復帰摂理歴史の真実 |
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■ 第三章 第三節 ローマ教皇庁の腐敗と大航海時代
a. マルコポーロとコロンブス 1. マルコポーロとフビライ (1) マルコポーロ @ 生涯 <参照> ・ マルコ・ポーロ(左図) ・ マルコ・ポーロが世界に与えた影響 父 : ニッコロー・ポーロ(中東貿易に従事する商人) 叔父 : マッフェーオ・ポーロ 父と叔父はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いたが、政変を予感し、1260年財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東に向かい、フビライ(元王朝)とも謁見しているとされている。 1254年 ヴェネツィア共和国(右図)の商家にマルコ・ポーロ誕生する。父と叔父の旅の間、マルコの母親が亡くなり、彼は叔父と叔母に養育され、しっかりとした教育を受けています。 1260年 父と叔父は、クリミヤへ向かいました。 1261年 2年間続いたモンゴルのハーン同士の戦乱に巻き込まれてコンスタンチノープルに戻れなくなってしまった。2人は戦乱を避けて東へとすすみます。 1266年 カラコラムにたどり着いた2人は使者の招きによって、大都(現在の北京)にてニッコローとマッフェーオがフビライと面会することになります。フビライは、「キリスト教に精通している賢者100人を送ってほしい」「エルサレムのイエス・キリストの聖墓に灯されているランプの聖油を分けてほしい」と言う2つの依頼をしたためたローマ教皇への手紙を届けることを依頼しました。 1268年 クレメンス4世が没して以来教皇不在となりました。 1270年 父と叔父はヴェネツィアに戻ります。約束の100人賢者の派遣はローマ教皇が空位のため果たせませんでした。 1271年 17歳のマルコを連れてアジアへの旅に出発します。一行が小アルメニアのライアスに到着すると、新教皇グレゴリウス10世の決定したことで教皇からの書簡が届けられ、宮廷にてエルサレムから持参した神聖なる油とともにフビライに渡したとされています。 その後4ヶ国語に通じていたマルコは役人に登用され、17年間中国に滞在しました。ところが、元の政治的腐敗に危惧し中国から去る事を申し出たのですが、フビライは認めませんでした。 1292年 イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコケジンを迎えに来た使節団が、カイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらの同行が許可され帰途に向かうことができました。 <参照> ・ 【モンゴル史】マルコ・ポーロがイランまでお供した女性コケジン・カトン(宇野伸浩) 1295年 帰国。(全行程15,000kmの旅) ヴェネツィアはジェノヴァ(右図)と交戦状態に入る。マルコは戦争に志願したのですが、ジェノヴァに捕らえられ捕虜となって投獄されてしまいます。 1298年 収容所で囚人ルスティケロ・ダ・ピサ(職業的著述家)に旅の話をし書き記したのが『東方見聞録』です。ピサは自分自身が聞きかじった物事や、他の逸話や中国からの伝聞などを勝手に加えています。 1299年8月 マルコ釈放される。 1300年 商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚。豪商となり三人の娘に恵まれる。 1324年 マルコ没する。 A 『東方見聞録』 『東方見聞録』はマルコポーロによって書かれたものではないが、当時の中世ヨーロッパに多大な影響を与え、近世に至っては東洋の歴史を揺るがす原動力となったと言っても過言ではありません。 アジアの「富と繁栄」を綴った『東方見聞録』は、マルコが南海航路で帰途する海港、泉州や杭州などの繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市としての整然さや庭園などの美しさに魅了された内容が記されています。 また、ヨーロッパに無かった紙幣に驚き、フビライを「錬金術師」と評したり、1292年にインドを通った時、聖トマスの墓が当地インドにあると記していますが、イエスの弟子トマスが、すでに東洋のインドを舞台に、仏教などの東アジアの宗教に多大な影響を与えていたことは確かなことのようです。 <参照> ・ 東方見聞録に書かれていることを推理する…色々な本から B フビライ
2. コロンブス クリストファー・コロンブス(1451年〜1506年)は、イタリアのジェノヴァ出身の奴隷商人でキリスト教徒。父は毛織物業の貧しい家庭で、7人兄弟の3番目として誕生しています。コロンブスは10代の頃から父の仕事手伝ったことから始まり、商船などに乗り込んだりして海と関わっていました。 (1) ポルトガルでの大転換 コロンブスの所持していた『東方見聞録』は1438年から1485年頃に出版されたものでその内容に魅了され、中でも “黄金の国ジパング” に目を光らせたようです。 しかし、身分の低いコロンブスには単なる夢にしかすぎませんでしたが、1477年ポルトガルに移ったあと転機が訪れます。1479年末ごろ、貴族の娘フェリパ・モニス・ペレストレロと結婚したことです。修道院のミサでフェリパに出会いましたが、当時フェリパは25歳で晩婚にあたる年齢であったことや、フェリパの父が20年前に死去し、以後ペレストレロ家は没落して持参金も準備できないほどでしたが、この頃コロンブスは逆に航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことが幸いしました。身分違いのギャップを結婚によって超えることができたコロンブスを大航海へと押し出したのです。 @ 西廻りの着想と王室との関わり、そしてスペインへ 当時、地球は球体であり、西に進めば東端にたどり着くという考え方が信じられるようになり、コロンブスも西廻りをとればアジアにたどり着くと考えていました。地図にアメリカ大陸と太平洋が無かった当時としては、コロンブスはアジアを極端に近くに捉えていたのです。 コロンブスはこの構想を実現させるために、1484年末頃ポルトガル王ジョアン2世に航海の援助を求めて雄弁を振るい、資金援助と成功報酬の一攫千金を夢見たのですが、否決されすべて失敗に終わりました。 コロンブスは1485年中頃ポルトガルに別れを告げスペインに向かうのですが、そこで希望を見出す出会いがありました。 A イサベル1世との出会い さて、スペインに着いたマルコは、5歳の息子のために修道院を訪れるのですが、その修道院長からの紹介の関係でカトリック両王と出会うこととなり、“黄金の国ジパングへ向けての西廻り大航海の計画” を売り込んだのです。 フェルナンド2世はさほどでもありませんでしたがイサベル1世はただならぬ興味を示したのです。 しかし、思うように事が進まず何度も諦めかけたコロンブスでしたが、イサベル1世がフェルナンド2世を説得することによって、ついにスペインはコロンブスの計画を承認するに至ったのです。 そして1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスと王室は「サンタフェ契約」を締結することとなりました。 「サンタフェ契約」とは次のような5つの内容です。
(2) カトリック両王としてのイサベルによる悪政 1492年1月、スペイン王国(イスパニア王国)はイスラム教国グラナダ王国を滅亡させると、1496年にローマ教皇アレクサンデル6世より、この偉業が讃えられ、フェルナンドとイサベルは「カトリック両王」の称号を授けられます。(右地図は、フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力図) イサベルは熱狂的なカトリック教徒であったとされていますが、他宗教の民衆を執拗に追放・殺戮し、また他宗教からキリスト教へ改宗した民衆に対し度々異端審問を行い、財産の没収・追放・処刑などを行なっています。それに加えて、コロンブスがカリブ海諸島で行なってきた数々の蛮行とも言える行為を容認していたのもイサベルですが、本来この様な行為はキリスト教としての博愛の精神からは大きく逸脱したものと言えます。カトリックの女王がこの様な行為を率先して行なっていたことによって、ローマ教皇庁を始めとした当時のローマカトリックの腐敗ぶりの一端が伺えます。 (3) コロンブスらの蛮行の数々 さて、サンタ・フェ契約で一攫千金も夢ではなく、あとは航海に出て、東方の国にたどり着くばかりとなっていたコロンブスは1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出港しました。 右図はキャラベル船(3本のマストを持つ小型の帆船)で、左図はナオ船(キャラック船)のサンタ・マリア号。総乗組員数、約90人と言われているこの型の船は、1613年、仙台藩主伊達政宗が、仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ号」と同型の船なのです。 @ サン・サルバドル島にて さて、コロンブス一行が最初に上陸した島はサン・サルバドル島でした。島の住民であるアラワク族から手厚いもてなしを受けたにもかかわらず、コロンブスは以下のように書き残しているようです。
A キューバ島とイスパニューラ島 サン・サルバドル島の後、キューバ島を発見し、「フアナ島」と名付けました。1492年12月6日にはイスパニョーラ島に到達。翌年3月15日、パロス港に帰還します。 コロンブスは歓迎され、国王に調査報告を終えると、次の航海目標として下記のように述べています。
上記の “彼ら” とは “国王ら” を指し、“永遠なる我々の神” はキリスト教の神ではありますが、コロンブス(当時のキリスト教)が思い描いた “偶像とも思える神観” と思えてしまう内容です。 この後、スペインは新大陸を探検し植民する独占権を手にし、コロンブスは2回目の航海に向かうことになりますが、その内容は17隻、1500人、農民や坑夫らを含み、それら多くの人は、コロンブスがインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品に魅せられた欲望に駆られた人々だったのです。 B インディアンの大虐殺 1493年11月、ドミニカ島に到着した後、前回作った植民地(イスパニューラ島)に行ってみると、基地は原住民であるインディアンに破壊され、残した人間は全て殺されていました。これは、残された人間が、原住民に悪さを行ったためでなのです。コロンブスはここを放棄して新しい植民地を築こうとしましたが、白人入植者は植民地での生活に不満の声を上げ、インディアンの間では、白人の行為に対して怒りが重積していました。 これに対してコロンブスは軍隊をもって徹底的な虐殺弾圧を行いました。行く先々の島々の海岸部では無差別殺戮を繰り返し、窃盗、殺人、強姦、放火拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとしたのです。インディアンたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みましたが、スペイン軍の力と彼らがばら撒く疫病には手も足も出ず逃げるしか策はありませんでした。しかし、その先には作物がなく飢餓しかありませんでした。コロンブスは略奪のために軍勢を組織化すると、1495年3月、数百人の装甲兵と騎馬隊、訓練された軍用犬からなる一大軍団を引き連れて、再び殺戮の船旅に出たのです。コロンブスに同行したキリスト教宣教師バルトロメ・デ・ラス・カサスの日記にはこの様に記されています。
コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺が、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化されると、あらゆる部族の子供以外のインディアンに、3カ月以内に一定量の黄金を差し出すように脅迫しました。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証として、その男女に首かけの標章が贈られましたが、金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首を斬り落としたとされています。 さて、コロンブスは捕らえたインディアンを奴隷として本国スペインに送りますが、イサベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣します。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻りますが、懸命の釈明によって何とか罪を免れました。 1498年5月、3度目の航海に出るコロンブスは、南よりの航路を取りながらも、最後まで自ら発見した島をアジアだと主張し続けた様です。 その後も、1502年4度目の航海に出航しましたが、王からの援助も乏しく、パナマ周辺を彷徨い難破して救助され、1504年スペインへ戻ると、1504年末イサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対して冷淡になってしまったようです。 (4) 新大陸発見? コロンブスのカリブ海諸国における大航海の内容はとても “アメリカ新大陸発見” と言えるものではありません。コロンブス自身はあくまでも “黄金の国ジパング” と言われていた “島国日本” を目指していたので、カリブ海の島々をそれと頑なに思い込んだのでしょう。 しかし、当時の原住民から “金” を取り立てるために、権力を振るい、その強欲さと傲慢さ、残虐さはとてもキリスト教徒としての行為とは思えない有様です。 この後、南北アメリカが発見されていくことになりますが、事態はコロンブスの延長線にすぎなかったようです。
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