復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第1章 第1節 ノアの箱舟以降における摂理
     c. 儒教と道教の問題点


1. 儒教と道教

 (1) メシヤ降臨の摂理から再臨の摂理へ

  @ 霊的摂理と実体的摂理

 イエスは、象徴的にではなく、実体的に王の王であったのです。イエスがイスラエルの国家を統一することができたら、アラブ世界を吸収するというのは、神の御計画でした。インド、中国、そしてローマ帝国がいかに強大であろうと、それらが統一した神の国に吸収されることは、大して問題ではなかったはずです。その時代に統一王国は、地上に建設される予定でした。キリスト教は違った形で発展する予定でした。もし、イエスが十字架にかからなければ、それは違った方向へ行ったのです。つまり、インド、中国、韓国を通過して、西洋世界へ行くはずでした。ところが、十字架のために、一八◯度方向を転換して、ローマ、イングランド、アメリカを回り東洋に戻ってきたのです。
 今日のアメリカは、模範的キリスト教国家であり、全世界のキリスト教文化の結実でもあります。キリスト教国家のモデルとしての今日のアメリカは、第二イスラエルの立場にあります。最初のイスラエルは、二◯◯◯年以上前のユダヤ国家でした。象徴的に、この第二イスラエルであるアメリカは、全世界の人々が国際的に集まって、統一された一つの国家となっています。今までの歴史の中で統一が見られなかったのは、神の愛がまだアメリカにおいては、最高に注がれていないからです。(『御旨と世界』p528〜p529)


 イエス誕生に備えて、神の摂理は東洋においても準備されていました。仏教や儒教が満を持してイエスの来臨を待ち構えていましたが、訪れたのはイエスではなく、その弟子たちや異端扱いされたキリスト教徒だったのです。
 イエスの十字架後、復活したイエスを中心とする霊的摂理(イエスを中心とする霊的カナン復帰路程:『原理講論』p420〜p426)は西へ、メイフラワー号によってピューリタンらが新大陸アメリカへ渡った(「宗教改革、そして英国から米国へ」参照)。
 一方、実体的摂理(再臨主を中心とする実体的カナン復帰路程:『原理講論』p426〜p433)を準備する摂理として、インドから中国にかけての東洋において、原始キリスト教の出発と同じ頃から開始されるようになったのです。

 世界的カナン復帰路程におけるユダヤ民族の信仰の対象は、幕屋の実体として来られたイエスであったので、その弟子たちまでが不信に陥ってしまうと、もうその信仰を挽回する余地はなく、イエスが、「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ三・14)と言われたみ言のとおり、その肉身は十字架につけられ、死の道を歩まなければならなくなったのである。このように、ユダヤ民族は、霊肉を併せた信仰の対象を失った結果、第三次世界的カナン復帰路程は、第三次民族的カナン復帰路程と同じく、直接、実体の路程としては出発することができず、したがって、第二イスラエルであるキリスト教徒たちが復活されたイエスを、再び信仰の対象として立てることをもって、まず、霊的路程として出発するようになったのである。(『原理講論』p420〜p421)


 中国三大宗教とされる仏教と儒教、道教の三教は、前頁でも見てきたように、仏教においてはキリスト教に影響され復興し、大乗仏教としての変化を遂げましたが、儒教と道教はどうだったのでしょうか。また、“神の愛が、アメリカにおいては最高に注がれていない” ということはどういう意味なのかを述べていきます。



  A イエスの十字架による教訓

    (@)結婚に対する人権問題

 イエス誕生以前、紀元前63年にローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼしたことによって、ユダヤはローマのシリア属州の一部となったのです(「ローマ属州でのヘロデ神殿とユダヤ教」参照)。それに伴い、ユダヤの地にもローマ法が施行されることになったのです。
 蕩減復帰摂理としてメシヤ誕生摂理のために発生したユダヤ独特の婚姻制度は、一夫一婦制度しか認めないローマの婚姻制度とは水と油であった。況してや、厳格な家父権制度の下ではイエスはザカリヤの子としても、ヨセフの子としても受け入れることは困難であった。庶子としての立場しか取れなかったイエスは、生きることの保証もなく、活路は母マリヤの覚悟に大きく左右したことは確かである。
 メシヤ誕生までがユダヤ婚姻制度、それ以降はローマ婚姻制度に換わらなければならない復帰摂理であるとするならば、その変化に伴う蕩減は心的に時間的にも過酷なものとならざるを得ない。文先生の語られた通り、マリヤとヨセフが性的関係を持たず、ヨセフが家父としての権限を行使しなければ、確かにイエスも生きてメシヤの使命を全うできる道があったのかもしれない。
 ローマ法の婚姻制度が全世界に影響を及ぼし、西側の世界ではイエス誕生当時の状況を再現することは難しくなったことによって、メシヤ再臨の摂理を、宗教的に政治的にも未発達な東洋へとその摂理を移行しなければならなかったと推測せざるを得ない

<参照>
 ユダヤ属州
 ローマ帝国のユダヤ支配(1世紀頃)
 ローマ属州でのヘロデ神殿とユダヤ教
 イエスの30年準備時代と十字架
 ローマ法における婚姻制度と子の法的地位の関係 (拓殖大学 政経学部 教授 椎名規子:←PDF本サイト)
 ローマ史の中のイエス受難



    (A)君主政から民主政へ

 さらにユダヤでは、サウル王以来、国王は政治的指導者であると同時に宗教的指導者でもあった。ところが、ユダヤがローマの属州となって以来、ローマ皇帝が政治的指導者となっても宗教指導者ではなく、その権力は宗教をも支配する立場に立っていたのである。
 前述したように、ローマの王政に煙たがられていたユダヤ教は、ましてや取って代わったキリスト教においては最悪な勢力となったのは、ローマの市民権を有していたパウロ存在であり、その信仰であった。市民権としての保護圏が同士としての信徒を増やし、その勢力を拡大し、キリスト教がローマ帝国の国教となったのは325年のことであった。皇帝に人民が影響を与え変えたのである。このような俗なるものから貴なるものを守る、俗なるものから貴なるものへ変える社会体制はさらに全世界へと拡大したのである

<参照>
 君主政
 民主政



 (2) 儒教

  @ 孔子


孔子


孟子


朱子


王陽明
 孔子(紀元前551年9月28日〜紀元前479年4月11日)は中国古代王朝である“”(紀元前1046年頃〜紀元前256年)のに生まれ、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げました。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなしたのです。
 孔子の説いた」は “他人に対する親愛の情、優しさ” を意味しています。その根本は親子の情愛にあるとされ、まず親を思い、兄弟を思って、親族を思い、他人を思いやると言う “秩序ある思いやり” を強調しています。
 また「」は、「」の実践道徳とされ、「」は「」の王に対する忠誠とされましたが、これは、王が誤っていたらそれを諌め、王もそれを聞き入れなければならないとされました。

  A 孟子

 孟子(紀元前372年〜紀元前289年)は性善説を主張し、孔子が最高の徳目とした「」に加え、実践が可能とされる徳目「(悪を恥じる心で正しい行いを守ること)」の思想を主張しました。

<参照>
 四端説

  B 朱子

 朱子(1130年10月18日〜1200年4月23日)は、それまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(「性」としての “人間の持って生まれた本性” はすなわち「天理」である)、仏教思想論理体系性、道教無極及び禅宗座禅への批判と、それと異なる静座静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は「」という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとしました。
 朱子の言う「(秩序・法則)」と「(物質・エネルギー)」は、たがいに単独で存在することができないとしましたが、「」としての運動に秩序を与えるのを「」とした内容は、@ある存在” の一元的内容を「」と「」の観点の違いとはとらず、二元的内容としてとらえました

  C 王陽明

 王陽明(1472年8年9月30日〜1529年1月10日)は、南宋陸象山の思想である「心即理」を明確化して、人間は、生まれたときから心と(秩序、理法、道理などの意)は一体であり、実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である “良知”(自己の中にある判断力)を推し進めればよいとしました。
 知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること(知行合一)を主張し、実践重視の教えを主張したのです。

<参照>
 儒教とは何か?その教えと現代ビジネスとの関係をわかりやすく解説!
 朱子学の背景



 (3) 道教


老子


陰陽


太極図
 道教とは、「道の教え」つまり、「従うべき聖人の教え」と言う意味で、漢民族の土着的・伝統的な宗教として5世紀に形成されました。
 道教は老子を始祖とし、神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。(下記)

  @ 陰陽五行

 (タオ)は、“自然”とか“無為”と同義とされ、また陰陽の思想で説明されます。は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれます。これらの思想は、太極図で示されます。
 この生成論は早くに陰陽思想と結びつけられ、
 元気(根元の一気)→ 陰陽四時万物 
と解釈されました。北宋になると、周敦頤が『太極図説』によって
 無極太極陰陽五行乾坤男女万物 (下図) 
といった構図を図として提示しました。
 まず、無極である太極が陰陽に分かれ、陰陽がそれぞれ温かい部分と冷たい部分に分かれて五行を形成したとあります。
  1.  『』:これは、陰の冷。つまり、陰の陰となります。
     泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表します。「」を象徴していて、あらゆる生命の源となりました。
  2.  『』:これは、陽の温。つまり、陽の陽となります。
     光りWく炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表します。「」を象徴していて、森羅万象のエネルギーを表しています。
  3.  『』:木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表します。「」を象徴しています。
  4.  『』:土中に光りWく鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表します。収獲の季節「」を象徴しています。
  5.  『』:これは、「木・火・金・水」以外の全ての要素で構成されていて、見方を変えて言えば、必要な全てのものが含まれていると言って良いでしょう。
     植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表します。「季節の変わり目」を象徴しています。
 この様に、五行思想では「」が全ての構成要素となって循環し、全ての生命体を形成していると見ました。
 全ての樹木()が、太陽の光()で成長して、葉を落として、やがては枯れていき、土()になります。土には全ての栄養素()が含まれていて、その栄養素が水()に溶けて再び樹木に養分となって吸収されます。
 この様に、A 道教では更に重要な宇宙の根本としての無極または太極が存在し、太極は陰陽からなり、陰陽から五行が生成され、全てのものは一組の対として存在(乾坤)して、男女が夫婦として存在するように、全ての万物がそうであるとしたのです。
 しかし、道教では更に重要な内容を示しています。

<参照>
 陰陽五行説|東洋医学の基本思想を3ステップで説明
 陰陽五行説



  A 道教の三清道祖
元始天尊(左)
太元(天地のできる以前に生まれたと存在で、万物の根本とされる。)を神格化した道教神学における最高神。
太上道君(中央)
” を神格化した道教の神。
太上老君(右)
老子を神格化した道教の神。

 道教とは、中国古来の陰陽思想儒教とが大乗仏教に影響を受けて成立した宗教で、大乗仏教はキリスト教に影響を受けた原始仏教から成立したと言えるので、上記のような “三清道祖” が、キリスト教の三位一体の如く存在しています。
 そして、朱子はこの道教を取り入れつつもそれを批判して「朱子学」を確立することになります。
 朱子学は、13世紀朝鮮王朝に伝わり、それまでの高麗の国教であった仏教を排して、朱子学を唯一の学問(官学)としました

<参照>
 「道教」とは?教えや思想、日本への影響を分かりやすく解説!
 「道教」の教えとは?思想やタオと日本への影響もわかりやすく解説
 道教
 道教が生まれた原因
 道教の特徴



2. 儒教は宗教として発展できなかった

 (1) 儒教から道教へは、規範重視の多神教

  @ 二元論的道徳規範

 儒教は、すべての根本を二元論として捉えた(青下線@)道徳的規範である。これが道教において拡大解釈し、すべてのものを一組の対として存在するとした(青下線Aのですが、必ずしも対として存在するものばかりではなく、単独で生存と繁殖するものが多数存在しています。
 この儒教と道教の捉え方を『原理講論』では、「二性性相」として表現されていますが、唯一神の創造目的とする “授受作用と神の愛” を明確化するための表現が、いつの間にか “神としての真の父母” 論が固定化され、文先生の指示による『原理本体論』の教育において、弟子たちは『原理本体論』の神観を『原理講論』そのままにしてしまったため、唯一神としての観念が薄れ、主客転倒とも言える現象が定着してしまった。

<参照>
 聖母マリアと独生女論の誤り



  A 李氏朝鮮の科挙制度と両班

 中国で儒教が誕生したのは周時代であるが、当時の「王」は「天」が “徳” のある人間を「天子」として “天命を受ける王” として統治していました。“徳” には倫理的な正しさだけではなく、「力」としての武力も含まれていたため、儒教は必要とされなかったのである。
 ところが、春秋時代から戦国時代にかけて各地の有力な諸侯が独立し分裂していきました。秦の始皇帝によって全国が統一されましたが、これも長く続かず、紀元前2世紀には漢(前漢)時代の武帝によって、正式な官学として儒教は国教となった。このことによって、儒教は支配者の秩序維持の要となったのである。
 またこの頃、キリストの神性と人性における問題と同じように、儒者によって一人の人間の中に、天の代理としての “天子像” と、中国国内の絶対者としての “皇帝像” の二つの面を共存させる新しい皇帝を造り上げたのです。これ等のことが、中国以外における諸国の民を教化すべき天子としての責任から、衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮に置いた楽浪郡によって科挙制度が伝わり、官僚機構としての両班による李氏王朝の支配が維持されたのです。
 中国で発展した儒教と道教は、社会秩序の維持や気候風土との関りから外的支柱とはなっても、決して内的・本質的な支柱とはならなかった。寧ろ仏教が内的・本質的な支柱となって、儒教・道教による外的な秩序ある社会を形成しなければならなかったのである。仏教は、唐の時代に空海によって日本に密教として再上陸し、仏教文化を華咲かせたのである。

<参照>
 「秦の始皇帝」と「漢の高祖劉邦」 (東海大学文学部特任教授 齋藤道子:PDF / 本サイト
 李氏朝鮮の身分制度
 李氏朝鮮の教育と近代化の問題 (慶應義塾大学総合政策学部 増澤健太郎:PDF / 本サイト
 科挙と儒学
 科挙制度に儒教が導入されたのはなぜ?
 科挙とは何か――あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する



  B 日本の天道における天皇と将軍の二君

 西から渡来した秦氏によって(「日本へ向かった10支族」参照)4世紀の中頃、天皇を軸とした大和朝廷が築かれた。8世紀に「古事記」と「日本書紀」が編纂され、天皇としての正統性を裏付けたのですが、6世紀には蘇我氏により仏教が流入され、8世紀末に遷都された平安京は隋・唐における長安の都を模倣するかのように築かれた。しかしそこには、神道と仏教との日本独特の宗教観が込められていたのである。
 仏教への理解が深まるにつれて、「神」と「仏」が同一視されるようになった。元々キリスト教の影響を受けた大乗物教が日本に伝わったこともあって、神仏習合は平安期における空海が密教を導入したことによって加速したのである。
 天道思想は、承久の乱(1221年)におけるの交替、院への反逆を正当化する根拠として持ち出されたことに始まるが、「天道」は古代中国における儒教を土台とした王道政治を根拠とするものである。王臣は王が仁政を施すことを前提としており、施さない場合には放伐革命易姓革命)を正当化するものであった。しかし、日本の天皇が神孫為君(神の子なるが故の天皇)の思想に支えられていたことでその権威と支配権とが保証されていたことにより、儒教的内容よりは神道における皇位継承と仏教における六道において天人が住むとされる「天道」の意味合いが強かったのである。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる
 この天道思想は、武士の思想としても大きな役割を果たし、天皇に代わって天下を治めた将軍による支配を正当とし、二人の君主の存在を可能とした。この事は、メシヤと君主の二君の存在を可能とする意味で、メシヤの降臨を可能とする重要な復帰摂理の一つと言える。
 ところが、19世紀には明治維新が起こりこれまでの神仏習合から突然神仏分離令が発布され、廃仏毀釈によって明治新政府は仏教を消し去ろうという動きに転じ、神道を国教化してしまったのである。結局この政策は失敗に終わるが、その残存が日本を戦争へと舵を切っていくことになるのである。

<参照>
 平安時代の街作り ―最初の街作り
 西寺は存在した! 〜何故、東寺は栄え、西寺は衰退したのか
 大内裏
 律令制度とは
 武士道思想における死生観に関する一考察 (桐蔭横浜大学法学部 瀬武志:PDF / 本サイト
 武士道 日本の魂 (新渡戸稲造 著・須知徳坪 訳:DOC / 本サイト
 天道思想の変容 序説 (佛教大学総合研究所研修員 新矢昌昭:PDF / 本サイト
 神仏習合について
 天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録


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