聖母マリアと独生女論の誤り

堕落と復帰における原罪問題 <トップ> 聖母マリアの虚像

■『原理講論』の曖昧さとキリスト教神学の欺瞞が生んだ独生女問題
     4. 原罪からの解放


1. 有原罪から無原罪へ

 (1) 長子権復帰から皇族圏復帰まで

 長子権とは、長男や長女に与えられる特権ではない、神の最初の子(長子)に与えられる特権(嗣業)なのである。神は先ず長子を愛し、愛の伝統を築こうとされたのである。(「信仰基台とカイン・アベル」参照
 故に、アダムの堕落によって失われた“長子の嗣業”の言葉は、ヤコブの時に聖書に初めて登場する。このヤコブによって、神の選民(イスラエル)としての摂理が始まりました。

  @ 長子権と祝福結婚

 人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。 (中略) そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。(『原理講論』p78〜p79)


 『原理講論』には、人間始祖アダムとエバは成長期間の途上である“長成期完成級”に堕落したと記されている。それは、堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するとしているが、神は二性性相の神であるため、人間も“個人”ではなく、アダム(主体)が夫となり、エバ(対象)が妻となって、神は二性性相が中和一体となって唯一あられるように、また人間も心(主体)と体(対象)が一体となって独りの人間であるように、アダムとエバもその個性が調和し一体となって完成するのである。
 蘇生期は体の発育と心において心情の啓発期間であり、長成期は体の成長はもちろんであるが、心において情操を豊かに実らせ、その完成級においては体や行動を心が主管できる状態に至って自らの不足を補完する目的から相対を迎え、結婚して完成期に至る。
 完成期は夫婦が一体となって、神が宇宙を創造したように内外の環境を理想世界として築き上げていくとともに夫婦としての心情の円満さを反映させることによって完成する。(『統一思想要綱』p697〜p752)
 つまり、アダムとエバの堕落は夫婦となる前、心が体やその行動を主管しきれていないときに、霊的・肉的における性的関係を結んでしまったために、心が体やその行動を主管できなくなった。これは、人間の心に原理でいう本心が定着できず、良心としてあるが、邪心が実って定着してしまったために、良心との間に葛藤が起きる。堕落人間は、良心の力を強くするために宗教をおこした。しかし、これまでの宗教は真の神を提示することができず、本心には至らなかったというのである。「本心」と「神の創造本然の人間の姿」を、『統一思想要綱』では次のように記している。

 生心と肉心は本来、主体と対象の関係にある。霊人体が主体であり、肉身が対象であるからである。したがって肉心が生心に従うのが本来の姿である。生心と肉心が合性一体化したものが人間の心であるが、生心が主体、肉心が対象の関係にあるときの人間の心を本心という。肉心が生心に従うということは、価値を追求して実現する生活を第一義的に、物質を追求する生活を第二義的にするということである。言い換えれば、価値生活が目的であり、衣食住の生活はその目的を実現するための手段である。そればかりでなく、肉心が生心に従い、その機能をよく果たせば、霊人体と肉身は互いに共鳴する。この状態が人格を完成した状態、すなわち本然の人間の姿である。(『統一思想要綱』p228)


<参照>
 パウロの伝道と三位一体論の展開

 さて、話を戻すと『原理講論』では人間始祖アダムとエバは堕落して天使(僕)の僕の立場まで堕ちてしまったとしている。そこから復帰して再び長成期完成級においてメシヤを迎え、メシヤに従って残された完成期を通過し完成に至らなければ、完全なる救いに至ることができないとしている。(上左図)

 復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。...人間は長成期の完成級において堕落し、サタンの主管下におかれるようになってしまった。したがって、このような人間を復帰するためには、まず、サタンを分立する摂理をなさらなくてはならないのでる。...堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない。ところで、この原罪は、人間が、その真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、取り除くことはできないのである。それゆえに、堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。(『原理講論』p271)


 しかし、これはメシヤによって救いを受ける堕落人間に限ったことではない、何よりも先ずメシヤ自身がこの路程を歩み、堕落人間の復帰される道を切り開いて行かなければならないのである。
 そこで、最も困難となる関門が “長子の嗣業” いわゆる “長子権” の復帰である。先にも述べたが(「信仰基台とカイン・アベル」参照)、長子権とは神が愛することのできる最初に生まれた人間としての特権のことです。そのことによって、家長としての(形状的)権利と(性相的)責任が生じるのです。この責任としてあるのが、家の伝統を正しく立て、且つ正していかなければならないというものです。嗣業とは “受け継ぐべきもの” のことであり(「嗣業−受け継ぐべきもの」参照)、まさしく伝統として継承されることを言います。その様な段階に至って初めて結婚を通じて神の愛を立体的に実践し結実させるまでの完成期を先駆けて歩まれるのです。(右図)

  A 創造の順序における問題点

 天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在(天使)との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。(『原理講論』p107〜p108)


 さて、天使と人間は無形と有形の差こそあれ、霊的観点で見れば、その感性において全くおなじなのである。つまり、天使は神によって最も最初に創造され、人間は最も最後に創造された。言わば、天使長ルーシェルは長子、アダムは次子に該当する(左図左)。ところが実際は、天使は霊的存在で、神の僕、アダムは霊肉を合わせ持つ実体的存在であり、神の子として創造された(左図右)。  ちころで、ここで問題になるのは、“人間の心” です。『原理講論』には、生心と肉心が合性一体化した作用体(『原理講論』p88)であるとし、その心が常に自分が善であると考えるものを指向する場合を “良心 としている(『原理講論』p88)。また『原理講論』では、善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心である(『原理講論』p89)としていて、二性性相の主体として本心が、その対象として良心があるように表記している。さらに文先生は次のように語られている。

 「良心は両親に優る、良心は先生に優る、良心は神様に優る(『訪韓修練会御言集』p80)」と。

 ここで、良心を本心に置き換えるとしっくりするのだが、なぜここで文先生は “良心”(自分が善と考えるものを指向する心)という言葉を用いらたのか。先に述べた『統一思想要綱』の本心のところで、本心とは、生心が主体、肉身が対象となった人間の心であるとしていることから、“自分が善であると考えるものの指向が生心と一致し、それに肉身が従わなければならないということになる。生心とは、神が臨在される霊人体の中心部分をいい、霊人体は神からくる生素を主として成長している。また、真理で生心が要求するものを悟り、その通り実践すれば人間の責任分担を完遂できると『原理講論』では述べられている(「パウロの伝道と三位一体論の展開」参照)。
 これらのことから、自分善であると考え、それを指向する基準が真理(神のみ言葉)と一致し、それに従って行動や生活を行える基準。つまり、人間の心において、生心が肉身を完全に主管しきれない(良心的)基準から、生心が肉身を完全に主管する(本心的)基準に成長し完成するようになることによって、神が人間に長子としての嗣業を付与することができるのである。この時、人間は、無形実体世界に通じる霊人体が、肉身をもって有形実体世界を主管できるようになるのであり、神は、人間の霊人体を通じて、有形実体世界を間接的に主管するようになるのである(『原理講論』p82〜p84)。結局、神の創造目的を実現できる実子の立場に人間が立つことによって、神が天使を僕として創造したように、天使は人間の僕の立場に立つようになるのである(上図)。

  B 原罪のある父母から無原罪の子女が誕生できる原理

   a)ユダヤにける血統の継承(レビラト婚)

 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。(『申命記』25章5節)


 上記の内容は、古代ユダヤで公認されていたレビラト婚である。『原理講論』では、下記に示すように、原罪のある父母から、無原罪の子女を生むことは不可能であるとする一節が明確に示されてある。そのため、文先生の語られた内容に不明確な部分があれば、聖母マリアや独生女のような問題が再燃しても不自然なことではない。
 キリスト教は、イエス・キリストが神か人間かの問題で対立すると、分裂し、十字軍の失敗による弱体化を立て直そうとするかのようにマリアの神格化に取り組んだ。

<参照>
 レビラト婚
 ・ 故人の妻と、兄弟は結婚できるのに…。
 「聖母マリア」神聖化の隠された理由

 原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。(『原理講論』p264)


 ところで、文先生の語られた内容と原理を少し違った角度から見ていくことで、原罪のある父母から、無原罪の子女を生むことは可能であることがより明確となるのである。
 さて、ここでアダムとエバの堕落をもう一度考えてみよう(右図上)。
 神の天使長ルーシェルとアダムの創造において、霊的存在としてだけみれば、天使長ルーシェルは長子、アダムは次子とみることができる。そして、人間として生まれたアダムを兄とする妹エバが生まれ、成長期間の途上である長成期完成級にエバに対する天使長ルーシェルの誘惑によって、第一の堕落である霊的堕落が起こり、その後、エバがアダムを誘惑し、第二の堕落となる肉的堕落が起こっった。この時アダムは未だ神が長子の嗣業を相続することのできない立場、つまり善悪知るの木の実を取って食べてはならないという戒めの期間にあったのである。この堕落行為によって、アダムは、神からの嗣業を受けることができなくなり、サタンとなった天使長ルーシェルよりその嗣業を原罪として受け継ぎ、エバによつて子々孫々にまで繁殖してしまったのである。
 アダムの家庭から復帰は始まったが、まず最初となる神の嗣業をヤコブが取りもどし、ヤコブの子ユダの時に、無原罪の子女が生まれる可能性の扉が開いたのである。その扉を開いたのが、タマルの信仰であり、レビラト婚の限界を超えた決死の行動だったのである。これをそうさせたのは、もちろんユダの信仰によって、神の嗣業を担う長子としての立場に立ったのである。その元となるアブラハム、イサクから、ヤコブへと受け継がれ、ユダによって一つの段階が完了し、ユダヤ教が成立し、イスラエルが選民となって復帰摂理を出発したのである。もちろん、タマルによって血統転換が成されたと原理では語られているが、無原罪の子女が誕生したわけではない。そのためには、もう一つの蕩減復帰摂理が必要なのである(上右図下)。次に、その内容を、もう少し詳しく見ていくことにする。

<参照>
 ユダとタマルの内的摂理完成と外的摂理
 ルツ記
 ルツ記3−4章 「ルツの報い」(エリメレクとボアズは兄弟)



   b)本妻と妾

 カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。(『原理講論』p292)


 イエス様はザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は、母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉と妹の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子一体になれなかったのを国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。(『真の家庭と世界平和』 p135;「救いの摂理史の原理観」より)


 イエス様の相手は、他の所から取ることができません。自分の直系のいとこの妹(年下の女性)でなければ、母方のいとこしかありません。血統が違ってはいけないのです。母方のいとこは同じ所属なので可能なのです。(「イエス様の生涯と愛」p122)


 (左図参照)さて、堕落の経路から見ると、最初に天使長ルーシェルの誘惑により、エバとの間で最初の堕落である霊的堕落が起こった。次にエバの誘惑によって、アダムとの間で第二の堕落である肉的堕落が成され、アダムとエバとの間にカイン(長子)とアベル(次子)が誕生した。復帰原理では、カインはアダムの子ではあるが、堕落の順序に沿って最初の堕落の子を長子に、第二の堕落の子を次子に当てている。これは復帰を成すうえで分かりやすくしたものと言える。カインをサタンの子(悪の表示体)、アベルをアダムの子(善の表示体)に分立したのである復帰原理は、アベルによってカインを救う(復帰する)神の摂理原理であるが、堕落当時のアダムは、長子の嗣業が神から与えられていない状態で、エバとの関係をもったことがアダムの堕落である。長子の嗣業とは、長子権の性相的部分である。先に述べたように、長子権とは“神の愛を最初に受けることのできる権利(形状)と受け継ぐもの愛の伝統=性相)”をいう(「信仰基台とカイン・アベル」参照)のであり、これによって神の愛が介入できることを意味する。
 次にエバの問題である。霊的・肉的堕落を成したエバは独りであるが、この場合も最初の霊的堕落を成した立場のエバを“本妻”、次の肉的堕落を成した立場のエバを“”に分立した。本妻は堕落したエバの立場であるが、妾はサタンから神が取りもどしたエバの立場として、復帰された善側のエバに立ちます。この正妻と妾の立場は、独りのエバによる堕落を、復帰という観点からカイン(悪側:姉)とアベル(善側:妹)に分立した立場です。故に、その関係はいとこ関係の範囲内で、本妻が年上(姉)、妾が年下(妹)の関係でなければならないのです。そこで、長子権を復帰したアダムを通じて神が主管し、復帰した神側のエバによって、次子アベル(神側)の立場で“神の独り子(独生子)”として無原罪の子女が誕生可能となるのです。こうして、ザカリアとマリアとの間に誕生したのがイエス様でした。
 ところで、現実的にはこの状態は重大な問題点を含んでいるのです。それは、原罪をもって長子として誕生したのがカインで、次子として無原罪で誕生したのがアベルという問題です。これに、そのため、アベルは本来、愛されるべき立場のものが愛されないばかりか、妾の子としてつま弾きにされてしまう立場にあったのです。まさしく、そうした環境に追いやられたのがイエス様でした。ここには、皇族圏という残された問題があるのです。

   c)エバの蕩減復帰による皇族圏

 一つ目は何かというと長子権復帰であり、二つ目は何かというと、父母権復帰です。分かりますか? 父母権復帰です。三つめは何かというと、王権復帰です。四つ目は何かというと、皇族圏復帰です。皇族というのは、レアを中心とした女と子供とラケルを中心とした女と子供の、両方の愛の敵対関係が残っているのだから、皇族というのはイエス様の直系の子供ではないのです。分かりますか? @ 堕落した正妻の圏で、神に反対してきたカイン的な者たちが復帰されて、妾が神のほうの正妻になるのです。神の正妻になって、妾の立場で、それを慕っていくことによって蕩減復帰になるのです。分かりましたか? (はい)。
 このことを再臨の時代に見た場合には、お母様と君たちは姉妹です。女は一つになるのです。正妻と妾と同じです。だから、あなたたちに旦那さんはいないのです。分かりますか? それを真のお父様がつくってやらなければならないのです。君たちは、それまではずーっと女として未完成の女です。再び、真の父母が生んでくれなければ、真の女にはなりません。分かりましたか? (はい)。
 こういう皇族圏というものは、一族が復帰されたヤコブ圏によって反対になったと同じようなものを皇族圏というのです。それは復帰された、神様から見た正妻の立場に立った女の子供の所が長男です。長子権復帰の権限を持つのだけど、長子が次子としてここに一体となっていくのです。そうなるというと、本妻にラケルとマリヤがなって、エリサベツとレアが妾の立場より復帰していくのです。サタンのほうの姉さんが、本妻が、妾の立場で一つになっていかなければ復帰はできません。ちょうど反対です。分かりましたか? (はい)。(『訪韓修練会御言集』p131)


 先ず最初は長子権復帰です。長子権を復帰した男性と神様の本妻の立場に立った女性によって父母権復帰。その父母によって、“神の子”としての王子の誕生によって王権復帰。そして最後に、王子を支える親族としての皇族圏復帰によって、神の王族が復帰完成されるのですが、これは神(側)の長子権復帰であり、父母権復帰、そして王権復帰、皇族圏復帰です。しかし、皇族圏復帰とは、最後に成されるのではなく、王権復帰時もしくはそれ以前から始まっている摂理です。
 左図をご覧ください。ヤコブの妻であるレア(姉)とラケル(妹)の位置が反対です。本来ならば、本妻と妾は、レア(姉)が本妻、ラケル(妹)が妾の立場です。そもそも、ヤコブとエサウが親の決めた通りに結婚していれば(「イサク献祭とイサクの家庭」参照)左図のようになったのかもしれませんが、実際エサウが異邦人の娘を妻にめとったため(創世記26章34節〜35節)、ヤコブの本妻にレア(姉)が、妾の立場にラケル(妹)が入ったのである。しかし、ここに問題があったのです。ヤコブは、本妻であるレアを愛さず、妾の立場にあるラケルを愛しました。そのため、レアは神の妻であるような言動を行い、ヤコブの子を産んだのです(「ヤコブの母リベカと妻レア」参照)。そして、レアの子ユダの血統から、イエス様の誕生を迎えるのです。
 ところで、レアは姉であるから、妹のラケルを慕うことは蕩減復帰にはなりません(青下線@)。それどころか、ヤコブから愛される自分が夫の子を産めず、そうでない姉が子宝に恵まれる現実に、姉レアとの関係が厳しくなっていくのです。
 皇族圏復帰とは、アベル(妹)の立場にある妾(神の正妻)が、カイン(姉)の立場にある本妻を慕うことでの蕩減(妬む立場から反転して慕う立場に立つこと)によって、その行為の影響が親から子に影響し、本妻の子である長子が妾の子次子を慕ってくるようになる(復帰)ことを意味しています(青下線@)。

<参照>
 ダビデの子孫の系図

 余談になりますが、イエス様の結婚相手は(「イエスの30年準備時代と十字架」参照)、これまでの内容と下記の御言葉を考え合わせると、マグダラのマリアは、ヨハネの母方のいとこということになるのでしょうか。

 そうなると、イエス様の相対は誰になるかというと、アダムの妹です。アダムの妹を天使長が取っていったのです。これが堕落です。カイン(洗礼ヨハネ)の妹を、今度はアダム(イエス様)が取ってこなければならないのです。これが蕩減復帰です。分かりますか? イエス様とヨハネの関係を見れば、こっちがカインです、こっちがアベルです。アベル(アダム)の妹をカインが取っていったのだから、カインの妹を、今度はアベル(アダム)が取ってくるのです。まさしく蕩減復帰です。そうなるというと、洗礼ヨハネの妹を、イエス様は妻として迎えなければならないということになるのです。(『訪韓修練会御言集』p132)


<参照>
 再創造摂理と復帰摂理の分岐点
 ヤコブの母リベカと妻レア
 統一王国時代 (上)
 イエスの誕生の秘密 (下)


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