復帰摂理歴史の真実
バラモン教から仏教へ <トップ> 儒教と道教の問題点

■ 後編 第1章 第1節 ノアの箱舟以降における摂理
     b. 原始キリスト教と融合した大乗仏教


1. 大乗仏教としての変革

 (1) 大乗仏教への変遷

 原始仏教は、前頁で述べたバラモン教から釈迦によって進化発展した教えである。
 バラモン教による社会制度は司祭階級であるバラモンが最上級に、次に戦士・王族階級のクシャトリヤ、庶民階級としてのヴァイシャ、そして奴隷階級のシュードラという四姓制に区分されていた。原始仏教はクシャトリヤとしての釈迦が出家して自らバラモン教を実践し解き直した内容である。そのため、その形態はバラモン教をそのまま継承していた。
 しかし、その相違点は釈迦がそうであったように、出家が前提となって階級に属することではなくなってその門徒の範囲は拡大した。その教えの基本は然程変わっていない、「輪廻転生からの解脱」である。その教えの違いと言えば、解脱に至るためには、バラモン教では “苦行” のみによるとしたのに対して、仏教ではそこから “悟り” に至らなければならないとした。この悟りに至った基準を、“仏陀” と呼んだのである。

<参照>
 大乗仏教の発生


  @ 上座部仏教

 上座部仏教とは、南伝仏教とも呼ばれ、現在ではスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの主要な宗教となっている。「上座」とは出家修行者(比丘・比丘尼)が形成する組織のことで、その中でも特に尊敬されている比丘(長老)のことである。
 大乗仏教に対して、当初は小乗仏教と呼ばれていた。これは、「大きな乗り物(大乗)に沢山の人が乗り込んで、目的(悟り)に到達できる」という意味とは反対に、「小さな乗り物(小乗)であるために限られた人だけしか目的に到達できない」ことを表現した言葉である。現在、小乗仏教という名称は、大乗仏教からつけた差別語との見方から、上座部仏教と言われるようになっています。勿論ですが、上座部仏教はでは、原始仏教の流れを汲んで、悟りに重点を置いている。

<参照>
 大乗仏教と上座部仏教
 「小乗仏教」に対する誤解と混乱――日本では知られていない上座部仏教の実態
 大乗仏教・上座部仏教の違い



  A 大乗仏教

 初期大乗仏教では、仏塔信仰により興ります。釈迦の入滅後、火葬された遺骨は仏舎利塔が建立されそこに埋葬されました。仏教とに限らず、民衆の篤い信仰をその仏塔に集めたのが仏塔信仰です。この釈迦の涅槃の境地とされた場所を管理し、参詣者を案内するのは在家の僧侶だったのです。この僧侶たちの間に、客塵煩悩という説や願生説が広まっていました。
・客塵煩悩
 煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説。塵をのぞけば本来の清らかな心が現れるとされた。
・願生説
 菩薩が衆生を救うためにあえて願って苦しい生存に生まれるという説です。
 文殊師利菩薩弥勒菩薩などは、本当であればこの娑婆世界に仏以外の姿で生まれる必要のない菩薩ですが、衆生を哀れむためにあえて菩薩として苦しみに満ちた娑婆世界に出現されるとした。
 これらの内容には、当時の在家信者の間には、キリスト教の影響を多分に受けていたことが伺えます。ところが、龍樹の出現によって初期大乗仏教は一変していきます。龍樹は、150年から250年頃のインド仏教の僧ですが、バラモンの学問をすべて習得したのち仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。
 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗仏教を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗仏教を、煩瑣で難解なものにしてしまいました
・龍樹の「空」
 空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの上座部仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。すべてのものは実体がなく空である無自性)という立場を表明。
<参照>
 初期大乗仏教 (広済寺ホームページ)
 龍樹と空(中観) (広済寺ホームページ)
 南インド仏教遺跡旅行記



  B 顕教と密教

ヴィシュヌ 妻「ラクシュミー
 6世紀を前後として、北伝仏教として東アジアにその領域を拡大した大乗仏教は、再びキリスト教の影響を受けて、輪廻転生から解脱するまでに留まっていた教えから一転して、解脱後如何に「」と成り得るかという教えに発展しました。「仏」とは “(真理に)目覚めた人” という意味でした。はじめ「仏」とは、悟りへの道を開いた釈迦一人の人間を示す言葉でした(仏陀)。
 ところが後世になると、仏教は “多仏思想” になりました。はじめは仏界実体の無い「空」であるとしていた大乗仏教が、それとは逆に “無形の実体として有る” とそれを認めるように変貌していったのです。
 仏教における仏像は、紀元前4世紀にギリシアのアレクサンドロス大王の帝国がインドまで達していて、深く交流していました。その時のギリシア彫刻に影響を受けて仏像が作られるようになったのです。中でも大乗仏教の毘盧遮那仏は、ペルシアの太陽神信仰(ゾロアスター教)の影響によって、インドでは太陽神ヴィシュヌ」となりそれが進化したものと考えられています。
 そこで、最もキリスト教の影響を受けた密教が、対義的に顕教とに分類されるようになりました。顕教とは、仏に成ること(成仏)を「智慧の完成」と捉え、真理や実相の知的な認識や獲得が成仏であると考えました。これに対し密教では、成仏とは仏の智慧を実践することであり、仏として為すべき行為を(現実の社会の中で)実行することであると捉えたのです。ここで言う「智慧」とは、御仏由来の智慧であり、御仏が自らの心の闇を照らし、それによる“仏の智慧”によって自らの愚かさ、恥ずかしさ、罪業の深さに気づかされることであり、これを「悟り」としたのです。

<参照>
 顕教と密教は何が違うか
 顕教と密教の違い
 仏教の「仏」とキリスト教の「神」
 人間の知恵(ちえ)と仏の智慧(ちえ)



 (2) 仏教に影響を与えた使徒トマスと景教

  @ 使徒トマスと阿弥陀仏信仰

 トマスは、ヨセフとマリアの子である。イエスは、ザカリアとマリアの子であるから、イエスとトマスは異父兄弟となる(「イエスの誕生の秘密 (下)」参照)。同時に、師弟関係でもあった。使徒トマスは、イエスの復活をなかなか信じようとしなかったのである。しかし、数日後、トマスの前にイエスが現れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭した(「ヨハネによる福音書」20章11節〜29節)。

<参照>
 トマス、復活のイエスに出会う

 母マリアが亡くなったとき、トマスはインドで布教中であったため、臨終に立ち会うことができなかった。トマスが戻ったのは、マリアの埋葬が終わってしばらくしてからのことである。トマスがマリアのお墓に行くと、待っていたかのようにマリアが昇天していきました。このとき、トマスはマリアの昇天の真実を仲間に伝えるべく、マリアに証拠となるものを求めたのです。すると、マリアは腰帯を外してトマスに向かって落とし、トマスはそれを受け取ったとされています。

<参照>
 トマス・ディディモ マリアから聖帯を授かる

 ティグリス川の遡航終点の西岸に位置するトルコ東部の都市ディアルバクル(右図1ピンク印)のローマ時代の呼称「アミダ」に、聖トマス教会跡地(図3)と聖母マリア教会(図4)がある。聖母マリア教会には、トマスの遺骨がある。南インドの都市チェンナイのマイラポール・サントメ地区に建つサン トメ聖堂は聖トマスを祀る教会として知られているが、ポルトガル人によって16世紀に建設されたもので、聖トマス教会は正式には「アミダ」にあった教会といえる。
 さて、この「アミダ」という呼称であるが、仏名である「阿弥陀」の語源となり、特に聖母マリアを意味する言葉となっている。これは、大乗仏教では女性が成仏する際、男性に姿を変えるという変成男子が説かれている点と、『トマスによる福音書』にあるイエスとトマスの双子説もあることから、聖母マリアはイエスとトマスの母であるため「アミダ」は安息の地であるという点の二つの点であると言える。1世紀の西北インドにおける阿弥陀仏誕生の事情にまで遡る善光寺式阿弥陀三尊像(図5)は、聖母と双子としてのイエスとトマスの結びつきを、その痕跡として示唆している。
 聖母マリア教会は、シリア正教である。古代キリスト教において、パウロが拠点としていたアンティオキア教会をそのまま受け継いできているのがこの聖母マリア教会である。もちろん、エフェソスにある「無原罪の御宿り」としての聖母マリア教会(「聖母マリアの虚像」参照)ではない。
 また、トマスがもたらしたキリスト教による、大乗仏教における阿弥陀仏の意味には『ヨハネによる福音書』1章4節から5節の聖句の内容が含まれているのである。

 この言にはがあった。そしてこのは人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(『ヨハネによる福音書』1章4節〜5節)


 『新約聖書』の「命」は、『旧約聖書』のエデンの園にある “その実を食べれば永遠に生きる” という命の木の「命」とギリシア語で同じ発音になる。さらに、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと揺れ動く剣の炎とを置いて、命の木の道を守らせられた」(『創世記』3章24節)という記述から、エデンの園は人間世界の西方にあるとして、メソポタミアの水源にある「アミダ」がエデンの園、つまり阿弥陀浄土であると理解したのである。
 さらに聖母マリアが亡くなったころ、イエスの許でマリアが永遠の命を得たと証されたことから、聖母マリアは「命あるものすべての母となった」という意味から “アミダの仏” である「阿弥陀仏」が生まれたとされている。
 以上のことは、旧約のエバによって堕落に始まり、新約のマリヤによって成仏に至ったと、大乗仏教では解釈したと言えるのであろう。

 図1:中央右上のピンク印: ディヤルバクル


 図2:ディヤルバクル旧市街
 左下: 聖母マリア教会
 中央上: 聖トマス教会跡地(現在イスラム教のモスク)



 図3:聖トマス教会跡地(大モスク)

 図4:聖母マリア教会、シリア正教

 図5:善光寺御前立本尊

<参照>
 大乗仏教の誕生とキリスト教 (筑波大学教授 平山朝治 / PDF:本サイト
 阿弥陀如来の故郷、アミダ
 トマスによる福音書
 使徒トマスが眠る白いカテドラル「サン トメ聖堂」の見どころと歴史
 シリア正教隠れた真珠ホームページ



  A 弥勒菩薩の他力と自力

    (@)上求菩薩と下化衆生

 仏教には、仏陀時代のガンダーラにおいて、目覚めに達しなかった人々のために、マイトレーヤ(弥勒:“慈しみ” という意)が将来仏陀となってこの世界に再臨するという未来仏としての役割があるとした。マイトレーヤはバラモンの出自であったが、仏陀の弟子の一人として修行を極めたことから、将来この世界に人々の救済者として降りてくる弥勒下生)と、マイトレーヤに帰依することを通して人々は、マイトレーヤが現在説法をしている兜率天へ昇り、その不可思議な力によって、後にマイトレーヤとともにこの世界へ再度戻り、目覚めを実現する弥勒上生)というものがある。
 一方インドでは、ガンダーラで成立した仏陀を中心に弥勒と観音を両脇侍菩薩とする三尊像(右図)を基本としている。それは、観音菩薩の対尊として対立的・補完的に弥勒菩薩が配されている。観音菩薩は、インド土着の女神が仏教に取り入れられたもので、上記した使徒トマスがもたらしたキリスト教の影響があると考えられる。観音菩薩の特徴として、苦しむ人を救済するというもので、弥勒菩薩は自ら努力し修行しようとする「上求菩薩」の働きであるのに対して、観音菩薩は苦しむ衆生に慈悲心を起こし悟りに導こうとする「下化衆生」の働きをするとした。

<参照>
 上求菩提・下化衆生



    (A)弥勒菩薩の住む「兜率天」の持つ意味

 弥勒菩薩が弥勒上生として導くのは兜率天である。兜率天とは、仏教の世界観における天界の一つであり、三界のうちの欲界における六欲天の第4の天である。都率天覩史多天などともいう。兜率天には内院外院があり、内院は将来仏となるべき菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。外院には天衆が住む。兜率天は浄土の一つともされており、弥勒信仰の発展とともに、兜率往生の思想も生じた。
 原始仏教において、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその次の3つ(三界)に分けている。

・無色界
 欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界。天界の最上層に位置する。
・色界
 欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件にとらわれた世界。天界の上層に属する。
・欲界
 淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた世界。
 地獄界・餓鬼界・畜生界・(修羅界)・人間界・天界の最下層が欲界に属する。

 さらに欲界における天界の最下層は、次の六欲天からなる。

他化自在天
 他人を楽しませる事を楽しむ。
 天魔波旬の住処。
化楽天
 自分で楽しみを作り出す。
兜率天
 宇宙の法則を楽しむ。
 内院と外院があり、内院は未来仏となるべき弥勒菩薩が住するとされ、外院は天衆の住む所とされる。
夜摩天
 自然を楽しむ。
とう利天
 秩序を維持する事を楽しむ。
 帝釈天のいる場所。
・四大王衆天
 敵と戦って世界を守る事を楽しむ。
 四天王の住む場所。

 この六欲天という世界は、天界の最下層にあるといっても、人間界と異なり快楽の世界となり、6つ階層構造から成る世界で、上に行くほど徳が増すとともに寿命が長くなり、力も強くなるとされています。
 また、三界における天界であっても、三界すべては輪廻転生するので、輪廻転生から解脱するためには、すべての煩悩から解放され悟りを開かなければならないとした。この悟りを開いたものが仏陀であり、この境地こそ輪廻から解放された涅槃浄土極楽)であるとしている。
 マイトレーヤが仏陀の再臨として活動することが期待されているなかで、マイトレーヤが降臨する世界は、人々が既に目覚めに到達する準備ができており、ただマイトレーヤの手によってその最後の一押しを期待しているという世界です。つまり、マイトレーヤが仏陀の再臨としての降臨(他力)は、一方的なものではなく、自力によって弥勒の降臨を迎えることのできる一定の内的基準を備えた者だけが可能としているのである。このことは、『原理講論』の蕩減復帰原理にある “メシヤのための基台” に相当すると言える。
 弥勒信仰は中国から朝鮮の新羅で盛んになりました。当時の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅に分かれ、百済と新羅の弥勒信仰は根本から違っていました。新羅の古墳からはローマン・グラスの出土やその構築法などは、高句麗や百済とは全く異にしていました。ローマの事を「羅馬」と表記しますが、新羅は「新しい羅」、つまり新しいローマを意味しているといえます。その新羅の代表的寺院で、世界遺産にも登録された「仏国寺」からは、景教の十字架や漢文の聖書、『イエス・メシア経』などの景教の教典も発見されています。
 半跏思惟像の右手の親指と他の指一本で三角形を作り、他の三本の指を伸ばしている(右図)のは、1908年に中国西部にある敦煌で発見された景教の大主教を描いた壁画の遺跡(左図)と全く同じ指の形で、これは三位一体の神信仰を表現したシンボルとされています。

<参照>
 マハディーとマイトレーヤ(弥勒仏)  (東京大学東洋文化研究所 教授 鎌田繁 / PDF:本サイト
 弥勒菩薩と観音菩薩 -図像の成立と発展- (龍谷大学文学部教授 宮治昭 / PDF:本サイト
 「弥勒の造形の諸相 韓国と日本」 (東京成徳大学 人文学部 非常勤講師 金丸和子 / PDF)



    (B)観音菩薩

 観音菩薩は、観世音菩薩または観自在菩薩ともいい、仏教を求める人であれば、すべての輪廻する世界においてその環境や困難に応じて姿を自在に変化して現れ守って下さるという菩薩である。
 「観音」という “音を観る” というのは、一般的に菩薩が仏教を求める人の苦しみや悩みを音声として観じ取って救うこととしていますが、裏返せば仏教を求める人であっても菩薩の来臨の気配(音)は必ずしも観じられないともいえます。つまり、「観音」とは、実在する物体を眼で見てその存在を理解することではなく、見えない音を聞いてイメージ(観)することであり、救いを受ける側の主観によるものが大きいといえます。このことは、仏教を求めるすべての人が、一様に観音菩薩による救いの恵みを受ける、または必ず受けるということにはならないことを意味しています。
 また、先に述べた阿弥陀仏は「命あるすべての母となった」を意味するのであれば、観音菩薩は、その母としての心である “慈悲” の顕現を表現されたといえます。
 “慈悲” の「」とは友情という意味で、仏教では “徹底した純粋な友情”という意味での友を思う心他の人を思う心として使われています。「」は、困って、苦しくて嘆き、呻きの言葉が出ることを言います。そこから、困っている人、悲しい状態にある人、苦しい状態にある人を、自分の悲しみ、苦しみのように受け止める心のことです。これらのことから仏教における慈悲の心とは、“他の人のことを自分の一人子のように思い、困っている人に出会ったら、わが一人子に対するように手を差し伸べようとする心” のことをいいます。
 以上のことから推察すると、文先生は復帰摂理史を慈悲の心で導いてこられた神のことを “昼の神” と呼んで、昼の神の心情を理解できる慈悲の心を仏教をによって育んで来られたと理解することができます。このことは東洋の大乗仏教における摂理は最も特徴的な摂理と言わざるを得ません。

<参照>
 観音菩薩(かんのんぼさつ)とは?
 仏教の言葉【その1】
 極大慈悲母 : 他(ひと)を思うこころ、仏のこころ (国際仏教文化協会 理事長 佐々木惠精 / PDF:本サイト



  B 景教

 『景教』は、「光り輝く教え」の意味で、中国の “” の時代に栄え、のちモンゴルで栄えました。
 431年エペソ宗教会議で、コンスタンティノポリス総主教ネストリウスが「異端」として追放されました。ネストリウスは当時のローマ・カトリックが「新約聖書」の教えに逸脱した風習に染まっていることに抗議すると、「異端」として追放され、彼と信仰をともにする東方キリスト教徒たちは東方へ伝道を開始しました。これが、シルクロード付近で爆発的に広がり、各地にキリスト教会が造られました。800年頃は西側よりも東側がはるかに多かったと言われています。
 景教の教会は、はじめ「波斯胡寺ペルシア寺)」と呼ばれていましたが、ペルシアのゾロアスター教会の意味も含まれてしまうため、「大秦寺」と改称されました。
 景教碑の文章からは、三位一体の神を愛し、愛と信仰に燃え、ローマ人への手紙13章1節に「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」と言うみ言葉に忠実に、『聖書』の教えに忠実な宣教を行いました。まさしく、第一に神に従い、第二に「上に立つ権威」に従い、為政者(皇帝など)の信仰と良い政治のためにも祈りを捧げました。景教徒達は中国に来れば、中国人として生き、現地の人々のためにすべてを捧げて仕え、そこで骨を埋めたと言われています。
 一方、空海が入唐を目指して、804年(貞元20年)唐の都長安に辿り着きました。景教が唐から排除されたのは845年のことであるから(このとき中国は、マニ教、仏教、ゾロアスター教、イスラーム教などあらゆる宗教を廃絶した。)、空海が日本に持ち帰った密教は、仏教が景教に最も影響を受けたものだと言える。そのため仏教には、それまでいないキリスト教的要素が多分に含まれている。

<参照>
 <コラム>日本の空海と中国に伝わったキリスト教「景教」の意外なつながり
 大秦景教流行中國碑に就いて
 キリスト教ネストリウス派の東漸 唐代長安にみる景教 (関東学院大学キリスト教と文化研究所 勘田義治
 碑林博物館 大秦景教流行中国碑はここにある!
 真言宗の聖地高野山の想定外の話
 【第10回 ゾロアスター教と杜子春伝】
 新・景教のたどった道(5)大秦景教の名称について 川口一彦



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