■『原理講論』の曖昧さとキリスト教神学の欺瞞が生んだ独生女問題
3. 堕落と復帰における原罪問題
1. 神性としての創造性
(1) 成長期間におけるアダムの責任分担
@ 天使長ルーシェルとアダムの創造
神はまた言われた、「@ われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとをA 治めさせよう」。(創世記 第1章26節)
|
創世記の第1章26節にある“われわれ”は、唯一であられる神御自身と天使を含めて複数形として記されている(
赤下線@)ことは、本編第二章の第二節「
f. 再創造摂理と復帰摂理の分岐点」において既に論じた。ここでは、森羅万象を治める“主管”(
赤下線A)について少し考えてみることにしよう。
a)神性としての創造性
統一思想は現実問題の解決に直接関連する神性として、心情、ロゴス、創造性の三つを挙げている。(『統一思想要綱』p52)
|
『原理講論』によると、無形であられる神は直接有形実体世界を主管できない。そのため、神に代わって、人間を無形と有形の実体世界を主管できるように創造されたとしている。
ところで、創造主がその創造主による被造物を主管する権利を有するという原則により、人間にも創造主としての資格が必要だとしているのである。
『統一思想要綱』によれば、人間には“神性”として「心情」と「ロゴス」、「創造性」が付与されていると述べられているが、この「創造性」がその資格を得るに絶対必要なのであり、且つそれは、神の「心情」と「ロゴス」に適うものでなけれなならないとしている。
b)成長期間における責任分担とは
<参照>
・ パウロの伝道と三位一体論の展開
ここで原理自体の自律性とは有機体の生命力をいい、主管性とは生命力の環境に対する影響力をいう。例えば一本の木が成長するのは、その内部の生命力のためであり、主管性はその木の生命力が周囲に及ぼす影響をいうのである。人間の成長の場合にも、この原理自体の自律性と主管性が作用する。しかし人間においては、肉身だけが自律性と主管性によって成長するのであり、霊人体はそうではない。霊人体の成長には別の次元の条件が要求される。それが責任分担を完遂することである。
ここで明らかにしたいことは、霊人体の成長とは、肉身の場合のように霊人体の身長が大きくなることを意味するのではない。霊人体は肉身に密着しているので、肉身の成長に従って自動的に大きくなるようになってはいるが、ここでいう霊人体の成長とは、霊人体の霊性の成熟のことであり、それは人格の向上、心情基準の向上を意味する。要するに、神の愛を実践しうる心の姿勢の成長が、霊人体の成長なのである。
このような霊人体の成長は、ただ責任分担を完遂することによってのみなされる。ここで責任分担の完遂とは、神に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛の実践を継続することをいう。
神も干渉することができず、父母もいない状況で、そのような責任分担を果たすということは大変難しいことであったが、アダムとエバはそのような責任をすべて果たさなければならなかった。しかしアダムとエバはそのような責任分担を果たすことができず、結局、サタンの誘惑に陥って堕落してしまった。それでは神はなぜ失敗しうるような責任分担をアダムとエバに負わせたのであろうか。万物のように、たやすく成長しうるようにすることもできたのではないであろうか。
それは人間に万物に対する主管の資格を与えるためであり、人間を万物の主管主にするためであった(創世記一・二八、『原理講論』一三一頁)。主管とは、自分の所有物や自分が創造したものだけを主管するのが原則であり、他人の所有物や他人の創造物は主管しえないようになっている。ことに人間は万物よりあとに創造されたのであるから、万物の所有者にも創造者にもなりえないはずである。しかし神は、人間を神の子として造られたために、人間に御自身の創造主の資格を譲り与え、主管主として立てようとされたのである。そのために人間が一定の条件(アダムとエバが自己を完成させること)を立てるようにせしめて、それによって人間も神の宇宙創造に同参したものと認めようとされたのである。(『統一思想要綱』p71〜p73)
|
『原理講論』によれば、人間の成長と完成は、「原理自体の自律性と主管性(肉身)」と「自身の責任分担(霊人体)」があり、人間が人間らしく、またその人格と心情において神の愛のように永遠性や普遍性を醸し出す熟成された愛として完成するためには、「人間自らのの責任分担」として完遂されなければならないという。それを実体化させるために、神は人間に“長子の嗣業”を付与するのである。
人間は霊人体で得る神的要素を心に感じて、肉身において行動するのであるが、その行動が他の人間や万物、様々な環境に影響を及ぼし、そのことがそれらに愛として作用するようになると、その人間は主人としての主管が始まっていくようになるのである。先にも述べたが、“自身の責任分担”としては神の「心情」と「ロゴス(理法)」に適っていなければならない。神の「心情」とは、「
愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」(『統一思想要綱』p52)とある。この“喜ぼうとする”という喜びを『原理講論』では次のように述べている。
神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。(『原理講論』p65〜p66)
|
ここで説かれている“喜び”は、対象からくる刺激であり、その対象は、自己と似ている要素を持っている、(自己の性相と形状のとおりに展開された対象)ことが前提とされ、そこからくる刺激が認識され理解される(自体の性相と形状とを相対的に感ずる)ものとなって喜びに至ることが示されている。つまり、真の喜びに至るためには、対象を認識し理解すること以前に自らを認識し理解していることが前提となる。“己を知って相手を知る”ということが明確な“喜び”に至るということなのえある。
この期間は、人間の成長期間における「長成期」に該当する。自らの個性を理解し、その個性と相対的な対象を探し出す機関である。ここでいう“相対的な個性”とは“補完しあう個性”という意味で、イコールという意味ではない(「
イサク献祭とイサクの家庭」参照)。自らの個性の不足を補い満たすことによって“喜び”が生ずるのであるが、この関係を満たすことのできる主体と対象の関係を原理では“二性性相の相対的な関係”と表現しているのである。
神は、このような愛の関係を築ける主導権を、長子権を長子の嗣業としてアダムに与えようとされ、「とって食べるな」という戒めのみ言葉を与えられたのである。
<参照>
・ パウロの伝道と三位一体論の展開
・ 原始キリスト教の聖霊と三位一体