明かされたカバラ
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■ 4. 発達の力と苦悩の意味
     a. 心で感じることに従う


 前回は現実の青写真、創造の思考、クリエイターの行為、上層世界の特質、スピリチュアリティとは何かについて学びました。この創造の思考とは、被造物を創造し、それを限りない喜びで充足させる事であり、如何なる出来事もこの理由で起きます。人生の全出来事もこの結果です。それから発せられているか、それの充足に向かっているかのどちらかです。その特質の認識できるか、できないに関係なくです。そしてこれが問題なのです。なぜなら、私達は人生に対する最も深い疑問について考えるからです。そして私達が何処にいて、何処に向かっているのかを認識できないのは、「もしもクリエイター(創造主)が完全な善で、善だけをするのなら、なぜ悪を目にするのか? なぜ悪い出来事があるのか?」と私達が必ず疑問に思うからです。
 この問いを探るために、カバリストは私達に混乱することなく、本当の答えを見いだせるこの探索方法の境界線を設置しました。バール・ハスラムはカバラにはルールがあると伝えます。それは “獲得できないものには、名前を与えることができない” というものです。これはどの様な意味でしょうか。私達の到達したいゴールは、クリエイターの直接的感覚です。それは概念や知的分析ではありません。なぜなら、知的分析には本当の答えがないからです。概念を確信することはありません。私達は自分の内側でそれを感じなくてはなりません。丁度自分の足がどこに立っているのかを感じるのと同じように、または、目の前にあるものを見るようにです。そこには実体がなくてはいけません。概念や抽象観念ではなく、認識に本当の変化があるときにだけ存在するのです
 人は、人生の出来事を本当に理解することはできません。なぜなら、人は全現実の半分を拒絶しているからです。人は悪いとみなす全出来事の半分を拒絶します。その理由は、私達のもつ内面のプログラム−受け取る意思−のためです。その受け取る意思が指導システムとして機能し、私達はそれに完全にコントロールされています。その指令は私達の考える、良い喜びを与えるものに、私達を引きつけさせるか、喜びを与えないものや、虚無感を与えるものから遠ざかるようにさせます。私達は、常に(自分にとって)良いとみなすものだけを探しています。よってこれら両方の出来事の意図に対する私達の認識は誤っています。なぜなら、その出来事の全体に注意を向けることがないからです。いつも全体の小さな部分しか見えていないのです。なぜなら、私達は問題それ自体のレベルの中から見ているからです 。これは私達にとって大きな問題です。なぜなら、私達の認識は比較することでしか機能しないからです。冷たさは、その対称である熱でしか分かりません。「上」は「下」を関連させた時にだけ分かります。もし私達が熱そのものにおける特質だけを見て、その対比や反対の特質が無かったとすれば、それは本質であり、その中に何も感じることができません。何の変化もなければ、何も測定(判断)できないのです。この場合、熱について何を知ることができるでしょうか? 何も無いようなものです。単に何の感覚も無いのです。よって、良いこと及びそれが良いとみなされている理由と、悪いこと及びそれが悪いとみなされている理由の比較を測定(違いを認識)しなくてはなりません。私達には、信頼がおける変化しない尺度(新しい価値観)が必要です。でも、そのように思えないかもしれません。なぜなら、私達はより大きな現実の範囲を取り入れることができないことで盲目になっているからです。しかし、私達の善悪に対する評価は全て受取る意思(人間的)の視点からで、完全に主観的であり、それは 観的常に変化する尺度です。つまり、私達は特定の出来事を邪悪と呼ぶことはできますが、それを本当に深く調べ、それに対する自分の真の反応が何であったかを調べれば、そこに “獲得できないものには、名前を与えることができない” と言う意味があります。
 私達は実際の経験を考察しなくてはなりません。例えば、津波災害(スマトラ沖地震)では、40万人の死傷者がでました。その世論調査をすれば、皆が「恐ろしい」と言うでしょう。「死者の数が極めてひどい」「被害者がひどく苦しんだ」この災害の規模は想像を絶し、それは悪い事だと。しかし、もしあなたがそこのリゾート地を再建する建設会社のオーナーだったとしたらどうでしょうか? それは、あなたに起きた五年間で一番良かったことです。そうするとあなたは何を本当に経験したのでしょうか? 自分の観念に従って、「それについてこう思うべきだ」と言うのですか。良いものに対する観念がこれで、悪いものに対する観念がこれと言うようにですか。そうではなく、私達は自分が(心で)本当に感じることに従わなくてはなりません。それ以外を測定(認識)するのなら、それは架空なものです
 もう一方で、人間よりも低いレベルの生命を考察するとき、最初に悪い出来事と思ったことが、良い出来事として理解出来ることも時々有ります。例えば山火事なら、それが及ぼす大きな被害を見て、木にとっては悪いことだと言うことができますが、広い視野から見れば、山火事の後に木々がより生い茂り、より多様でより茂った森をつくる意図があるかも知れません。そうなら、森の成長を妨げていたことに対する山火事の見方は変わります。もしそれを、プロセスとしてみなすなら、災害を良いこととして捉えられます。私達よりも低い生命レベルに、より大規模な発達が見れるからです。
 私達よりも低い生命レベルには、静物または無生物レベル、植物レベル、動物レベルがあり、その上に私達が住む人間レベルがあります。しかし、残念ながらこのレベル(人間)も、単に複雑な動物です。私達に起こっていること、そのプログラミングと本能レベル、そして、より広い視野で人生の出来事が理解出来るようになるために、たった1つの断面を見るだけでは、その計画、ベクトル、目的地に向かっている物事の発展の仕方を理解できません。人間のレベルで、この断面だけを見て理解することは不可能です。自分の髪を自分で引っ張って高いレベルには上がれません。私達はカバリストが「スピーキング・レベル(言葉を話すレベル)」と呼ぶ、より高いレベルからそれを考察出来るようにならなくてはなりません。人間のスピーキング・レベルでは、人は上層のシステムの一部になりはじめ、クリエイターが提供する指導システムの全体を見ます。その唯一の力が受取る意思を通じて私達を良いものに引きつけて、悪いものから遠ざからせるのです。もし私達が、この上位のレベルからそれを見れるなら、様々な出来事を分離されたものと見なさなくなり、どんな物事の理由も認知できないこの時空間に関連させて、それらを名付けることもなくなります。




♠ 統一原理との対比



 そうなれば、神様に優るような立場にまで我々は上がっていかなければならないのです。それには肉身を分別して、良心の命令に絶対服従すれば、すべてが可能です。たった一つ神様につながる道は、良心の命令を絶対視して一つになることによって、堕落の生殖器をそこまで引き上げて、神様と共になるような基準につなぐということです。堕落して長成期完成級で汚したその部分を元に正して、愛の完成基準まで引っ張り上げていかなければなりません。それは何を中心としてかというと、良心を中心としてです。
 ですから、良心を絶対視するような宣言をしなければならないのです。あなたたちは良心をたくさん泣かせてきましたね。良心は、「自分は、どんな難しいことがあっても心身一体化して、神様の相対の理想の価値あるものになって、神様を喜ばせるためにつくられた」ということを知っているのです。それで良心は、一瞬も休まず君たちを戒めてきたのに、それに服従せず、一体にならなくて、めちゃくちゃな自分として現在の位置にとどまっているということをはっきりと知らなければならないのです。良心を尊重して、絶対視する運動をしないといけません。(「男性訪韓修練会御言葉集 1995. 1.11〜19」p198)


 文鮮明先生は、“心で感じる神の直接的感覚”を「良心」であるとしています。それは邪心から完全に分別された“鮮明な良心”のことで、この「良心」に絶対服従することによって“受け取る意思”から“授与する意思”に転換され、喜びを与える神との形状の等価(神の似姿)になるとしています。

 それがみんな、神本主義、人本主義、物本主義を一つにする統一主義、神主義、頭翼思想によって完全にまとめられてしまったのです。民主主義は唯心主義であり、共産主義は唯物主義です。それにキリスト教は神本主義なのですが、みんな元がはっきりしていないから、人本主義が生まれたのです。今や神の起源がはっきり分かったので、人本主義から神本主義につなぐというのです。物本主義、人本主義、神主義に分割することはよくないのです。この三つを一つに合わせて主張できるものが神主義であり、頭翼思想なのです。(「男性訪韓修練会御言葉集 1995. 1.11〜19」p199)


 1989年9月1日に「天父主義」が宣布され、“神主義”と呼ぶようになるとその思想を“頭翼思想”であるとしました。つまり、“天の父なる神様”の主義であり、唯心主義(右翼)と唯物主義(左翼)を一つにする頭脳(頭翼)となる思想であるとしています。

 第一! (第一!)。良心は! (良心は!)。両親に優るー! (両親に優るー!)。前の良心は何ですか? それは心の良心です。後の両親は、親の両親です。親は、自分と共に永遠には生きられないのです。分かりますか? 結婚して分かれていって、共に住むことができない親がいくらでもいるのです。しかし良心は、永遠に自分とくっ付いて、親よりも先に自分を愛し守って、神様の懐に抱かれることを願うのです。

 ― 中略 ―

 ですから二番目は、第二! (第二!)。良心は! (良心は!)。先生に優るー! (先生に優るー!)。

 ― 中略 ―

 良心には、先生は要りません。自分の一生涯、自分のやるべきことをすべて知っているのです。良心は、自分の生きてきた歴史を知らないことがないのです。ちゃんとコンピュータに刻み込んでいるのです。良心に記憶されたならば、すぐ霊界にも記録されるのです。もし、それが本当であれば大変なことです。本当なのですよ。ですから、相対的にコンピュータが生まれてきたのです。昔は、そんなことなど夢にも思わなかったのですが、天国が近づいてきたので相対的に、空想ではなく目前に現れてくるのです。

 ― 中略 ―

 それでは、第三番目です。みんな手を挙げてください。第三! (第三!)。良心は! (良心は!)。神様に優るー! (神様に優るー!)。これは、恐ろしい宣言です。良心は何ですか? (神様に優る)。神様に優るから、今から神様は要らないということになりました。自分は神様の代わりのものです。愛の相対圏として、自分よりも何千億倍にも高まることを願った相対存在であるとすれば、神様に優らなければならないのは理論的な結論です。(「男性訪韓修練会御言葉集 1995. 1.11〜19」p204〜p207)


 さて、「男性訪韓修練会」は、先に行われた「女性幹部特別修練会」に引き続いて行われたものであり、1995年1月11日から19日にかけて3日間の3次に渡って行われた修練会です。日本人食口のみが参加し、“日本を世界的なエバ国家として立てるための重要な目的がありました(「訪韓修練会御言葉集」p2〜p3)。阪神淡路大震災は丁度「男性訪韓修練会」の第2次から第3次の修練会の間の朝に起こり(1995. 1.17)、この時活躍したのが “Windows95” コンピュータによるネットワークによって多くの人が災害ボランティアとして参加したのです。
 上記の内容は、韓国の水沢里中央研修院でその時(1995年1月17日)語られた内容「真の自分を探しましょう!」の一部です。
 このことから、人間は「良心」に従って行動すれば救いを得ることができるので、救いを得るための“宗教”を必要としなくなったとしています。


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