前回は現実の青写真、創造の思考、クリエイターの行為、上層世界の特質、スピリチュアリティとは何かについて学びました。この
創造の思考とは、被造物を創造し、それを限りない喜びで充足させる事であり、如何なる出来事もこの理由で起きます。人生の全出来事もこの結果です。それから発せられているか、それの充足に向かっているかのどちらかです。その特質の認識できるか、できないに関係なくです。そしてこれが問題なのです。なぜなら、私達は人生に対する最も深い疑問について考えるからです。そして私達が何処にいて、何処に向かっているのかを認識できないのは、「もしもクリエイター(創造主)が完全な善で、善だけをするのなら、なぜ悪を目にするのか? なぜ悪い出来事があるのか?」と私達が必ず疑問に思うからです。
この問いを探るために、カバリストは私達に混乱することなく、本当の答えを見いだせるこの探索方法の境界線を設置しました。バール・ハスラムはカバラにはルールがあると伝えます。それは “獲得できないものには、名前を与えることができない” というものです。これはどの様な意味でしょうか。
私達の到達したいゴールは、クリエイターの直接的感覚です。それは概念や知的分析ではありません。なぜなら、知的分析には本当の答えがないからです。概念を確信することはありません。私達は自分の内側でそれを感じなくてはなりません。丁度自分の足がどこに立っているのかを感じるのと同じように、または、目の前にあるものを見るようにです。そこには実体がなくてはいけません。概念や抽象観念ではなく、認識に本当の変化があるときにだけ存在するのです。
人は、人生の出来事を本当に理解することはできません。なぜなら、
人は全現実の半分を拒絶しているからです。人は悪いとみなす全出来事の半分を拒絶します。その理由は、私達のもつ内面のプログラム−受け取る意思−のためです。その受け取る意思が指導システムとして機能し、私達はそれに完全にコントロールされています。その指令は私達の考える、良い喜びを与えるものに、私達を引きつけさせるか、喜びを与えないものや、虚無感を与えるものから遠ざかるようにさせます。私達は、常に(自分にとって)良いとみなすものだけを探しています。よってこれら両方の出来事の意図に対する私達の認識は誤っています。なぜなら、その出来事の全体に注意を向けることがないからです。いつも全体の小さな部分しか見えていないのです。なぜなら、私達は問題それ自体のレベルの中から見ているからです 。これは私達にとって大きな問題です。なぜなら、私達の認識は比較することでしか機能しないからです。冷たさは、その対称である熱でしか分かりません。「上」は「下」を関連させた時にだけ分かります。もし私達が熱そのものにおける特質だけを見て、その対比や反対の特質が無かったとすれば、それは本質であり、その中に何も感じることができません。何の変化もなければ、何も測定(判断)できないのです。この場合、熱について何を知ることができるでしょうか? 何も無いようなものです。単に何の感覚も無いのです。よって、良いこと及びそれが良いとみなされている理由と、悪いこと及びそれが悪いとみなされている理由の比較を測定(違いを認識)しなくてはなりません。
私達には、信頼がおける変化しない尺度(新しい価値観)が必要です。でも、そのように思えないかもしれません。なぜなら、私達はより大きな現実の範囲を取り入れることができないことで盲目になっているからです。しかし、私達の善悪に対する評価は全て受取る意思(人間的)の視点からで、完全に主観的であり、それは 観的常に変化する尺度です。つまり、私達は特定の出来事を邪悪と呼ぶことはできますが、それを本当に深く調べ、それに対する自分の真の反応が何であったかを調べれば、そこに “獲得できないものには、名前を与えることができない” と言う意味があります。
私達は実際の経験を考察しなくてはなりません。例えば、津波災害(スマトラ沖地震)では、40万人の死傷者がでました。その世論調査をすれば、皆が「恐ろしい」と言うでしょう。「死者の数が極めてひどい」「被害者がひどく苦しんだ」この災害の規模は想像を絶し、それは悪い事だと。しかし、もしあなたがそこのリゾート地を再建する建設会社のオーナーだったとしたらどうでしょうか? それは、あなたに起きた五年間で一番良かったことです。そうするとあなたは何を本当に経験したのでしょうか? 自分の観念に従って、「それについてこう思うべきだ」と言うのですか。良いものに対する観念がこれで、悪いものに対する観念がこれと言うようにですか。そうではなく、
私達は自分が(心で)本当に感じることに従わなくてはなりません。それ以外を測定(認識)するのなら、それは架空なものです。
もう一方で、人間よりも低いレベルの生命を考察するとき、最初に悪い出来事と思ったことが、良い出来事として理解出来ることも時々有ります。例えば山火事なら、それが及ぼす大きな被害を見て、木にとっては悪いことだと言うことができますが、広い視野から見れば、山火事の後に木々がより生い茂り、より多様でより茂った森をつくる意図があるかも知れません。そうなら、森の成長を妨げていたことに対する山火事の見方は変わります。もしそれを、プロセスとしてみなすなら、災害を良いこととして捉えられます。私達よりも低い生命レベルに、より大規模な発達が見れるからです。
私達よりも低い生命レベルには、静物または無生物レベル、植物レベル、動物レベルがあり、その上に私達が住む人間レベルがあります。しかし、残念ながらこのレベル(人間)も、単に複雑な動物です。私達に起こっていること、そのプログラミングと本能レベル、そして、より広い視野で人生の出来事が理解出来るようになるために、たった1つの断面を見るだけでは、その計画、ベクトル、目的地に向かっている物事の発展の仕方を理解できません。人間のレベルで、この断面だけを見て理解することは不可能です。自分の髪を自分で引っ張って高いレベルには上がれません。私達はカバリストが「スピーキング・レベル(言葉を話すレベル)」と呼ぶ、より高いレベルからそれを考察出来るようにならなくてはなりません。人間のスピーキング・レベルでは、人は上層のシステムの一部になりはじめ、クリエイターが提供する指導システムの全体を見ます。その唯一の力が受取る意思を通じて私達を良いものに引きつけて、悪いものから遠ざからせるのです。もし私達が、この上位のレベルからそれを見れるなら、様々な出来事を分離されたものと見なさなくなり、どんな物事の理由も認知できないこの時空間に関連させて、それらを名付けることもなくなります。