復帰摂理歴史の真実
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■ 第二章 第四節 ユダ王国の再建からローマ支配へ
     a. ローマ属州でのヘロデ神殿とユダヤ教

1. 第二神殿時代(後編)

 (1) ハスモン朝、ヘロデ朝とローマ支配時代

  @ マカバイ戦争とハスモン朝

 紀元前167年になると、セレウコス朝に対するユダヤ人の反乱が起こった。モディンという村の祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発しました。
 当時ユダヤ人を支配していたセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスは、ゼウス崇拝を国内全土で執り行う事を決定し、ユダヤ人の神聖な場所エルサレム神殿にて異教の捧げ物・祭儀を行いました。従わないユダヤ教に対する迫害を強化したために、殉教者が続出したのです。
 モディンにもシリアの役人が派遣され、マタティアに犠牲を捧げるよう命じました。マタティアはこれを拒否しましたが、同意して犠牲を捧げようとしたユダヤ人を殺害し、役人も斬ったのです。マタティアは、「契約を守り、律法に熱心な者はみな俺に続け」と町中に呼ばわり、5人の息子、ヨハネ(別名ガディ)、シモン(別名タシ)、ユダ(別名マカバイ)、エレアザル(別名アウアラン)、ヨナタン(別名アッフス)と共に荒野に逃れて反乱を開始したのです。
 シリア軍が安息日に攻撃をしかけ、無抵抗のユダヤ人を殺害する事件が起こると、マタティアに協力するハシディーム派は律法の解釈を改め、安息日でも抵抗することを許可しました。
 紀元前166年、反乱が拡大する中でマタティアは病死し、後継者にユダを指名しました。紀元前164年にユダはエルサレム神殿を奪回して、献納の祭り(ハヌカー)を設定する事となります。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとりました。
 この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が旧約聖書外典の「マカバイ記」です。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させました。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復したのです。
 この国家は紀元前130年ごろ、セレウコス朝の支配力の増大によって、一度は独立を失いましたが、セレウコス朝の内紛によって再び独立を獲得しました。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲しました。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝といいます。

<参照>
 ハヌカの祭りの歴史的背景(2) マカバイ書@ (1章)

 ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともありました。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派パリサイ派サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派在家で民間基盤のパリサイ派の対立が激しくなります

  A ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立

 ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗りました。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親パリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治したのです(紀元前76年)。
 サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継ぎましたが(紀元前67年)、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取し、王位に就きました(紀元前66年)。
 紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼしたのです。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていました。両勢力はローマへの接近を図りますが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考えて支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれたのです。
 ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となったのです。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系アンティパトロスであり、ユリウス・カエサルからも地区統治を委任されました。紀元前43年にアンティパトロスが暗殺され、息子ファサエロスヘロデが後継となってからも親ローマ路線を取りました。
 紀元前40年、先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とファサエロスを捕らえると、ヘロデは辛くも脱出。ローマにわたって支援を要請したのです。
 ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破すると、紀元前37年に捕虜となったアンティゴノスが処刑されハスモン朝が滅亡し、ヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立しました。大王と称されたヘロデは純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアムネ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していくと、不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していったのです。
 猜疑心にとりつかれたヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治されました。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治したのです。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となりました。

<参照>
 ヘロデ大王とヘロデ朝



 (2) ヘロデ神殿とユダヤ教

  @ ヘロデ神殿

 ヘロデ大王の名を不朽のものとしたのは、ソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築でした。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、ディアスポラ(国外離散定住)のユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになったのです。
 建築に長けていたヘロデは、ユダヤ人の王であり続けるための手段の一つとして、紀元前20年頃から見すぼらしかった神殿の大改修工事を手がけます。規模も広げ、豪華に金をかぶせ、それはそれは立派なものに仕上げました。この時、ユダヤ人たちは「自分たちも自分たちの手で主の宮を建てたい。手伝いたい。」と、ヘロデに申し出たのですが、ヘロデは半分馬鹿にしたように「あのような大きな石を運べるのか」と彼らに問うと、「あのような大きな石は自分たちには運べませんが、小さな石なら運べます」と彼らはやる気を見せました。それならばと、神殿の裏側(入口は東側)に当たる「西の城壁」建設だけユダヤ人に任せたのです。東と北と南の城壁は金箔をかぶせましたが、ユダヤ人にはそのような余裕はなく、西壁だけは現在と同じように石が積み重ねられたままでした。
 ヘロデ大王の死後も大改修工事は続けられ、完成は西暦64年頃でした。完成とともに、18,000人以上の工事に関わっていたユダヤ人は職を失い、ローマ総督の悪政もあって、ユダヤ人の反乱が起こり、イエスの預言どおり、神殿は西暦70年アブの月(西暦では7月〜8月に相当)の9日にローマ軍により崩壊しました。それは奇しくも、ソロモンの神殿がバビロン軍によって崩壊したのと同じ月、同じ日でした。ローマ軍は神殿に火を放ち、豪華さを演出するためにかぶせてあった金は溶け、重ねてあった石と石の隙間に流れ込みました。冷えて固まった頃ローマ軍は戻って来て、石を崩しながら溶けた金をかき集めていったのです。しかし「西壁」だけは初めから金がかぶせられていなかったので、崩されることはありませんでした。興味深いことに、下の方の石はソロモンの神殿時代の大きな石が残り、上部は小さな石が積まれています。そしてそこは、神殿の奥に位置した「至聖所」に一番近い場所なのです。ユダヤ人の集まる「西壁」である「嘆きの壁」が「至聖所」に一番近い場所であり、現在もまだ残っているのです。


  A ユダヤの腐敗


 ユダヤ教三大祭とされる過越祭ペサハ)、7週の祭シャブオット)、仮庵祭スコット)の時の神殿の手続きは、他の祭儀と異なり、全焼の犠牲や日々の決められた儀式以外に、巡礼者が犠牲を捧げる時間が設けられていました。巡礼者の犠牲は通常「小羊」ですが、貧しい者や女性は「」や「」を捧げました。そのために、犠牲の灰を取り除くのは日没後からは翌日(夜の6時〜9時頃)で、真夜中に神殿の外門が開かれるので、夜明け前ごろには神殿の内庭はイスラエル人で一杯になりました。広場の南側にある「王の柱廊」では、雄牛や羊、籠に入った鳩など犠牲動物を売る商人や、ローマ貨幣(皇帝の肖像が刻印されていて偶像とされた)をユダヤ貨幣に交換する両替商で混み合っていました。
 神殿の庭には、イスラエルの町々と離散した地からやってきた賢者、思想家、自称預言者、幻を見る者などが人々に向かって訴えかけるものや、誰かに何かを訴えたいもの、公共の場で話をしたい者はみなエルサレムに集まってきたのです。祭り日には、神殿の支配権がサドカイ派の大祭司の手から、パリサイ派の指導者や賢者の教えに従う何千と言う人々の手に委ねられたため、この期間中は、町にいる人々と神殿にいる人々の間の接触が容易になり、巡礼者への配慮で律法の不浄に関する規定が幾分緩められたのです。イエスが祭りに際して神殿に乗込んだのは、多数の人々との接触が容易であり、教えを説く事も十分出来る、律法の規定を厳格には押し付けられない、警備の目が届くにくい等、好条件が揃っていました。
 大祭司などの上級祭司一族は、更に神殿の奉仕に規定されている動物を売ることにより、更に富を蓄積しました。大祭司などの神殿貴族の破廉恥ぶりは後のタルムードにもあり、祭司に支払われるべき十分の一税を手に入れようとして、あつかましくも奴隷を地方の脱穀場に送り込み、税を強制徴収して懐に入れたりしたため、貧しい祭司は飢えに苦しむ一方でした。また、牛や小羊、家禽、その他の生物の大規模売買と囲い入れ、および神殿の大祭司に仕える収入役や管財人の支配下になった両替商などの商人は、大祭司系の人間であったと言います。

 さて、ユダヤ人の過越しの祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。(ヨハネによる福音書2章13節〜17節)


 こうしてイエスは、公生涯の初めに「宮清め」を行ったのです。一度は、清められた宮ですが、十字架を前にエルサレムに上って来られた時に、再度宮きよめをしなくてはなりませんでした。

 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いをしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。(マタイによる福音書21章10節〜13節)


 3年の公生涯の間に2度も宮きよめをしなければならなかったことから、どれほどが信仰から離れたものであったかが伺えます。

<参照>
 宮清めといちじくの木への呪い
 資料:エルサレム神殿とエルサレム


  B ユダヤ教の構成と各派

 祭司階級は、大祭司祭司レビ人の3階級に分かれて、すべてがレビ族の子孫です。
 大祭司は、アロンの子エレアザルの家系の者で、その最年長者が世襲で継承しました。その特別な装束は、祭司としての“清さ”をあらわしていました。神の意思を民と指導者に告げ、年1回贖い日に至聖所に入り、神の前に民を代表して、生贄の“やぎ”の血を贖いのふたにかけ、全イスラエルの罪の贖いをしました。
 ハスモン朝時代、王が大祭司を兼ねるようになりますが、政治情勢の不安定さから、律法を法的秩序の基本として前面に適応する事がなかったために、紀元前2世紀中頃までには敬虔な在家信徒ハシディーム)であるユダヤ人はパリサイ派を結成し、すでに王権に結びついていた祭祀主義で特権的集団サドカイ派(祭司系)から分かれました。紀元前2世紀末頃、同様にサドカイ派が特権におぼれ、神殿税から得る富に執着し、政治的な妥協の姿勢に反抗した一部の祭司が離脱し、荒野に共同体を結成してエッセネ派と呼ばれるようになりました。
 パリサイ派とサドカイ派の分裂と対立点は、口伝律法(タルムード)と成文律法(トーラー)の問題でもありました。パリサイ派が口伝律法を重視するのに対して、サドカイ派がパリサイ派の口伝律法を認めず、成文律法のみを認めたと言われます。実際は両派におけるトーラーの具体的な解釈と、両派の認める慣習法の相違点が問題でした。
 律法学者とは、ラビのことをいい、特に1世紀から6世紀頃にかけてタルムードの編纂・執筆に貢献した学者のことです。ユダヤ教指導者としての知識と訓練があり、その職を任された者で、歴史的にはシナゴーグの指導者として、ユダヤ人コミュニティーの指導者となりました。
 また、熱心党は、イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教集団である。

  C クムラン教団としてのエッセネ派

 エッセネ派は他のパリサイ派、サドカイ派に比べ、熱烈にメシア(救世主)を待望しており、中でもクムラン教団は、メシアの啓示を強く受けていましたクムランとは、イスラエル東部、死海西岸にある遺跡で、20世紀半ば、ヒルベトクムラン洞窟から旧約聖書の最古の写本を含むクムラン文書が発見されたことで知られています。

<参照>
 資料:イエスの結婚、エッセネ人とファリサイ人
 エッセネ派ユダヤ人(クムラン教団)


イエス時代前後の存在した宗団の遺跡

 クムランの重要な祭儀の一つが、聖なる水による清めです。彼らはエルサレムを汚れた祭儀を行う所と嫌悪し、そこで行われる神殿祭儀は古い契約とみなして、自分達は「新しい契約」(恩恵と悔い改めの契約)に入るものと考え、入会者は新しい契約に入る為に「水の洗礼」を必要とした。洗礼の“”自体は重要な働きと意味を持ち、肉体と霊をきよめる為に欠かせないもので、この「清め」もいくつも段階を経て、繰り返し行われます。特に“7週の祭の日を洗礼日としていました。この時代、儀式的清めはイスラエル全般に見られ、沐浴場があちこちにありました。クムランの清めは、更に極端に強調されていて、聖霊による肉体と霊魂の清浄により、はじめて完全に“清めきよめられる”と考えています。彼らが、祭儀を重んじたのは、罪の赦しの贖いを最重要視していたためでした。


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