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3. 幻となったアダム国家■ 幻となったエバ国家によるアダム国家復帰摂理1 アダムとエバの復帰摂理と完成
人間堕落の経路は、エバが天使長ルーシェルの嘘・偽りの言を真に受けて堕落してしまい、エバがアダムを堕落へと抱き込んだことにあります。この事によって、アダムは神の御言を失い、本然の立場に立つことが出来なくなってしまいました(図1右)。 この堕落した状態から、本然の立場を取り戻すためには、堕落した経路と反対の経路を辿らなければなりません。先ず、“男のカイン・アベルの復帰摂理” によって、エバを立てて「真の愛」を復帰するための摂理(女のカイン・アベルの復帰摂理)を成す中心人物となる “真のアダム” を迎えなければなりません(図1左)。
<参照>
神の復帰摂理は、アベル・エバ側(図1左)で成されます。ここで問題となるのは、アベル・エバの四大心情圏の復帰と四大愛です。これは、カイン・エバとの協調性によって伝授され、御言によって分別された良心(良心革命)によって「真の愛」が引き起されます(「文先生の復帰摂理と現地の整備」参照)。
<参照> 2 準備された満州国とは
1932年に建国された満洲国(図4)は、建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる “満洲人、満人による民族自決の原則に基づく国民国家” であるとして、建国理念としての日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」と「王道楽土」を掲げた。しかし、満洲国はこのような理想世界を標榜しながらも、日本がその道を誤って絵に描いた餅としてしまい、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦によって1945年8月18日、建国より僅か13年5ヵ月で滅亡してしまった。 そこでここからは、摂理国家となるべき建国された満洲国が何故この様な結果となってしまったのかを述べることとする。 3 孫文による中華民国の成立のと蔣介石の北伐
国共合作は、中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだ2度の歴史的提携である。第一次(1924年〜1927年)は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。1925年に孫文が死去すると蔣介石が国民革命軍総司令官となって実権を握り1926年に北伐を開始した。 蔣介石は1927年4月12日の上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、4月18日南京に南京国民政府を樹立した。蔣介石はこれに反対する武漢国民政府を屈服させ、1928年6月には軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。1928年10月、蔣介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任し、これで国共合作は事実上の崩壊となる。 第二次(1937年〜1945年)は、抗日(日本軍への抵抗)を目的とした。北京での盧溝橋事件と第二次上海事変に至る上海で続いた日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蔣介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産主義勢力との連携で難局の打開を試みた。 4 明治維新が理想とした満洲国を崩壊に至らしめた政治的要因
<参照> @)日清・日露戦争と日本の領有権
ロシアは、日本から奪った遼東半島を「租借(1920年までの25年間に渡る租借権)」という形で自らの支配下に置き、清国領の満洲全土を不法占拠し、朝鮮に狙いを定めた。これに日本の危機感は頂点に達し、日露戦争(1904年〜1905年)の開戦となった。
ロシアに勝利した日本は、アメリカのルーズベルト大統領の斡旋によって日本とロシアの間で結ばれたポーツマス条約(1905年9月4日)によって、ロシアから遼東半島の一部の租借権益と長春以南の鉄道権益(後の南満州鉄道=満鉄)を譲渡された。また、日露協約(1907年〜1916年の4次に亘る協約)の秘密条項では、日本はロシアの外蒙古における権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。
<参照> 満洲国は、満洲事変(1931年9月18日)により日本軍が占領した満洲(現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省)と、内蒙古自治区の東部を範囲とする熱河省を領土として1932年に成立している。 さて、この様な満洲国建国の領有権における問題であるが、日清戦争、日露戦争と日本が戦勝を重ねて満洲南部の領有権を獲得した。しかし、外蒙古を含む満洲北部のエリアは、17世紀から19世紀にかけてこの地域は中露両国の国境が画定されておらず、両国の影響力が混在したり、実質的に無人の緩衝地帯であったりした期間が長かった。
しかし、アロー戦争(第2次アヘン戦争:1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争)で英仏連合軍に敗れた清は、ロシアを仲介とした北京条約(1860年)によって漸く正式に国境が確定(右図)することになった。 ここで問題となるのは、内蒙古の熱河省である。 A)ロシア革命と孫文による国共合作1917年に勃発したロシア革命の本質は、「共産主義の輸出(世界革命の推進)」であった。レーニンは、諸国の共産主義勢力を糾合すべく、1918年にはロシア共産党(ボリシェヴィキ)による一党独裁体制を確立し、1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)の創設を主導して「世界革命」を目指し、ソビエト連邦の創設者となった。 1923年1月に、ソビエトの中国大使に任命されたヨッフェは、孫文との間で中国共産党と協力するという仮定から、中国国民党を支援する協定「孫文・ヨッフェ共同宣言」に署名した。この宣言によって、1923年2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任し、1924年1月には、国民党の改組(共産党員の加入を認めること)とともに「連ソ・容共・扶助工農」を打ち出し、第一次国共合作が成立した。
<参照> B)アメリカによる日本への牽制第一次大戦中、ドイツとの戦争で手一杯となっていたアメリカは、一旦は満洲における日本の「特殊権益」を認めていた(1917年の石井・ランシング協定)。しかしこれには、「特殊利益」について成立当初から当事者間に解釈の相違があった。石井は「特殊利益」には経済的利益だけでなく地理的近接性から生じる政治的利益も含むと解釈していたのに対し、ランシングは「特殊利益」は実体的かつ経済的利益に限定されると解釈していたのである。 戦後、ワシントン会議(1921年〜1922年:ワシントンD.C.に於いて、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五か国で開かれた国際軍縮会議)で、、1921年12月13日、アメリカ合衆国の主導により新たな条約として英米日仏間の「四カ国条約」が締結された。これによって、満期になった日英同盟は更新されず、1923年8月17日に正式に失効・破棄となった。また、ワシントン本会議においては上述5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルを含めた9か国で協議が行われ、中国領土の保全など「九カ国条約」(1922年2月6日)により、中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重,中国における商工業上の機会均等,勢力範囲設定の禁止などを約した。この条約によって日本は中国における旧ドイツ領の山東省権益を中国へと返還した。 山東省における日本の権益は、主に第一次世界大戦中にドイツから奪取した膠州湾租借地(青島)や膠済鉄道などの利権を、1915年の「対華21カ条要求」により正式に継承したものです。1922年のワシントン会議による「山東懸案に関する条約」で中国に返還されるまで、約7年間支配しました。 これにより、満洲を巡る日本の隠忍自重と自縄自縛による苦難は深まっていった。 C)中国の不当な圧力と日本外交の失敗日本の外交において、とりわけ拙劣だったのが「対華21カ条要求」(1915年1月18日)である。今日、「日本の侵略代行の典型」として語られているその要求の骨子は、1923年までという満洲権益の租借権の延期にありました。 日本は日露戦争の講和条約(1905年のポーツマス条約)に基づき、ロシアから
旅順・大連を含む遼東半島南端の「関東州」の租借権と、長春・旅順間の鉄道経営権(南満洲支線)を継承した。この権益は後の対華21カ条要求で99年間に延長されたのですが、問題は大隈重信内閣(1914年〜1916年)が最後通牒を中国側に突き付けた点にある。 更に、1927年の南京事件では、若槻内閣の外相であった幣原喜重郎が「中国革命にソ連共産主義の影響が色濃く及んでいるなどと見るのは被害妄想だ」と言い放ち、イギリスからの満洲居留民保護のための共同出兵の提案を拒否した。 こうした大正外交の迷走と多くの致命的失敗は、戦後の首相となった吉田茂によると、第一次大戦後の次の3点にあると指摘している。
そして吉田は、日本の失敗の根本原因は、満蒙経営によって我国民の生活の安定を計らんとする国策の遂行を、国力自体の発動に求めずして、空漠成る日支親善に求めたことにあると結論付け、国際法に則った正面からの堂々たる軍事力の発動を避けてはならないと力説している。
この様な経過を踏んで、1937年に日中戦争に突入したことは太平洋戦争(1941年〜1945年)に至る始まりとなった。特に、その後半期、日中の平和交渉に挫折した日本が日独伊三国同盟(1940年9月27日)を結んで「南進策」をとり、「大東亜共栄圏」(右図)の建設を目指して東南アジアにまで進出を企てた。これこそ昭和における最大の失策であり、満洲国にとっての大きな悲劇となった。
<参照> 5 満洲国の理想とする「五族協和」の限界と「共存共栄」の壁となった理念の欠如@)児玉の満州経営構想と「五族協和」の萌芽1904年の満州創立委員会で児玉源太郎が作成した「満洲経営策梗概」は、その後の南満州鉄道(満鉄)設立や満蒙開発の基礎となった。児玉は単なる力による支配ではなく、現地の民族(満洲人、漢人、蒙古人)と日本人が互いに協調・開発を行うという、後の「五族協和」に通じる大きな構想を描いた。1930年代に満州国が掲げた「五族協和と王道楽土」は、児玉が描いた理想が成熟した姿の先駆けと見なされる。 児玉源太郎の「満洲経営策梗概」とは、日露戦争末期の1905年9月(ポーツマス条約調印直後)に、満洲軍総参謀長であった児玉源太郎の依頼を受け、当時の台湾総督府民政長官だった後藤新平が作成・提出した。今後の満洲(中国東北部)開発・統治に関する基本戦略案で、後の南満洲鉄道株式会社(満鉄)の経営方針や、日本の対満洲政策の根幹となった。
<参照> 1898年から1906年に台湾総督である児玉源太郎は、民政長官の後藤新平とともに、先住民の風俗・習慣を尊重しつつ、鉄道、港湾、産業(砂糖など)の近代化を進めた。このことが教育や経済発展を促すものとなり、後の日本・台湾の共存体制の基盤となったとされている。 A)歴史的背景と絵に描いた餅となった「五族協和」の問題点児玉源太郎が目指した満州経営は、経済的な開発と安全保障を両立させるものだったが、1906年に55歳で急逝したため、彼が描いた大陸経営のビジョンが、どれほど最終的な「五族協和」と合致するかは、ある点において程遠かったと言える。 「満洲経営策梗概」に代表される関東軍主導の満洲建国理念は、日・漢・満・蒙・鮮の5民族が協力し合う「五族協和」を掲げ、その根本精神とした「共生共栄」の理念は、次の通りである。
台湾総督であった児玉源太郎と、民政長官の後藤新平が統治していた18世紀の台湾は、清朝の支配下で大陸(福建省など)からの漢人移民が急増し、開発が平野部から北部へ拡大した時代でした。先住民は人口の多くを漢人が占めるようになり山間部へ追いやられ、とても「共生共栄」とはとても言えない状態であった。
<参照> 満洲国は、「五族協和」(日本、漢、満洲、蒙古、朝鮮)を理念に掲げたが、実態は日本人が頂点に立つ明確な人種・階級社会でした。都市計画や生活基盤において、民族ごとの「住み分け」が徹底されていた。多文化間におけるある種の交錯や混淆があったものの、満洲国の実体は、日本の傀儡国家そのものだった。
<参照> 児玉源太郎と後藤新平が成した台湾での「共生共栄」は、抗日運動の沈静化と、産業・基盤の近代化を同時に進めることで、日本と台湾の「共生共栄」を目指した。それは、豊かな経済力と政治的圧力さえあれば「共生共栄」が出来たのかもしれない。しかし、価値観を異にする異文化間の「五族協和」においては無理があった。 それでは次に、文先生の「共生共栄共義主義」を簡単に見ていくことにする。
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