聖母マリアと独生女論の誤り

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■『原理講論』の曖昧さとキリスト教神学の欺瞞が生んだ独生女問題
     2. 信仰基台とカイン・アベル


1. 蕩減復帰原理の問題点

 (1) 実体基台の基台となる信仰基台における誤謬

  @ カイン・アベル問題

 下記の内容は『原理講論』の後編、復帰基台摂理時代における蕩減復帰原理における基本的な摂理的条件として最初に立てなければならない条件として「信仰基台」がなければならないとしている。
 「信仰基台」とは、
  1. 中心人物(アベル)
  2. 条件物(供え物)
  3. 数理的蕩減機関
であるが、最初に条件物に付いて説明され、次に中心人物について説明されている。ここで注意しなければならない点について述べることにする。

(一)信仰基台
 第一に、「信仰基台」を復帰するためには、それを蕩減復帰するための何らかの条件物がなければならない。もともと、アダムは「信仰基台」を立てるための条件として下さった神のみ言を、その不信仰のために失ってしまったのである。それゆえ、もはやみ言を神から直接受けることができない立場にまで(価値を失い)堕落してしまったアダムであったので、@ その「信仰基台」を復帰するためには、彼が信仰によって、そのみ言の代わりとなる何らかの条件物を、神のみ意にかなうように立てなければならなかったのである。アダムの家庭で立てなければならない、そのみ言の代わりの条件物とは、すなわち供え物であった
 第二に、「信仰基台」を復帰するためには、その基台を復帰できる中心人物がいなければならない。アダムの家庭における「信仰基台」を復帰すべき中心人物は、もちろんアダム自身であった。ゆえに、アダムが、当然供え物をささげるべきであり、彼がこの供え物を神のみ意にかなうようにささげるか否かによって、A 「信仰基台」の造成の可否が決定されるべきであったのである。
 しかし、聖書の記録を見ると、アダムが供え物をささげたとは書かれておらず、カインとアベルのときから供え物をささげたとなっている。その理由はどこにあったのであろうか。創造原理によれば、人間は本来、一人の主人にのみ対応するように創造された。それゆえ、二人の主人に対応する立場に立っている存在を相手にして、創造原理的な摂理を行うことはできない。もし神が、アダムとその供え物に対応しようとすれば、サタンもまた、アダムと血縁関係があるのを条件として、アダムと対応しようとするのはいうまでもないことである。そうなると結局アダムは、神とサタンという二人の主人に対応するという非原理的な立場に立つようになる。神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。B このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。(『原理講論』290p〜291p)


 まず初めに、“信仰基台を立てる中心人物は、条件物を神のみ意にかなうように立てなければならない”。ところで、条件物とは、神のみ言の代わりとなるものであるから、供え物その物を言うのではなく、神のみ言を聞き入れてそれに応じた思いや行動を自ら身をもって供えることである。(@青下線
 それは、信仰基台造成の可否であって、目的ではない。その出発点に立つ人物が中心人物となる。(A青下線
 以上のここから、堕落からの復帰を成すためには、善悪の混在した状態を善と悪に分立して原理的環境下で摂理しなければならないので、アダムの子である二人の兄弟を善と悪の表示体として分けたとしている(B青下線)。しかし、表示体というのは善と悪そのものではなく、“より善” と “より悪” と区別したに過ぎなく、その詳細は次に示している。

 それでは、カインとアベルは、どちらも同じアダムの子であるが、そのうちだれを善の表示体として神と対応し得る立場に立て、また、だれを悪の表示体としてサタンと対応し得る立場に立てるべきであったのだろうか。第一に、カインとアベルは、共にエバの堕落の実であった。したがって、堕落の母体であるエバの堕落の経路によって、そのいずれかを決定しなければならなかったのである。ところでエバの堕落は、二つの不倫な愛の行動によって成立した。すなわち、最初は天使長との愛による霊的堕落であり、二番目はアダムとの愛による肉的堕落であった。もちろんこれらは、どちらも同じ堕落行為には違いない。しかし、この二つの中でいずれがより原理的であり、より許し得る行為であるかといえば、最初の愛による堕落行為よりも二番目の愛による堕落行為であると見なければならない。なぜなら、最初の堕落行為は、神と同じように目が開けるようになりたいと願う、すなわち、時ならぬ時に時のことを望む過分な欲望が動機となり(創三・5)、非原理的な相対である天使長と関係を結んだことから生じたものであるのに対して、二番目の堕落行為は、最初の行為が不倫なものであったことを悟って、再び神の側に戻りたいと願う心情が動機となって、ただ、まだ神が許諾し得ない、時ならぬ時に、原理的な相対であるアダムと関係を結んだことから起こったものだからである(前編第二章第二節(二))。
 ところで、カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。
 第二に、神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。
 これに対する実例を聖書の中から探してみることにしよう。神はカインに向かって、「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」(創四・7)と言われた。これから見て、カインはサタンと相対する立場に立たされたという事実を知ることができる。イスラエル民族がエジプトを去るとき、エジプトの民のみならず、家畜に至るまで、初子をことごとく撃った(出エ一二・29)。これは、それらがみなカインの立場として、サタンの対象であったからである。また、イスラエル民族がカナンの地に復帰したとき、次子アベルの立場であったレビびとの子孫のみが契約の箱を担いでいった(申命三一・25)。創世記二五章23節を見れば、神はまだ生まれる以前の母の腹の中にいる胎児のときから長子エサウを憎み、次子ヤコブを愛したという記録がある。これは、長子、次子という名分だけで、彼らは、既に各々カインとアベルの立場にあったからである。ヤコブが彼の孫エフライムとマナセを同時に祝福するときに、次子エフライムを優先的に祝福するために手を交差して祝福したのも(創四八・14)、これまたエフライムがアベルの立場にあったからである。このような原理によって、神とサタンを各々一人の主人として対応できる位置にアベルとカインを立てておいて、供え物をささげるようにされた(創四・3〜5)のである。
 そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル一一・4)、神はそれを受けられた(創四・4)。このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのできる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。それではカインは、どのような蕩減条件を立てなければならなかったのであろうか。それは正に、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」であったが、これに関しては、次項で詳しく解明することにしよう。(『原理講論』291p〜294p)


 さて、上記の内容をそのまま図式化すると左図のようになります。天使長ルーシェルとエバとの間で起こった堕落(第一の堕落)が霊的堕落で、その後アダムとエバとの間で生じた堕落(第二の堕落)が肉的堕落である。第一の堕落は、神の創造の意図に反するので「悪」であるが、第二の堕落はよりその意図に近いので「善」である。第一の堕落を象徴する立場で生まれたのが長子カインで第二の堕落を象徴するのが次子アベルであるから、長子カインは悪の表示体、次子アベルは善の表示体と定める。
 しかし、ここには大きな問題点が浮かび上がる。それは、長子カインと次子アベルは、どちらもアダムとエバの間に生まれた子女で、長子として先に生まれたから第一の堕落を、次子として二番目に生まれたから第二の堕落に当てはめるのは、なぜそのように規定しなければならないのかその理由があまりにも幼稚すぎるのであるが、従来の食口は素直にそのように受け止めていた。そのため、信仰に多大な支障を来たしてきたことは間違いないことである。実際は、下右図のようになり、長子カインと次子アベルを悪の表示体と善の表示体に分立したのである。では、次に説明してみよう。
 ところで、カインとアベルは、ともにアダムとエバの子女であることはもちろんであるが、その子女が善側に立つか悪側に立つかはアダムの状態で判断できることであった。
 つまり、長子カインの誕生までは、天使長ルーシェルの誘惑をエバが全面的に受け入れ(霊的堕落)、それがエバの心から体に、さらに卵子の形成に影響を与え、アダムと一体となって(肉的堕落)、アダムの精子との受精後及び胎中期間、さらにカイン誕生後にも影響を及ぼしたのである。
 ところが、アベルの誕生においてはサタン(天使長ルーシェル)の直接的影響は及んでいません。天使長ルーシェルからの誘惑、そしてエバからのアダムに対する一連の誘惑とは別に、アダム主導の行為で次子アベルが誕生することになったのです。
 じつは、堕落時(時ならぬ時)からのアダムの状態が極めて重要なのです。神の創造は、長子を立てて、長子にその嗣業を継承させていくところにありました(青下線)。ところが堕落前後のアダムは、神の長子としての嗣業をまだ受けることのできない立場でエバと再度関係して誕生したのが次子アベルでした。
 では、なぜ人類始祖としてのアダムに長子としての立場を必要としたのか、次項と次頁においてみていくことにいたします。

  A 長子権とは何か

   a)神の創造の順序と長子権

・長子の嗣業 /『原理講論』より
 第一に、ヤコブは長子の嗣業を個人的に復帰する争いで、勝利の条件を立てなければならなかった。サタンは、神が創造された被造世界を、長子の立場から占有しているので、神は、次子の立場から、その長子の嗣業を取り返してくる摂理をなさるのである。神が長子を憎んで次子を愛した理由はここにある(マラキ一・2、3)。しかるに、長子の嗣業を復帰しなければならない使命をもって胎内から選ばれたヤコブは、次子の立場から、知恵を用いて、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業を奪ったのであるが(創二五・34)、ヤコブは長子の嗣業を重んじてそれを復帰しようとしたので、神はイサクに彼を祝福させた(創二七・27)。これに反してエサウは、それをパンとレンズ豆のあつもので売ってしまう程度に軽んじたので、彼を祝福なさらなかったのである。(『原理講論』332p)


 “長子の嗣業”という言葉は、創世記25章に“長子の特権”と表現されている。『原理講論』では、“長子権”と表記されています。
 ところで、上記の内容で、天使長ルーシェルがサタンとなった後、“神が創造した被造世界を、長子の立場から占有した”とあります。これは、長子権は復帰原理としてあるのではなく、神の創造原理の重要な原則の一つで、既に、堕落以前からその原理が施行していたことが分かります。

長子権復帰 /『天聖教』より(一部省略)
 皆さん、原理でカイン、アベルを考えたとき、カインが貴いでしょうか、アベルが貴いでしょうか。どちらが貴いですか。アベルが貴いとみな思っているのですが、それは間違っています。アベルは弟の立場であり、カインは長子の立場です。正しく知らなければなりません。アベルよりも、次子よりも長子の立場が貴いのです。長子は一人ですが、次子はそうではありません。長子が何人もいるということがありますか。長子というのは一人しかいないものです。長子がなぜ貴いかというと、一人しかいないからです。次子は何人にもなり得るのです。それを知らなければなりません。

 神様が復帰摂理をしてくるにおいて、長子をサタンの側に立ててきたのが恨でした。それゆえ今日歴史は病んでいるのです。どんな病気にかかったのですか。愛の病にかかっています。愛の病気で過ちを犯して長子を生んだのです。ですから今までの歴史は、順理的な法度の基準を取り戻すために億万年かかったとしてもこれを復帰するための蕩減の恨を抱いて長子を探し求めてきた歴史だったのです。

 アベルを立てた目的は何でしょうか。アベルの子を救うためではなく、長子権を立てて家の伝統を正すためだということを知らなければなりません。「えへん、私がアベルだ」と言いますが、責任者たちは心得なければなりません。「私たちはアベル的位置にいるのでこれでいい」というものではありません。皆さんを立てたのは、長子権の一族を定めるためなのです。自分たちが福を受けたいならば、長子権をつくって、その長子が福を分けてあげれば受けるのです。その長子権は自分ではありません。来たるべき主を中心として、縦的な天上世界と因縁を結ばなければなりません。横的世界だけではならないのです。原理で解釈すべきところですが、皆さんはみな知っていると見てこのようにお話をするのです。統一教会の文先生がこの道を知っているがゆえに「ために生きよ」という論理を立てないわけにはいかなかったのです。生まれたのもために生まれたのです。男性が生まれたのも女性のために生まれたということを知らなければなりません。「私」というものはないのです。

 サタン側はカインです。兄です。天側はアベルです。この闘いなのです。神様は上の息子を愛してから下の息子を愛するようになっているのです。カインである上の息子はサタン側です。長男がサタン側になったのです。その長男を救うためにアベルを立てたのです。アベルを立てて長子権を復帰するのです。長子権を復帰するのに力づくで奪うのではなく、愛で感動させなければなりません。愛で溶かして復帰しなければなりません。愛したという立場に立たなければ、愛することによって彼らが変わらなければ自分の息子、娘を愛することができません。神様の創造理想から見ると、本来は長子が先に愛されるのであって、次子が先に愛されるようにはなっていないのです

 自分の妻よりも、自分の子よりもサタン世界をより愛したかということが問題です。妻や子のほうをより愛してはいけません。神様はアベル圏を愛する前にカインを先に愛さなければなりません。それ以前にアベルを愛してはならないのです。

 自分が勝利するには出ていかなければなりません。出ていって長子権を復帰しなければなりません。長子が弟のような次子を兄として侍り、祝福はすべてお前によって受けるというほどにならなければなりません。そうして長子が次子の立場に来て、次子が長子の立場に上がらなければなりません。そうして長子が「お前が私の代わりに上がりなさい」と押し出してくれて初めて長子権氏族から長子権民族へと進みます。こうして初めて一段階ずつ上がっていくのです。長子が代わりに押してくれてこそ上がっていくのです。そのままでは上がっていくことができません。このような原理的な内容があるがゆえに、この内容をもって長子権復帰基準を完成しなければなりません。そうせずしては神様の摂理を成し遂げることができないというのが歴史の秘密です。ですから真の宗教の道を行くためには家を出なければなりません。国を捨て、家を捨てて出家しなければならないという言葉がここから出たのです。

 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで七段階、神様まで行くためには八段階を越えなければなりません。八段階の過程的長子復帰の基盤を通して堕落していない本来の長子の位置に行かなければならないのです。アダムとエバは長子であり長女でした。長子、長女が原理結果主管圏を通して直接主管圏まで、長子権の愛を中心として連結されるのであって、次子的愛をもっては連結されません。それゆえこの位置に戻って長子権を復帰して、一段階、一段階上がっていかなければなりません。この闘いをするのです。

 長子を復帰する秘法は何でしょうか。サタンが言うには「神様も完全な神様、神様の求めるアダムとエバも完全なアダムとエバなのだから、堕落しなければアダムとエバは本然の天使長である私を愛するのが原理の基準だ。それゆえ私が堕落して悪い立場にいるとしても、あなた方が善なる正しい立場にいるのならば私を愛したという条件を立てなければなりません。そうしなければ私の前で神様だということはできない」と主張するのです。それが問題なのです。「私があなたと一つになることのできる秘訣が一つあるとすれば、それは何か。あなたが遣わした人が私を愛さなければなりません。神様と一緒に私を愛する立場に立ち、愛したという条件を立てなければ、私が占めている長子の権利と嗣業を取り戻すことはできない」とブレーキをかけるのです。ですからイエス様が怨讐を愛せよと言ったのです

 怨讐を愛するということは怨讐個人だけを愛しなさいということではありません。怨讐の家庭、怨讐の氏族、怨讐の民族、怨讐の国家、怨讐の世界を愛さなければ世界の長子権を取り戻すことはできないのです。それが神様が復帰摂理する歴史的路程だということをよく知っているサタンは、そのように主張してきているという事実を知らなければなりません。

 長子権復帰をするためには必ず、サタンが迫害し生命を奪おうとする一線に出て闘って、愛で屈服させて、私たちのもっているすべてを教えてやらなければなりません。そうして彼らが私たちの伝統が良いということを知って、自然に心に感動を覚え、涙で悔い改めて、生命を捧げてあなたのために祭物となりますと宣誓しなければ、カイン世界の祝福権を取り戻してくる道はないという事実をはっきりと知らなければなりません。

 愛をもたずにサタンを屈服させることはできません。それゆえ、天国に行くことのできる家庭となるためには、神様も堕落した天使長を愛したという立場に立たなければならず、神様の息子、娘の家庭も、サタンを愛したという条件を立てなければなりません。そして皆さんが出ていって闘い、サタン世界を愛で屈服させたという条件の上に立たなければならないのです。「私は怨讐をみなたたきのめしたのではなく、怨讐を愛で屈服させて長子権を回復した」と言わなければならないのです。

 神様は怨讐をたたき殺すのではなく、怨讐を愛したという条件と、怨讐であるサタンを、アダムに代わる立場に立つ人として愛したという条件を立てなければなりません。迫害を受けながら涙と血の汗にすべて打ち勝って、耐えに耐えて自然屈服させて、神様の愛を抱いて戻ってきて初めて祝福を受けることができるのです。そこでサタンは放してくれるのです。「あなたはこれから天国へ行くことのできる子女となれる」という公認を受けなければなりません。誰がサインしなければならないかというと、サタンがしなければならないのです。サタンがしたあとで皆さんがサインし、皆さんがサインしたものを真の御父母様がサインしなければなりません。真の御父母様のサインを通してこそ神様の前を通過できるのです。それが天国です。

 世界的にサタンを愛したという条件さえ立てれば、私に従う人はすべてサタンが連れていくことはできないのです。それではどうなるのでしょうか。カインとアベルが入れ代わるのです。皆さん、アベル圏は今までは追われる立場にありましたが、これからは天国の長子権をもって立つのです。そここでは、サタンの天下は崩れていくしかないのです。後退の一路ばかりで、ここに対峙するものはありません。対峙しようものなら、たたきのめされてしまうのです。それが原理観です

 蕩減路程において、世界長子権復帰の基準を成就することによって初めてこの地上に原理結果主管圏と直接主管圏が真の御父母様の名で連結されるのです。この連結された基準、一致した線上にはサタンは存在することができなくなるのです。(『天聖教』p1149〜p1153)


 神の愛は、水が上から下に、高い所から低い所へ流れるように、先に生まれた者から順番に神は愛されるのが、自然の理であり、天の理であるというのです。それゆえ、神はまず長子を愛し、次に次子を、そして、長子は次子を愛し、次子はその弟を愛するというようにです。
 この様な原則から、サタンの主管下にある堕落人間は、神の愛を得ようとするなら、まずサタン(恩讐)を愛し、サタン(恩讐)がその愛に屈服する(愛されたという実感を持つ)ことによって神の長子としての権利と嗣業を得ることができるというのです。

  B 実体基台の本質

(二)実体基台
 アダムの家庭において「実体基台」がつくられるためには、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることにより、神がその献祭を喜んで受け得るような条件を立てるべきだったのである。では、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、どのようにして立てるべきであったろうか。人間始祖は、天使長によって堕落し、それから堕落性を継承するようになったので、堕落人間がその堕落性を脱ぐためには、蕩減復帰原理により、次に記録されているように、その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかったのである。(『原理講論』p294)


 神はまず最初に天使を創造し、それから天地創造なさいました。天使は神の僕として手となり足となって途方もない汗を流して、想像もつかないほどの長い年月を尽力したのです。なかでも天使長ルーシェルはその先駆けとなったのです。
 さて、神は天地創造の最後に子女として人間を造られました。この時、神の実子としてのアダムと僕としての天使長ルーシェルに対する愛は、当然のこととして質的に異なるものです。しかし、アダムは生まれた時からすでに神から直接愛を受けていたのでしょうか。当然、生みの親から直接の愛を受けていたとしても、神の愛は直接受け取ることができなかったのです。天使長ルーシェルは、神から受ける直接的な愛に減少感を感じてエバを誘惑したのではありません。相対のいない天使世界では理解できないアダムとエバの相対間による具体的な愛(堕落以前は兄妹愛)の実体的差異を減少感として感じたのです。そのため天使長ルーシェルは、アダムの愛の対象となるエバを誘惑して堕落させたのです。
 言い換えれば、アダムは天使長ルーシェルを愛することによって、天使長ルーシェルがアダムに屈服していれば、天使長ルーシェルは愛の減少感を感じることも無ければ、エバを誘惑し堕落させることも無かったでしょう。『原理講論』にある“実体基台”とは、長子権を復帰することであり、神の長子としての嗣業を得ることであり、アダムにおいてはエバを妻(相対)として迎えることのできる条件となっていたのです。
 では、次頁より具体的に見てみましょう。


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