復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
 第三節 武士道の源流となった儒教


1. 陽明学と朱子学
 (1) 武士道の芽生えとなった陽明学
対訳 武士道新渡戸稲造 著 / 山本史郎 訳)
 新渡戸稲造の名著『武士道』。切腹とは何か? 武士道の本質とは? 日本人の精神性を描いた世界的ベストセラー。「惻隠の情」「謙譲の心」は英語でどう表すか? 『翻訳の授業』の著者・山本史郎東大名誉教授の美しい新訳と格調高い英語原文。

いま、拠って立つべき “日本の精神” 武士道新渡戸稲造 著 / 岬龍一郎 訳)
 サムライのごとく気高く生きよ。未来への不安感と閉塞感が広がる日本。生きる指針と誇りを失った日本人におくる「武士道」の口語新訳。

現代語訳 武士道新渡戸稲造 著 / 山本博文 訳)
 日本人の精神の根底をなした武士道。その思想的な源泉はどこにあり、いかにして普遍性を獲得しえたのか? 世界的反響をよんだ名著が、清新な訳と解説でいま甦る。


  @ 王陽明の「知行合一」

<参照>
 陽明学からキリスト教へ (岡山大学 社会文化科学研究科 准教授 鐸木道剛 : PDF / 本サイト

 武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。したがって知識はそれ自体が目的とはならず、あくまで智恵を得るための手段でなければならなかった。単に知識だけをもつ者は、求めに応じて詩歌や格言をつくり出す “便利な機械” としか見られなかったのだ。
 武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられた。このソクラテス的教義は、中国の思想家・王陽明が最大の擁護者となり、彼は知識と行動を一致させるという意味の「知行合一ちこうごういつ」なる言葉を生み出した
 この話題が出たところで、しばしの余談に入ることをお許し願いたい。というのも、もっとも高潔な武士の一部が、この賢人の教えに強い影響を受けているからである。
 西洋の読者ならば、王陽明の著述の中に、『新約聖書』と同じ内容の箇所が多くあることを認めるであろう。両者の教えの独特な用語の違いを考慮にいれれば、「まず神の国と、神の教義を求めよ。さすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という一節などは、王陽明のほとんどのページにも見ることができる思想である。
 だから陽明学派の弟子の一人(三輪執斎みわしっさい)はこういうのだ。「天と地と、あらゆる生きものの神は、人の心の中に宿り、人の心となる。ゆえに心は生き物であり、常に輝く」と。そしてさらに「われわれの本質的存在の精神的な光は純粋で、人間の意志に左右されない。われわれの心にひとりでき起こり、正しいものと間違っているものを示し、それが良心と呼ばれるものだ。天の神から出る光である」という。
 これらの言葉はアイザック・ペニントン(英国の医学者)などの哲学的神秘主義者たちの言葉とじつによく似た響きを持っている。日本人の心性は、神道の素朴な教義で見たように、王陽明の教えにとくに適していると、私には思われる。
 王陽明は、その絶対確実な良心の教義を、極端なまでの超絶主義へと昇華させた。そして善悪の区別だけにとどまらず、精神的な事実や物理的現象の性質を認識する能力でさえ、その境地から生まれるとした。彼はバークリー(英国の哲学者)やフィヒテ(ドイツの哲学者)に劣らず、観念論においてその域に達し、人間の知力の範囲外の物の存在を否定している。たとえ彼の学説が唯我論に課せられる多くの論理的間違いを含んでいたとしても、そこには強固なる確信に満ちた効果があったというべきだろう。そのため、王陽明の思想は、自己の確立におけるその道義的重要性については反論することができないのである。
 このように、その源泉が何であれ、武士道がそこから吸収し、わがものとした本質的原理は単純で、決して数多いものではなかった。だがたとえそうであったとしても、それはわが国の歴史上、もっとも不安定な時代の、もっとも危険な日々にあっても、武士にとっては十分に安息安全の処世訓となるものであったのだ。
 わが国のサムライの祖先が持っていた健全で純朴な性質は、古代思想の本道や脇道から拾い集められた平凡で断片的な教えの束にすぎなかったが、それらは精神の十分なかてを引きだした。そして、これらの寄せ集めの束の中から、新しい独特な男らしい型の人間形成をなし得たのである。いわば、それが武士道の芽ばえだったのである。(『いま、拠って立つべき “日本の精神” 武士道』 p32〜p34)


 武士道とは、その起源を封建制の成立と時を同じくし、武士の心構えとしての「道徳のおきて」として形成され、封建制が多くの糸で織り成されたように、武士道もまた複雑な要素から成されている(『現代語訳 武士道』p19〜p23)として、その要素を大きく仏教と神道と儒学に分類しているが、儒学は特に支配階級であった “サムライ” にとって相応ふさわしいものであり、人民主義的な理論は、物に感じやすい人々には特に好まれ、武士の心の中に永久の住処を持つことになった(『現代語訳 武士道』p26〜p31)と新渡戸は著書『武士道』の中で表現している。

    (@)陽明学とキリスト教
 陽明学は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想としている。
 「心即理しんそくり(心こそ理である)」とは、人間は生まれたときから心と理(体)は一体であり、心が後から付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はないとし、朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。
 また「知行合一」は、知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能であるとする考え。論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっている。
 王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、知っている以上は必ず行いに現れると述べた。真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を悪むが如し」と説き、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと判断するわけではないのである。朱子学が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。

    (A)否定に支えられた肯定
 陽明学は、単に朱子学の批判から出発したものではない。熊沢蕃山は次のように記している。「朱子は聖人の道をと説給ふ。陽明は学者を聖人に至らしむるやうを説給ふなり」とは、いわゆる陽明学の「知行合一」のことで、知識ではなく、それを行なうことが重要であるとしていることに尽きる。大塩平八郎も「身の死するを恨まずして、心の死するを恨む」と述べた様に、身体の死(否定)を覚悟した心の生(肯定)は、聖書における
 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(「ルカによる福音書」17章33節)

や、キルケゴール
 キリスト教の用語では、死も最大の精神的悲惨を表すことばであるが、しかも救済は、まさに死ぬことに、死んだもののように生きることにあるのである。(『死に至る病』より)

に一致している。陽明学の心即理、知行合一、致良知の主要な思想は、キリスト教と類似するのはこうした所にあると言える。
 陽明学においては、心と体(理)が一体である(心即理)から、心が私欲による曇りのない状態にあれば、心の本来のあり方が理と合致し、その行い(知行合一)は “” として実を結ぶとした性善説に基づき、良知を資質として完成させていく必要があること(致良知)を説いた。しかし、ここでは常に私欲による曇りのない心の状態が必要とされます。これに対して仏教で言う煩悩は否定の論理となり、陽明学は特に禅宗の影響があったことが示され、武士道はそれが源泉の一つとなったことは言うまでもない。

<参照>
 儒教から派生した「朱子学」と「陽明学」の生理メモ(暫定)
 朱子学(しゅしがく)と陽明学(ようめいがく)の違い
 「朱子学」の特徴とは? 日本に与えた影響と「陽明学」との違い【親子で歴史を学ぶ】
 禅宗とは?総本山・開祖と教えの特徴を簡単に分かりやすく解説



 (2) 林羅山の朱子学
  @ 幕府の侍講となった儒学者
 はやし羅山らざん(1583年〜1657年3月7日)は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。京都四条新町に生まれ、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる。幼少の頃から秀才としてうたわれ、文禄4年(1595年)、京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)、家に戻った。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の『四書集注』を研究した。
 独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると、四百四十余部に上った。
 羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は徳川への仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした。羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となり、寛永元年(1624年)には3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。

<参照>
 林羅山|江戸初期の儒学者,朱子学上下定分の理,存心持敬



    (@)朱子の「太極」と「理」と「気」
 朱子の『太極図説解』では、「太極は形而上の道なり、陰陽は形而下の器なり」と解説している。太極は本体であり、即ち理である。理は造作しない、或いは造作できないという規定がある。故に、理気は陰陽の上位概念とされ、陰陽二気の上位概念に一気という概念が存在する。これは、統一思想における神は本性相と本形状の二性性相としての統一体という概念と一致している(左図)。しかし、韓国においては理気を重視した日本と違い、陰陽を重視し、そのため『原理講論』『原理本体論』では、その本質を見誤ってしまっている。それは、それが著された当時の韓国における国家的体制が大きく関係していたことは否定できない。
 さて、気は太極としての気(理気未分の状態)、陰陽としての気(気或いは一気)、五行(質)としての気という三種類の様態で存在している。自然界では、山や川や植物や動物などで構成されるが、気が集まって質となるが、陰陽は気であり五行の質を生ずる。天地が物を作り出す時、五行が最初に作られるのである。地は即ち土であり、土には多くの金木の類を包含している。天地の間には、五行でないものはない。五行と陰陽、この七者が混合すれば、すなわち物を作り出す材料であるとして、皆「金木水火土」という五行で構成されているとした(右図)。五行は、陰陽二気が凝結してできた質であり、陰陽と理は全く別物であるとして理気二元論を説いたのである。

<参照>
 朱子の「太極」と「気」 (岡山大学 准教授 孫路易 : PDF / 本サイト
 儒教と道教の問題点(本編参照)

    (A)朝鮮を経由した朱子学
 『明心宝鑑めいしんほうかん』は、中国明代に編まれた箴言集。孔子・孟子・老子・荘子をはじめとする先儒・先賢の言葉を分類して集めたもので、明代の善書のひとつと見なすことができます。1393年に范立本によって編纂されました。この『明心宝鑑』は、スペインの宣教師・コボにによってスペイン語に翻訳され(1592年)、中国のみならず東アジア各地に伝播し、影響を与えたのです。『明心宝鑑』の現存最古のテキストは1454年に朝鮮の清州で刊行された「清州本」であり、李氏朝鮮時代、特に慶尚道一帯で塾の教材として用いられていました。
 文禄・慶長の役によって朝鮮の人的・物的資源が日本に流入し、その中の一つとなる朝鮮書籍は、関ヶ原の戦いの後に徳川家康に収集され、家康は朝鮮書籍を中心として「駿河文庫」を作り、林羅山や僧侶・以心崇伝に管理を任せました。この時を通じて、文禄・慶長の役に朝鮮から渡来した書物が、幕府儒官であった羅山に大きな影響を与え、朱子学を自分の思想の一部として受け入れさせたことは、次に述べる勧善思想を理解する上で見落としてはならない重要な事柄となります。

    (B)羅山の勧善思想
 林羅山が『明心宝鑑』を幅広く引用して著した、道徳的啓蒙書である『童蒙抄』(別名『訓蒙要言録』)で説いている善は、人と人との間における善の勧めで、日常生活の中で行わなければならない善の行為が主です。羅山は善を生活の中で積み重ね、家庭または後の子孫に及ぶ善行を積むことが、家や子孫に対する勧善となり、それがやがて広く国までに及んでいることを説いています。その中でも、特に子孫に対しては金や財産や書籍を残すよりも、人間が人間らしく暮らしていく上で善を行うことが最も大切であることを説いていて、そこでは天や神などの強制力や、応報の働きの存在を理由にして人に善を勧めることはみられません。あくまでも行為者が自ら善を行い、不善を慎むことを示しています。ここに羅山の勧善思想の特徴ともいえる、人間の本性は善なるものであり、道徳的資質はすべての人間に不変的に内在するという立場が見られます。このことは、人間の「善・悪」の行為に対する “天あるいは神による正確な禍福の応報” に基づくよりは、“人間のうちに持つ道徳的能力や道徳意識に基づいた勧善 であることを『童蒙抄』に著されています。

<参照>
 林羅山の朱子学の発展と朝鮮の書物 (東明情報大学校助教授 成海俊 : PDF / 本サイト



  A 羅山の心性論における悪の発生源

<参照>
 林羅山の思想日本思想史学会 栗原克榮 : PDF / 本サイト

    (@)心の悪の所在はどこか
 宗明理学における陽明学の命題は「心即理」であった。しかし、その先駆けとなった朱子学の命題は「性即理」である。“” は人間の持って生まれた本性を意味し、これは “天理”(事物の法則性をあらわす概念)であるとする説である。羅山は、“性” を理解する上で、性善説を前提とした宗明理学の立場から悪の発生する本源はどこにあるのかという疑問は、避けて通ることのできない問題であった。そこで羅山は、“性の二元”を説いた。
 人は「理」(善)を心の内に「性」として具有している(性即理)。しかし悪の発生する本源にあっては、「太極」の理気不可分之論を修正する必要に迫られ、朱子的な理気二元論の立場に立たざるを得なかった。しかし、善においては理気不可分であるが、悪を考慮に入れると、その心性論において善と悪の二元的考え方となり、“(理)” と “(理気)” は “天命の性(善のみ)” と “気質の性(善悪混有)” という二元論となり、理気論に反映されるとそれは理気二元論となって表されてしまう(右図)。
 そこで羅山は、心は理と気を含みかたち(形状)の主であり、気を有する故に悪が発生するとして、悪を否定的に含む性善説の立場からの「性即理」「心統性情」を説いた。善悪の発生を考える際、朱子的な理気の二元論を前提とせざるを得ないが、理と気を決して二物とすると理気より成る心は分裂してしまうので、理が気を正しくコントロールできる心を養うことの必要性を説いた。
 神は「形」を有しないものと規定されているが、羅山において “神は理・気をあわせもつ存在として人の心に宿り、人の心も神の理・気からなる” として、神道論を基にした理気・心性論とした “理気不可分” の考え方が強く主張されている。


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