復帰摂理歴史の真実 |
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■ 第三章 第二節 イエスの30年準備時代と十字架
a. 洗礼ヨハネと12使徒 1. 洗礼ヨハネ (1) なぜヨハネはイエスを不信したのか @ 預言者エリヤと洗礼ヨハネ
自らをエリヤの立場に身を置いて、荒野でいなごと野蜜とを食物として教えを宣べていた洗礼ヨハネは、らくだの毛ごろもを身に纏い腰に皮の帯を締めた姿は、当時のユダヤ教徒にとってエリヤの再臨そのものでした。 ところで、南のユダヤでは、バビロン捕囚と神殿崩壊による悔い改めから “トーラー” による生活を重要視するようになりました。そのため“姦淫”を極めて重い罪として捉えることで、マタイによる福音書第1章に記された「4人の女性」、“タマル”と“ラハブ”と“ルツ”と“バテシバ”のことに関しては神の摂理としての認識はありませんでした。 <参照> ・ ユダヤ人はトーラーを通じヘブライ語、信仰や律法などを学ぶ ところが、北のサマリヤにおいては、指導者たちが捕囚後帰ってこなかったためサマリヤ五書を尊重し、「4人の女性」に関しては神による摂理としての位置づけていたのです。マタイはそのことを知っていたので、敢えて福音書の最初にイエス誕生までの系図の中に「4人の女性」の名前を入れたのです。 ユダヤ教とメシヤの降臨を待望した白衣教団クムランに強く影響を受けていた洗礼ヨハネにとって、イエスの出生時の秘密は深刻な矛盾を招いたのです。洗礼ヨハネにとってイエスがサマリヤで活動し、ふしだらな女性たちを従えていく姿は到底理解できるものではありませんでした。 A 謙遜傲慢な洗礼ヨハネ
「謙遜」とは、自分の能力や価値を低く評価すること。へりくだって控えめな態度をとること。 「謙虚」とは、控えめで慎ましいさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。 洗礼ヨハネは、神の思し召しとしてイエスに水でバプテスマを授けて、神の子と証しをしたのですが、ヨハネ自らがそれを認めたのではありませんでした。イエスを神の子として持ち上げることによって、逆に自分がエリヤの再臨であることを明確に示そうとしたのです。そのために、自らも思ってもいないような、極端な言葉を発してしまいました(「自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもない」)。自分は荒野で誰よりも険しい修行の道を歩み、神の前に清く正しい行いをしてきたという自負心に漲っていたのです。洗礼ヨハネはにとってこの自負心が増大して傲慢になり、ヘロデによって投獄の身となってしまったのです。
<参照> ・ 謙遜と謙虚の違いってどんなものがある? ・ 死海文書と新約聖書 ・ 洗礼者聖ヨハネはイエスにどのような影響を与えましたか? B ヘロディアの娘(サロメ)に斬首される
マルコによる福音書に記された “ヘロデ” とはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスのことで、イエスが宣教を始めたころのガリラヤの領主でした。ヘロデ大王の死後は3人の息子が父の遺領を分割支配しますが、「王」と名乗ることは許されず領主となったのです。 ヘロデ・アンティパスはナバテア王国のアレタス4世の娘を最初に妻としていましたが離縁し、異母兄ヘロデ2世(ピリポ)の妻であったヘロデヤという女性を妻としました。(「ヘロデ朝」系図を参照)そのことが姦淫の罪であると洗礼者ヨハネに指摘され、ヨハネを獄死に追い込むことになったのです。 ところで、ヘロデヤはヘロデ大王の孫にあたるため、何れも近親結婚となります。これは、衰退傾向にあるヘロデ家の血統強化と、ハスモン家の勢力を借りた政治的圧力などがこの近親結婚の背景にあったと考えるほうが自然です。古来近親結婚というのは血統重視の王家にあっては常套手段であり、ヘロデ・アンティパスに始まったことではありません。 更に左図の関係をよく見ると、ヘロデ、ヘロデヤとピリポの関係はダビデ、バテシバとウリヤの関係に酷似しています(「統一王国時代 (上)」参照)。ダビデとヘロデ、バテシバとヘロデヤ、ウリヤとピリポを重ね合わせると、ダビデとバテシバの子ソロモンの子孫がイエスであることから、ヘロデがヘロデヤを妻としたことをヨハネが姦淫の罪と非難したのは、ヨハネはイエスがメシヤではないとの思案に暮れていたことを暗示しています。これは、系図によるとソロモンの子孫にヨセフ、ヨセフの子としてイエスが誕生したとされているように、先例ヨハネは天使が告げたイエスの使命を知らされてはいても、それ自体に疑念を持っていたのかもしれません。 これらのことから、洗礼ヨハネはソロモンの子孫であるヨセフの子イエスがメシヤであることを不信し、それと重ね合わせてヘロデがヘロデヤを妻とした事を非難し処刑されたと考えらのです。 <参照> ・ 救世主と呼ばれた男 ・ 絵画鑑賞 超初心者のティツィアーノ「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」入門 ・ ダビデの子
(2) らくだの毛ごろもの辿ったルート @ キャメルの2つのルート 洗礼ヨハネの着ていた “ラクダの毛衣” について考えてみましょう。 キャメルはラクダの毛です。ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダの2種類いますが、 ヒトコブラクダは毛が少なく、しかも太くて短いので利用価値がなく、 衣料用に使われるのはフタコブラクダ(左図)のものです。また、キャメルの主要生産国は中国、モンゴリア、イラン、アフガニスタン、ロシア、ニュージーランド及びオーストラリアです。 これらのことから、キャメル(らくだの毛ごろも)が辿ったルートととして次の2つが考えられます。 ルート1:エルサレム ➡ イラン ➡ アフガニスタン ➡ 中国 ➡ ニュージーランド ルート2:エルサレム ➡ ロシア ➡ モンゴリア ルート1はシルクロードを通って海を渡り、ニュージーランドに辿り着いたコース。ルート2は、ロシアを経由してモンゴリアに辿り着いたコースです。このモンゴリアに数千年前に築かれていた「龍の文明」は後の章で取り上げることにいたします。 A 使徒アンデレ 「ヨハネによる福音書1章35節〜42節」では、シモンとアンデレの兄弟はもともと洗礼ヨハネの弟子でしたが、イエスを「神の子羊」だという洗礼ヨハネの言葉を聞いてイエスに従ったとあります。 エウセビオスは、オリゲネスが「アンデレは小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォルガ川(右図)まで行った」と述べたと伝えています。そのため、アンデレはルーマニアとロシアの守護聖人となりました。 使徒アンデレが伝道した地域はルート3(下記)となります。モンゴリア地域の「龍の文明」において10世紀ごろから記録に現れる “女真族”(後述します)はイランの古代都市スーサ(シュシャン)が起源とされ、ユダヤと関係が深い(バビロン捕囚)ことからその影響を考えざるを得ません。 また、「龍の文明」は “日本の起源” にも大きく関わることから、後章で取り上げることにします。 ルート3:エルサレム ➡ 小アジア ➡ スキタイ ➡ ロシアのヴォルガ川付近 B モンゴリアについて モンゴリヤとはシベリアの南、万里の長城の北に広がる広大な高原状の地域のこと。蒙古とも呼ばれ、おもにモンゴル国 (156万6500km2) と中国の内モンゴル自治区 (110万km2) を併せた領域を指します。特に内モンゴル自治区は、かつて「龍の文明」として栄えたところですが砂漠化問題が深刻化しています。 <参照> ・ 中国の砂漠化問題 ・ 内モンゴルの砂漠化 モンゴルの国旗は、赤、青、赤の横三色の左側にソヨンボと呼ばれる古くからモンゴルに伝わるシンボルを配した旗である。 ソヨンボはかつてモンゴルで使われていた文字で、ソヨンボの意味には様々な説がありますが、一説によると、炎 (過去・現在・未来の意)、太陽 (民族の母の意)、月 (民族の父の意)、槍と矢じり (敵の制圧の意)、巴形の二匹の魚 (警戒心の意)、左右の長い長方形は国民の団結心の象徴とされます。 現在の国旗は社会主義政権時代に制定されたもの(1949年)ですが、当初はソヨンボの上の社会主義を象徴する金星が付いていました(1992年に外された)。 赤は当初社会主義を象徴する色でしたが、現在は自由と発展の賞賛の意味とされています。青は空と地を象徴していてモンゴルやトルコの伝統色でもあり、黄色は変わらぬ愛と友好を表すと言われています。 <参照> ・ キャメル ・ カシミヤ、キャメルヘア、羊毛に関する情報 ・ 世界の国旗・モンゴル 2. 12使徒 (前編) (1) 筆頭弟子となったペテロ・弟アンデレ @ 「ヨハネの子シモン (ペテロ)」の “ヨハネ” とは誰のことか
「原理講論」には、モーセ路程はイエスの典型路程として立てられた (「原理講論」p342〜p348)とあります。つまり、イエスはモーセ路程を模範として歩まれたと言うことです。イエスは、洗礼ヨハネの死によって閉ざされた公生涯をどの様に歩もうと考えたのか。それが、モーセ路程の次の部分から読み取れます。
モーセの兄はアロンで、アロンの子はエレアザル。モーセの立場はイエスで、アロンの立場は腹違いの兄ヨハネになります。モーセはアロンが死ぬとき、アロンの衣服(使命を象徴)をその子エレアザルに着せました。 このことから、イエスはヨハネの死によって、その子ペテロに “天国のかぎ” を授けたのであり、「ヨハネの子シモン」とは、洗礼ヨハネの子はペテロであることを示しています。 <参照> ・ 再々加筆あり、シモン・ペトロ(ペテロ)は、、どのヨハネの子? ・ 『シモン』『ペテロ』『ケパ』 ・ 出エジプト記28章 祭服?アロンとその子らの衣服 ・ 衣装にこだわる神様 A 逆さ十字架のペテロと]十字架のアンデレ 洗礼ヨハネの死によって、イエスの路程は十字架が必然となり、それまでの3年の公生涯は十字架後の神の摂理に備える深刻な状況を迎えたのです。 ここでは、十字架後の摂理のポイントを簡単に順を追って見ていきましょう。 a) アンデレのX十字架(60年頃) アンデレはロシアで宣教し、ギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され殉教しています。そのため、正教会と縁が深く、コンスタンディヌーポリ総主教庁では、初代総主教はアンデレであるとしています。 ロシアとルーマニア、スコットランドとギリシャで守護聖人とされています。 右図のスコットランド王国の国旗は、X字型の十字にかけられて殉教した、スコットランドの守護聖人である12使徒聖アンデレを象徴しています。 b) パウロの回心と殉教 (60年代後半) パウロは古代ローマの属州キリキアの州都タルソス (今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス) 生まれで、ベニヤミン族のユダヤ人でもともとパリサイ派に属していました。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていたのです。 ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いたパウロは回心して (使徒行伝9章1節〜19節) キリスト教徒となり、精力的に布教活動を行ない、特に異邦人に伝道したは重要です。 3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られて皇帝ネロのとき60年代後半にローマで殉教しました。 c) ペテロの逆さ十字架(67年頃) 外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされています。 <参照> ・ ペトロ d) ユダヤ戦争 (66年〜74年) とエルサレム陥落 (70年) 最初の異邦人キリスト教徒誕生の地と言われるカイサリアで、ユダヤ人が虐殺されたことで、ローマ帝国とユダヤ人との間で起きた戦争。 <参照> ・ ユダヤ戦争 ・ エルサレム攻囲戦 (70年) e) キリスト教、ローマの国教となる(392年) キリスト教徒に対し、狂暴的な迫害を加えた皇帝ディオクレティアヌスが引退し、コンスタンティヌス1世が即位すると、ローマ帝国に権力争いが勃発し、戦場でコンスタンティヌス1世は奇跡的な体験をします。@ 夢の中に「XP」という模様ともに「この印とともにあれば勝利する」という文字が浮かびました。コンスタンティヌス1世は、神による予兆と見て、「XP」を旗印として戦ったところ勝利したのです (ミルヴィオ橋の戦い)。「XP」とは、ギリシャ語で「キリスト」を表しています。 コンスタンティヌス1世は、キリスト教を公認しました (ミラノ勅令)。自らもキリスト教に改宗すると、ローマの首都コンスタンティノープルに移します。ローマ帝国に公認されたキリスト教は一気に信者を拡大すると、熱心なキリスト教徒だったテオドシウス1世は、392年にキリスト教を国教化し他の宗教を禁じたのです。 f) ピューリタン、英国から米国新大陸へ(1620年9月16日〜11月21日) カトリックは教会の権威主義と世俗化に流れる中で、宗教改革に対しで迫害が激しくなり、イギリス国教会も中途半端な改革にとどまると、ピューリタンの “ある一団” が信教の自由を求めてピルグリム・ファーザーズらは1620年9月16日に帆船メイフラワー号に乗って一路アメリカに向かいました。 B 国教会から聖公会とピューリタンへ a) なぜアンデレの]十字架がスコットランドの国旗となったのか 832年頃のスコットランドは、ピクト族、スコット族などのケルト系民族の連合王国となっていました。当時の王はピクト人のオエンガス2世。イングランド北部には、ゲルマン系のアングル族が打ち立てたノーサンバランドという王国ができていました。そのアングル族がスコットランドに攻めてきたのです。オエンガス2世が即座に対応して戦争となります。 A 戦い前の前の夜、聖アンドレはオエンガス2世の夢に出てきます。もし、わたしをスコットランドの守護聖人にするならば、この戦いに勝利させようというのです。(<注意!> 赤下線@ と赤下線A は、戦い前の夢による予兆として共通しています) 翌日、オエンガス2世は戦いの祈りのなかで 聖アンドレに対して、もし、この戦争に勝利できるのなら、あなたをスコットランドの守護聖人として崇めますと誓います。そして、聖アンドレは、再び彼の夢の中にでてきて、スコットランドの勝利を約束しました。 翌日、戦闘前に青空にX型の白雲がでているのが見つかります。これをみたスコットランド軍は、聖アンドレの庇護を感じ、数的には不利だったにも関わらず、この戦闘に勝利してしまったのです。 聖アンドレは本当にスコットランドを守り、オエンガス2世は約束通り 聖アンドレをスコットランドの守護聖人と定めたのです。 <参照> ・ 中世スコットランドのピクト王国 (札幌学院大学教授 久保田義弘・PDF) ・ スコットランドと「聖アンデレ旗」 ・ スコットランドについて b) 英国国教会から英国聖公会へ 熱心なカトリック信者であったイングランド王ヘンリー8世は離婚問題を起こし、1534年イングランド国教会のトップに就くと、カトリックからの離脱を高らかに宣言しました。 父ヘンリー8世の死後、9歳で即位したエドワード6世の母親であるジェーン・シーモアの兄伯父であるエドワード・シーモアが自ら護国卿と大蔵卿に就任することで摂政としてイングランドの事実上の支配者となりました。 こうした中で、イングランド国教会にプロテスタントの教義取り込みが図られました。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指されたのです。こうして国家事業として出版されたのが1548年の『イングランド国教会祈祷書』(イングランドの最初のプロテスタント祈祷書) であり、1552年に最初の改訂が行われました。 エドワード6世の治世では、2度にわたる礼拝統一法の制定や共通祈祷書の発布により、イングランド国教会の脱カトリックが進んだのですが、エドワード6世は生まれつき病弱であったため、1553年7月5日、グリニッジにて病死してしまったのです。享年16歳でした。 その後、イングランド国教会はエリザベス1世によってカトリックの国教会としての体制が完成 (1563年) したのです。そこで、イングランド国教会に属していた聖公会から、ピューリタンとして分離していきました。 <参照> ・ 世界史をもう一度 宗教改革 イングランドの宗教改革 ・ イングランド国教会 ・ 聖公会 ・ 聖公会祈祷書 ・ エドワード6世 (イングランド王) ・ 統一法
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