エバ国家とカイン・アベル国家 <トップ> アダム国と共生共栄共義主義

3. 幻となったアダム国家


■ 幻となったエバ国家によるアダム国家復帰摂理

1 アダムとエバの復帰摂理と完成

図1

人間堕落の経路は、エバが天使長ルーシェルの嘘・偽りのことばけて堕落してしまい、エバがアダムを堕落へと抱き込んだことにあります。この事によって、アダムは神の御言を失い、本然の立場に立つことが出来なくなってしまいました(図1右)。

この堕落した状態から、本然の立場を取り戻すためには、堕落した経路と反対の経路辿たどらなければなりません。先ず、“男のカイン・アベルの復帰摂理” によって、エバを立てて「真の愛」を復帰するための摂理(女のカイン・アベルの復帰摂理)を成す中心人物となる “真のアダム” を迎えなければなりません(図1左)。
愛は、愛する主体と、愛される対象が存在しなければならないので、「真の愛」 の復帰は、“女のカイン・アベルの復帰摂理” によって成されます。『原理講論』には、“男のカイン・アベルの復帰摂理” のみ掲載され、“女のカイン・アベルの復帰摂理” は全く述べられていません。“男のカイン・アベルの復帰摂理” は、御言の完成実体としてのアダムを再臨主として迎えるまで必要な内容であり、その後は再臨主によって “女のカイン・アベルの復帰摂理” によって「真の愛」の復帰摂理となります
この “男と女のカイン・アベルによる復帰摂理” は、男と女とでは、その内容が全く異なります。男は “愛による縦的主管性の復帰” が、女は “愛による横的協調性の復帰” がその主要な観点となっています。

<参照>
なぜ正妻と妾の摂理となったのか(上)

 四大心情または四大愛を正確に理解するためには、愛の方向性すなわち縦的な愛と横的な愛に対する理解が必要である。縦的な愛とは下向性の愛、すなわち上から下に向かう愛をいうのであり、神の人間に対する愛、父母の子女に対する愛をいうのである。横的な愛は、横に向かう愛のことで、兄弟姉妹間の愛や夫婦間の愛をいうのである。ここで兄弟姉妹間の愛とは、兄弟同士の愛と姉妹同士の愛、および兄弟と姉妹の間の愛をいう。そして父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛は、みな家庭で行われる愛であるために、これらは家庭的愛となるのである。  ところで父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三つの愛を、原理では「三対象の愛」と呼んでいる。神を主体と見たとき、父母や夫婦や子女はみな神の対象であるために、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を「三対象の愛」というのである。したがって、四大心情を基盤とする四大愛は、三対象の愛に兄弟姉妹の愛を加えたものである。(『統一思想要綱』p735)

図2
真の愛は、家庭を基盤に四大愛によって成されます。真のアダムの家庭は、図1の右側●●●●●になります。真のアダムは「真の愛」となる四大心情圏による四大愛でカイン・エバを愛します。愛されたカイン・エバは天使長を真の愛で愛し、主管するようになります。これが、堕落と反対の経路となって「真の家庭」の復帰完成となります。

神の復帰摂理は、アベル・エバ側(図1左)で成されます。ここで問題となるのは、アベル・エバの四大心情圏の復帰と四大愛です。これは、カイン・エバとの協調性によって伝授され、御言によって分別された良心(良心革命)によって「真の愛」が引き起されます(「文先生の復帰摂理と現地の整備」参照)。
また、そのような愛が成される環境が築かれれば、夫も天使長の立場からアダムとしての立場を取り戻すことができる様に、満洲国もアダム国としての国造りが可能であった。

<参照>
四大心情圏と良心




2 準備された満州国とは

図3
右図は、 文先生誕生の1920年代以降に予定された摂理である。1920年当時、朝鮮半島は日本国に併合されていた(図2左)。文先生誕生の国籍は日本である。
日本は、日清、日露戦争に勝利し、戦勝国となっていた。もしも日本が戦勝国のままで、文先生を中心とする復帰摂理が成功を収めれば、その功績は一挙に全世界へ拡大することとなったであろう。しかし、残念ながら日本政府は太平洋戦争へと舵を切り、結果的に敗戦を招いてしまい、右図の中央から右の摂理は幻となってしまった。
日本は、エバ国家となれないばかりか、戦前に準備された天使長国家も幻と消え去ってしまい、アダム国家としての昇格もできなくなってしまった。(前ページ「エバ国家とカイン・アベル国家」)

図4
1932年に建国された満洲国(図4)は、建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる “満洲人、満人による民族自決の原則に基づく国民国家” であるとして、建国理念としての日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」と「王道楽土」を掲げた。
しかし、満洲国はこのような理想世界を標榜しながらも、日本がその道を誤って絵に描いた餅としてしまい、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦によって1945年8月18日、建国より僅か13年5ヵ月で滅亡してしまった。
そこでここからは、摂理国家となるべき建国された満洲国が何故この様な結果となってしまったのかを述べることとする。




3 孫文による中華民国の成立のと蔣介石の北伐

孫文は、清国広東省香山県翠亨村(現:中山市)の農民の家に生まれた。父親が53歳、母親は38歳の時に5番目の子として生まれ、当時は兄2人と姉2人がいた。兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、12歳の時に地域で信仰されていた洪聖大王の木像を地元の子供達と壊したことから兄の監督下に置かれた。
その後、当時のハワイ王国に出稼ぎに渡っていた兄からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住したが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻され、帰国後はイギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学び、次第に革命思想を抱くようになった。

  • 1894年に清朝の打倒を目指す革命団体興中会を結成し、以後、生涯にわたって革命運動に従事する。
  • 1896年に日本からハワイ、アメリカを経てロンドンに入った孫文は、清国の公使館に連れ込まれ、監禁される。しかし、この事件を知ったイギリス政府が孫文の解放を求めて釈放となった。
  • 1905年、これまで革命活動を行ってきた興中会・華興会光復会が結集して、東京に中国同盟会が結成され、孫文は総理となり、ここで東京に留学中の蔣介石と出会う。
  • 1911年、辛亥革命が勃発して中華民国臨時政府が成立(中華民国は1912年に共和国として南京で成立した)し、孫文は臨時大総統に就任する。しかし、その地位を清朝の実力者であった袁世凱(第2代中華民国臨時大総統となった後、初代中華民国大総統に就任)に譲るが、政権を掌握した袁は孫文らの勢力を圧迫し、孫文は再び革命を起こすが敗れて日本に亡命する。
    • 1912年1月1日、辛亥革命の中、南京で中華民国臨時政府が成立
    • 1912年2月12日、清の宣統帝(1934年に満洲国皇帝に即位)が退位し、清朝が滅亡
    • 1912年3月、袁世凱が臨時大総統に就任し、4月に北京へ政府を移転
    • 1913年10月、正式な「北京政府」が発足
    となる。
  • 孫文が日本に亡命していたのは1913年から1916年の間とされ、1914年には中華革命党を東京で組織する。中国へ帰国した孫文は、1919年には中華革命党を改組して中国国民党を結党して北京政府を打倒するための準備を進めた。
  • 1924年1月に、広州で孫文の主導する中国国民党の第1回全国代表大会が開催され、連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げて、“中国国民党への共産党員の加入を認める” と改組され第一次国共合作が成立した。
  • 1924年12月、孫文は北京に到着すると、その体は既に末期の肝臓ガンに冒されていて、1925年3月12日に北京協和病院で死去した。

国共合作は、中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだ2度の歴史的提携である。第一次(1924年〜1927年)は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。1925年に孫文が死去すると蔣介石が国民革命軍総司令官となって実権を握り1926年に北伐を開始した。

蔣介石は1927年4月12日の上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、4月18日南京に南京国民政府を樹立した。蔣介石はこれに反対する武漢国民政府を屈服させ、1928年6月には軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。1928年10月、蔣介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任し、これで国共合作は事実上の崩壊となる

第二次(1937年〜1945年)は、抗日(日本軍への抵抗)を目的とした。北京での盧溝橋事件第二次上海事変に至る上海で続いた日本軍との軍事的衝突矢面に立たされた蔣介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産主義勢力との連携で難局の打開を試みた。

<参照>
孫文と日本
中国の国共合作




4 明治維新が理想とした満洲国を崩壊に至らしめた政治的要因

<参照>
満洲建国の真実 建国の高き志「五族協和」(京都大学名誉教授 中西輝政: PDF / 本サイト

 @)日清・日露戦争と日本の領有権

下関条約における遼東半島の割譲
日本は日清戦争(1894年7月25日〜1895年4月17日)後の下関条約によって、日本は清国から遼東半島の全域と奉天のすぐ南までの広大な地域を割譲され、その永久の領有が認められていた(左図)。ところが、満洲への野心を持つロシアが、独仏を誘い武力による威嚇によって、それを清国に返還させる「三国干渉」(1895年)が起きる。
ロシアは、日本から奪った遼東半島を「租借(1920年までの25年間に渡る租借権)」という形で自らの支配下に置き、清国領の満洲全土を不法占拠し、朝鮮に狙いを定めた。これに日本の危機感は頂点に達し、日露戦争(1904年〜1905年)の開戦となった。
ロシアに勝利した日本は、アメリカのルーズベルト大統領の斡旋によって日本とロシアの間で結ばれたポーツマス条約(1905年9月4日)によって、ロシアから遼東半島の一部の租借権益と長春以南の鉄道権益(後の南満州鉄道=満鉄)を譲渡された。また、日露協約(1907年〜1916年の4次に亘る協約)の秘密条項では、日本はロシアの外蒙古における権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた

<参照>
モンゴルと内モンゴルの違いは?5つのポイントで解説
「外蒙古」と「内蒙古」

満洲国は、満洲事変(1931年9月18日)により日本軍が占領した満洲(現在の遼寧省吉林省黒竜江省の3省)と、内蒙古自治区の東部を範囲とする熱河省を領土として1932年に成立している。

さて、この様な満洲国建国の領有権における問題であるが、日清戦争、日露戦争と日本が戦勝を重ねて満洲南部の領有権を獲得した。しかし、外蒙古を含む満洲北部のエリアは、17世紀から19世紀にかけてこの地域は中露両国の国境が画定されておらず、両国の影響力が混在したり、実質的に無人の緩衝地帯であったりした期間が長かった。

右側の薄い赤が外満洲:条約でロシア領と確定した部分。なお、ロシア帝国が設置した「沿海州」は「沿海地方」のほかオホーツク海沿岸全域に及んでいたことに注意すべきである。

17世紀、ロシアがシベリアを東進する中で、清朝(女真族)の領土的故地である黒龍江(アムール川)流域は国境が明確でないため、ロシアの探索隊と清軍が小競り合いを繰り返していた。1689年に結ばれたネルチンスク条約で、清とロシアは初めて国境を画定したが、常に領有権を巡る緊張状態が続いた。
しかし、アロー戦争(第2次アヘン戦争:1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争)で英仏連合軍に敗れた清は、ロシアを仲介とした北京条約(1860年)によってようや正式に国境が確定(右図)することになった。

<参照>
義和団の乱
満洲還付条約

ここで問題となるのは、内蒙古の熱河省である。
1932年、日本の関東軍は中国東北を軍事占領し「満洲国」を発足させたが、さらに隣接する内蒙古となる熱河省の併合を企図した。このため翌年2月より熱河作戦(1933年2月23日〜1933年5月31日)を行い、そこにいた東北軍閥張学良の勢力を駆逐し、同省を「満州国」の版図に組み込むことに成功した。 この熱河作戦に当時の中国は全土で激しい憤りを見せ、熱河省(当時は満洲に隣接する中国領)の喪失により対日抗戦の気運が極限まで高まりました。この作戦は、日本が国際連盟の勧告(リットン調査団報告)を拒否し、満洲国を完全に確保するために万里の長城を越えて侵攻した行動であり、中国国内では「長城抗戦」とも呼ばれます。これに対する蔣介石の怒りは頂点に達し、盧溝橋事件(1937年7月7日)を招いて日中戦争(1937年7月7日から1945年8月15日)の開戦となった。

 A)ロシア革命と孫文による国共合作

1917年に勃発したロシア革命の本質は、「共産主義の輸出(世界革命の推進)」であった。レーニンは、諸国の共産主義勢力を糾合すべく、1918年にはロシア共産党(ボリシェヴィキ)による一党独裁体制を確立し、1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)の創設を主導して「世界革命」を目指し、ソビエト連邦の創設者となった。
コミンテルンの活動の本質は秘密諜報・破壊活動にあり、当初、ドイツやフランスなどの西欧諸国での共産革命を目論んでいた。しかし、西欧各国の防諜体制が1923年頃には確固たるものとなり壁となって不可能となる。
一転してコミンテルンは矛先を変え、袁世凱(1859年9月16日〜1916年6月6日)の死後、軍閥が割拠して争乱状態にあった中国に目を向けた。レーニンは1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたす状態に陥り、1924年1月21日に死去した。その後は、スターリン(右図)が後継となった。

1923年1月に、ソビエトの中国大使に任命されたヨッフェは、孫文との間で中国共産党と協力するという仮定から、中国国民党を支援する協定「孫文・ヨッフェ共同宣言」に署名した。この宣言によって、1923年2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任し、1924年1月には、国民党の改組(共産党員の加入を認めること)とともに「連ソ・容共・扶助工農」を打ち出し、第一次国共合作が成立した。

<参照>
中国の国共合作
米ソに翻弄される日本

 B)アメリカによる日本への牽制

第一次大戦中、ドイツとの戦争で手一杯となっていたアメリカは、一旦は満洲における日本の「特殊権益」を認めていた(1917年の石井ランシング協定)。しかしこれには、「特殊利益」について成立当初から当事者間に解釈の相違があった。石井は「特殊利益」には経済的利益だけでなく地理的近接性から生じる政治的利益も含むと解釈していたのに対し、ランシングは「特殊利益」は実体的かつ経済的利益に限定されると解釈していたのである。

戦後、ワシントン会議(1921年〜1922年:ワシントンD.C.に於いて、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五か国で開かれた国際軍縮会議)で、、1921年12月13日、アメリカ合衆国の主導により新たな条約として英米日仏間の「四カ国条約」が締結された。これによって、満期になった日英同盟は更新されず、1923年8月17日に正式に失効・破棄となった。また、ワシントン本会議においては上述5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルを含めた9か国で協議が行われ、中国領土の保全など「九カ国条約」(1922年2月6日)により、中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重,中国における商工業上の機会均等,勢力範囲設定の禁止などを約した。この条約によって日本は中国における旧ドイツ領の山東省権益を中国へと返還した。

山東省における日本の権益は、主に第一次世界大戦中にドイツから奪取した膠州湾租借地(青島)や膠済鉄道などの利権を、1915年の「対華21カ条要求」により正式に継承したものです。1922年のワシントン会議による「山東懸案に関する条約」で中国に返還されるまで、約7年間支配しました。

これにより、満洲を巡る日本の隠忍自重自縄自縛による苦難は深まっていった。

 C)中国の不当な圧力と日本外交の失敗

日本の外交において、とりわけ拙劣せつれつだったのが「対華21カ条要求」(1915年1月18日)である。今日、「日本の侵略代行の典型」として語られているその要求の骨子は、1923年までという満洲権益の租借権の延期にありました。

日本は日露戦争の講和条約(1905年のポーツマス条約)に基づき、ロシアから 旅順・大連を含む遼東半島南端の「関東州」の租借権と、長春・旅順間の鉄道経営権(南満洲支線)を継承した。この権益は後の対華21カ条要求で99年間に延長されたのですが、問題は大隈重信内閣(1914年〜1916年)が最後通牒を中国側に突き付けた点にある。
これは、当時、奉天総領事館勤務であった東郷茂徳が、「中国の国民に日本の要求の受諾を納得させるために、日本から最後通牒を出して欲しい」という中国政府の求めに不用意に応じたものである。
しかし、日本がその求めに応じて最後通牒を出すと、袁世凱は国際社会に向けて盛んに「日本の非」を訴え、中国内の反日感情を煽り立てた。

更に、1927年の南京事件では、若槻内閣の外相であった幣原喜重郎が「中国革命にソ連共産主義の影響が色濃く及んでいるなどと見るのは被害妄想だ」と言い放ち、イギリスからの満洲居留民保護のための共同出兵の提案を拒否した。
日本と支那の友好(日支友好)」のスローガンを文字通り実践しようとした幣原外交の、抜け駆け的な対中宥和姿勢に、英米は日中の関係性を疑い日本の孤立を余儀なくした。
一方の中国は、幣原の「対支絶対不干渉」の政策を日本の弱さの表れと見て、日本を侮辱し始め、日本への攻撃をますます強めた。
更に、幣原が南京にいる日本人に「抵抗禁止」命じたことで、南京の日本領事館の公使夫人を始めとする多くの日本人女性が陵辱されるなどの事態を惹起し、日本国内では「幣原軟弱外交」への不満が昂然と高まり、若槻内閣が崩壊した。

こうした大正外交の迷走と多くの致命的失敗は、戦後の首相となった吉田茂によると、第一次大戦後の次の3点にあると指摘している。

  1. 戦後特有の国際協調と平和思想を、日本人だけがそのまま信じ、盲従した。 
  2. 日支親善、共存共栄などの空言に捉われた。
  3. 対支国家機関の不統一

そして吉田は、日本の失敗の根本原因は、満蒙経営によって我国民の生活の安定を計らんとする国策の遂行を、国力自体の発動に求めずして、空漠成る日支親善に求めたことにあると結論付け、国際法に則った正面からの堂々たる軍事力の発動を避けてはならないと力説している。

この様な経過を踏んで、1937年に日中戦争に突入したことは太平洋戦争(1941年〜1945年)に至る始まりとなった。特に、その後半期、日中の平和交渉に挫折した日本が日独伊三国同盟(1940年9月27日)を結んで「南進策」をとり、「大東亜共栄圏」(右図)の建設を目指して東南アジアにまで進出を企てた。これこそ昭和における最大の失策であり、満洲国にとっての大きな悲劇となった。

<参照>
米ソに翻弄される日本
三つの“外圧”に直面




5 満洲国の理想とする「五族協和」の限界と「共存共栄」の壁となった理念の欠如

 @)児玉の満州経営構想と「五族協和」の萌芽

1904年の満州創立委員会で児玉源太郎が作成した「満洲経営策梗概まんしゅうけいえいさくこうがい」は、その後の南満州鉄道(満鉄)設立や満蒙開発の基礎となった。児玉は単なる力による支配ではなく、現地の民族(満洲人、漢人、蒙古人)と日本人が互いに協調・開発を行うという、後の「五族協和」に通じる大きな構想を描いた。1930年代に満州国が掲げた「五族協和と王道楽土」は、児玉が描いた理想が成熟した姿の先駆けと見なされる。

児玉源太郎の「満洲経営策梗概」とは、日露戦争末期の1905年9月(ポーツマス条約調印直後)に、満洲軍総参謀長であった児玉源太郎の依頼を受け、当時の台湾総督府民政長官だった後藤新平が作成・提出した。今後の満洲(中国東北部)開発・統治に関する基本戦略案で、後の南満洲鉄道株式会社(満鉄)の経営方針や、日本の対満洲政策の根幹となった。
南満州鉄道(満鉄)は、日露戦争後の1906年に設立された半官半民の国策会社で、経営理念は「日本の満蒙(満洲・蒙古)における権益拡大」と「産業・文化の振興」だった。鉄道経営のほか、炭鉱、港湾、都市計画、教育衛生など多角的な事業を通じて植民地経営を主導しました。

<参照>
児玉源太郎と後藤新平 満洲経営の幕開けの歴史に秘された人間ドラマ

1898年から1906年に台湾総督である児玉源太郎は、民政長官の後藤新平とともに、先住民の風俗・習慣を尊重しつつ、鉄道、港湾、産業(砂糖など)の近代化を進めた。このことが教育や経済発展を促すものとなり、後の日本・台湾の共存体制の基盤となったとされている。

 A)歴史的背景と絵に描いた餅となった「五族協和」の問題点

児玉源太郎が目指した満州経営は、経済的な開発と安全保障を両立させるものだったが、1906年に55歳で急逝したため、彼が描いた大陸経営のビジョンが、どれほど最終的な「五族協和」と合致するかは、ある点において程遠かったと言える。

「満洲経営策梗概」に代表される関東軍主導の満洲建国理念は、日・漢・満・蒙・鮮の5民族が協力し合う「五族協和」を掲げ、その根本精神とした「共生共栄」の理念は、次の通りである。

  • 共生」は、単なる社会的な理念(障害者と健常者が共に生きるなど)だけでなく、 現代において重要な経済的概念(共生経済)」として定義されている。
  • 共栄」は、主に理想的な国際関係や社会体制を目指す政治的概念として使われる。

台湾総督であった児玉源太郎と、民政長官の後藤新平が統治していた18世紀の台湾は、清朝の支配下で大陸(福建省など)からの漢人移民が急増し、開発が平野部から北部へ拡大した時代でした。先住民は人口の多くを漢人が占めるようになり山間部へ追いやられ、とても「共生共栄」とはとても言えない状態であった

<参照>
台湾・蔡英文総統の「先住民族に対する謝罪」全文(第1回)―400年にわたり迫害してきたと明言

満洲国は、「五族協和」(日本、漢、満洲、蒙古、朝鮮)を理念に掲げたが、実態は日本人が頂点に立つ明確な人種・階級社会でした。都市計画や生活基盤において、民族ごとの「住み分け」が徹底されていた。多文化間におけるある種の交錯混淆こんこうがあったものの、満洲国の実体は、日本の傀儡国家そのものだった。

<参照>
満州国の光と影:「民族協和」が私たちに問いかけてくるもの
日本の傀儡、満州国の成立

児玉源太郎と後藤新平が成した台湾での「共生共栄」は、抗日運動の沈静化と、産業・基盤の近代化を同時に進めることで、日本と台湾の「共生共栄」を目指した。それは、豊かな経済力と政治的圧力さえあれば「共生共栄」が出来たのかもしれない。しかし、価値観を異にする異文化間の「五族協和」においては無理があった。
他民族間における「共生共栄」の前提に必要なのは、“共有できる価値観” としての「共義」である。これによる共同倫理社会の形成は、「共生共栄」の構築にとって最も重要な観点と言えよう。

それでは次に、文先生の「共生共栄共義主義」を簡単に見ていくことにする。



エバ国家とカイン・アベル国家 <トップ> アダム国と共生共栄共義主義