復帰摂理歴史の真実
儒教と道教の問題点 <トップ> 中国古代文明と日本

■ 後編 第一章 摂理はなぜ東洋に移されたのか
 第二節 黄河文明と長江文明


1. セム族最古の文明

 (1) 龍神文化

龍の文明・太陽の文明
安田喜憲
 北方を起源とし、覇権主義的な性格を持っていた龍の文明。一方、南の長江流域で発祥し、再生と循環の世界観を基本とした太陽の文明。約七千年前、この全く性質の異なる二つの文明が中国大陸の北と南に存在した。
 その後、二つの文明は衝突し、結果、漢民族支配の龍型・中華文明が覇権を握ることになった。そして太陽の文明は滅び、一部は少数民族と日本民族へと受け継がれ生き残る。
 著者は、「環境考古学」という分野を日本で初めて確立した。現在手がけている「長江文明の探求」プロジェクトを通して、「長江文明の担い手は苗族をはじめとする少数民族だった」ことを発見。その成果を本書で発表している。


<参照>
 龍と鳳凰、そして蛇---大陸の北と南からニッポンへ来た文明
 黄河文明・長江文明
 黄河文明と長江文明
 世界史 その6 黄河文明と長江文明そして
 長江文明の発見が意味するもの
 長江文明
 33.黄河文明と長江文明



  @ 龍の文明

    (@)興隆窪文化と紅山文化

 遼河文明とは、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明で、紀元前63世紀頃から存在したと考えられている。
 中国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前63世紀から紀元前55世紀に存在した新石器時代の興隆窪文化の遺跡からは、中国最古の龍を刻んだ翡翠などの玉製品が発見されている。また、紅山文化(紀元前48世紀〜紀元前30世紀)は、遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどった翡翠などの玉から、これらを総称して「龍の文明」と呼ばれている。農業を主とすると言ってもここは畑作と牧畜地帯で、森と草原が織りなす地域である。ポプラやトウモロコシ、アワ、コウリャンなどが栽培される畑の広がる景観が特徴的だ。
 この様な文化の中で育まれた象徴的存在が “龍” なのである。龍は、さまざまな動物の特徴を重ね合わせて、自然発生的に誕生した。古代中国人における畑作と牧畜生活の中で、神仙世界や自然とかかわる霊獣としてさまざまな性格が付与されることによって欠かせない存在となったのである。

<参照>
 紅山文化と中国北方文明の起源について (徐子峰〈著〉:藤田園子〈翻訳〉: PDF / 本サイト
 東アジアのけつ飾の起源と拡散 (香港中文大学中国考古芸術研究センター教授 ケ聡: PDF / 本サイト
 日本十二支考<龍>現代文化篇 (濱田陽・李ヒャンス: PDF / 本サイト
 中国における権力と神獣 −龍を中心に− (多文化共生研究所 森達也: PDF / 本サイト
 興隆窪文化
 環日本海の玉文化の始源と展開 13.「興隆窪文化の玉?及び相関問題についての研究」
 紅山文化
 新石器時代の紅山文化の集落跡、人為的に安置された人骨が出土 中国・遼寧省



    (A)中国の南北構造

 中国には北の畑作牧畜、南の稲作漁労という明白な南北構造が見られる。北の紅山文化は龍と玉、女神の信仰を一つの宗教体系にまで高め、発展するが、寒冷化の気候変動とともに5千年前から衰退し、4千年前には完全に崩壊する。
 これに対して南の長江流域各地において約5千年前に石家河遺跡良渚遺跡などの巨大都市が突然登場し、龍や玉に対する信仰が現れる。これは、北方民族が南下して長江文明に影響があり、龍が取り込まれたのだが、北方では最高の地位にあった龍はこの地では鳥や蛇などの下に位置していたことが解った。これはかつて長江流域で暮らしていていたみゃお族の神話に語られている内容によるものである。しかし4千年前、明らかに侵略という形で北方の龍文化が南下すると、苗族などの土着部族たち山岳地帯へと追いやられることになる。とりわけ、3千年前以降の気候の寒冷化はさらに北方の龍族の南下に拍車をかけ、その一部は海上難民として日本列島にも到着することになる。
 南の長江流域は古くから稲作を生業としていたため、太陽の運行に関する知識は必要不可欠なものであった。そのため、河姆渡かぼと遺跡に代表される文化が共通して有していたのは太陽信仰と鳳凰に代表される鳥信仰、それに蛇信仰だった。その象徴として代表されるのが出土した7千年前の象牙に掘られた2羽の鳥に抱えられた太陽(左図:クリックで拡大表示)である。

<参照>
 苗(ミャオ)族とは?
 苗族(ミャオ族)の人類起源神話
 ミャオ族の「招日神話」
 河姆渡(上)7000年前の稲作文化



    (B)龍に込められた概念

 龍(ドラゴン)の発想は、発生時期も似通っていることから、ノアの洪水審判時に動物と箱舟生活が基となって、ノアの子孫によって造り上げられた崇拝物と考えられる。ハム族とヤペテ族によって、麦作・牧畜地帯の西洋文明は自然を支配する「ドラゴン」が、セム族によって、中国北方の畑作牧畜地帯における「龍」。この「龍」が南方の稲作漁労地帯に南下し、一方ではインドで発生した仏教文化と融合し、黄河文明を築いた。自然を畏敬し、異なるものとの共生融合した聖獣としての「龍」が現在に至っている。
 中国古代における北方における「龍」は天上の存在であり、その原型となったのは鹿である。中でも鯉は、水中に住む昇天志向を持つ大魚とされていた。しかも、水面の龍門を飛び越えることで「龍」に変わる(登龍門)ともされていたのである。この様に、中国北方の龍神文化では「龍」を男の予兆(陽の極致)、鯉を女の予兆(陰気の極致)を代表するとして陽と陰の一対として考えられ、「龍」と鯉は中国北方の龍神文化の中でつながっていた
 ところで「龍馬」という言葉があるが、地上の家畜ではなく水中の神とされる。頸がとくに長く身体には翼があり、「龍馬」の昇天志向を示している。さらに、「龍馬」の頭には二本の角が生えているが、この角は鹿から借りてきたものである。中国北部に実在していた大きな馬が中軸となり、北方の羊、鹿、鯉の諸要素を取り入れて「龍馬」に成長し、そしてこのような「龍馬」から始原的な龍が誕生したと考えられる。右図は1971年、内蒙古自治区翁牛特旗三星池拉村で5千年前の玉馬龍が発掘された。
 さて、ここで注意すべきは水や水中に対する概念である。水中というのは俗世界の中でも清められた世界で、天を志向する者の澄んだ心を象徴して “” と表現しているのである。そこでの最も重要な概念としては、気化して天に向かおうとする “上昇志向” そのものを言うのである。

 このように、悪主権から善主権を分立してきた人類歴史は、ちょうど、荒れ狂う濁流が時間を経るに従って、泥は水底に沈み、水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるように、時代が進むにつれて、悪主権は次第に衰亡の道をたどって下降線を描き、善主権は興隆の道をたどって上昇線を描くようになるので、歴史の終末に至っては、この二つの主権はある期間交差したのち、結局、前者は永遠に滅亡してしまい、後者は神の主権として永遠に残るようになるのである。(『原理講論』p163〜p164)


 それでは、雲とは果たして何を比喩した言葉であろうか。雲は地上から汚れた水が蒸発(浄化)して、天に昇っていったものをいう。しかるに、黙示録十七章15節を見ると、水は堕落した人間を象徴している。したがって、このような意味のものとして解釈すれば、雲は、堕落した人間が重生し、その心が常に地にあるのではなく、天にある、いわば信仰の篤い信徒たちを意味するものであるということを知り得るのである。(『原理講論』p578)


 しかしこの北方における龍神信仰が南下することで、中国南方の太陽神文化と合流し大きく様変わりした。その所在が天にあった龍が天と地を行き来する存在となったのである。それだけでなく、南方におけるそれぞれの地域で崇拝した蜥蜴などの大地を志向するものと習合され今日のような龍に至っている。
 ちなみに、中国北方の龍神文化における神聖な数字は「」であり、中国南方の神聖な数字は「」。また、龍と鯉においては、龍が「九陽」であるのに対して、鯉は「六陰」であることも踏まえておかなければならない重要なことの一つである。

<参照>
 中国古代の聖獣伝説─龍思想に関する研究─ (PDF / 本サイト
 龍と鯉・馬・牛・羊・鹿・犬の関係 (広島大学外国語教育研究センター教授 李国棟: PDF / 本サイト



  A 中国発祥の中華思想と大乗仏教

    (@)龍神文化から大地志向となった中国思想

 黄河流域の北方文化圏は龍神文化であり、その支配者は黄帝。南方文化圏は太陽神文化圏であり、その支配者は炎帝であった。黄帝と炎帝が争った結果、黄帝がうち勝ったので、龍神文化がついに中国のオーソドックスな文化となった。
 儒教は中国北方の思想であり、道教または老荘思想は中国南部の思想であるが、儒教は「仁者は山を楽しむ」(『論語』)と主張し “本位の思想であるのに対して、道教は「上善は水の如し」(『老子』)と主張し “本位の思想で正反対な対立関係にあるが、中国北方の “” と中国南方の “” の関係も同じように対立していた。これは、馬は龍とつながっていることから、牛は龍と対立していることにもなる。中国南方の支配者である炎帝も「人身牛首」とされていて、中国南方の神様は、まず農業を守る牛的な存在であることが要求された。農業にとっては、洪水が最大の災害なので、農業を守護する牛は、洪水を起こした元凶の悪龍を退治する任務が与えられていた神的存在でもあったのである。  ところで、龍は長寿または不死と結びつき、天高く飛翔することから天地を行き来することができ、天上への乗り物と考えられた。龍は春分には地上から天に昇っていき、秋分には下りてきて淵に入るという。このことは、空に瞬く星と関係していて、四方にわけた天に四神をあてはめる思想の原型がすでに存在した。そこには伝統的な色と方位との関係がみられ、東の青龍南の赤龍西の白龍北の黒龍中央の黄龍である。黄色は中国にとって特別な意を持つ色であり、中国古代神話に語られる の姿は黄龍であったとされているところからくる。
 十二支に登場する「」は想像上の動物であるが、「辰」は北極星や北斗七星を指し、また東方青龍七宿のひとつであるそい房宿(添星)のことでもあり、青龍の本体のことを指している。この東方の青龍七宿は西洋において “さそり座” にあたる。その中でも一番明るい光を放ち、さそりの心臓とされるアンタレスは中国で “中子(なかご)” とも “大火”、或は “” とも称されている。
 また、湖南省や貴州省に暮らす苗族では龍王が信仰されていて、秋の収穫後または春の耕し前に、龍を呼び出す儀式を行う。そこには中国古来の「四神」を象徴する神獣である青龍(東・春・緑)、白虎(西・秋・白)、朱雀(南・夏・赤)、玄武(北・冬・黒)による四神相応が考えられていた。そこに北方の儒教と南方の道教が結びつき、さらに陰陽五行説によって黄龍(または「麒麟」)が加わり「中華思想」が確立されたのである。



    (A)龍神文化と仏教

 インドの北東部ナガランド州からミャンマー西部の山岳地帯のかけて、ナガ族と呼ばれる人々が住んでいる。ナガランドはまさにナガの土地を意味するものだが、実際には、ナガ族という部族名は存在せず、それぞれ固有の部族名を名乗っているらしい。とはいえ、大きくそれが、ナガと呼ばれていることもまた事実である。ナガは歴史の上では東ネパールを中心地とするキラータ民族とも無関係ではない。キラータというのはマハーバーラタにも登場する勇猛果敢な山岳民族を指すもので、仏陀の出身である釈迦族もまたキラータ民族の一つであった。一説によると、釈迦族は蛇神であるナーガの血を引くものであったとされる。
 左図上はカルカッタのインド博物館にある二匹の絡みつく蛇の図像であるが、この二匹のカップルは、左が雄の “ナーガ”、右が雌の “ナーギィ” である。二匹は、その交合からエネルギーを発生させ、生命を作り出す神秘的な動物、さらに不老不死の象徴として、古代から今に至るまで、ヒンズー教の世界に重要な役割を果たしてきた。これらの蛇の図像は、一般的に生殖機能を司る神として、子供に恵まれない女性から崇拝されている信仰の対象にもなっている。インド古来の伝統によると、大地はもともと女性だとされて、蛇は大地の女神であるとされてきた。さらに、蛇王ムチャリンダが盾となって、修行中の仏陀を雨や風から守ったことなどもよく知られていることである。これらのことからインドのナーガは神の協力者であるとともに、仏教において仏法の守護神としての重要な役割を持っていた。
 ところで、中国において龍は皇帝自身そのものであり、皇帝もしくは王朝の守護神であったことによって、ナーガが中国に持ち込まれた際に龍と訳された。インドのナーガは中国の文化に多大な影響を及ぼしたのである。中国の古代人にとって龍は鳳凰とともに重要であるが、中国神話において “伏羲” と “女カ”(左図下)という二人の神が天地を創造したとされるが、ナーガとナーギィそして伏羲と女カはどちらも上半身は人、下半身は蛇の胴体を持っているが雌雄が逆となっている。これは、ナーガとナーギィがアーリア由来で、伏羲と女カはシュメール由来であることの違いによる。さらに、伏羲は直定規を手にし女カはコンパスを手にしているのも特徴的である。またナーガは雨を恵む水の神ともされ、一時に雲を起こし、雨を降らせて五穀豊穣をもたらすとされた。このように、ナーガは、中国において龍の特徴を合わせ持つようになり龍神または蛇神、龍蛇ともされるようになりました。これは、仏教と龍神信仰が融合したことを意味していますが、上記した龍と鯉の関係を込めた内容を仏教では重要視したものと思われます。実際、ナーガは龍宮に住み、神通力を持ち、変幻自在で、人間の姿に変わることが可能とされました。これは、鯉が昇天志向を持ち、龍にもなれるとした中国北方の龍神文化と重なり、仏教は中国において、中華思想ではなく昇天志向を重要視したと考えられます。それは、仏教における人間の心全ての境地を示した十界論に見出すことができます
 ここで重要なのは、キリスト教の伝来でした。原始仏教がキリスト教伝来の度毎に融合し、変化発展したことです。使徒トマスによって、仏教は大乗と小乗に分かれ、景教によって密教と顕教に分かれたことです。さらに空海によって、欲望を肯定する『理趣経』が記されたことは、全ての欲望を煩悩として否定してきた仏教においてコペルニクス的転回となったのです。

 それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。(『原理講論』p21)


<参照>
 「中華思想」を誤解する日本人
 原始キリスト教と融合した大乗仏教
 ナーガ(1) −蛇神ナーガの系譜−
 ナーガ(1) −蛇神ナーガと日本−
 フリーメーソンと理神論・汎神論
 原始キリスト教と融合した大乗仏教


儒教と道教の問題点 <トップ> 中国古代文明と日本