復帰摂理歴史の真実
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■ 第二章 第三節 失われた10支族の行方
     a. 日本へ向かった10支族

1. 10支族がたどり着いた「ヤマト」の地

 (1) 中国開封から朝鮮半島を経て日本列島へ

  @ 10支族は、なぜ中央アジアを離れたのか

 なぜ10部族は中央アジアに800年間住んだあと、日本に移住することを決断したのでしょうか。
 彼らが中央アジアを去ることを決断した理由は、見出されていません。けれども、西暦1世紀と3世紀に、中央アジアの「タクラマカン砂漠」(左図は、タクラマカン砂漠の衛星画像)とその近隣に、大規模な気候変動が襲い、土地が荒廃したことが知られています。
 タクラマカン砂漠は、アフガニスタンとキルギスの東に隣接する巨大な砂漠ですその砂漠化は、かつて中央アジアを襲った巨大な気候変動と、土地の荒廃によって起こりました。人々は、住み慣れたその地方を離れなければならなくなり、町々や村々は廃墟化したのです。人々は新しい安住の地を探す必要に迫られ、イスラエルの10部族らもそうだったと推測されるのです。「タクラ・マカン」(Takla Makan)の名は、ヘブル・アラム語で「廃墟となった所」を意味する「ティクラ・マコム」(Tikla Makom)がなまったものと思われます。
 タクラマカンにおける気候変動と土地の荒廃は、近隣の人々には、神の裁きとも映ったかもしれません、スウェーデン人地理学者S・A・ヘディン(1865年〜1952年 中央アジア探検家)によれば、タクラマカン砂漠の周辺に住む民族には昔から「砂に埋もれた町」の伝説があったといいます。その町に住んでいたのは異教徒でした。彼らはイスラムの教えを拒んだので、イスラムの導師は、彼らの上に聖なる裁きが下るように祈りました。すると「数日にわたって砂が雨のように降り続け、その地と町と住民は、みな砂の中に埋もれてしまった」というのです(ヘディン『中央アジアとチベット』)。

<参照>
 タクラマカン砂漠最後の原始部落・新疆ケリヤ(克里雅)人の村
 ・ 『「砂に埋もれた町」説話』 尾白悠紀(編) 龍谷大学東洋史学専攻 (PDF本サイト

 また、アメリカ人地理学者エルズワース・ハンティントン(1876年〜1947年 中央アジア探検家)も、タクラマカン砂漠の廃墟を調査したことがあり、こう述べています。
 「廃墟は、見渡す限りの荒涼とした死の土地に横たわっていた。どの方角へどれほど行っても殺伐とした光景が続く。ダンダン・ウイリク(ホータンの北東約150km)の南で、私は干上がった葦と枯れたポプラの地を、10kmにわたって横切った。そこで私は、北または西に、見渡す限りに広がる枯れ木の野を見た」。(ハンティントン『アジアの鼓動』)



聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史
 ラビ・マーヴィン・トケイヤー/著 久保有政(訳)/著

 聖書から最も遠い国へやってきたはずのユダヤ教ラビ(教師)が日本の神道、神社の古い習慣に見つけた驚くべきユダヤ教との類似。シルクロードを遡りイスラエルの失われた10部族を探求する古代史ロマン。



  A 古代中国での10支族

 タクラマカンの廃墟化は、一挙にというより、ある程度の期間をかけて進んだと思われます。それは中国が「」の時代であったとき、すなわち紀元前200年〜紀元後200年くらいに始まりました。湖はしだいに干上がり、川には水がなくなり、果樹園は枯れていったのです。
 水がなくなった人々は、自分たちの家を捨て、しだいに他の地へ移住しなければならなくなりました。やがて多くの人々が、東への移動を開始したため、イスラエル10部族の中にも、移住を開始した者たちがいたのです。移住を決意した彼ら10部族の一部は、まだ中央アジアに残っている10部族の他の者たちに別れを告げ、東方への旅に出発します。彼ら移動する10部族のグループは、しばらくして中国の開封に到着すると、一部の者たちはそこに住み着いたのです。(『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より)
 開封に住んだユダヤ人は、自分たちの宗教を「刀筋教(とうきんきょう)」と呼んでいました。ユダヤ人は、父祖ヤコブの時代から、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない(創世記32章32節)という風習があり、「刀筋教」はそのユダヤの慣習に由来する名前と言われています。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)

<参照>
 インドと中国のユダヤ人
 中国のユダヤ人
 開封の歴史と猶太人(ユダヤ人)PDFダウンロード) 著者/一般科(社会)教授 久保田和男
サマリアから日本への道
  B 朝鮮半島から日本列島へ

 一方、さらにその先に進む人々もいました。移動するイスラエル10部族のおそらく大多数は、旅を続けて北東に進み、やがて朝鮮半島に到着しました(ヤマトの民がかつて朝鮮半島にいて、その後、日本列島にやって来たことは、「ヤサカニの勾玉」と同じものが数多く朝鮮半島でも出土することからも、証拠づけられます。左図は武寧王の墓から出土した勾玉である)。
 彼ら10部族は朝鮮半島において、「東方の海を渡ったところに、人のまだほとんど住んでいない空(から)の大きな島(日本)がある」と耳にします。そのとき、荒廃したタクラマカン近辺から避難してきた彼らは、その島が果たして住むに良い地かどうか調べるため、先遣隊を送りました。先遣隊は、日本に行き、また戻ってくると、「日本は緑におおわれ、清らかな水の流れる地であること、またそこには先住民アイヌが若干住んでいること」などを、報告しました。10部族の長はそのとき、その地を征服し、そこに自分たちの新しい居住の地を建設することを決断したに違いありません。
 しかし、10部族が日本に上陸すると、彼らはアイヌの強い抵抗を受けて、たじろいでしまいます。彼らの抵抗を克服するために、10部族は橋頭堡を築き、中央アジアに使節を派遣し、そこにいる人々に援軍を要請します。
当然のことですが、その援軍はおもに、中央アジアにまだ残っていたイスラエル10部族の他の者たちで成っていました。こうして、しばらくして10部族の大半の者たちが日本列島に移住してきたのです。そしてそこを「ヤマトの地」としました。
 彼らが日本に来たことによって、かつてユダの地のユダヤ人となしていた交信は、以後、途絶えてしまった。そのために彼らは「失われた」10部族と呼ばれるようになったのである。(『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より)
 ところで、上記の“アイヌの強い抵抗を受けた”ことが原因となって、飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を行ったこと考えられます。ちなみに、「」は、東方の未開人のことであり、「蝦夷(えぞ)」をさす語となりました。また、「征夷」とは、蝦夷を征討することであり、征夷大将軍は、それを指揮する官職だったのです。



 (2) 秦氏と天皇家との関係

  @ 秦氏は古代ユダヤ人の流民なのか

 紀元後に日本列島に来た人々の中で、秦氏は、最も人口の多い渡来人でした。
 『新撰姓氏録』によると仲哀天皇の時代に、「功満王」または「太秦君宿弥」の率いる秦氏一族が日本に渡来しました(一説には西暦356年)。
 また応神天皇の時代には、秦氏一族の融通王弓月国の王。弓月の日本読みは、ゆづき)が、大勢の民を率いて日本に渡来、帰化しました(一説には西暦372年)。秦氏の王は、シルクロードを経由して持参した金、銀、織物その他の莫大な宝物を献上しています。
 5世紀にも大勢渡来しています。その後も、多くの秦氏一族が日本に渡来、帰化していて、彼らの容姿は異なり、背が高く、言語も風俗も違っていたと記されています。
 秦氏は、養蚕絹織物の技術に優れていました。太秦の地にある秦氏の神社蚕の社木嶋坐天照御魂神社)」の名はそれにちなんでいます。
 また秦氏の子孫の多くは、舟の形のデザインを家の紋章としていた。このことは、イスラエル10部族の一つ、ゼブルン族の紋章が舟であったこと(「イスラエル12支族」参照)と関係があるのです。
 秦氏はもともと、中央アジアに位置する弓月国の人々だったと言われています。ここは、景教徒の一大拠点でした。手島郁郎の研究によれば、秦氏一族は、秦の始皇帝が築き始めた万里の長城の築城(秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された)を命じられました。しかし、苦役にたえられず、満州を経て朝鮮半島に逃れたのです。
 朝鮮半島でも彼らは苦境に追い込まれたが、それを助けて保護してくれたのが、日本の天皇でした。日本の天皇は、西域の優れた先進文化を、秦氏(弓月の王)から学びたかったのです。
 一方、秦氏は日本の天皇の恩義に感激し、以後、天皇に忠実に仕える人々となりました。秦氏の人々の宗教は、そうやって天皇に仕える中で、次第に変質していくのです。
 秦氏の寺であった京都の広隆寺には、有名な「弥勒菩薩像」が置かれています。なぜ、仏教の弥勒像が秦氏の寺にあるのでしょうか。
 じつは「ミロク(弥勒)思想」というのは、エリザベス・A・ゴードン女史も明らかにしているように、キリスト教やユダヤ教の「メシヤ思想」がインドに入って生まれたものなのです。ゴードン女史は、「メシヤ思想」がインドに入って、「メシヤ」が「マイトレーヤ」となり、それが中国に入って「ミレフ」となって、日本で「ミロク」となったと述べています。
 「ミロク(メシヤ)思想」は、秦氏の故郷・弓月国でも盛んでした。それで秦氏は、弥勒は日本では仏教のものとして崇められているけれども、もともとは自分たちの信じるメシヤ思想に通じるということで、しだいに仏教に迎合していったのです。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)

<参照>
 大乗仏教に見られるキリスト教の影響
 弥勒菩薩

  A 秦氏と天皇家

 秦氏と天皇家との深い関わりについては、米国ニュージャージー州モンマス大学のアブラハム小辻教授が興味深いことを述べています。小辻教授は出身が京都であり、彼の家柄は代々、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の宮司で、下鴨神社の初代の宮司からそうであったといいます。
 下鴨神社は8世紀に、秦氏の一族長を記念して建てられたもので、小辻教授は、自分の先祖はおそらく秦氏に属していたと考えています。
 昔、皇居は京都にあったため、下鴨神社は、皇室と最も深い関わりのある神社でした。そこでは年間に71もの、皇室ゆかりの儀式が執り行われていたのを見ても、秦氏と皇室は、非常に深い関わりの中にあったことがわかります。

<参照>
 下鴨神社公式サイト

 日本の天皇は、単なる王ではありません。天皇は、大祭司的王(祭祀王)なのです。そしてそれは日本神道と深いかかわりを持ち、神道の中心的地位を占めています。前ページでは、アフガニスタンや中国等に行ったイスラエル10部族を見てきましたが、彼らの間に祭司はいても、天皇のような大祭司的王はいませんでした。
 なぜ日本に、万世一系の天皇というものが存在するようになったのか、ある研究者は、それは日本に古代イスラエルの王系の人々がやって来たからだと考えました。
 かつて北王国イスラエル初代の王は、エフライム族出身のヤロブアムでした。一方、アッシリヤ捕囚直前の北王国最後の王は、ホセアだったのです。聖書によれば、北王国の王たちはすべて神の教えに背いたのですが、ホセアは、その中でもましな王だったのです。聖書はホセアについて、彼は「彼以前のイスラエルの王のようではなかった」(列王紀下17章2節)と記しています。
 ホセア王や彼の側近たちは、紀元前722年にアッシリヤに連れて行かれました。(「王国の分裂と滅亡」参照)北王国イスラエルの王系は、もともとユダの王系に対する反逆から生まれたものであったため、アッシリヤ捕囚後、再びイスラエルの地に帰るよりはもっと遠い場所に行って、そこで自分たちの国をつくり、やり直そうと計画したのです。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)

  B 王族としての天皇家

 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルティグラト・ピレセル3世)の心を奮い起こし、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセル(ティグラト・ピレセル3世のこと)の心を奮い起こされたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕らえて行き、ハウラハボルハラゴザン川のほとりに移して今日に至っている。(歴代志上5章26節)


 さて、歴代志5章26節ルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族は、最初に日本に来たイスラエル10部族の3部族です。この3部族はいずれも、レアが産んだヤコブの長子であるルベン(創世記29章32節)、レアの仕え女のジルパが最初に産んだガド(ヤコブ第7子。創世記30章11節)、ラケルが産んだ最初の子ヨセフ(ヤコブ第11子)の長子マナセ(創世記41章51節)の部族です。(左図)
 また、マナセはエジプトで副王(王を補佐した宰相)となったヨセフの長子です(「ユダの覚悟と十戒」参照)。つまり、イスラエル12部族のなかでも王系として選ばれた部族といえるのです。
 つまり、最初に日本にシルクロードを通ってやって来た(西暦1世紀頃)イスラエル3部族から天皇が即位したとかんがえられますが、その頃日本は、まだ弥生時代でした。その後、弓月国から変貌したゼブルン族が“秦氏”として渡来したのです(西暦4世紀)。そして、ころから秦氏が勢力を強め、弥生時代も終わりを告げるとともに、大和朝廷が胎動し始めるのです。

 なお、初代北イスラエル王国の王ヤロブアム1世はエフライム出身であったので、紀元前745年頃から、北イスラエル王国はエフライムと呼ぶようになっています。(「エフライム族」参照)



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