復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 終章 
 第一節 イエスはダビデの血統になれなかった


1.  
 (1) マタイとルカの福音書から見た復帰摂理としてのイエスの誕生とヨセフ家庭
  @ ルカによる福音書1章のイエス誕生における摂理
    (@) マタイとルカの特異性
 四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカは共通する記述が多く、同じような表現もみられるため「共観福音書」と呼ばれる。ヨハネ福音書のみは同じ出来事を描写するときにも、他の三つとは異なった視点やスタイルをとることが多い上に、他の三つの福音書に比べて思想・神学がより深められている。イエスを神であると明言し、はっきり示すのはヨハネのみである
 ところで、19世紀以降、ドイツ、スイスを中心とするドイツ語圏の大学神学部の研究者たちによって、共観福音書に対する歴史的批判的な研究が盛んになった。その結果、マタイとマルコの両福音書の共通点は、一方が他方を省略したなどというものではなく、両者が同じ資料をもとに書かれたことに由来するという見解が有力視されるようになった。さらにルカ福音書との比較研究により、マルコには収録されていないが、マタイとルカには共通して収録されているイエスの言葉の存在が指摘され、このマタイとルカに共通のイエスの語録資料を、ドイツ語で「出典」を意味する言葉 "Quelle" の頭文字をとって「Q資料」と呼ぶようになった。
 このQ資料の存在を前提とする「二資料仮説」では、まず『マルコによる福音書』が成立し、マルコ書(またはマルコ書の原形である仮説資料「原マルコ」)を参考に、またもう一つ別のイエスの語録集(つまりQ資料)を利用して、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』がそれぞれ著述されたとする。マタイ書とルカ書は、マルコ書(原マルコ)とQ資料の二つの資料を基にしているので、「二資料仮説」(二資料説)と呼ぶ。
 なお、マタイ書とルカ書は、上記の二資料の他に、それぞれに独自の資料も利用したようであり、これを概説すると以下の通りとなる。
  • マタイ書の構成 - マルコ書(原マルコ) + Q資料 + マタイに独自の特殊資料
  • ルカ書の構成  - マルコ書(原マルコ) + Q資料 + ルカに独自の特殊資料
 最後に、福音書の共観部分ではなくマタイとルカの独自的部分から、「男から女によるカインとアベルの復帰摂理」を総括し、現代摂理における “真の家庭” の是非を解いていくことにする。

<参照>
 共観福音書の問題
 『失われた福音書 Q資料と新しいイエス像』バートン・マック(青土社)

    (A) アロン家の長子ヨハネとダビデの王座を継ぐイエスの立場
 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤ組の祭司にザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。(ルカによる福音書1章5節〜7節)

 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。(ルカによる福音書1章26節〜33節)

 キリスト教の多くの教派において、イエス・キリストは神の子であり、それが受肉して人となった、真の神であり真の人である救い主として信仰の対象としている(三位一体)。しかし、ごく一部の人々からは三位一体の教義を確立するために聖書の本文を変更している、という批判もある。三位一体を否定している教派は、一般的に異端と見なされている。『原理講論』においては、前編第7章のキリスト論第4節において、神を中心とするイエスと聖霊の「三位一体論」として取り上げられているのみである。血統的にみても、イエスは、ダビデの祖先となるユダの血統ではなく、レビの血統であるアロンとしての祭司ザカリヤを父としている(「ザカリヤ、マリアとヨセフ」「イエスの誕生の秘密 (上)」参照)。文先生が述べている “4人のふしだらな女性” は、実は5人であり、その5人目となるのが “イエスを産んだマリヤ” であることは明白である。レビ記20章10節には次のように記されている。
 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。(レビ記20章10節)

 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まが一緒にならないまえに、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことがおおやけになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使つかいが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい、その胎内に宿っているものは聖霊によるものである。彼女は男の子を産むであろう。その子をイエスと名付けなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(イザヤ書7章14節)。
 これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使つかいが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。(マタイによる福音書1章18節〜25節)

 そもそも預言者イザヤが活動した時代は、ウジヤ王からヒゼキヤ王の時代である。ウジヤはソロモンから7代目、ヒゼキヤは10代目の王であるから(「なぜ正妻と妾の摂理となったのか(下)」図2参照)、イザヤによって預言されたインマヌエルはヒゼキヤ王の次の世代に誕生していたかもしれない。しかし、ソロモン王による腐敗と悪事は留まるところを知らず、バビロン捕囚にまで及んだ結果、延長に延長を重ねてダビデの血統からの誕生とはならず、レビの血統からの誕生となった。名は、インマヌエル(神われらと共にいます)ではなく、イエス(神の救い)。イエス・キリストは、「神からの使命を果たすために選ばれた者」という意味を持っていた。その第一の使命とは、言うまでもなく、“失った主軸となるダビデの血統を取り戻すことによって、神と共にあるイスラエル選民として再帰すること” にあった。その為に、レビ族の大祭司ザカリヤが選ばれ、蕩減復帰摂理が成されたのである(図1)。
 さて、アロン家の娘エリサベツの親族であるマリヤから誕生するイエスは、どのようにしてダビデの王座を引継ぎ、ヤコブの家を支配する立場に立てるようになるのかは次の通りである。
 エリサベツはザカリヤの正妻であり、女によるカインとアベルの復帰摂理から見れば、先にザカリヤの妻となったのだからカインの立場である。マリヤはザカリヤにとって妾の立場となるが、エリサベツが正妻としてカインの立場に立っているのでアベルの立場に立つ。
 ここで注意しなければならないのは、ザカリヤとマリヤの立場である。ユダヤの掟からすればザカリヤとマリヤは、ヨセフと婚約関係にあったマリヤと姦淫する者となるザカリヤは、マリヤと共に殺されなければならない立場にあった。この事実を回避しなければならないのはザカリヤとマリヤ、そしてエリサベツにとって深刻な懸案となった。この問題を解決する糸口となるのは、ヨセフただ一人であったのである。それは、ヤコブを筆頭とした “4人のふしだらな女性” によるユダの血統である。その血統は、ペレヅを蘇生に迎え、ソロモンを長成としてイエスを完成として迎える(「なぜ正妻と妾の摂理となったのか(中)」図1参照)のが神の復帰摂理であった。ところが、「なぜ正妻と妾の摂理となったのか(下)」でも述べたように、ソロモンの失敗によって、この摂理は延長を余儀なくされただけではなく、“4人のふしだらな女性” によってダビデ王が立ちイスラエル王国としての繁栄を築いたことさえも忘れたかのようであった。その事に気づける立場にあったのが、ダビデの血統にあるヨセフであり、それ故にヨセフは天使長の立場を蕩減復帰する重要な存在であった。それ故、マリヤとの離縁を決心しようとしていたヨセフを大天使ガブリエルが引留めたのである。
図1






 「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。(ルカによる福音書1章17節)

 「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。(マタイによる福音書1章21節)








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