幻となったアダム国家 <トップ>

4. アダム国と共生共栄共義主義


■ 天使長とアダムの根本的相違

1 失った満洲国の摂理的意義と共生共栄共義主義

 @)文先生の御言に見る摂理観

 日本がエバ国家になった場合には、韓国と日本の国境はすぐなくなってしまうのです。そして、中国は天使長国家です。中国をアダムとエバが抱擁するようになるのです。分かりますか?(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p209)

図1
さて、『原理講論』によると、男のカイン・アベルによる復帰摂理を中心としたメシヤの為の基台造成と、メシヤとして誕生したイエスが地上での救世主としての使命を果たせず、再臨摂理の為に霊的真のアダムとなって、2000年のキリスト教を中心とする復帰摂理時代を簡単に述べ、最後に「再臨論」によって韓国がその再臨国となることで証している。
しかし、この為、再臨主として誕生された文先生の摂理は、終始一貫して女のカイン・アベルによる復帰摂理を担い、真のエバ、エバ国の復帰に従事されたのである。(図1)

日本がエバ国家になった場合には、韓国と日本の国境はすぐなくなってしまう」と言う文先生の御言には、次のような摂理が隠されている。

先ずは、“カイン・エバ国とアベル・エバ国の一体化” であるが、これには互い国においての摂理的相違がある。

<参照>
真の家庭における摂理完了の失敗

 A)韓国はカイン・エバ国ではないという問題点が残されている

図2
カイン・エバ国は姉としてのエバ国である。アダムが堕落して神の御言を失い、カインとアベルに分立したように、エバ国として迎えられるべき日本が1945年にカイン・エバ国の朝鮮とアベル・エバ国としての日本に分立した。なぜ朝鮮がカイン・エバ国となっているのか。それは、文先生が最初となる1945年以降に神の復帰摂理として手掛けて、文先生の御言を受け入れることが出来ず”、朝鮮戦争によって南北分裂(1953年)となった。こうしてカイン・エバ国としての朝鮮半島が、カイン国の北朝鮮とアベル国としての韓国として、休戦ラインを挟んでの事実上の分立国家となってしまったのは、神の御言を受け入れられなかったという摂理上の原因がある。

図1におけるカイン・エバは、韓鶴子女史であり、アベル・エバは、日本の女性食口であることに注意しなければならない。この2者が協調することによって四大心情圏による四大愛と、御言が一体となって愛による強力な影響圏が生じて、次の図3となる。

<参照>
二つの「恨」と文先生の摂理

 B)解決しなければならない北朝鮮と中国の共産主義問題とアダム国建国

図3
さて、図3の日本における朝総連と民団は、1948年に済州島で起こった「四・三事件」以降に日本に渡った在日朝鮮人のことである。
北朝鮮の第3第朝鮮労働党総書記となった金正恩(右図:在位2011年〜)の母親は、在日朝鮮人の高容姫であった。(図4)

長らくその名前は「高英姫」として伝えられていたが、2015年に妹(高英淑)の夫がメディアのインタビューで、高英姫ではなく「高容姫」であると訂正している。

図4
金正恩は、父である朝鮮労働党総書記であった金正日の死(2011年)により、その立場を継承した。文先生は、「基元節」(「幻となった基元節(上)」参照)を前後として南北統一の摂理を本格化させる計画があったのかもしれないが、思いも寄らぬ摂理的失敗によって頓挫した。しかし、1993年より開催された日本女性幹部特別修練会において “南北統一に向けての内容” を語られていたのは意義深いことと言える。

朝鮮半島が、南北統一によって “カイン・エバ国家” となることによって日本が “アベル・エバ国家” となるので、アベル・エバ国を中心として国境が無くなってしまうと言う意味である。これによって、北朝鮮と中国の共産主義問題は解決への道を辿り、中国がアベル・エバの主管を受ける天使長国家となることができるのである。
「アダム国家」は、“中国の一部がエバ国家に隣接される状態で、エバ国家によって建国される” と文先生は語られたと認識すべきである。これは、神が予定されたアダム国建国の手筈てはずであったと言える。

<参照>
エバの摂理完了と男性復帰(上)
正恩氏の母、高英姫氏の73年来日時の写真発見
檀君神話における熊女と重生




2 理想とする「共生共栄共義主義」という愛による共同社会の構築

 @)『原理講論』における「共生共栄共義主義」と『統一思想要綱』

 このように、三つの部面に分かれて発展してきた歴史が、一つの理想を実現する焦点に向かって帰結されるためには、宗教と科学とを、完全に統一された一つの課題として解決し得る新しい真理が現れなければならないのである。そうして、このような真理に立脚した宗教によって、全人類が神の心情に帰一することにより、一つの理念を中心とした経済の基台の上で、創造理想を実現する政治社会がつくられるはずであるが、これがすなわち、共生共栄共義主義に立脚した、メシヤ王国なのである。(『原理講論』p506)

『原理講論』の後編第四章第七節には、「共生共栄共義主義」という言葉が何度か使われているが、それがどの様なものなのかは何も示されてはいない。ただ506ページには、人類歴史の帰結点として、「神の心情に帰一する “新しい真理” に立脚した政治理念によって築かれた豊かな経済国家」が “メシヤ王国” であると結論付けるのみである。

 共生共栄共義主義は、文先生の神主義を経済、政治、倫理の側面から扱った概念であり、共生主義と共栄主義と共義主義の三つの単純概念からなる複合概念である。(『統一思想要綱』p697)

ところが『統一思想要綱』には、“文先生の神主義による概念” として、以下のように明確に示されている。

 A)共生主義

 共生主義は、理想社会の経済的側面を扱った概念であるが、特に所有の側面を扱った概念である。所有の側面から見るとき、資本主義経済や社会主義(共産主義)経済の特徴において、前者は私的(個人的)所有であり、後者は社会的(国家的)所有である。
 ところで、両者共に、愛という要素は全く排除されている。すなわち私的所有であれ、社会的所有であれ、心理的要素が排除された単純な物質的所有にすぎないというのが、その特徴の一つであると見ることができる。
 しかし、これに対して共生主義は、神の真なる愛に基づいた共同所有を意味する。すなわち、共同所有とは、第一に神と私の共同所有であり、第二に全体と私、第三に隣人と私の共同所有をいう。ところで、共同所有は単なる物質的所有だけではなく、神の真の愛に基づいた共同所有である。これは神の限りない真の愛によって、その真の愛に満ちた贈り物である一定の神の財産(所有)が、神からわれわれ(私と隣人)に共同管理するようにと授けられたことを意味するのである。(『統一思想要綱』p698)

文先生の言う「共生主義」は、理想社会の経済的側面における根幹となる部分である。“神の真の愛” とは、対価を求めず限りなく与えようとする愛である。しかし、この愛は、無目的に、一方的に与える愛ではない。それは、神の創造目的に基づいた愛による “受者の喜び” が大前提としてある。この “他者の為の愛” による共同所有が「共生主義」の本質となる。経済的豊かさとは、“産物に込められた愛に対する喜び” をその指標とするものである。

 B)共栄主義

 共栄主義は、理想社会の政治的な側面を扱った概念である。これは特に、資本主義の政治理念である民主主義に対する代案としての側面から、未来社会の政治的特性を扱った概念である。(『統一思想要綱』p705)

政治とは、国家の意思決定機関である主権をもとに、共同体の領土や資源を管理し、それに属する構成員間あるいは他共同体との利害を調整して社会全体を統合する行為、もしくは作用全般を指す言葉である(Wikipedia)。
豊かな経済社会を築くためには、高度な生産性と、需要に対する公正な供給がなければならない。そのためには、社会全体を管理し、統合する意志決定機関としての政治と、それを実行する各行政機関が必要となる。

 C)共義主義

 共義主義は、共同倫理の思想をいう。これは、すべての人が公的にも私的にも道徳・倫理を遵守し、実践することによって、健全な道義社会すなわち共同倫理社会を実現しなければならないという思想である。今日、資本主義社会や共産主義社会(ソ連、東ヨーロッパなどの前共産主義社会、および中国や北韓などの現共産主義社会)を問わず、人民大衆が持たなければならない価値観、すなわち道徳観念や倫理観念は、ほとんど消えてしまったために、それによって、様々な不正腐敗の現象や社会的犯罪が氾濫し、世界は今、大混乱に陥っている。そして人々は、今日のこのような価値観の崩壊を見て嘆きながらも、その収拾法案を提示しえないでいるのである。
 共義主義はまさしく、このような価値観の崩壊を根本的に収拾して、誰でも、いつでも、どこでも、道徳と倫理を守るような、健全な道義社会を地上に立てようという理念である。言い換えれば、資本主義社会と共産主義社会の次の段階として到来するようになる理想社会は、先に説明した共生共栄の社会であると同時に、万人が地位の上下を問わず、共同に同一なる倫理観をもって生活する共同倫理の社会なのである。(『統一思想要綱)p716〜p717)

さて、「共栄主義」の “社会全体に属する構成員間あるいは他共同体との利害を調整して統合する” という件であるが、これにはどうしても「共義主義」という概念が必要となる。
これは、所謂いわゆる万人が共有できる道徳・倫理による健全な道義社会を意味する。しかし、これに必要な道徳理念や倫理観念は、かつては存在していたが消えてしまったので、これを「新しい価値観」として再構築し、理想社会としての共同倫理社会を実現しようとしたのが文先生の「統一運動」の目的とするところであった。
では、この再構築すべき「新しい価値観」となる、消えてしまった道徳理念や倫理観念とは一体どのようなものであっただろうか。




3 共生共栄共義主義と日本の伝統精神

 ところで、すべての宗教の目的が達成された世界が共生共栄共義主義社会であって、それがまさに再臨のメシヤを中心とした社会である。したがって再臨のメシヤの教えは、キリスト教の中心真理を含んだ教えであり、儒教の真髄を含んだ教えであり、仏教の核心を含んだ教えである。そして、そのことが明らかになるために、あえて一教派の看板に固執する必要はなくなるのである。同時に、共生共栄共義主義社会は今までの宗教が教えてきたように、未来を準備するための社会ではなくて、メシヤとともに現実の中で真の愛の生活、すなわち天国生活を営む社会である。その社会は、万人が同一なる価値観をもって生活するために、今までの信仰に重きを置いた宗教教理は実践に重きを置いた生活倫理となる。未来社会のそのような側面を指して、共同倫理社会すなわち共義主義社会というのである。(『統一思想要綱』p717〜p718)

『統一思想要綱』によると、再臨のメシヤによる教えは単なるキリスト教原理ではなく、

  1. キリスト教の中心真理
  2. 儒教の真髄
  3. 仏教の核心
を含んだ複合的原理としての教えであるとしている。このことから、新渡戸稲造が英文であらわした『武士道』(「武士道の源流となった儒教」参照)より次のようなことが想定できる。

 新渡戸は、武士道の源泉として、神道、仏教、儒教をあげて説明する
 武士道を、仏教、神道、儒教を源泉とするものと分析したことは、それまでなかった視点である。西洋の学問を修めた新渡戸は、このように分析的思考ができることによって、武士道を体系的な思想の一つとして提出することができたのである。
 しかし実際は、神道の武士道への影響は限定的だった。神道の教義が形づくられたのは、武士道の成立よりはるかに下る室町時代である。  仏教は、戦国の明日をも知れない世の中で、武士が自身の無常を悟るためには必要だった。その意味では確かに大きな影響を受けている。しかし仏教は、積極的に戦いを生きることを教えるのではない。
 むしろ武士道の源泉は、武士発生以来の「弓矢取る身の習い」という戦闘者に特有の倫理であった。これは戦いの中で形作られたものである。そして、その中で運命への諦観を教えた仏教の教義が、次第に受容されていった。統治者の学問である儒学が武士に影響を与えたのは、それよりもさらに後の江戸時代のことになる。
 新渡戸は、「弓矢取る身の習い」とされた武士の倫理、近世においてはしばしば「武士の一分」などという言葉で表された武士特有の名誉意識を取り上げず、普遍意志である儒学によって義や仁を説明する。
 儒教、とりわけ朱子学は、武士が為政者としての役割を果たすために必要とされた学問である。江戸時代前期の武士は、学問を軽視する者も多かったが、新渡戸が幼少期を過ごした幕末期には、武士子弟の教育は論語の素読から始まっている。こうしたことから、武士は儒教の感化を受け、非常に合理的な思考方法をとるようになっていた。
 新渡戸は、意識的に「武士の一分」を排除したのではなく、武士道を説明するために想起することがなかったのだろう。そのため新渡戸の武士道論は、儒教的色彩の濃い道徳思想になっているのである。(『 現代語訳 武士道 』p205〜p207)

 新渡戸の親友である内村鑑三は、武士道とキリスト教との関係において、「自分の場合は、武士道という精神的土壌が、接ぎ木における台木となり、その台木にキリスト教が接ぎ木されたにすぎない」との旨を語っている。内村にとって武士道は「人の道」、キリスト教は「神の道」という違いはあったが、その根は同根であり、目指す方向も同じだったのである。とはいえ、両者はすべてが似ていたわけではない。決定的な違いは、武士道には「神」と「聖書」がなかったことである。
 だからこそ新渡戸は、日本人の伝統的精神を集大成するにあたって、「人の道」である武士道と「神の道」であるキリスト教を比較しながら、いまだ成文化されていなかった武士道精神を “日本の伝統的精神” としてとらえ直し、日本人の道徳規範の書、すなわち「和製聖書」を世界に見せようとしたのではないか、と私は思っている。(『いま、拠って立つべき “日本の精神” 武士道』 p205)

図5
新渡戸によると、日本人の伝統的精神は、武士道という精神的土壌に由来するとしている。それは、神道、仏教、儒教を源泉としたものであると『武士道』の第二章に「武士道の源泉」として明確に記されている。その新渡戸が言う日本の伝統的精神を培った一つとしての “「神道」における神観” は、原理で言うところの 万物が有する内命性”(「神道とは何か」参照)となる生存・繁殖・作用としてのエネルギー、いわゆる「神の二世性相」における “本形状” となる一側面である。
『原理講論』で用いられている「内命性」という言葉は、こうした万物が “神来性” として有する生命的な機能や法則性を指す言葉であるが、一方、“神の本性相” としての部分は「天」として、その “二世性相としての神格” は、「八百万の神」として権化された表現であると言える。

ところでキリスト教は、こうした神の二世性相を曖昧にしたまま神格と人格の接点をキリスト御独りに限り、キリストの人格に接することで神格としての “神の愛” に接することができるとして、「キリストに対する信仰」を絶対視して来たのである。しかし、神の創造目的とするところは、“全ての人間が神の似姿となる” ことである(創世記1章26節)。それ故に、文先生はキリスト教の中心真理を明確にすることによって日本人の曖昧な神観を明確な “愛による人格神” として深化(図5)させ、これを復帰摂理の完了としてこられたのである。それは、エバが再臨主を “真のアダム” として迎え、エバの愛を(“善悪を知るの木” の実を「善の実」として)完成させ、その愛によって天使長の立場に立つ夫を “愛の相対者” として主管し、愛の主体格位としての “主人の権威を取り戻す” ことにある

同じように、「アダム国」は文先生が真のアダムとして居住されているから「アダム国」なのではなく、それに相応しい内的・外的基準が備わって初めて「アダム国」と言える様になるのである。

<参照>
内村鑑三の武士道とキリスト教



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