復帰摂理歴史の真実
イエスの誕生の秘密 (下) <トップ> 洗礼ヨハネと12使徒

■ 第三章 キリスト教と大航海時代
 第二節 イエスの30年準備時代と十字架

1. イエスの家庭事情と結婚をめぐる摂理

 (1) ヨセフとマリヤの重要な立場

  @ イエス様の家庭事情

   a) 正しい人であったが故の受け難い衝撃と信仰

 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
  その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。(マタイによる福音書1章18節〜24節)


 ヨセフは「(ただ)しい人」であったと『マタイによる福音書』にあります。彼は婚約者のマリアが孕んでいることを知ると、強烈な衝撃を受け密かに離縁することを決心します。ユダヤの律法に忠実な義人であれば、マリアを不義姦通として世間に公表した上で離縁することは当然のことだったのです。ところがある夜、ヨセフの夢に現れた天使によってマリヤは “聖霊によって身籠った” と告げられたので、後日マリヤを追及すると、マリヤは “聖霊によって身籠った” と答えたので、「義しい人」ヨセフはそれを受け入れマリアと結婚したのです。



   b) ヨセフとマリヤが結婚してはいけない理由

 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ一・56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。
 少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか。愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。
 その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか。もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです
 マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか。ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。
 マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係が心情的に距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です
。こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。(「救援摂理史の原理観」1996年4月16日、ワシントンDCにおけるワシントン・タイムズ財団創立大会講演文より)


 “マリヤはヨセフと結婚してはいけなかった” と文鮮明先生は何度も語られていますが、婚約したヨセフとマリヤがなぜ結婚してはいけなかったのでしょうか。それは結婚そのものではなく、結婚したが故に子供を儲けることがいけなかったのです。ヨセフとマリヤとの間に子供を儲けたことによって、私生児イエスとヨセフの子との間にカイン・アベル問題が生じることで、マリヤを愛すれば愛するほどヨセフの心に苦痛が生じたのです。このことに対するマリヤは、ヨセフの子をより一層愛するようになり、それと対照的にイエスに対する愛は冷めていくのです。



  A イエス様の結婚を巡る問題

   a) 存在しなかった洗礼ヨハネの妹

 イエス様の親戚の中に誰がいたでしょうか。洗礼ヨハネの妹がいたらどれほどよかったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリヤがイエス様を身ごもったのち面倒を見てくれました。イエス様が腹中にいるときから歓迎しました。(「イエス様の生涯と愛」p121)
 もし洗礼ヨハネの妹がいれば、その妹が幼いころからイエス様が東に行けば東について行き、西に行けば西についていきたくて、ついていけなければ「私はたまらない」と言うぐらいに、片思いするようにさせなければなりませんでした。(「イエス様の生涯と愛」p121)
 そのようにするには、誰でもいいというわけではありません。そのような女性は、今まで信じられなかった歴史的なすべての内容を解き得る、特別な民族の中に現れなければなりませんでした。(「イエス様の生涯と愛」p122)
 イエス様の相手は、他の所から取ることができません。自分の直系のいとこの妹(年下の女性)でなければ、母方のいとこしかありません。血統が違ってはいけないのです。母方のいとこは同じ所属なので可能なのです。(「イエス様の生涯と愛」p122)


 文鮮明先生の御言葉には、洗礼ヨハネの妹が存在したように何度も語られていますが、上記の箇所には、「洗礼ヨハネの “妹がいたら” どれほどよかったでしょうか」とか「 “もし” 洗礼ヨハネの “妹がいれば” 」と “仮定形” で語られています。このことは、洗礼ヨハネの妹は実際存在しなかったことを意味しています。
 ではなぜ実際に存在したかのように何度も語られているのでしょうか。それは、堕落したアダムとエバは兄妹で、それを蕩減復帰するためには兄妹関係で蕩減復帰するのが最善のことに他なりません。
 しかし現実は、マリヤはザカリヤとの間にこれ以上子を儲けることは不可能で、エリサベツは不妊の女で年老いての子がヨハネであったので、次にもう一人、況してや女の子というのは極めて無理でしょう。ヨハネの姉がいたとしても妹は考え難いことです。
 もし、イエス直系の従妹となる洗礼ヨハネの妹に代わる娘を探すとすれば、母方の従妹の立場であり “特別な民族(ユダヤ民族)” の中から探さなければならないと言うのです。



   b) サマリヤの女

 イエス様がサマリヤの女を引き止めて、話した理由とは何でしょうか。サマリヤの女を僕にしようとしたのです。母を失い、新婦を探せず、僕であるサマリヤの女の所に行って水をくれと言ったのです。その女性はサマリヤ人、僕でしょう? ところが、この僕も責任を果たせませんでした。このサマリヤの女は、僕の中でもぼろ布のような女の僕なのです。五人の夫に仕えた女性でした。家庭の暮らしは貧しく、汚れた女性だったのです。
 そのような女性でも、イエス様のみ言を聞き「この道だけが私の生きる道だ」と言いながら荷物をまとめてイエス様に従ったとすれば、どうなったでしょうか。マグダラのマリアよりも立派になったのではないでしょうか。そのようにしていたならば、そのサマリヤの女は、マグダラのマリヤ以上の立場に立つようになったことでしょう。(「イエス様の生涯と愛」p116〜p117)


    (@)サマリヤの信仰と差別

 バビロニア捕囚から解放された捕囚民がエルサレムに帰還して神殿の再建が行なわれようとした時、在地の人間と争いになりました。ネヘミヤが総督として赴任すると、南部ユダからサマリヤ北部の地域が切り離されて独立した県となったので、サマリヤ人とユダヤ人の溝が一層深くなりました。
 アレクサンドロス3世の支配の後、帝国は分裂しますが、サマリヤはマケドニヤからプトレマイオス、セレウコス王朝と次々と支配者が替わります。エルサレムに第二神殿ができると、サマリアでも紀元前330年頃シケム(分け前の意味)の傍に聳えるゲリジム山に神殿を築いて独自の祭儀を行い、エルサレムとより一層対立を深めたのです。

<参照>
 ユダ王国の再建からローマ支配へ

 これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。(ヨハネによる福音書4章9節)


 サマリヤ教団が独自のモーセ五書を保存してきたサマリヤ五書は、ユダヤ教のマソラ本文とも、キリスト教が利用するギリシャ語70人訳五書と内容的にほとんど同じですが、モーセただ一人を真の預言者として他の人物は預言者と認めていません。これは、サマリア歴代志(サマリヤ教団自らの歴史書)の分析から明らかになったことです。
 ヨハネによる福音書第4章では、スカルと言う名のサマリアの町での出来事が登場します。イエス一行は、エルサレムからガリラヤへ下る途中でヤコブの井戸の処で休息を取りました。イエスはここで一人のサマリア女と出会い、彼女の話を通して町中の人々はイエスをメシヤとして受け入れたとされています。

 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
 ― 中略 ―
 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。(ヨハネによる福音書4章18節〜30節)


 ヨハネによる福音書では、イエスを正しく理解した最初の者がサマリアの女であるとして、この女の話を聞いて村人がイエスをメシヤとして受け入れられたことによって、イエスはユダヤ人から拒絶と激しい非難が浴びせられ、ガリラヤでのパンの奇跡では民衆だけではなく弟子の中からの離反者が出たと記されています。

<参照>
 資料:サマリアとは



   c) マグダラのマリヤ

 ガリラヤ湖で獲れるヘブル語で「アムヌン母なる魚)と言う魚は、12使徒のペテロ(ピーター)がガリラヤ湖で釣りをしていると、口に銀貨をくわえた魚が釣れた事から、「聖ペテロの魚(セント・ピーターズ・フィッシュ)」と呼ばれるようになったガリラヤ湖産の淡水魚ティラピアです。

<参照>
 ★イスラエル車旅 ?ガリラヤ湖の美味 セント・ピーターズ・フィッシュ

 このガリラヤ湖北西岸のマグダラミグダル)という漁師町豊かな町でしたが、その豊かさのため遊女が増えたことで “退廃の町” と呼ばれていたのです。
 「マグダラのマリヤ」という女性が四福音書に登場するのは、七つの悪霊をイエスに追い出していただき(マルコによる福音書16章9節〜11節、ルカによる福音書8章2節)、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けた(マタイによる福音書27章55節〜28章8節、マルコによる福音書15章40節〜16章8節、ルカによる福音書24章8節〜10節、ヨハネによる福音書19章25節〜26節)こと。そして、復活したイエスに最初に立ち会い、「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」とイエスに窘められた(ヨハネによる福音書20章1節〜18節)ところです。
 また20世紀になって発見された外典とされる『ナグ・ハマディ写本(右図)』の記述によると、登場人物の「マリハム(マリア)」とはマグダラのマリアと考えられことから、この本文書は『マグダラのマリアによる福音書』とも呼ばれています。
 この文書の後半部分にはマグダラのマリヤが登場し、ペテロがマリヤに対して「救い主(イエス)が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています」と言って、彼女が救い主から授かった秘伝を他の人々にも話すよう求めたことが記されています。
 ナグ・ハマディ写本群に含まれていた『トマスによる福音書』や、『フィリポによる福音書』などにもマグダラのマリアは、イエスとの親密な様子のみならず、男性たちと並ぶイエスの弟子として現れています。

<参照>
 マグダラのマリア(ウィキペディア)
 【衝撃】「マグダラのマリアの顔」を遺骨から完全復元!
 キリストはマグダラのマリアと結婚していたかもしれない謎のテキストを発見



   d) 当時のユダヤ人社会での女性像と結婚について

<参照>
 資料:マグダラとガリラヤ湖、女性像、婚約と結婚

    (@)紀元1世紀の女性像と結婚

 当時のユダヤ人社会では、女性の地位は現代人が思うほど低くはありませんでした。自分の財産を売買する権利があり契約も出来たのです。紀元前数世紀から、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)はユダヤ人の生活に欠かせないものでしたが、シナゴーグでの礼拝には女性も参加し、宗教的務めも果たしていました。第二神殿時代以降は、女子も読み書きを学び、トーラーも学んでいて、学校に入る事も出来たのです。また、律法を熟知していなければ、生活そのものが出来なかったため、これらのことは幼いころから母親や祖母から学んでいたのです。
 また、紀元1世紀のユダヤ人社会でも、女性の容姿の美しさは大切でした。しかし、それ以上に “内面の美しさ” が問われたのです。家庭生活は地域社会との繋がりが大変強く、女性の働きは重要でした。一家の長は父ですが、生活の土台を支えたのは母でした。だからこそ結婚は重要であり、結婚式の行列と葬列が道で出合うなら、結婚式の列がいつも先に進むようにとラビは教えていたのです。そのため、ヘブライ語には独身を意味する単語はありません
 ところが、裕福な家族は満足な生活を送れたかも知れませんが、貧困な家族はそうはいきませんでした。母親はためらいもなく自分の娘を遊女として売ったのです。さらに、こうして娼婦となって蓄えた娘の財産を横領する親族がいた事も、福音書のたとえ話からうかがえます。
 適齢期になっても結婚しない者は、ユダヤの会衆とは認められなかったのです。イエスが「大飯くらいの大酒飲み」と揶揄されたのは、律法に違反する者の象徴であり、独身でいたことを非難する言葉でもあったのです

    (A)婚約と結婚

 ユダヤ教では、結婚の制度を “神聖なもの” として重んじていました。ユダヤ教のミシュナーには(ユダヤ教指導者・ラビ群のトーラーに関する註解や議論)の中には、ナシーム(Nashim) という7編構成の結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人の法に関係する事が書かれています。この律法では、ユダヤ人はユダヤ人(後には母親がユダヤ人か改宗者でも認められる)としか結婚出来ないとされていました。

     ・ 婚約期間

 結婚には、二つの段階があります。最初の「婚約期間」では、友人・隣人が証人として集まり、両家が顔を合わせ、二人が一つの杯を分ち合って飲み、婚約の儀式とします。この瞬間からユダヤ教においては、結婚した夫婦と同様に見なされ、互いに完全な献身と貞節が求められます。ゆえに婚約破棄は、離婚と同じ手続きになっていました。当時は、一旦婚約が確定すると男性は実家に戻り、結婚式に備えました。伝統的には一年後に式が持たれる事になっていました。畑を耕し、作物が植えられ、父の家に妻を受け入れる部屋が作られます。花嫁を迎えるために万全の配慮と取り組みがなされ、細心の注意が払われました。

     ・ 結婚式

 結婚式当日は、新郎は花嫁を迎える準備に専念し、新婦は新郎が迎えに来るのを待ちながら断食をします。女性は必ず結婚式の前にミクベ(沐浴場)に浸りました。花嫁衣装が用意され、花嫁介添人は準備を整え、夜に到着した場合に備えてランプの手入れとタイマツを用意したのです。水曜日の夕方から夜に、新郎が新婦の家に迎えに行きます。花嫁と介添人たちは、通りから新郎と結婚を祝う仲間たちの音を聞くと、花嫁は素早くベールをまとい、花婿に会うために通りへ案内されます。この時、介添人達はタイマツにランプで火を付けて盛大な明かりを灯して行きます。大きな音とお祭り騒ぎで、花嫁は輿(こし)のようなものに乗せられ、一行は結婚式が既に始まっている新郎の家まで進みます。
 結婚式は通常、ユダヤ教のラビにより執り行われます。結婚式の前半では、「ケトゥバー(Ketubah、文書の意)」と呼ばれる結婚契約書が作成されます。契約書にはすでに離婚の時に支払う金額が書いてあり、後でこれはラビにより読み上げられるのです。契約書に署名すると、花婿は花嫁の顔をベールで覆います(創世記にあるヤコブの結婚とき、ラケルと偽ってレアと結婚された逸話に由来します)。これは花嫁が聖別され、花婿のものとなったという事を示すしぐさと言われています。署名が終わると花婿は、彼の父親と花嫁の父親に、花嫁も両者の母親に伴われて、4本の柱が立てられた天幕「フッパー(Huppah、天蓋)」の下に入ります。これは、二人の新しい「天幕」としての新しい家庭を表しています。そこで花婿と花嫁はラビの挨拶を受け、ラビがぶどう酒で祝福し、二人に飲ませ、次に花婿は花嫁の右手の人差し指に指輪をはめながら「見よ、モーセとイスラエルの律法にしたがい、この指輪によってあなたは私のために聖化された」と唱えます。ラビは「契約書(ケトゥバー)」を朗読し、花婿がそれを花嫁に手渡します。これで結婚の手続きが完了し、結婚式の後半部では、ラビが再びぶどう酒で祝福し、「結婚の祝福(Shevah brakhot)」として聖書から引用して頌栄を唱え、二人に与えます。新郎と新婦は、この二杯目のぶどう酒をこれから共にする生活の象徴として分かち合って飲みます。締めくくりとして、花婿はコップを踏み砕き(喜びの後で、地に足のついた生活を始めるという意味が込められています)、結婚式は終了します。

     ・ 結婚披露宴

 次の段階は、一週間にわたって近隣住民と祝う「結婚披露宴」です。結婚の祝宴は、地域社会にとって重要な儀式でした。そのため、結婚式への出席は“守るべき義務”で、皆が祝辞を述べることが求められたのです。タルムードには、結婚披露宴に関する箇所が何十とあり、披露宴の中で踊られる踊りの種類と長さに関することまで書かれています。式の途中でグラスを割る習慣がありますが、これは冷静な瞬間を持つ事や、ユダヤ民族の苦難を忘れない事などを意味しています。花嫁が貧しくて結婚式や必要な衣装を揃えられない時は、地域社会がそれを提供しました。1世紀のユダヤ人社会では地域ぐるみで支える責任があったのです。



   e) 母マリヤと新婦を迎える摂理

 そのような観点から見ると、C イエス様が亡くなることになったのは、女性のせいなのですA その女性とは、三段階の女性です。堕落したアダムを中心として見れば、アダムの妻は僕です。@ エバが堕落して僕になったのです。そのような僕の体を借りて、イエス様が生まれたのです
 F イエス様がこの地に来ることによって、養子時代に入りました。養子圏は直系圏に近いでしょう? 僕は直系の息子であるイエス様と関係を結んでこそ、養子圏内に入ることができるのです。それゆえ、キリスト教を信じる人々は養子なのです。
 @ 旧約時代は僕の時代です。イエス様が生まれる前時代である旧約時代は、神様の娘がいませんでした。ですからやむを得ず僕の体を借り、主人(神様)の種を受け取って生まれるのです。マリヤはそのような僕の立場でした。主人の土地がないので僕の畑に行き、主人の種を受け取ってきたのです。僕の畑で受けた種だとしても、種さえ正しければいいのです。神様の種を僕の畑に植えて受けてくるのですが、その畑がマリヤのものなのです。このようなマリヤをカトリックでは聖母とし、あがめて大騒ぎでしょう?
 このように E 僕の体を経て生まれたイエス様を、息子の立場に立てたのです。こうして息子の位置に立ったイエス様を中心として因縁を結んだ使徒たちは、僕の立場から養子の立場に上がるようになるのです。イエス様を中心として、一段階高い所に上がるのです。イエス様と一体になれば、僕の立場から一段階高い養子の立場にそのまま上がるのです。
 A 僕の立場から一段階上がったので、娘が現れなければなりません。僕の体を借りて、神様の息子であるイエス様が生まれたので、次は神様に必要な娘が現れなければならないのです。その娘をイエス様がつくらなければなりません。イエス様が堕落していないアダムになったので、イエス様の妻になり得る堕落していないエバがいなくてはならないでしょう? 後のアダム、すなわち復帰された本然のアダムであるイエス様が現れたので、復帰されたエバが現れなければならないのです
 B ではエバは、どのように現れなければならないのでしょうか。創造の原則によって、エバはアダムを通してつくられなければなりませんB イエス様はマリヤを通して生まれましたが、エバが生まれるに当たっては、そのような原則はありませんA エバが僕の立場で蕩減復帰しようとするならば、イエス様がアダムを復帰完成したのちに、イエス様によってつくられなければならないのですB そもそもエバはアダムによってつくられたので、復帰されたエバもアダムの代わりであるイエス様を中心としてつくられなければなりません
 A それならばイエス様を中心として、復帰されたエバをつくる際には誰の協助を受けなければならないのでしょうか。天使長の協助を受けなければならないのです。ところが男性の天使長の協助を受けてはいけません。なぜでしょうか。男性の天使長によってエバを失ったので、復帰路程においては男性の天使長の協助を受けてはいけないのです。女性の天使長の協助を受けなければなりません。そうしてこそ、エバが創造されるのです。ここで、堕落したエバを誰が復帰すべきかというと、アダムが責任を取って復帰しなければなりません。つまりイエス様御自身がしなければならないのです。
 D 女性の天使長の協助を受けて、イエス様の相対的存在であるエバを創造しなければならないのです。そのためにはマリヤが、イエス様のみ旨を中心としてイエス様と一つにならなければなりません。そうなれば、男性の天使長の立場に立ったヨセフが協助するようになるのです。そうしてこそ、堕落することによって僕の立場に落ちたアダムとエバが、息子、娘の立場に復帰されるのです。
 アダムとエバが天使長と一つになることによって堕落したので、天使長が復帰された立場に立ってこそ、イエス様もイエス様の妻も復帰されるのです。その復帰された立場に立つべき天使長夫婦が、ヨセフとマリヤです。彼らは、イエス様が完成できるように協助してあげなければなりませんでした。
 C イエス様が成人になるまで、喜びの中で完成できるように協助してあげ、彼の新婦を選ぶことにすべての最善を尽くして協助してあげなければなりませんでした。彼らは天使長夫婦の立場で、イエス様とその相手を本然の息子と娘のように完成させてあげるべきではなかったのでしょうか
 マリヤを中心に天使長格であるヨセフは、絶対服従しなければならないのです。そうしてこそ復帰されるのです。エバの前に天使長が屈服していれば、アダムとエバは堕落しなかったでしょう。G マリヤにヨセフが不平を言って服従しなかったのは、マリヤの責任です。イエス様を完成させるに当たっては、マリヤが主体にならなければならないのです。そうして天使長とアダムが失敗したことを復帰してあげなければなりません。エバが天使長とアダム、二人の男性を堕落させたでしょう? ですから H エバの立場であるマリヤが、天使長とアダムを復帰しなければならないのです。(「イエス様の生涯と愛」p117〜p120)


    (@)種(精子)と畑(胎)@青下線

 さて、畑は子宮のことを言い、種は精子のことを指しています。旧約時代ヤコブによって主人(神様)の種が形成されました(「ヤコブの母リベカと妻レア」参照)。また、タマルによって胎中が聖別されました(「ユダとタマルの内的摂理完成と外的摂理」参照)。
 ところで、このタマルによる胎中聖別ですが、具体的にはどの様な事でしょうか。それは、受精した卵子が子宮に着床し、タマルの喜怒哀楽におけるすべての感性を伝授するということです。この時、タマルの感性は主人(神様)の感性と完全に共鳴できる感性になっていなけてばなりません。丁度二つの音叉が全く同じ振動で共鳴するようにです。これは、タマルの体を通じた音による振動や、血液中のホルモンなどの作用によって引き起こされます。

<参照>
 おすすめ方法まとめ胎教はいつから? 音楽や絵本の効果は?
 ・ 井深●対談  ソニー創業者 井深太PDF本サイト

 しかし、受精卵の核となるのは精子の男性前核( “素” となる「生命エネルギー」)と卵子の女性前核( “元” となる「生命体構成要素」)が合体したものです。遺伝子の合成は勿論ですが、遺伝子に従って各構成要素を繋ぎ合わせるエネルギーこそが神の心的エネルギー(前エネルギー「再創造摂理と復帰摂理の分岐点」参照)なのです。このエネルギーを卵子が精子から受け取ることによって核分裂を開始し、人体が形成されていくのです。
 イエス様はその神の心的エネルギーを心の核として、心のままに動じ静ずる人格を備えて誕生されたのです。

<参照>
 胎児の発生
 『人』はこうして作られる(第21回)精子と卵子の旅のフィナーレは『受精卵』の誕生!

    (A)母、娘、僕の女性の三段階A青下線

 マリヤが通過しなければならないのは、「」と「」の段階です。神から見るとマリヤは僕の立場@赤下線)ですが、イエス様から見ればマリヤは産みの母であり、育ての母となって、イエス様を神様の息子として母の立場の締め括りとして “イエス様を兄のように慕う娘” を親族の中から(神様の娘の立場=復帰されたエバ)」として迎える女性を探し出して来なければならなかったC赤下線)のです。そして、マリヤはその女性をイエスに相応しい嫁となれるように協助しなければなりませんD赤下線)でした。その上で、ヨセフ家に養子の立場で入ったイエス様をイエス家の旦那として送り出してやること(結婚させる事がアダムとエバの堕落を蕩減復帰する男性の天使長を代理する女性の天使長としての使命を全うできたのでした。
 「旦那(檀那)」とは、「」の意味も勿論ですが、「布施をする人」という意味も含まれています。「布施」とは、 教えを説き貧しいものを豊かにすること であり、このことからイエスは結婚してからメシヤとしての公生涯を歩むのが本来あるべき使命でした。
 また、「」は他所から(神の)息子(イエス)の “家” に配偶者として入ってくる女性のことをいいます。

<参照>
 旦那(ウィキペディア)
 布施(ウィキペディア)
 (ウィキペディア)

    (B)エバはアダムを通してつくられるB青下線

 マリヤが “復帰されたエバ” (イエスの嫁)に協助できるのは、従的八段階(右図の左)の “母” まででしょうが、これは横的八段階(右図の右)の “個人” から精々 “家庭” 位まででしょう。 “エバはアダムを通してつくられる” とは、従的・横的八段階の “父” から上(従的)と氏族から上(横的)となりますが、イエス様が結婚して堕落したアダムの立場を復帰完成した立場に立たなければ復帰されたエバを完成に導くことはできないのです(A赤下線)。すでに氏族圏を伝道して民族圏に影響を及ぼそうとしていたイエス様でしたが、結婚できなかったことが虚しい結果となってしまいました。
 これらのことは、アダムのあばら骨からエバを創造したという創造の原則から、アダムを前提にアダムの対象として神はエバを創造したという原則から、エバが誰から生まれたか完成したかはアダムが主体として存在することで決定されるのです(B赤下線)。これは、原子核(+)と電子(−)の関係と同じです(「文師の電気工学専攻と原理の解明」参照)。

    (C)マリヤの失敗とイエスの十字架C青下線

 神の僕に立ったマリヤの体を通じて産まれたイエス様は神の息子の立場E赤下線)ではありましたが、ザカリヤを父として生まれた立場でいえば、ヨセフの家庭に入るのは現実的に養子の立場F赤下線)であったことを意味します。ただし、これはヨセフがイエスを嫡出子ヨセフとマリヤの間に生まれた子)として認めた場合に限ります(養子縁組によって法廷上認められた身分)。であるとするならば、ヨセフとマリヤはイエス様の結婚を考えてあげるのは当然でしょう。しかし、ヨセフとマリヤにはそうした振る舞いは一切なかったのです。結局、イエス様は結婚できないまま、架刑に処せられてしまったのです。残った事実は、イエス様は母マリヤから産まれたという庶子としての事実のみとなったのです。
 これは、イエス様を中心とした神のみ旨を理解できないマリヤD赤下線)がヨセフの主体に立ってリードできず、ヨセフの不平を都度聞き入れていった挙句、ヨセフの言い成りになってしまったマリヤの失敗G赤下線)と言えるでしょう。信仰よりも現実を優先してしまい、イエスの母よりもヨセフの妻として立場を重視したマリヤの姿が浮かんできます。これらの失敗がなければ、エバが堕落によって失った天使長とアダムを取り戻した立場となって、“神のみ旨の立った夫ヨセフの妻” であり、“神の息子を持つ母” となっていた(H赤下線)ことでしょう。


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