小論で次のように明言しました

 幾日もの仕事を通じて神が最初に造ったものは、感覚の光であった。最後のものは理性の光であった。そしてそれ以後の安息日の作品は、聖霊の光明である。まず、神は物質ないし混沌の表面に光を吹きかけた。次に、人間の顔の中に光を吹き込んだ。そして、つねに選民の顔の中に光を吹き込み、鼓舞しているのである。(「イングランド啓蒙とは何か」より)


 このことによって、イギリスに「理神論」(17世紀後半)が提唱されました。理神論においては、神は創造主ではあるが人格神ではなく、森羅万象は自己発展し、特に人間は理性によって神を認識し理解するので、神の介入を必要としないとして奇跡や予言などを排斥しました
 また同じころ、啓蒙思想によって光はすなわち理性であるとされ、18世紀末にはフランスにおいて、「理性(の光)による(人間)理性の疎外」が推し進められ、理性の宗教化が巻き起こったのです。
 『啓蒙思想』とは、「理性の光」を輝かせて、宗教的伝統や封建的恩讎によって張り巡らされた暗闇を照らしだすと言う意味を持っています。この「理性の光」こそが、メーソンの光イルミネ iluminism)が語源となっています。

<参照>
 イングランド啓蒙とは何か(尾道市立大学 経済情報学科 准教授 林直樹:PDF・本サイト

   a)イギリス
  1. ジョン・ロック(1632年8月29日〜1704年10月28日)イギリス経験論の父。
     ロックは人間が生まれつきもっている観念(生得観念)を否定し、人間は心が白紙状態で生まれ、観念とは生後において感覚と反省を通じた経験によって得られるとしました。そこから、直覚的に認識される精神と、論理的に認識される神の存在を確実なものと考えました。(『統一思想要綱』p526〜p528)
     また、『統治論』で展開された国民主権・権力集中の否定(権力分立)・立法権の優位・抵抗権などの自由な民主主義を説いた。
    <参照>ジョン・ロック|思想と哲学

  2. デイヴィッド・ヒューム(1711年4月26日〜1776年8月25日)経験論。
     ヒュームは経験論を究極まで追求した結果、懐疑論に陥ってしまい、精神(心)という実体の存在までも疑ってしまい、精神は知覚の束にほかならないと考えたのです。(『統一思想要綱』p529〜p530)

  3. ジョン・トーランド(1670年〜1722年)理神論。
     ジョン・ロックの認識論的合理主義の厳密な解釈を公式化してからは、聖書にはいかなる事実も教条もないし、聖書は明瞭でも合理的でもなく、啓示とは人間の啓示であり、理解されえないものはわけのわからないものとして拒絶されるべきだと論じた。
     人間の理性が偏見から完全には自由になれないという迷信について歴史的に考察する。また、一元論的実体論への批判から形而上学的唯物論を展開した。
    <参照>『秘義なきキリスト教』ジョン・トーランド 著 / 三井礼子 訳 (法政大学出版局)

  4. アンソニー・コリンズ(1676年〜1729年)理神論、反三位一体論

  5. イーフレイム・チェンバーズ(1680年?〜1740年5月15日)
     1728年、『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』刊行。百科事典はメーソンの啓蒙思想の中から生まれています。このことは、神の啓示(聖書)に対する人間の理性の優位性を主張することとなりました。

   b)フランス
  1. シャルル・ド・モンテスキュー(1689年1月18日〜1755年2月10日)
     イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。自身の著作『法の精神(1748年)』の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する「三権分立論」を提唱した。
     なお、1728年から1731年のイギリス滞在の間にフリーメーソンとなった。

  2. ヴォルテール(1694年11月21日〜1778年5月30日)
     ヴォルテールは、歴史に作用する神の力を排除した。歴史を動かしているのは神ではなくて、高い教育を受けた科学を取り入れた人々、すなわち啓蒙家であるといった。(『統一思想要綱』p505)

  3. ジャン=ジャック・ルソー(1712年6月28日〜1778年7月2日)
     ルソーは『エミール』という教育小説を著し、「人間は万物をつくる者の手をはなれるとき、すべてはよいものではあるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と述べて、子供を自然のままに教育することを主張した。人間は本来、内在する「自然の善性」をもっているから、それをそのままの姿で開発すべきであるというのである。人間の自然能力の開発に対して妨害となる要因――既成の体系的文化や道徳的・宗教的観念の注入――を除去しながら、人間を自然のままに成長させていくというのが、ルソーの主張する教育である。ところが現実の堕落した社会において、自然のままの人間は社会には適応できない。しかし、理想的な共和制社会では自然のままの人間と社会の中の市民は両立すると考えて、社会人教育の必要性も説いた。(『統一思想要綱』p373)

   c)ドイツ
  1. ゴットフリート・ライプニッツ(1646年6月21日〜1716年11月14日)
     ライプニッツは、人間の認識する真理を二つに分けた。すなわち、第一に純粋に理性によって論理的に見いだされるもの、第二に経験によって得られるものに分けて、前者を「永遠の真理」または「理性の真理」と名づけ、後者を「事実の真理」または「偶然の真理」と名づけた。理性の真理を保証しているのは同一律と矛盾律であるが、事実の真理を保証するのは「いかなるものも十分な理由なくして存在しえない」という充足理由律であるとした。
     しかしこのような真理の区別は、人間の知性に対してのみあてはまるものであり、人間において事実の真理と見なされるものも、神は論理的必然性によって認識しうると見ているのである。ゆえにライプニッツにおいて、究極的に理性的認識が理想的なものと思われたのである。
     彼はまた、真なる実体は宇宙を反映する「宇宙の生ける鏡」としてのモナド(単子)であるとした。モナドは、知覚と欲求の作用をもつ非空間的な実体であり、無意識的な微小知覚から、その集合としての統覚が生じるといった。そしてモナドは、物質の次元の「眠れるモナド」、感覚と記憶をもつ動物の次元の「魂のモナド」(または「夢見るモナド」)、普遍的認識をもつ人間の次元の「精神のモナド」の三段階のモナドがあり、最高次元のモナドが神であるといった。(『統一思想要綱』p533〜p534)

  2. クリスティアン・ヴォルフ(1679年1月24日〜1754年4月9日)
     ヴォルフはライプニッツの哲学を基調にしながら、さらに理性的な立場を体系化したが、一切を理性によって、合理的に認識しうると考える独断論に陥った。(『統一思想要綱』p534〜p535)

  3. ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729年1月22日〜1781年 2月15日)
     人間の教育の目的は、神の啓示を超える人間の理性の自律、つまり人間の成熟にあると述べるとともに、啓蒙とは自律的な生き方を勧めるものであり、啓蒙思想こそ人類に最も必要な教育であるとしました。

  4. モーゼス・メンデルスゾーン(1729年9月6日〜1786年1月4日)
     感覚と信仰の上に立つ哲学を説き、当時の哲学者カントの批判哲学を論難した人物の一人でもある。晩年には、友人のレッシングが哲学者ヤコービら当時の知識人と、ドイツで起きたスピノザの哲学をどう受け入れるかという論争(汎神論論争)を起こした。

  5. イマヌエル・カント(1724年4月22日〜1804年2月12日)観念論。
     カントは「実践理性批判」において、真の道徳律は無条件に「何々すべし」という定言命法でなければならないと主張し、この実践理性の命令を受けた意思が善意思で、善意思が行動を促すとした。
     また、道徳の根本法則を「汝の意思の格率(個々人が主観的に決める実践の原則)が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」といい表した。カントは、あたかも自然法則のように、矛盾なく普遍的に妥当するもの善とし、そうでないものを悪としたのです。
     さらに、善意思が何ものによっても規定されないためには、自由が要請されなければならず。不完全な人間が完全に善を実現しようとする限り、霊魂の不滅が要請されなければならず、また完全なる善すなわち最高善を追求するとき、それが幸福と一致することが可能になるためには、神の存在が要請されなければならないといった。(『統一思想要綱』p399〜p400)
 やがて、この啓蒙思想はフランス革命に火をつけることになります。

  C フランス革命

 1789年7月14日、共和国思想が強く、革命思想に燃えていたパリの民衆は武装蜂起し、バスティーユ牢獄を襲撃しました。「自由、平等、博愛」のスローガンを標榜しながら、多くのカトリック教会を破壊し、罪のない修道士や、司祭、司教などの聖職者を殺害すると、1789年8月26日、憲法制定国民議会は「人間および市民の権利宣言」いわゆる「人権宣言」を採択ました。その後、「聖職者民事基本法」を採択することによって、国家を通して教会統制し、教会活動を骨抜きにしてしまうのが目的でした。
 左図は「人権宣言」を刻んだものですが、中央上にある天使に間にある円形の中に見えるのは、“プロビデンスの目”が、そして、円形の下にはフリジア帽が槍の上にのっています。この帽子は、古代ローマの奴隷解放に起源をもつとされています。
 ところで、この「自由、平等、博愛」の “博愛” ですが、“博識” や “博学” などの様に、「広く」または「広範囲に」と言っても “愛のあり方” を規定するものではありません。たとえそれが利己的な愛であってもです。本来の神の愛に相当する言葉に “慈悲” と言うことばがあります。『慈悲』とは仏教用語ではありますが、その字意としては『自らの心に非ず。他の心に茲する(他の心を自らの心とする)』と理解することができます。つまり、“自分を愛する如く他を愛する” と言う意味です。そこには “区別” や “差別” がありません。自分が他であり、他が自分であることに他なりません。これが、本来の博愛主義であるはずですが、フランスで起こった「自由・平等・博愛」には、自他を区別する明確な認識の違いがありました。イエスが説いた「自分を愛するように、あなたの隣人を(区別なく)愛せよ」とはまさしくこの慈悲と同じ意味の言葉なのです。



 (4) イルミナティ

  @ 神の存在の批判から否定へ


「イルミナティの7つの目的」

1.あらゆる統合政体(国家)の廃絶
2.私有財産の撤廃
3.相続権の廃絶
4.愛国主義の廃絶
5.すべての宗教の廃絶
6.結婚の廃絶を通じての家族制度の廃絶
7.世界政府の樹立
 1776年5月1日、ドイツ・バイエルン地方で、アダム・ヴァイスハウプト(右図)によって「イルミナティ」創設されました。彼は、少年時代にイエズス会の修道士に教育を受けましたが、その厳しい戒律のため反宗教的な意識を募らせ、27歳の時インゴルシュタット大学の法学部長となった彼に対する凄まじい嫉妬から自分を守るために秘密裏に会合を持つようになったのがその始まりであった様です。しかし、多くの賛同者が集まってくるようになると、以下のような7つの目的のもとに結成されたのが「イルミナティ」です。この目的達成のためには暴力革命も辞さないと言うものでした。
 1785年にローマ教皇・ピウス6世イルミナティが “カトリックの教義になじまない” と明言し、異端とされて、結社としての活動は1785年に終わりました。しかし、この頃は1776年アメリカ独立と、1789年にはフランス革命の嵐が吹き荒れるなど、カトリック教会制度の破壊やキリスト教の迫害、君主の処刑などの混乱を極めた時代であり、ローマ教皇・ピウス6世もフランス軍の教皇領占領によってローマを追われて、失意のうちに亡くなりました。
 イルミナティも分散され、その存在が見えなくなっても、その目的と意志は脈々と受け継がれて共産主義を誕生させるまでになるのです。

<参照>
 ロシアの大手テレビ局が、イルミナティの暴露番組を放送していた(@nifty ニュース)


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