復帰摂理歴史の真実 |
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■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
b. ヘーゲル弁証法の正しい理解 1. ヘーゲル弁証法 (1) ヘーゲル (1770年8月27日〜1831年11月14日) ドイツ観念論
@ ヘーゲル右派と左派
シュトラウスの『イエスの生涯』は、ヘーゲル哲学の立場に立って書かれたもので、聖書の福音書に対する批判と、キリストの人格論(キリスト論)が主な特徴である。 ところで、ヘーゲル哲学では、神が精神であり、また人間も精神なのであるから、神と人間とは即時的には異なるものではないとして、神は、有限のそとに、すなわち自然と人間精神とを神御自身の外化として定立しているとしている(このことは、「メシヤ再降臨準備時代の幕開け」のところで、理念の自己疎外または自己否定と表現されている)。そしてこの外化から神は、ふたたび永遠へと、自己自身との統一へと還るとしました。こうして、真実性をもたない人間と、現実性をもたない無限な精神としての神が統一された人間の精神(絶対精神)こそが真実であり現実的であるとして、このような人間を神人と称しました。この神と人間の統一は、神の側からの啓示、人間の側からの畏敬という交渉がおこなわれて成されるとしたのである。ヘーゲルにとって、このような神人こそイエス・キリストであった。 これに対してシュトラウスは、神と人間との統一は、宗教において明らかであり、神が人間であるという真理を宗教としてもつほどに人類が成熟したときに、神人統一という真理は、感性的確実性という仕方で、つまり俗人にも理解できる仕方で現れてくるとしたのです。そして、眼前にあらわれる神としてとらえられるある人間個体が登場すると、神が人間に外化する必然的ではあるが、神の人間化こそ真実であるととらえたのです。 シュトラウスの『イエスの生涯』はヘーゲル哲学思想の所産であり、直接ヘーゲル学派の分裂を導き、その結果として現れたヘーゲル左派のなかから、さらに、マルクス主義、唯物史観、社会科学といわれるものが生まれてきました。また、シュトラウスの歴史哲学は、マルクスとエンゲルスの歴史観において完成される歴史認識の先駆となったのです。 <参照> ・ シュトラウス著『イエスの生涯』における神話と教条 (明治大学名誉教授 大井正:本サイト・PDF) 福音書の中の全歴史を史実して受け入れるべきであるとしたのが右派、部分的には受け入れられるとしたのが中央派、まったく受け入れるべきではないとしたのが左派とされています。ヘーゲル左派はしだいに唯物論的な実践的な立場となって、国家批判への道を進み始めるようになります。 (2) ヘーゲル弁証法 ヘーゲル弁証法は、当時のキリスト教の腐敗の中で、キリスト教とその神の存在を理論的に正統づける画期的な内容でしたが、すでに “時” の流れを食い止めることは出来ず、またそれを押し戻すような変化も当時のキリスト教には見いだせませんでした。ヘーゲルの弁証法に対して、必然的なごとくに左派が生じて共産主義の台頭までに至ったのです。 その様な意味で、ヘーゲル弁証法を詳細に論ずるよりは、そのポイントを分かりやすくしながら、どの様に変化してそこに至ったのかを見ながらその問題点を考えていきます。 @ 正反合 ヘーゲルは、対立するその存在を認めて受け入れるところから始まります。 次に、その対立する相手から “矛盾” を引き出し、その “矛盾を受け入れて(=自己を否定して)” 更に “高次の立場に発展した新しい存在” として成長していくとしています。この 矛盾の統一” という背後には、“対立する存在を克服する” と言う「一種の闘争的概念」が含まれています。 ところで「正」と言うのは「反」が存在した上で、その「反」に対して「正」と言えるのですから、自らを「正」と言った時に「反」の存在を認めていることになります。決してその存在を否定しているものではありません。「正」の考え方や、その行動様式などが違うことによって「反」と表現されているにすぎません。 しかし、ヘーゲル弁証法の様に、それらの反する存在を「合」として結びつけるには、両者にとっての “一定の共通事実” としての「中心軸」がなければなりません。 A 絶対精神 ところがヘーゲルは、神の存在を「絶対精神」としましたが、左図の様に、「正」と「反」の共通の中心軸としてはとらえませんでした。 ヘーゲルは左図の様に、「正」と「反」を一つに調和した発展としてではなく、「正」が「反」を克服して従わせた新しい「正」の発展を唱えたのです。 ヘーゲルは、神を「絶対精神」である「正」として、神自体が矛盾を内包していて、その矛盾を克服することによって神自体が発展してきたと考えます。 その発展が積み重なるとある時変化をきたす「量的変化の質的変化への転化」が起こるとして、無形なものから有形な物質として、物質が生物となり、生物が人間となり、人間が世界を形成し、最後には神は「絶対精神」から「世界精神」としての理想として完結するとしています(左図)。 こうしたヘーゲル弁証法は、当時のキリスト教の矛盾をあたかも正当化するかのような画期的な理論として脚光を浴びましたが、同時に唯物論や共産主義と言った『無神論』を体系化させるきっかけとなり、キリスト教にとっては墓穴を掘る結果となってしまったことは次の『原理講論』の序論の一節を思わされます。
(3) ヘーゲル弁証法の核心 ここで注意しなければならないのは、「正反合」とは、白色(正)と黒色(反)を混ぜ合わせると、灰色(合)となるような単純なものではありません。むしろ、黒色(反)の中に白色(正)を滴り落とすと、その白さが際立つ(合)と言ったほうが「正反合」に適するかもしれません。ここでの、先に述べた「メシヤ再降臨準備時代の幕開け」で使用した図に付け加えたもの(上図)で説明してみましょう。 上図右における、有―無―成の弁証法によって「成」は高次の「有」となります。この弁証法を繰り返すと、「量的変化の質的変化への転化」によって「有」は「質」となり、「質量」となって「理念」に変化し「絶対理念」に至るとしています。これは、「漠然とした有」が事実として展開する現象によって様々な取捨選択が成され「より明確な概念としての理念」となって、さらに「不変的理念」(絶対理念)となるとしています(上図中央)。 次に『自然』としての「反」となります。『統一思想要綱』から下記の部分を引用します。
ヘーゲルは神を「絶対精神(理念)」として、イエス・キリストを「神が受肉して人間になった」と主張しました。これは、正―反―合の弁証法を正しく通過すれば、誰しもがキリストに成れるとし、それを保証する国家が形成されるべきとして、この国家を 理性国家” と呼びました。これは、ヘーゲルのキリスト教に対する篤信的姿勢によるものですが、批判し反対する者にも犠牲覚悟で対話を試みようとした初代教会のような愛が消え、権威主義と利権のみを追求したキリスト教を痛烈に批判した内容でもあったのです。 ここで問題となるのが、人間の力では如何ともしがたい『自然』の力を「反」として捉えることによって、『自己』としての「正」が『自然』(「反」)と向き合い対話することの必要性について説いています。ここでいう『自然』は 森羅万象としての自然そのもの” ではなく、自然の背後にある「疎外された理念」” を指しています。 人間は『自然』の厳しさに直面しなければならない現実的環境の中で、自らの力ではどうにもならないものであっても、それを克服しようと努力するからこそ得ることのできる確信的理念があるとしました。ヘーゲルはそこに至るまでに『自然』に対する無力さを実感することを自己否定と表現し、またそこから得られる確信的理念こそが 理念の自己疎外” を弁証法によって取り戻すことができた発展と捉え、弁証法の重要性を力説したのです。この様な『自然』に対する認識は最も東洋的な自然観ですが、当時の西洋社会ではこのような自然観を理解することは極めて困難といえました。また、理念を人間から『自然』の中に疎外したのは神であり、そこから得られる理念こそ弁証法によってのみ得られる最も中心的なものであるとしています。さらに、主観的で客観的な、そして哲学的体系付けをして絶対理念の確立となるからこそ、意図して神は理念を人間から人間のために『自然』の中に疎外したと考えた核心的な部分があるのです。 <参照> ・ 弁証法
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