復帰摂理歴史の真実

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■ 3. 共産主義の台頭



イルミナティと共産主義の時代的背景


 1785年ローマ教皇・ピウス六世イルミナティ ( 「フリーメーソンと文芸復興」 参照 ) が “カトリックの教義になじまない”と明言し、異端とされて、結社としての活動は1785年に終わりました

 しかし、この頃は1776年アメリカ独立と、1789年にはフランス革命の嵐が吹き荒れるなど、カトリック教会制度の破壊キリスト教の迫害君主の処刑などの混乱を極めた時代であり、ローマ教皇・ピウス六世もフランス軍の教皇領占領によってローマを追われて、失意のうちに亡くなりました。

 イルミナティも分散され、その存在が見えなくなっても、その目的と意志は脈々と受け継がれて共産主義を誕生させるまでになるのです。


 もう一度、イルミナティの7つの目的を掲載しておきます。

1.あらゆる統合政体国家の廃絶
2.私有財産の撤廃
3.相続権の廃絶
4.愛国主義の廃絶
5.すべての宗教の廃絶
6.結婚の廃絶を通じての家族制度の廃絶
7.世界政府の樹立




マルクス

カール・マルクス (1818年5月5日〜1883年3月14日)

 カール・マルクスは、代々ユダヤ教ラビ(聖職者であり神学者)の家系に育った父ハインリヒ・マルクス母アンリエットの間に生まれました。

 父ハインリヒ・マルクスは、啓蒙思想をもつ弁護士でしたが、1812年フリーメーソンの会員となってカール・マルクスが生まれる前にキリスト教に改宗しました。

 カール・マルクスは6歳の頃にプロテスタントの洗礼を受けているので、クリスチャンとして生まれ育っています。※ 1.

 しかし、1830年12歳の時に入学した中高一貫校であるギムナジウムの校長は熱烈なルソーの支持者で、父の影響とともに啓蒙思想の影響を強く受けていました

 1836年、マルクスが18歳の時、イエニ−22歳)と婚約。

 1837年、神を憎悪する「絶望者の祈り」と言う詩を書きます。※ 2.

 ボン大学(ドイツ)の後にベルリン大学(ドイツ)に入学して、ヘーゲル左派の影響を受けるようになります。

 1843年6月25歳の時に7年の婚約期間を経てイエニ−と結婚しますが、11月にはパリへ出発して友人であるアーノルト・ルーゲゲオルク・ヘルヴェークとともに 『独仏年誌』 を出版しましたが、2号で廃刊となってしまいます。

 1844年8月フリードリヒ・エンゲルスがマルクスを訪れ、10日間滞在した時から本格的な交友が始まりますが、マルクスが「フォアヴェルツに寄稿した批判記事に対してプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が憤慨して、1845年1月パリからベルギーブリュッセル追放されました。

 1846年、マルクス28歳の時エンゲルスと 「共産主義国際通信委員会」 を設立し、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに 「共産主義者同盟1847年の結成に参画することになり 『共産党宣言』 を起草しました。

 1848年2月フランス二月革命のため3月3日ベルギー警察に夫婦とも抑留され、24時間以内の国外退去を命じられたため、翌日フランス臨時政府の招きに応じてパリにもどります翌月にはプロイセン王国領のケルンへと移動し 『新ライン新聞』 を創刊したものの、政府に弾圧されて1849年には廃刊となり、5月には国外追放となり、マルクスはエンゲルスの招きに応じて、1849年8月末ロンドンに亡命しました。

 ロンドンに亡命したマルクスは、エンゲルスからの資金の援助はあったものの、極度の貧困の状態にあり、二男グイド1850年11月に、三女フランツィスカ1852年に、長男エドガー1855年3月に、それぞれ亡くなっています

 1851年からマルクスは 「ニューヨーク・トリビューン」 紙の特派員となって、1862年まで500回以上寄稿しました。

 ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間は、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続けて、経済研究と膨大な量の資料収集を行い、 『資本論』 の執筆活動に専念しました。

 1881年12月2日妻イエニーが死亡します
 1883年3月14日、マルクスは亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去しました(65歳)。


 1859年 経済学批判」 出版。
 1867年4月12日資本論」 第一巻刊行。
 1889年資本論」 第二巻編集・出版。
 1894年資本論」 第三巻編集・出版。


※ 1.クリスチャンのキリストとの一体
 「我々は、キリストの愛を通して、同時に我々の兄弟に心を向けるのである。兄弟たちは、心において我々とつながっている。キリストはご自身を兄弟たちに犠牲としてお与えになったのである。 」
 「キリストと結び合わされることによって、我々の魂は高揚し、慰められ、平穏な確信を与えられる。また、隣人愛やあらゆる高貴で偉大なものに順応することができるようになる。しかも、それは、野心や栄光のためではなくもっぱらキリストのためである。」

※ 2.絶望者の祈り
 「神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して何から何まで取上げて、神の世界はみんな、みんな、なくなっても、まだ一つだけ残っている、それは復讐だ! 俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。 高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい、俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ! 一つの国を俺は樹てたいんだ、その頂きは冷たくて巨大だ、その砦は超人的なもの凄さだ、その指揮官は陰鬱な苦悩だ! 健やかな目で下を見下ろす人間は死人のように蒼ざめて黙って後ずさりをするがいい、盲目な死の息につかまれて墓は自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。
 高い、氷の家から至高者の電光がつんざき出て俺の壁や部屋を砕いても懲りずに、頑張って又立て直すんだ。」


熱心なキリスト教徒がなぜ神を憎悪するようになったか?

 その背景は謎でしたが、ここから見えてくるものがあります。  それは、@ 父親がフリーメーソンの会員であったこと。そして A 啓蒙思想に興味を持ったこと。そしてもう一つは、B イエニ―との出会いと結婚といえるかもしれません。
 イエニ―はマルクスの姉の友人で、検事総長の娘と言う身分でした。フリーメーソンにしろイルミナティにしろ上位層の人たち”に伝播した事や、共産主義に傾注していったマルクスをひたすら支え続けたからしても、マルクス変貌に強く影響を与えたのはその“妻イエニ―”と言っても過言ではないでしょう。





ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770年8月27日〜1831年11月14日) ドイツ観念論


1807年精神現象学」を出版。

 観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したものです。

 精神現象学とは「意識を問題とする哲学で、次の三段階を要します。

 つまり、「感性的意識」から「知覚」、つまり、感覚的あいまいな意識から「知覚」としての具体的意識になると、それが“何であるか”という「悟性」による明確な認識へと「それ」への理解が深まって行きます。

 さらにそれを認識している自己)」を自覚して、自分が「これを認識しているという明確な「自己意識」が生じます。

 そのことによって「それ」が他者にもそれが明確に認識され、互いの「理性」によってそれへの認識が共有されることで、一歩発展した自己を認識出来るとしました。


1821年法哲学要項」を出版。

 客観的精神とは“家族”や“市民社会”、“国家”などの自由な人間の行為により生み出される精神の客観態であるとしました。

 たとえば、『 家族 』とは“愛情”や“感覚”という「形式」における主体”と“客体の統一の段階であるとし、…

 『 市民社会 』は市場においてもたらされる“欲望に基づく労働の体系”であるとし、…

 『 国家 』は“市民社会の欲望の体系を包摂”しながら立法権執行権君主権を用いて普遍性を現実化させるために市民社会の利己性を監視するとしました。


右派と左派

 右派 ヘーゲルの哲学としての(観念論的または唯心論的)立場を守り続けた、ヘーゲルに従事していた人達によって構成されていたグループで、超越神的要素と、イエスを神人として受け入れ、福音書の物語性を主張していました。

 左派 ヘーゲル学派の神学者であるダーフィト・シュトラウス(1807年1月27日〜1874年2月8日)が自身のヘーゲル研究を基に、1835年聖書批判書としての「イエスの生涯」を著したことによって直接的な分裂が始まりました。
 福音書の中の全歴史を史実して受け入れるべきであるとしたのが右派部分的には受け入れられるとしたのが中央派まったく受け入れるべきではないとしたのが左派とされています。ヘーゲル左派はしだいに唯物論的実践的な立場となって、国家批判への道を進み始めるようになります。


 なお、ヘーゲル弁証法に関しては、次のページで説明いたします。





フォイエルバッハ

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ (1804年7月28日〜1872年9月13日)

 1824年ベルリン大学神学を学び、ヘーゲルの講義を聴きヘーゲル左派となって行きますが、1830年に『死および不死についての考察』を著述してキリスト教を批判して唯物論的立場をとるようになりました。

 「人間の自己疎外※ 3. と言う概念を生み出して、ヘーゲルの哲学批判を展開し、マルクスに大きな影響を与えた人物です。



※ 3.  「疎外」について


 「疎外」とは、人間が作ったもの人間自身から離れ逆に人間を支配するような疎遠な力として現れることで、それによって、人間があるべき自己の本質を失う状態を言います。(左図)


 フォイエルバッハは、“神は人間がつくり出したもの”で、その様な(神は存在すると言っている)人たちが集まるようになると、人間から神が離れて、逆に“人間を支配”する様になり、その事によって“人間が本来持っていた“「人間としての本質」を“失ってしまう”事を「人間の自己疎外」としました。(左図下)


 しかし、これには現実的な実証性がありませんでした。そこで、マルクスは当時の“経済社会”とキリスト教社会の矛盾を結びつけて“労働”と、それへの“搾取”としてその現実的内容を理論付けました。(次ページ)





エンゲルス

フリードリヒ・エンゲルス (1820年11月28日〜1895年8月5日)

 1820年、繊維工場を共同出資者する経営者の家庭に、8人兄弟の長男として生まれ、やがてマルクスと同じベルリン大学ヘーゲル左派に加わると、その後は父親が共同出資者であるイギリスの工場で働くようになり、1842年にドイツへ帰る途中マルクスと出会い、一緒に活動するようになります。

 エンゲルスは、イギリスの工場で働いていた時に、イギリスの都市中に拡がった貧困に衝撃を受けると、都市の貧困の中で暮らす人々の生活の中に入り込み、取材と調査を進め、都市の人口やその状態の詳細などを考察した報告( Condition of the Working Class in Englandイギリスにおける労働者階級の状態』)を執筆しました。

 この様に、エンゲルスはマルクスの『資本論』の執筆に対して強いインパクトを与えた人物です。





 以上のように、マルクスを共産主義へ動機付けたのは、ヘーゲル左派哲学ですが、エンゲルスの影響を受けて経済学への方向付けをもって、フォイエルバッハを批判して理論的構築を成したのが「唯物弁証法」としての「共産主義」です。

つづく・・・



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