| 復帰摂理歴史の真実 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■ 第三部 第四章 b. 四大心情圏と良心 1. 未完となった四大心情圏と良心 (1) 真の母として復帰すべき四大心情圏 @ 復帰摂理上の真の母と四大心情 (@) 堕落前の「神の独り娘」としてのエバと「堕落アダムの正妻」としてのエバを代理する
真の母としての韓鶴子女史は、1943年2月10日(陰暦1月6日)に平安南道安州郡安州邑信義里二六番地において誕生された。父母となる韓承運と洪順愛の間に一人娘として誕生(「エバの摂理完了と男性復帰(上)」参照)し、母である洪順愛は、娘である韓鶴子から見れば外祖父母となる洪唯一と趙元模の間に生まれた一人娘である(右図)。この女系三代に渡る独り娘の家系では、神の独り娘としてのエバの創造を象徴しているかの如くである。特に父の韓氏は、新イエス教の篤実な信仰者で、李龍道牧師や李浩彬牧師ら(「二つの「恨」と文先生の摂理」参照)に従って母の洪順愛と一緒に信仰生活を成していた(「エバの摂理完了と男性復帰(上)」参照)ことがそれを物語っている。文先生は、その三代における縦的な信仰と神の愛を壊さないようにする為に、文先生は3年半はお母様を迎えて一緒に暮らすことをしなかったのである。この様な父と母から誕生した一人娘は、父からの愛を受けることなく、母からの愛のみで成長し、結婚に至っている。このことは、結婚前は実体のない無形の神から実体としての母の信仰と愛によって、神の愛を受けた堕落前のエバの立場を形造っている。 そしてまた、結婚後は、実体験したことのない “父(母)の愛” と “夫婦の愛”、“子女の愛” の「三対象愛」と、それに “兄弟姉妹の愛” を加えた「四大愛」として完成しなければ「人類の真の母」とはなれない、堕落エバの復帰完成までを含めた立場をも意味しているのである。 そしてそのことは、文先生との年齢差が23歳であることから、文先生が70歳(復帰完成の段階に入ったことを象徴する7数)を迎える1990年から23年後となる2013年が「完成の聖婚式」と「基元節」の期限となったのである。 ・ 第一節 真のお母様の誕生と成長期 ・ エバの摂理完了と男性復帰(上) ・ 幻となった基元節(上) (A) 四大心情と真の母 (A-a) 四大心情と格位の差による授受作用
(A-b) 真の母と四大心情
愛には、縦的な愛と横的な愛がある。縦的な愛とは、下向愛であって、「父母の愛」と「子女の愛」とをいう。この間に、一旦、横的な愛である「夫婦の愛」が加わって、父母による子女への愛(父母の愛)が、新たな夫婦と、その夫婦の愛によって子女が誕生する。そして、夫婦は父母となって子女を愛する(子女の愛)。この父母の愛から夫婦の愛、子女の愛へと、愛は正分合作用の三段階を経て、「三対象の愛」として継承されていく。しかし、この愛が永続的に継承されていくには、複数の子女が必要であり、「兄弟姉妹の愛」としての横的な愛が問題となってくる。この愛も、縦的な愛と同じように下向愛となる。兄・姉から弟・妹への愛、長子から次子への愛としてである。この愛の完成によって、神の愛が、“永遠性をもって継承される「四大愛」の完成” となる。
さて、ここで問題となるのは「夫婦の愛」と「兄弟姉妹の愛」の横的な愛である。堕落以前のアダムとエバは、兄と妹の横的関係であった。それが、堕落によって突然打ち消され、夫婦の関係を結んでしまった。別の言い方をすれば、間違った夫婦関係によって、兄妹関係を壊してしまったことになる。この夫婦関係の間違いは、エバからの堕落の愛によってアダムと関係を結んだことにあるのだから、アダムが “真の愛” によってエバと “真の夫婦関係” を結び、その “夫婦の愛” によって、壊れた兄妹としての “横的な愛を復帰” しなければならなくなった。そこで文先生は、先ず妹の立場に立つ「妾」を愛して “真のアダムの立場を復帰” (@矢印)して、「正妻」との間で堕落によって間違った夫婦の関係を正して “真のエバを復帰” (A) 夫婦協助)しなければならない。その上で、サタン側から見た正妻(カイン)と妾(アベル)の関係は、妾(アベル)を “真のアダム” が愛したように、正妻(カイン)が妾(アベル)を愛さなければならないという蕩減復帰の原則が課せられ(A矢印)、いわゆる姉妹の愛である横的な愛を復帰することによって、神の立場から見れば妾の長子権復帰となって妾が正妻の立場を復帰し、正妻が妾の立場に立つことになるのである。こうした正妻と妾の一体化は、“真のアダム” と “真のエバ” が相対基準を結んで、“夫婦の愛の完成” が成されることとなるが、この “横的な愛の完成” を、子女によるカイン・アベルの一体化(B矢印)を結実して「真の家庭」完成とすべきだった。これが2008年4月6日での特別儀式(「幻となった基元節(上)」参照)だったのである。 この「真の家庭」完成は、先ず、真の父の協助(@) 父子協助)によって真の愛を享受した長子(顯進)に、真の父と夫婦共助(A) 夫婦共助)によって一体となった真の母の母子協助(B) 母子協助)によって次子(國進)が一体となれば、これが本然の原則としての父子協助から夫婦共助、母子協助の順での完成する「真の家庭」となったはずでした。 しかし、結果としての長子(顯進)に対する次子(國進)の不一致と反発は、正妻(韓鶴子)が妾を怨讐としてこれを拭えなかったことに元返えされ、レア(正妻)が最後までラケル(妾)を怨讐として愛せなかったことに同位します。 <参照> ・『原理講論』にないヤコブ家庭摂理 (A-c) 復帰摂理の完結は「“真の父の御言” の体恤」で可能となる
正妻(カイン)が妾(アベル)と一体化することによって、妾が長子権を復帰して正妻の立場を復帰した立場に立ちます。このことは、天使長を主管する立場でもあるので、現実的な面においては夫を愛で主管できる立場に立ちます。そこで夫を “四大愛” で主管して、御言の実体となる主体者として立てていかなければなりません。正妻の夫が “真のアダム” であるように、妾も正妻の立場を復帰した後は、夫をそのようにしていくのです。御言を体恤したことによる “四大愛” でその様にするのです。「体恤」とは、中国の言葉で、“相手の立場に立った心遣いを示す” ことを言います。この場合、「御言に則した心遣い」となります。そうするためには、自らの行動が御言に裏付けられていなければなりません。御言を夫に語るのではなく、文先生の御言『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』(p303〜p324)の作法に従って “愛による喜びを通じて心情を育む” のです。自らが、妾としての立場から正妻の立場に成長したように、奉仕だけの天使長の立場から愛の主体者としての主人(夫)に成長させ、夫婦が子供の手本となり、姑とは実の親子以上の関係になるのです。<参照> ・ エバの摂理完了と男性復帰(上) A 堕落エバの残された蕩減復帰摂理は失敗 (@) 「再教育が必要な家庭連合」の神観と真の父母観、アベル女性 (@-a) 男子と女子における陽性実体と陰性実体としての意味
神は、唯一なる存在である。唯一ではあるが、特定の所に存在する神ではない。地球には、夜と昼が同時にあるように、御独りであられる神も闇(夜の神)と光(昼の神)の御方であられる(創世記1章1節〜5節)。御独りであられる神も、神の愛の対象となる人間が、愛によって一体となるように、神の男性と女性に似せて、神の一人の子女としての人間を男子と女子の分立体として創造されたのである。本陽性と本陰性は、神の本性相と本形状における積極的・消極的表現様式としての属性である。その表現は無限となるので、神に似せて創造された人間も無限の個性を持つ個性真理体として創造された。積極的面が多い方を男性、消極的面が方を女性とに分け、人間もそれに似せて、心と体の属性として、それぞれの陽性と陰性の組み合わせによって男子と女子とに創造されたのである。 <参照> ・ 父なる神とアダム国家 (@-b) 神(原相)における陽性と陰性
そもそも、性相と形状の属性として陽性と陰性があるのは人間の場合に該当するのであって、創造以前の神は、「心情」を中心とした性相(理性)と形状(法則)の調和体としての “情的存在” としてのみ居られた。いわゆる「理法」としての “ロゴス”、ヨハネによる福音書1章1節にある「言」としての神であり、本性相としての「夜の神」である。心情は、喜びを得ることを目的とする情的衝動であるが、その目的を達成するための手段となるのが「愛」であり、その “愛の在り方” として規定するのが「ロゴス」である。つまり神は、本性相(ロゴス)と本形状(質料と無限応形性としての前エネルギー:『統一思想要綱』p32、p127〜p129)の授受作用によって一体(昼の神)となって人間を始めとする万物を創造をされた。 そして何よりも、「夜の神」は “心情を中心としたロゴス” が主体(性相)となって、“心情を動機とした愛による喜びを得る” という目的は、「昼の神」がそれを目的とするロゴスの対象となった愛(形状)によって成就する。つまり、神は、「夜の神」(主体)と「昼の神」(対象)の “統一体” であり、“愛の神” であられる。 以上のことを踏まえて、神にはて本陽性と本陰性の明確な区別がないので、神を「父母なる神」としてではなく、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実(『原理講論』p47)から「父なる神」と呼称すべきである。 <参照> ・ 空海による仏教思想の大転換 ・ 理趣経と生殖器のみ言葉 (@-c) 二性性相として存在してい天使と霊的イエス
天界とは、神と天使、人間の死後の世界としての霊界とを総称する。これが人類始祖の堕落以後、善神側と悪神側の二つに分立された。
本来、天使長ルーシェルは、神の相対となって、神を父とするなら、ルーシェルが母のような立場に立って、神はアダムを協助(協助A)し、ルーシェルはエバを協助(協助B)すべき立場に立っていた(図1)。ところが、ルーシェルは “神の愛に対する不信” から生じた「愛の減少感」を満たすためにエバを誘惑して堕落したのである。これと同じように、“霊的真のアダム” となった善霊人としての霊的イエスは、失敗した天使長ルーシェルを蕩減復帰する立場に立って、真の母として完成すべき韓鶴子女史を協助する立場に立っていたのである(図2)。 (@-d) 文先生のアベル女性UN創設大会での嘆き
2012年7月16日に開催されたアベル女性UN創設大会で使われている「アベル女性」とはどういう意味でしょうか。長子権復帰の次に父母権復帰、王権復帰が成されて、四番目の皇族圏復帰としての正妻圏が復帰されくることによって、妾が正妻になり、正妻が妾になるような立場で立つ(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p139)のであるから、復帰摂理上で姉としてのカインの立場に立っていた正妻が、完成圏においては王権復帰されたアベルの立場となるという意味での「アベル女性」である。復帰摂理上で、カインがアベルに屈服することによって妾の正妻圏(妾の長子権復帰という意味での正妻圏復帰)が皇族圏として復帰されることによって王権復帰された立場における「真の母」に立てるということでる。 <参照> ・ エバの摂理完了と男性復帰(上) 次に提示したのが、文先生が語られた『「アベル女性UN創設大会」基調演説』の 前提(演説に先駆けて真のお父様が語られた御言葉) となる説明部分で、郭グループとされるUCI(Unification Church International)側を支持する人物が取り挙げた御言の部分を家庭連合が忠実にディクテーションして翻訳した文章となります。なお、アンダーラインの部分は講演文で、それ以外はアドリブで語られた部分となります。
a)「母のいない宗教」とはキリスト教である
「母のいない宗教」のところを、家庭連合では、「今まで宗教が母のいない神様≠信じてきた」として歴史上における宗教全般のことだとしているが、文脈からすると特に次に続く(黒枠で囲んだ)部分がイエスとのことを語られていることから、「母のいない宗教」とは “キリスト教” を指していると見ることができる。 「父なる神様を信じる宗教にはなりましたが」のところは、イエスを真のアダムとして迎えることができたことによって、「夜の神」を “父なる神様” として、キリスト教において信じることができるようになったということを意味する。統一思想によると「父なる神様」とは “愛の根源となる心情としての神” を意味し、「母なる神様」とは “その心情を土台とした授受作用を成すための力の根源となる神” として、「愛の根本原因」としておられ、その愛を実体的・具体的に体現できる夫婦としての男子と女子を「真の父」と「真の母」と表現している。それ故、「“母” のいない宗教」を「“真の母” のいない宗教」と言い換えることができるが、キリスト教こそ「真の母のいない宗教」なのである。 <参照> ・ 空海による仏教思想の大転換 b) 文先生が初めて明かされた17歳の時に現れたイエスとの出来事
文先生は、15歳になった年の復活節(イースター)迎える週に、近くの猫頭山(右図)で神様に涙ですがりつくように夜通し祈っていると、イエス様が現れて「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と召命を受けた(『平和を愛する世界人として』p62)。イエス様は、再度、文先生が17歳の2月のときに現れての遣り取りがあった(青四角枠の部分)。文先生が龍明を名乗ったのは、故郷を離れてソウルの京城商工実務学校に入学された1938年4月からのことで、当時は「江本龍明」という日本名であった。文先生は、ソウルの学校を卒業され、留学先として日本に向かったのは1941年のことである(『平和を愛する世界人として』p354〜p356)。 イエスが17歳の文先生に言った結婚式というのは、基元節に行われるはずだった“完成の聖婚式”ことを言っているのであるが、そのためにイエスが協助できるのは、文先生の相対に立つ韓鶴子女史に直接協助するのではなく、文先生に仕える天使長的立場の教会幹部責任者の人たちです。イエスが、アベル女性UN創設大会開催までに現れてこなかったのは、完成の成婚式に立つべき女性、真のアダムが相対として迎えるべき真のエバに女性がこのアベル女性UN創設大会に来ていないことを文先生は述べているのです。それに対する具体的な嘆きとしての表現が、「アダムが責任を果たせずに、母を失いました」という嘆きとしての一言に全てが込められています。ここでのアダムと言うのは、霊的真のアダムとしてのイエスと、実体的真のアダムとしての文先生の両方が含まれているのでしょう。 <参照> ・ 幻となった基元節(上) ・ 猫頭山の出来事 ・ Google Mapで訪ねる主の路程(3)−猫頭山(ミョドゥサン) ・「五峰山タリョン」ほか
神の第二アダムとなるイエスは個性完成して長子の立場に立ったが、磔刑によってその使命を果たせず、キリスト教を通じての信仰による霊的摂理の中心的立場に立った。地上世界に神の第三アダムとして文先生が誕生されると、天上界となる霊界がカイン界となり地上界はアベル界となるので、復帰摂理上では地上界が長子の立場に立つ。故に、復帰摂理上は、文先生が長子の嗣業的立場にあるから、次子の立場に立つ霊的イエスは文先生を「龍明兄さん」と呼びかけている。この時、自分の名前を龍名として語っているのは、文先生の復帰摂理は、日本への留学時代から既に始まっていたことを物語っている。
堕落が天使長ルーシェルとエバから始まったが、この堕落の痕跡を消し去って、神の創造本然の理想世界へと塗り替えていくのが復帰摂理である。堕落の動機となる天使長ルーシェルの愛の減少感と、理想世界としてのエデンの園から追放された堕落エバにとって、真のアダムの前に新婦として立てる真のエバは “妾として愛される愛” と重なって “愛の怨讐” となったのである。この場合の怨讐となるのは、真のエバという存在そのものではなく、真のアダムがその愛の対象を愛する愛が、自分に向けられる愛と比較したときに生じる “愛の減少感” から生じる嫉妬的恨みであることは最も重要な観点となる(3図)。故に、復帰摂理の最終的なポイントとなるのは、正妻としてのカイン女性と天使長が共に愛の減少感を超えて怨讐を愛するかに掛かっていると言わなければならない。<参照> ・ 原罪からの解放 ・ 日本を愛した文先生の足跡 3 「天宙成寮 早成勇士」 ・ 日本統一運動史 3 日本留学時代A c) @とAの二つの「母がいません」の母とは同じ母のことである
さて、問題となる「正妻(カイン)と妾(アベル)による復帰摂理」は、“夜の神様と昼の神様が分かれて争う” 大問題となりました。これは、真のアダムが立つことによって、まず先に昼の神様が夜の神様と反対の立場に立って復帰摂理を始めなければならなくなったことを意味しています。夜の神様は、発露する心情を「愛」として “体系化” した「御言」を、アダムを主体とするエバによる「調和と融合」によって「真の愛」として “実体化” することを創造の目的としました。これに対して、昼の神様は、“真のアダムの正妻となるカイン女性の蕩減復帰” における摂理を担うことによって、本然のエバとしての概念を復帰摂理上において明確化し、カイン女性をアベル女性に転換することをその目的としたのです。 本来、アダムとエバは愛によって異性としての調和が成され、格位が融合され一体となった横的な “真の夫婦の愛” は、縦的 “真の父母の愛” となって継承されるようになっていました。このことに対する人間始祖の堕落は、人間と天使長の格位差が「愛の減少感」を発動させ、アダムとエバの異性間における不調和を招いて “偽りの夫婦の愛” として実を結んだ結果、"偽りの父母の愛” となって「分裂と闘争」の歴史が継承されるようになってしまったのです。 以上のことから、@の「母がいません」の “母” はキリスト教が迎えるべきアベル女性としての「真の母」であり、Aの「母がいません」の “母” は真のアダムの正妻(本妻)に立つべき真のエバとしての「アベル女性」を意味する “母” となります。これまで見てきた「正妻(カイン)と妾(アベル)による復帰摂理」の観点から@とAの「母がいません」の母は、同じ母を示していることが明白です。 本文における「幻となった基元節(上)」で論じたように、「正妻(カイン)と妾(アベル)による復帰摂理」における横的愛の失敗(カインがアベルを主管)が子女の横的愛の不調和を招き、母のいないキリスト教の頂点に立つ母としてのカイン女性が、真の母となるアベル女性となれなかったことは世界情勢に対しても大きな破門を及ぼすことになったのです。 文先生が1993年10月から1995年1月にかけて、韓国の済州国際研修院と中央修練院(京畿道久里市水澤洞)にて日本食口を対象に語られた御言を軽率に扱ってしまったために、エバ国家としてのアベル的使命を果たせなかったのです。その使命とは、自身の天的良心に従って、御言を通じて神様の相対となるという文先生の命令を絶対視するエバ国家になること(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p145〜p147の「神の相対になった場合、天運が保護する」より)に他なりません。日本食口がこの使命に失敗したために、天使長の立場にある教会男性幹部の横行を許し、結果としてアベル女性としての “母がいない” という事態が生じたのです。 <参照> ・ 神山威元会長の良心宣言 | 聖和前後の神の摂理 ・ アベル女性UN創設大会 ・ アベル女性UN創設大会に母はいなかった ・ サンクチュアリ教会側の「アベル女性UN創設大会」に関するお母様批判への応答 (A) 摂理失敗が世界情勢の悪化を招く
以上の摂理的失敗が、エバ国家である日本を天運が保護できない状態を招き、摂理国家に反映され下降を免れない事態に陥ります。中国は、共産主義から抜け出すことができなくなり、侵出の手段を探ります。アメリカはキリスト教民主主義の混乱が覇権国としての勢いを沈下させ、軍産複合体に頼つた経済的弱点が露出されます。そのため、天使長国になれない中国と、下降する天使長国が対峙して、反日から抜け出せない韓国に中国と北朝鮮の侵入によって韓国内で反日・反米と親日・親米の対立が際立って分立状態に陥ります。米ソが手を結んで大東亜戦争が始まったように(「米ソに翻弄される日本」参照)、米露の接近によって日本を取り巻く情勢が緊迫するのは、内的摂理失敗によって外的摂理との間に矛盾が生じた為であると言えます。<参照> ・ エバ国家という英国と日本 (2) 四大心情圏と良心による愛の権威者となるべき夫復帰に向けて @ 良心による四大心情圏
<文先生の御言>・「体恤と実践」(PDF) 文先生の御言によると、四大心情圏は神の心情を体恤して一体とならなければ、それにつながる道がないと語られている。また、体恤に至るには、無我の境地としての “ゼロ点基準” に立って “心の門(心門)” を開き、天の門と如何に一致させるかという問題が、信仰生活においては何よりも重要であるとしている。これによって神の相対的立場に立てば、暗示、夢示、啓示あるいは指示における霊的役事過程(啓示段階)が過ぎると、それまでの体恤的信仰が黙示段階として、生活的な感情圏に適応させた実践が可能(右図)となって、自らの四大愛によって四大心情圏が確立されるとしています。 さて、ここで重要となってくるのが、如何に “ゼロ点基準” にたって “心門” を開くかが先決問題となります。“ゼロ点基準” とは、無我の境地に至った平面的な心の本質に、神が主体となって垂直(90度)に交差する点を言い、神と人間が垂直に交わることによって神の心情を体恤することのできる道の入口となる心の門のことを “心門” と言います。 (A) 修養と御言に対する「観」によって “心門” を開く
文先生が「良心」としているのは、生心と肉心が生心を主体として合性一体化した人間の本然の心(本心)のこと(『統一思想要綱』p165)である。堕落によって、人間は神の心情によって発せられた言葉である “言魂” としての「生素」を失いました(「幻となった基元節(下)」参照)。「良心が神様ともっと一体となるような道」として顕在化するには、“心の修養” が必要である。修養とは、心に「道」(人として守り行う教え)を内在化し、克己(邪念による感情に打ち勝つこと)によって平常心として日常のなかで顕在化させることにあります。 日本では、人間性を陶冶する徳成の方途として「芸道」というものがあるが、これは芸術を徳育に役立てるために “人の道” を “芸の体系” として表現したものである。 芸道は、「所作としての作法」と「残心」がある。身のこなしや振る舞い(所作)における正しい方式(作法)は、芸を成す者の倫理性や道徳性をそのまま体現することで、「美しい所作」として日常に継続(残心)されるゼロ点基準を目的としている。このことは、それを嗜むことによって、相対する者の本性的な心の発露を促す喜びにも繋がっている。 そうした中で、修養する者の倫理性や道徳性が、原理・御言へと高められるならば、文先生の言う「心門」も遠いものではない。しかし、原理・御言の捉え方には、「観」としてその意味や本質を捉えることが最も重要であることは勿論のことである。 <参照> ・ 内村鑑三の武士道とキリスト教 ・ 芸術は美徳を養うか@ ・ 武道、剣道、柔道、茶道、華道などで使われる「道(どう)」と「残心」をご存知ですか? ・ 芸道とは?日本の芸道の種類や魅力、歴史をご紹介! (B) マタイによる福音書22章39節の福音を実践
(C) 母から姉、娘、妹の愛で夫の愛を絞り出す
愛は下に流れます。角度があればあるほど、流れが大きくなります。そこで、「母」とし上から下へと一方的に “赤子” を愛します。この時、赤子は、母の言葉を音声として捉え、愛に満足するのみである。次に、「姉」の立場に立って、角度を変えて緩やかに言葉を選んで “童” を愛します。童は、愛と言葉によって単なる満足から “喜び” を実感していきます。 次は「娘」。娘の立場に降りて、“父” として愛を引き出します。この時、愛されることに感情的に満足して喜びを返すのではなく、本心の喜びと一致するように言葉によって父としての愛を誘導します。 そして、「妹」の立場に立って、“兄” を御言へと導いて、夫としての愛の主体者に至らしめるのです。これによって、妻の母・姉・娘・妹としての四大愛によって、天使長の立場にあった旦那さんは、赤子から童となり、父となって愛の主体者としての立場を復帰して、兄の立場に立って妻を同じ立場に迎えることができるようになるのです。その為に、妻となる女性の方が先に、“四大心情圏につながる良心を取り戻しておかなければならない” のです。 なお、文中における「童」とは元服前の子供のことであり、元服は数え年12歳から16歳ごろに神の前に立って大人となる儀式でした。女性の元服は「裳着」といった、数え年12歳から16歳ごろに結婚と同時に行われた儀式のことです。アダムとエバの堕落の時となった長成期完成級も丁度この頃であったことは着目すべき点である。
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