「復帰摂理歴史にみる世界史と日本史」
“時”の到来

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■ 1. 幕末以後の日本

     e. 明治の教育システムと教育勅語



明治の教育システム

日本における教育発展の歴史 斉藤泰雄 (PDF 当サイトダウンロード本サイトダウンロード

 幕末から維新にかけて、蘭学者などの手によって、西洋の教育事情に関する多くの書物が翻訳されました。

福沢諭吉 『西洋事情』 … ヨーロッパ各国の教育制度を紹介したもの。1866年初版発行。
小幡甚三郎 訳 『西洋学校規範』。
内田正雄 訳 『和蘭学制』 … ヨーロッパでプロイセンと並び、学校教育が盛んだったオランダの教育制度を紹介。
佐沢太郎 訳 『仏国学制』。
 など。

 明治政府は維新以来、教育を国の最重要課題に挙げて取り組み、欧米各国の教育制度を研究し、教育行政や学制などはフランスに、学校体系はアメリカを手本に教育制度を作り上げました。

 明治政府は、1872年 (明治5年) には、義務教育の基礎となる 「学制」 を施行しました。これは、全国を7つの大学区に分け、ひとつの大学区に32の中学校を置き、ひとつの中学区に210の小学校を設置することなどを定めたものです。

 日本全国に学校を作り、学費無償化に踏み切ると、1875年 (明治8年) には、日本全国で24,303校の小学校を建設しています。就学率は、1905年 (明治38年) には95.6%に達し、国民のほとんどが小学校に行くことができました。

 日本には、江戸時代から寺子屋があり、教育が普及していました。明治政府は、この寺子屋の場所や人材をそのまま活用したのです。明治8年当時、小学校の40%は寺院で、30%は民家を借りたものでした。



 明治新政府は、高等教育についても迅速に整えていきます。1877年 (明治10年)、日本で最初の近代総合大学である東京大学が作られました。以降、国立大学 (帝国大学) は次々に作られ、慶応、早稲田などの私立大学や、中学校や高等学校も全国各地に作られました。華族のための学校である学習院などを除いては、どんな身分に生まれても、勉強さえできれば出世できる、という 「立身出世」 の道が開かれました。

 また、教員を養成する師範学校、陸軍士官を養成する陸軍士官学校、海軍士官を養成する海軍兵学校などは、授業料が無料の上に俸給が支給されました。そのため、貧しい家庭の子供でもがんばり次第で進学することができたのです。

 師範学校では、卒業した後に高等師範学校、文理科大学というコースに進むことができ、大学と同等の高等教育を受けることができました。

 また、陸軍士官学校や海軍兵学校は、卒業生は軍の幹部になることが約束されていたため、日本軍の幹部には 「貧しい家庭に生まれた秀才」 が多かったのです。




教育勅語

「教育勅語」の成立と展開 所功 (PDF 当サイトダウンロード本サイトダウンロード


 明治政府は憲法制定の準備を進め、1889年 (明治22年) 2月11日に「大日本帝国憲法」を発布しました。これがいわゆる明治憲法であり、その後の教育行政はこれを基本として実施されました。明治憲法には、教育に関する規定は設けていませんでしたが、教育の基本となる勅令を発する根拠となる条文があり、天皇の大権事項として定められています。

 1890年 (明治23年) 10月30日、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語が、以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書 (教育勅語) となりました。

 この 「教育ニ関スル勅語」 (教育勅語) の趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身 ・ 道徳教育の根本規範と捉えられ、外地 (植民地) で施行された朝鮮教育令 (明治44年勅令第229号) や台湾教育令 (大正8年勅令第1号) などの、教育全般の規範ともされたのです。さらに、紀元節 2月11日天長節天皇誕生日)、明治節 11月3日 および1月1日 元日四方節四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影 (天皇・皇后の写真) とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われました

 大日本帝国当時は、国民が子弟に普通教育を施す義務 (義務教育) や、児童が教育を受ける権利 (しかも個々人に適切な教育を) に関する基本規定は存在しませんでした。これらが制定されたのは戦後に日本国憲法が出来てからのことになります。

 教育勅語は、明治天皇が首相と文相にみずから与えた勅語であり、まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが 「国体の精華」 であり、教育の起源なのであると規定します。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目道徳) が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であるばかりか、国民の先祖の伝統であると述べています。さらに、これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけて、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくっています。

 これは、西洋の学術や制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したもので、西洋文明にも宗教 (キリスト教) を背景とした道徳教育は存在しますが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず (上PDF参照)、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治政府の理念からすれば不適切であると考えられたため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言えるのです。こうした道徳観は、江戸時代の水戸学及び明の朱元璋の発表した六諭 (下PDF参照) からの影響が指摘されています

『六諭衍義大意』における経世済民の思想 ― 「各安生理」と近世中期文学 ―
   松岡芳恵 (PDF 当サイトダウンロード本サイトダウンロード


12の徳目

1. 子は親に孝養を尽くそう … 「孝行」
2. 兄弟姉妹は互いに仲よくしよう … 「友愛」
3. 夫婦は敬愛の心をもって仲睦まじくしよう … 「夫婦の和」
4. 友人は誠の心をもって信じ合おう … 「朋友の信」
5. 他人に対しては礼儀を守り、自分に対しては慎み深くしよう … 「謙遜」
6. 広くすべての人に愛の手を差し延べよう … 「博愛」
7. 勉学に励み、職業を習って身につけよう … 「修学習業」
8. 知識を広めて才能を伸ばそう … 「智能啓発」
9. 自己の人格の完成に努めよう … 「徳器成就」
10. 公共の利益を増進し、世の中のためになる仕事をしよう … 「公益世務」
11. いつも法律や秩序を守ろう … 「遵法」
12. 正しい勇気を持って世のため国のために尽くそう … 「義勇」




内村鑑三と教育勅語


 内村鑑三 (1861年3月23日〜1930年3月28日)

 1861年高崎藩士である内村宜之ヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれました。三度自己を鑑みるという意味で父が 「鑑三」 と名付けたと言われ、幼少期より、父から儒学を学んでいます

 1876年、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立されると、内村は北海道開拓使の役人の演説と、官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあったため、札幌農学校への入学を決意するようになります。

 内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していました。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、東京大学予備門時代の同級である新渡戸稲造宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に 「イエスを信ずる者の契約」 なる文書に署名させられたのです。

 内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けていました。当時札幌には教会がなかったため、彼らは牧師の役を交代で務めていました。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていました。

 1878年 (明治11年) 6月2日には、アメリカ・メソジスト教会メリマン・ハリスから洗礼を受けます。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会 ( 「小さな教会」 と内村は呼ぶ) を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰に取り組みました。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになります。

 在学中、内村は水産学を専攻し、1881年 (明治14年) 7月に札幌農学校を農学士として主席で卒業しました。卒業後、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当していましたが、勤務の傍ら札幌に教会を立てて、それを独立させることに奔走しました。翌年には、札幌基督教会 (札幌独立キリスト教会) を創立します。

 1884年 (明治17年) には私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着しますが、拝金主義人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅してしまいます。

 内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていました。この時、米国滞在中の新島襄の勧めで、1885年 (明治18年) 9月に、新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師ジュリアス・シーリーの下で伝道者になる道を選びました。在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験しました。

 1888年 (明治21年) 5月に帰国します。


不敬事件

 1890年 (明治23年) から、第一高等中学校の嘱託教員となりました。1891年 (明治24年) 1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」 することが求められました。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」 は三番目でしたが、最敬礼をせずに降壇してしまいました。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのですが、それが 「不敬事件」 とされてしまいました。

 このことが同僚や生徒などによって非難されると、事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼しました。内村はそれに同意しましたが、悪性の流感にかかっていたため、代わりに木下駿吉が行ないました。

 内村は流感で病床にあり意識不明でしたが、マスコミが大きく取り上げて 「内村鑑三の不敬事件」 として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展してしまいました。2月には本人の知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱されました。


無教会主義

 内村鑑三は、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとしました。無教会主義「教会」 よりも 「キリストの十字架」 を重んじると言われています。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っていて、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではありません。

 キリスト教の歴史を通して、教会にいろいろ付随してきた余計な権威や権力を克服しよう、という理念に立った運動であり、理論的にはマルティン・ルターの宗教改革の二大原理聖書のみ万人祭司) を極端に現実化したものです。
 按手礼を受けた聖職者 (牧師 ・ 正教師) を持たないので、無教会の集会または礼拝は儀礼 (サクラメント) や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、結果的に聖書の研究・講義が中心となりました。そのため、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくあったのです。

 無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではありませんでした。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行なっていました。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持ちませんが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者 (先生) がいる場合もあり、主に集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多かったのです。また、まれに専用の集会所を持っている集会も存在していました。


再臨運動


 1894年、京都で内村鑑三と4番目の妻である静子との間に生まれたルツ子 (左図) は、鑑三の愛読する旧約聖書の 「ルツ記」 からとられ命名されました。1911年(明治44年) の春頃より、女学校を卒業したルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになると、内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、1912年(明治45年)1月12日にルツ子は18歳で夭折してしまいました。このことと、アメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。

 1917年 (大正6年)宗教改革400年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針として、1918年 (大正7年) より再臨運動を開始しました。

 内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力して、超教派の運動として、再臨運動は展開されました。当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていましたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席しました。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えました。



 1930年 (昭和5年) 1月20日に、柏木の聖書講堂で 「パウロの武士道」 について述べたのが公の場に出た最後となり、3月28日昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去しました。



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