復帰摂理歴史の真実

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■ 3. 共産主義の台頭
     a. ヘーゲル弁証法と唯物弁証法


始めに

 ヘーゲル弁証法は、当時のキリスト教の腐敗の中で、キリスト教とそのの存在を理論的に正統づける画期的な内容でしたが、すでに “ の流れを食い止めることは出来ずまたそれを押し戻すような変化も当時のキリスト教には見いだせませんでした

 ヘーゲルの弁証法に対して、必然的なごとくに左派が生じて共産主義の台頭までに至ったのです。

 その様な意味で、ヘーゲル弁証法を詳細に論ずるよりは、そのポイントを分かりやすくしながら、どの様に変化してそこに至ったのかを見ながらその問題点を考えていきます。




ヘーゲル弁証法


 ヘーゲルは、対立するその存在を認めて受け入れるところから始まります。



 次に、その対立する相手から “ 矛盾 ” を引き出し、その “ 矛盾を受け入れて(自己を否定して) ” 更に “ 高次の立場に発展した新しい存在 ” として成長していくとしています。

 『矛盾』とは、」 が存在すれば 「」 が存在できないし、またはその逆で、」 が存在するとすれば 「」 は存在できないと言う意味ですから、その言葉の背後には、“ 対立する存在を克服する ” と言う 「一種の闘争的概念」 が含まれています。



 ところで、『 』 と言うのは 『 』 が存在した上で、その 『 』 に対して 『 』 と言えるのですから、自らを 『 』 と言った時に、『 存在を認めていることになります。

 決してその存在を否定しているものではありません

 『 』 の考え方や、その行動様式などが違うことによって 『 と表現されているにすぎません。

 しかし、ヘーゲル弁証法の様に、それらの反する存在を 『 』 として結びつけるには、両者にとっての “ 一定の共通事実 ” としての 『 中心軸 』 がなければなりません。



 ところがヘーゲルは、神の存在を 『 絶対精神として肯定しましたが、左図の様に、『 の共通の中心軸としてはとらえませんでした



 ヘーゲルは左図の様に、『 』 と 『 』 を一つに調和した発展としてではなく、『 』 が 『 』 を克服して従わせた新しいの発展を唱えたのです。




 ヘーゲルは、神を 『 絶対精神 』 である 『 』 として、神自体が矛盾を内包していて、その矛盾を克服することによって神自体が発展してきたと考えます

 その発展が積み重なるとある時変化をきたす 『 量的変化の質的変化への転化 』 が起こるとして、無形なものから有形な物質として、物質が生物となり、生物が人間となり、人間が世界を形成し、最後には神は 『 絶対精神 』 から 『 世界精神 』 としての理想として完結するとしています



 こうしたヘーゲル弁証法は、当時のキリスト教の矛盾をあたかも正当化するかのような画期的な理論として脚光を浴びましたが、同時に唯物論共産主義と言った 『 無神論 』 を体系化させるきっかけとなり、キリスト教にとっては墓穴を掘る結果となってしまったことは次の 『 原理講論 』 の序論の一節を思わされます。


 「すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。」




フォイエルバッハの「人間の自己疎外」


 前ページにも取り上げましたが、フォイエルバッハ人間の作ったものが作った人間から離れて、逆に圧力となって人間を支配する疎外)と、人間としての自己の本質を失ってしまうと言う疎外論を展開しました。

 神は人間がつくり出した存在で、そのような人たちがたくさん集まることによって神は人間の手の届かない高貴な存在となって人間に対して圧力となって拘束する存在となってしまった。その事によって人間として最も重要な「人間の本質を失ってしまったとして、神は人間が作った概念であるとした無神論を主張しました。

 しかし、フォイエルバッハの主張は、人間の本質」とは何かということに対しては抽象的で具体性に乏しく影響力に欠けていたと言えます。





エンゲルスの「自然弁証法」

 「自然弁証法」は、エンゲルスの考案していた弁証法で、ヘーゲル弁証法の「絶対精神」を自然万物に置き換えた唯物論で、『』『』の闘争的色合いを強調した内容となります。

 しかし、エンゲルスはマルクスの遺稿のとなった「資本論」の編集に明け暮れ、自らの「自然弁証法」に対しては著述を諦めています。

 むしろ資本論」にその意向が反映されていると言えるかもしれません




マルクス弁証法


 マルクスは、根底にヘーゲル弁証法とフォイエルバッハの「人間の自己疎外」とを組み合わせて、エンゲルスの経済学を当てはめて、当時としては現実味を持った説得力のある理論として構築しました。

 まず、その対立軸を「資本家」と「労働者」に置きました

 「労働者」が労働で得た産物(左図では「商品」そしましたが、「賃金」とした方が良いかもしれません)が労働者 ” から “ 疎外 ” されるとしています。つまり、労働者から手の届かない(労働者の影響の及ばない)ところの存在、“ 資本家の意志に支配されたもの ” となってしまって、逆に労働者に対する “ 圧力 ” となって労働者を支配してくるととらえました。

 その圧力によって、労働者は「人間としての自己を失ってしまうとしたのです。

 しかし、マルクスの主張はここからがその主張のポイントとなります。

 つまり、資本家はキリスト教徒であり有力者の立場であったので、資本家達の崇拝する「は人間が創造したもので、資本家達の創造した「」はもはや資本家達のもとにななく、資本家達から疎外され資本家達を支配していると主張して 『 唯物論 』 を主張しました。

 もちろん、資本家はこのような主張を受け入れるはずがありません。資本家と労働者の間には対立矛盾)が生じます。

 マルクスは自らの考えを実現させるには、この対立(矛盾)に対して『革命』しかありえないと考えたのです。





結論として


 ペテロのイエスを裏切った罪悪感と、イエスへの反逆者としてのパウロの回心から、聖霊の許しと癒しのによって導かれて出発した原始キリスト教が、いつしか巨大な勢力となった時、人間がその罪を忘れ、神を愛の神としてではなく、力による支配者の神とした時、もはやマルクスの主張を覆すだけの内容はキリスト教にはありませんでした

 原理では、人類始祖アダムとエバが天使長ルーシェルの「偽りの言葉」を受け入れ、それに従い天使長ルーシェルと関係を結ぶことによって人間は堕落して、天使長ルーシェルはサタンとなって人間を支配しているとしています。

 さらに、人間が堕落したことによって、人間は神の言葉を聞き入れる事ができなくなり神と人間は断絶した状態に陥り、神は孤立した孤独な立場となってしまいました

 故に、神はご自身の言葉を聞き入れる人物を探し求めて復帰歴史が出発したのが神の復帰摂理歴史として、堕落したマイナスからの再創造摂理歴史であったのです

 このことから見ると、マルクスの唱えた共産主義は、堕落した現実社会を体系化したものと言えるでしょう。





人本主義につて

 「人本主義ヒューマニズムとは異なります ) 」とは、日本の経営学者である伊丹敬之氏が唱えた考え方であり、株主を主権者とした資本主義企業から従業員が主権を持つという経営理論が始まりです。

 さて、ここで言う「株主」を「資本家」に、「従業員」を「労働者」と言う言葉置き換えるとその主張の向かう矛先とその終焉が見えてくるのではないでしょうか。



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