■ 第三部 第一章
e. エバの摂理完了と男性復帰(下)
1. 女の全権時代の意味
(1) “サタンと対峙” する時代から訣別する時代へ
@ 新しい葡萄酒となる四大心情圏
女の時代は七年間です。女の全権時代は二〇〇〇年までです。先生は、今から七十代、八十代までの七年間が残っているのです。一九四五年から一九五二年までの七年間ですべてをまとめようとしたことが、今残って延長されているので、再びそれを蕩減復帰して、完全な地上・天上天国の成立が可能な時代に入りました。そこで氏族メシヤを送って、家庭メシヤを編成するというのは、地上天国編成が始まっているからです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p99)
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(@)ジョージ・フォックスによるクエーカー派
新渡戸稲造はクエーカー派の正式会員となった。クエーカー(キリスト友会)の創始者は、ジョージ・フォックス(左図 : 1624年7月〜1691年1月13日)であり、 清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの宗教家である。
クエーカー派は、自らの拠り所を聖書や信仰箇条よりも、人種や階級、性別に区別なく万人に宿るとされる「内なる光」に見いだしているところに特徴がある。「内なる光」は、「キリストの内在」や「人の内なる神性」などという言葉としても表され、普遍的な真理であり、これを人々が知るには観念としてではなく、内的な、神秘的な体験においてほかにはないとした。
新渡戸は、「内なる光」を媒介として、人間と神との一体化を遂げた後、それを観念の世界にとどめるのではなく、社会に対して “愛” というかたちで実践することによって “神の御旨の具現化” を強調した。愛は自己と他者を結びつけ、その愛を基盤とする社会を構築することによって、神の御旨は可視化される。それは、矛盾や不調和、不安に満ちた人生において、愛による「調和」を与えるものとして重視したのである。
これらのことに準ずる内容は、1990年代前半の「訪韓修練会」において日本人信徒だけに文先生が直接語られたが、その内容は “新しい葡萄酒” (御言葉『真の自分を探しましょう』)として突然表明されたのである。
<参照>
・ 内村鑑三の武士道とキリスト教
・ 新渡戸稲造と北村透谷
(お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター客員研究員 森上優子 : PDF / 本サイト)
(A)堕落性を克服して絶対善を貫く覚悟
そうなると、問題は何でしょうか。いかにして良心を解放するかという決断を下すには、自分が堕落したということをはっきりと知らなければなりません。堕落したことをはっきりと知らないから、ぼやーっとしているのです。分かりましたか?(「はい」)。堕落していることを知りません。歴史がどういうふうになっているかを知らないのです。それが問題です。中間位置でぼやぼやしながら自分を中心として考えているから、いくら解決しようとしても、解決できません。分かりましたか?(「はい」)。堕落したという観念を、徹底して自覚しなくてはなりません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p70〜p71)
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ですから結論として、良心を強くしなければなりません。そうするには、堕落観念を徹底させなければなりません。自分は堕落した者であるということです。分かりましたか?(「はい」)。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p91〜p92)
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さて、良心を解放して強くすることと、堕落観念を徹底することとはどの様な関係性があると言うのでしょうか。
サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象はかれらの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。(『原理講論』p116)
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さて、血統転換は誕生時の問題であり、成長期間時のことではない。環境が悪ければ、血統転換で誕生した人間も、成長期間時に再堕落してしまう可能性は充分にあるのである。問題は、血統転換ではなく、成長期間における “修養” が最も大切なこととなるのである。
如何なる人間も、肉界のみならず霊界に取り囲まれた環境の中に存在している。故に、あらゆる善悪の霊人にも対応できる環境の中に生きているということであり、取分け悪は肉身から侵入するということである。そして、肉心に影響を及ぼし、生心と対峙する関係が生じてしまう。この時、如何なる悪にも打ち勝てるのは、生心が神の御言と如何なる関係を成しているかに決定される。つまり、良心の強さは、サタン分立の度合いに応じる(左図)ということになるのです。
<参照>
・ “心を養う” 必要性の根拠
罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。(『原理講論』p121)
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堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第一は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第二には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情を持って、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
第三は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
第四は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの堕落ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。(『原理講論』p123〜p124)
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サタンと相対基準を結んで、授受作用を成し、天法に違反したことを罪と言う。罪を犯さないようになるには、サタンと相対基準を結ばないようにすること以外にはないが、その相対基準を造成させるのは堕落人間に潜む堕落性本性に他ならない。この堕落性本性は第一に「神と同じ立場に立てない」ことであるが、神と同じ立場に立てなくなったのは神に愛されるアダムを妬んだことにあるが、それは神に直接愛される立場から間接的に愛される立場に変わったことを「愛の減少感」として捉えたことに他ならない。つまり、第一の堕落性本性の前に第二の「自己の位置を離れる」ではなく、自己の位置の変化があり、自己の位置の変化の前に第三の「主管性の転倒」ではなく主管性(主管者と被主管者)の転倒が始まっていたのである。
ですから、自分の旦那さんに対して、同じ立場に立っては駄目です。天は高く、地は低いのです。愛を絞り出すようにしなければなりません。愛は下に流れるものであって、上に上がるものではありません。角度があればあるほど、流れが大きくなります。ですから女は、男のために完全に奉仕しなさいというのです。
お母さんが、自分の子供を本当に養育する秘訣は、子供に奉仕することです。それによって立派な子供に成長していくのです。奉仕しなければ、めちゃくちゃになります。奉仕しかありません。旦那さんもそうです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p304)
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この内容は、「立派な旦那さんをつくる道」として、天使長の立場にある夫を復帰するための御言として語られたものであるが、ここでのポイントとなるのは、「天は高く地は低いが、愛は天から地に、高いところから低い方へ流れる」その行為は見返りを求めない “奉仕” として具現化されるという「父母の心情と僕の体」そのものである。
天使長ルーシェルの堕落は、その立場が僕の立場に変わったことによって、神の愛の直接主管から関節主管となり、それが神の愛の減少感となってアダムを妬み、エバを誘惑したことに始まる。
ヤコブの正妻であるレアが夫に愛されなかったのも、文先生が本妻よりも妾を愛されたのも、堕落したエバから復帰されたエバに転換されることで、四大心情圏を復帰することにあった。人間堕落によって失ったのは、アダムにおける神の御言とエバによる神の愛なのである。四大心情圏は、子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情であるが、とくに子女の心情は天(神)からの愛を喜びとして受け止め、天(神)を慕い敬う忠孝の情をいう。この心情が基本となって、兄弟の心情、夫婦の心情から父母の(神が父母として自分を愛したように他を愛する)心情として成長し発展していくというのが四大心情圏の真意である。
文先生は愛も成長するといわれる。すなわち、人間が子供から成長していくにつれて、愛も成長していくのである。子供は生まれた時には愛が何であるか全く分からない状態にあるが、父母の愛のもとで成長しながら、少しづつ父母に対する愛が芽生えてくる。それが子女の愛である。ここで子女とは、息子と娘というのではなくて、二人の幼児または双生児のような意味である。男の子と女の子というような性的な概念をもっていない純粋な幼児、児童、子供のような意味の子女である。すなわち、ここでいう子女の概念は、性を超越した中性のような意味である。そのような幼児が、少しずつ父母に対して愛(子女の愛)を感じながら成長して父母となるのである。(『統一思想要綱』p735〜p736)
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そして、ここで最も重要な核となるのは夫婦の心情による夫婦の愛である。次に、それは何故なのかを見ていくことにする。
<参照>
・ 内村鑑三の武士道とキリスト教
(B)唯一神と夫婦の一体化としての似姿
真の愛を中心として、兄弟が一つになり、小学校から中学、高校へと、大きなプラスに向かった場合には、これが一つになるのです。こういうふうに発展するのですが、これを対応的相対関係といいます。分かりましたか?
こういうふうにすべてが発展していくのです。中学・高等学校を卒業して、マイナスが大きなプラスの大学になり、それが一つになって発展して、対応的相対関係でだんだん大きくなっていきます。どこまで行くかというと、神の愛を占領するまで行くのです。精神的には神の愛を占領することであり、肉身的には、神の愛に接触する生殖器が、最高の望みの基準です。ですから人間の愛の分野に向かって、すべてのものは投入して入ってこうようとするのです。
ですから鉱物は植物が好きであり、植物は動物が好きであり、動物は人間が好きなのです。そして、最高の望みとする所は、神の愛の平面的な最高部である、夫婦の愛の器官です。これが地上天国の基台です。良心の基準は神の愛です。分かりましたか? 神の愛を占領する所です。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p86)
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神の愛が真の愛として中心軸となり、左右、または前後に、その中心軸を挟んで相対的に対応できる関係を築くことを “対応的相対関係” と呼んでいる。心情は愛する対象から喜びとして返ってくるようになると発展することから、対応的相対関係として最もその関係性において発展するのはどの関係になるかと言えば、それは「夫婦の関係」であると言える。文先生は、夫婦関係における「神の愛の接触分野の “生殖器” が最高の望みの基準」としているのは、“夫婦の愛” が “父母の愛” として発展することで、神が愛によって人間を子女(性や人種を越えた子供)として生んだことの真の愛の基となるところであるからに他ならない。
神は人間の良心に作用し、生心が肉心の主体として機能するようになると、肉身としての生殖器は肉心の機能を最高に奮い立たせ、夫婦となった男女の生殖器は性交によって激しく
共振・共鳴現象を興す。これは、神の愛が一旦男性と女性に分裂し、再び対応的相対関係を結んで、神の心情を中心とする良心作用によって、互いの肉身における最高の喜びとなる一体化は、神の愛が人間の肉身を通じて実体化したものと言える(右図)。
ここにおける対応的相対関係にある夫婦が共振・共鳴することによって、神の愛のエネルギーが同じ波長として伝わり、共振による共鳴によって一心同体化が生じることである。この状態こそ、創世記1章27節にある神の似姿であり、神は愛であることの実証体となる。この時、共振・共鳴の基は常に相対となる相手方にあるのであり、堕落前のエバは、アダムが神の心情に相対できるアダムになるまで待たなければならなかったのであり、アダムはそうした自分の相対として立てるように待たなければならなかったのである。こうしたアダムとエバの一心同体化が可能となるのは、アダムに課せられた「取って食べるな」(聖書の創世記2章17節)と言う戒めの期間が解かれる時であることを明確に示している。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。(創世記2章17節)
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「善悪を知る木」は,、“創造理想を完成した女性(エバ)を象徴” した木であると『原理講論』の97ページに明記されている。この木に「悪」の文字があるのは、エバがまだ創造理想を完成した状態に至っていないことを表している。完成に至らしめるのは、“アダムが「生命の木」として完成すること” が前提となっていることは、原理によって明らかである。
<参照>
・ 内村鑑三の武士道とキリスト教
・ 音叉の共鳴と同期 (サイ理学研究所 齋藤嘉夫・東北学院大学工学部 鈴木仁志 : PDF / 本サイト)
・ No.11 共振・共鳴現象とは?同調(共振)回路の仕組み
・ 魂が共鳴する
・ 共振・共鳴現象とは?同調(共振)回路の仕組み
・「異性への魅力の正体」は手汗などの生理的反応を同期させる能力だった
・ リンクエナジーセクシャリティコラム一覧
(C)四大心情圏を支える大黒柱(太極柱)の必要性
対応的相対関係となった男性と女性の間に、授受の関係が成り立って愛が生じる。それは、一方(主体)が “授け”、それをもう一方(客体)が “受ける” 関係である。つまり、「発露する “心情” に従った行為(愛)を “喜び” として受け取ることのできる関係」(左図)こそが “愛の関係” と言える。何故なら、「心情とは愛によって具体的な喜びを得ようとする意志」であるから、神の愛は、アダムの神に対する四大心情圏が主体としての発露となって、その客体としてのエバが “善悪知るの木の実” を「善の実として結実」することを意味する。この時、愛は高位から低位に流れ出て主体の心情が客体に喜びとして結実するのであるから、新美南吉の言う「悲哀は愛に変わる」(「内村鑑三の武士道とキリスト教」参照)ということも、仏教でいう「慈悲」の意味も正しくそれに該当する。
ところで、この心情の正当性を裏付けるのは “御言” であり、愛の主体となる男性は御言によって裏付けられた愛によって客体を主管する “大黒柱” としての主人ならなければならない。大黒柱とは、民家の土間と床との境の中央に立てる、特に太い柱のことであり、建物の中央に最初に立てる柱である。また、大黒柱という名称は,一家の富を司る “大黒天” をその近くに祀ったためと考えられる。大黒天は、ヒンドゥー教のシヴァ神(右図)の異名であり、これが仏教に取り入れられたものであるが、暗黒(夜)の神を象徴し、ヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人で最高神に位置付けられている。 更に、大黒柱を太極柱と書くのも興味深いことである。
四大心情圏は、この大黒柱を軸として、上と下、前と後、左と右に円形または球形運動するその対象に対する愛の発露となる。
<参照>
・ 神道とは何か
・ 大黒天|深川七福神ホームページ
・ 仏に関する基礎知識:大黒天(だいこくてん)
(D)取り戻すべきは、男性による愛の権威とその継承
父と息子、父子が一つになるときには、家庭はいくらでも築けます。息子の家庭も築け、父の家庭も築けます。父一人はだめです。息子一人でもだめです。息子がどうして父の家庭になれ、父がどうして強制的に息子の家庭になれるでしょうか? 父子が一つにならなければなりません。
母子が一つになって復帰しましたよね? 今は父子が一つにならねばならないのです。「父子一体は万事能通」なのです。皆さんはこれから戻って祝福を受ければ、母親の言うことではなく、父親の言うことを聞かなければなりません。大きくなって母親の言うことを聞けば滅びます。雌の鶏が鳴くと何ですか? 家が栄えると言われていますか? 滅びると言われています。それでは雄の鶏が鳴くとどうですか? 反対ですから、雌の鶏が鳴けば滅びるならば、雄の鶏が鳴けば家が栄えるという意味ではないですか? 統一教会の信徒たちは、雄の鶏が鳴くのです。
男性の権威を取り戻すのです。天使長ではありません。愛の権威を取り戻すのです。浮気をして妻に「こいつ、何だ!」と言われたり、顔を引っかかれて追っかけられる者ではありません。(『主要儀式と宣布式 W』p41〜p42)
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旦那さんは天です。愛するときには旦那さんが上にいくのですか、女が上にいくのですか? 男でしょう。愛という尊いものを中心として関係を持つときには、男は上、女は下です。ですから、愛を中心とすれば、夫婦生活は、女が下になったほうが安全なのです。上になると転覆するのです。基本的に、男から愛をもらおうとする際、愛は一番下へ流れていきます。空気と同じです。ですから旦那さんも、愛をもらうには奥さんに頭を下げないといけません。その愛がぐにゃぐにゃ曲がれば、死んでからも大変です。死んでも求めなければならないのが愛です。死ぬとしても、愛を曲げてはだめです。愛を失うようにしては駄目なのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p305〜p306)
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神は父で、アダムは神の息子です。「取って食べるな」と言う戒めも、父である神が息子であるアダムに与えた戒めです。神は、アダムに、その愛を実らせるために戒めを与えました。“御言によって結実した愛” を命いのちとして人は生きるようになるので、アダムを「生命の木」として喩えたのです。
アダムは、神に愛されることによって心情が発情されました。第一に神を愛そうとする「子女の愛」であり、もう一つは、エバを愛そうとする「兄妹の愛」です(右図上)。
エバは、アダムに愛されることによって心情が啓発され、アダムを愛するようになります。そうすることによって、アダムとエバ間の “兄妹の愛” は “夫婦の愛” へと成長して行きます。そうすることで、エバは「妹」の立場からアダムを愛することで「姉」の立場を取るようになり、姉から弟としてのアダムへの愛が流れることによって夫婦としての愛による一体化が為されます。こうした夫婦の愛による一体となった状態は、夜の神と昼の神が愛によって一体となった「唯一神に似た “かたち”(創世記1章27節)」となって神の愛がアダムとエバの夫婦の愛に “90度(直角)” に降りてくるのである(右図中)。“90度” と言うのは、従的な神の愛が夫婦の愛と “一点” で交わって、そのまま横的な愛となって全体に展開される愛となることを意味します。
一体となった夫婦が父母(親)となった母の胎から子女が誕生すると、母は胎中からの刺激によって “父母の心情” が啓発され、子女の誕生によってその愛は溢水の如く流れ出ます。母のと子女との関係は、胎中に宿った時から主体と客体の関係に定められ、滝の如く流れ落ちるのです。また、その心情は父(夫)と一体であるが故に、母の愛で育まれた子女も、その成長に従って父の心情に一致して、「父子一体」の関係が築かれるようになります(右図下)。
この様な「父子一体」となったことによる神とアダムと子女の関係を喩えるならば、“地から天に立て掛けた「ヤコブの梯子」” であり、同じ心情で貫かれた “一本の柱” は正に “愛の権威を象徴する「大黒柱」” と言えるのです。
<文先生のみ言葉>
・「全体全般全権全能の日」宣布 (PDF)
A 鯉が龍となる時
日本がエバ国家になった場合には、韓国と日本の国境はすぐなくなってしまうのです。そして、中国は天使長国家です。中国をアダムとエバが抱擁するようになるのです。分かりますか? そうした場合、天使長は何も持っていません。今、そのような一番最低の位置に立っておる中国を援助して、子供のように抱擁しないといけないのです。そうすれば全世界が、東洋文明と西洋文明が、カイン・アベルが……。アジアの精神的文明はアベルであり、物質文明はカインです。それは体を象徴するのだから、アベルが中心の立場に立った場合には、カイン圏である西洋文明は自動的に東洋一体になるのです。分かりましたか?(「はい」)。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p209〜p210)
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「登竜門」と言う言葉があるが、「急流の滝を登りきる鯉は、登竜門をくぐり、天まで昇って龍になる」とい故事が元になっている。「黄河文明と長江文明」のところでも述べたが、「龍」は天上の存在であり陽の極致としての “男” を予兆し、「鯉」は陰気の極致としての “女” を予兆している。「日本がエバ国家になった場合」と言うのは、“日本が鯉のように滝を登りきって、天まで昇って龍になった状態”であり、天上においては “昼の神” と “夜の神” が一体である様に、夫婦となった “男(龍)”と “女(鯉)”は一体となるという意味である。つまり、“日本が神の心情と御言に一体となった状態” を示している言葉なのである。
韓国は「大韓民国」のことですが、ツングース系部族から派生する扶余族が紀元前1世紀に高句麗を建国し、4世紀前半に百済を建国すると後漢王朝に圧迫され、朝鮮半島方面へと南進しました。そして、彼らは現在の韓国にいた原住民である “韓人” と混血同化し、今日の朝鮮人となっています。この事から、文先生と韓鶴子は、ルーツを同じく持つ兄妹のような関係であり、韓鶴子と日本国はカインとアベルの様な関係にあると言えます。
<参照>
・ 韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか
・ 文先生誕生のルーツと日本の摂理
・ 日本へ向かった10支族
「韓国と日本の国境がなくなってしまう」とは、エバ国家としての日本国の中に韓国が入ってしまうと言うことを言っています。この事は、文先生の誕生時の日韓併合時の状態と同じになることを意味していて、文先生の正妻と妾としての日本が一体となることによって、韓鶴子は、喩えればエバ国家としての日本の天照の様な立場に立つことを現しています。エバ国家が日本であれば、アダム国家は、人類始祖のアダムとエバが誕生したエデンの園の様に、文先生夫妻のルーツとなるツングース地方としての “満州” を指しています(「父なる神とアダム国家」参照)。この2つの国が、中国を子供の国として抱擁して、東洋の精神文明が、中国の多民族を介して西洋文明圏の物質文明に影響を及ぼして一大変革を起こし、東洋の精神文明と一体となるのです。
<参照>
・ 黄河文明と長江文明
・ 鯉の滝昇り(滝登り)/登竜門の由来
・ ツングース文化と日本文化との比較研究 (作新学院大学経営学研究科博士後期課程 王辰 : PDF / 本サイト)
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