復帰摂理歴史の真実

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景教とその周辺 <トップ> 空海と密教(後)

■ 1. 日本のはじまり
     c. 空海と密教(前)


南都六宗(奈良仏教)

 南都六宗奈良仏教ともいわれ、平安時代の仏教と区別された言葉です。京都の平安京を北とすれば、奈良の平城京を南としたもので、奈良時代の代表的六宗派のことをいいます。

@ 三論宗
 625年に高句麗から渡来した僧、 “慧灌” によって伝えられました。「」を唱え、華厳宗や真言宗に影響を与えました。

A 成実宗
 三論宗の付宗。

B 法相宗
 638年、 “玄奘三蔵” の弟子であった “慈恩大師” が開きました。インド仏教の色彩が濃く、教理体型が繁雑を極めていました。

C 倶舎宗
 法相宗の付宗。

D 華厳宗
 736年、 “審祥” によって伝えられると『華厳経』と『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立されました。

E 律宗
 753年、 “鑑真” が唐から招来し、日本で初めて戒律を授けました。

 これらの六宗はいずれも顕教(秘密にせず明らかに説かれた教えのこと)とされ、キリスト教の影響は強く受けてはいませんでしたが、中国の唐の時代にキリスト教の影響を強く受けるようになると顕教に対して、仏教界に密教(秘密の教え)の新風を巻き起こし、空海が持ち込んで体系化することとなりました。




空海 (774年〜835年4月22日)


 奈良時代の第49代光仁天皇(709年11月18日〜782年1月11日)の頃、空海は讃岐の国造である佐伯善通玉依御前との間に生まれました。

 774年6月15日善通寺の佐伯邸に生まれた空海は真魚(まお)と名づけられ、12歳から15歳まで国学で学び、15歳からは母方の叔父である阿刀大足(あとうのおおたり)に付いて文学を学びました。

 奈良平城京から京都長岡京に遷都した頃、大学を目指していた空海は勤操大徳に出会い虚空蔵求聞持法を授けられました(793年)。

 空海は大学を去ると、山岳修行に励みました。しかし、厳しい修行に励みながらも真実の教えに出会えない事に身悶えした空海は21日間の修行を決行し東大寺の毘盧遮那仏の前で一心に祈りを捧げているとあるお告げがありました

 それは、真理に帰依(神仏や高僧を信じてその力にすがること)することは、(創造)本然の自己に帰依することであり、自己の心(=本心)を覚ることが仏となることであると言うことでした。

 しかし、大日経には梵字や難解な専門用語のため理解に乏しく、満足に答えられれる人は誰もいないために唐に渡ることを決意したのです。


 空海は約十年を入唐の準備に費やすと、803年4月16日大阪難波から出港する遣唐使船(左図)に乗船しました。この時、国費で短期留学する最澄も乗船していました。

 藤原葛野麻呂を大使とした当時の遣唐使船は船底が平底で、羅針盤もなく、台風の襲来を受けて34日間漂流して南に流され、中国の福州長渓県赤岸鎮己南ノ海口にたどり着きました。

 本来、遣唐使船は長江沿岸蘇州または揚州付近に着く(左下図)はずが、南に流されて国書印符も失い不審な船とされて福州に留まらざるを得ませんでした。


 役人の疑いが増す中、藤原大使の懇請により、空海が観察使(地方長官)宛に陳情書 大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書 を書きました。これを受け取った観察使閻済美(えんさいび)は、その見事な文章に敬歎し、その陳情書を長安に送ると入京の指示を得ることが出来ました。

 空海の才能に驚いた閻済美は福州に留めようとしたのですが、それに対して空海は、 『福州の観察使に与えて入京する啓』 と言う書状を送ることによって上京が許されました。


 「私、空海は、才能が世に聞こえることなく、その言行もなんのとりえもありません。ただ雪の中に肱(ひじ)を曲げて枕として寝(やす)み、雪の覆う峰に野の菜を喫して修行することだけを努め励んできました。
 いまちょうど、ほかに適当な人がなかったために、選ばれて留学生の末席をけがしてしまいました。
 留学の任期は二十年を限度とし、尋ね求めるは一大乗(密教)の教えです。その責任は重く、責(せ)めを負ったものたる私は力が弱く、早朝から夜半まで寸陰を惜しむだけです。
 いま私だけを福州に留めると言う話ですが、歳月は過ぎてゆき、年月はわれわれのところにいてくれません。どうして空しく矢のように疾(はや)い年月を無駄に打ち捨てることができるでしょうか。
 このたびの留め置きをなげいて、一日も早く長安の都に入ることをむさぼるように願うのです。」
(『福州の観察使に与えて入京する啓』)

◆◇ ◆◇ ◆◇


 さて、唐朝第12代徳宗の時代、804年12月23日、藤原葛野麻呂と空海の一行は宣陽坊の公館宿舎に入りました。

 当時の中国唐朝は、あるいはの仏教や、中国古来の道教をはじめとして、景教拝火教マニ摩尼や、ペルシャ人アラビヤ人などの交易商人らが、下り坂の唐朝とはいえ活発に活動していた頃でした。

 空海は密教を学ぶために長安西市の醴泉寺の般若三蔵によって梵語密教の基礎を習得すると、青龍寺東塔院の恵果阿闍梨から正当な密教を伝授されると三種の灌頂を受けました。

@胎蔵界の灌頂
A金剛界の灌頂
B阿闍梨の伝法灌頂

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 恵果阿闍梨が亡くなり、806年1月17日に長安の東にある龍源に葬られると、空海は恵果和尚の「日本に帰り、真言密教を弘め、国民の幸のために努力せよ」と、最後の言葉の実現に向けて経典を書写するとともに、長安では入手できなかった経典などを取り寄せて、806年8月に明州から帰国の途につきました。

 その一年余り前に最澄が帰国していましたが、最澄が学んできた密教は正統な密教ではなく、中国語も充分できなかったために、密教としては不完全なものでした。

 そのため最澄は、空海に経典の借用を願い出て、最澄は胎蔵界の灌頂を受けると、 『理趣釈教』 の借用を求めたのに対して、空海は 「密教の奥義は、文章を得ることのみを尊しとはしない。ただ、心から心に伝えることが大切である」 として、最澄の申し出を痛烈に批判しました。空海40歳、最澄47歳の時とされています。

 この様に空海は、密教は単に経典論書の理解にとどまるのではなく、心から心に伝え法に従って実修することこそ大切であるとして、静かに座禅観法のできる禅院を建てる幽玄な場所として山岳修行の霊地である高野山を選ばれました。

 816年に嵯峨天皇により高野山の勅許が下り、しばらく仏教界の発展に貢献すると、835年3月21日に高野山で空海は62歳の生涯を閉じました。




空海と般若三蔵

 中国の長安の都には、空海がいたと同じ居住区に景教の教会 大秦寺 がありました。そこに、景教碑の碑文を書いた 景浄 という景教僧がいました。この景浄はカシミール出身の 「般若三蔵」 という僧侶とも交流があり、彼に景教の伝道を行っていたと言われています。

 般若三蔵は、空海に梵語を教えた先生 (上記) ですが、もともと混合宗教的な宗教の持ち主で、とくに景教に心粋していました。この般若三蔵と空海は、たび重なる議論の中で、絶対者や実在する救い主は誰かということに及ぶと、空海は 「仏陀だ!」 と言えば、般若三蔵は 「イエスだ!」 と反論したと言われています。それを通じて空海は景教 (キリスト教) についてかなりの知識を得るようになりました

 さらに空海は、般若三蔵の紹介で景教僧の 「景浄」 に会うなど、長安の都で 「マタイの福音書」「十戒」、そのほかキリスト教文書を持ち帰って、現在では高野山の寺の宝物庫に眠っているとまで言われているほどです。


エンサイクロメディア空海(参照)




曼荼羅


 さて、空海は、物質世界における宇宙の法則胎蔵界曼荼羅 (左図右側)で表し、その中心にあられる大日如来慈悲光のごとく放つと、森羅万象は一つの有機体として円満な循環運動をするようになることを表しました。

 その大日如来が人間の “心の中心核” となる様相を表現したのが 金剛界曼荼羅 (左図左側)です。

 この物質世界である現実世界を正しく治めるのは、人間の心のあり方次第であるとして、胎蔵界と金剛界の関係性を説きました 両界曼荼羅

 そのため、これまで煩悩とされてきた衣・食・住・性などの欲望を否定するのではなく、むしろそれをコントロールできる本心(人間本然の心)を見つけ出して鍛錬することによって、大日如来の “慈悲”“徳” の心を自らの心とする 悟り修行 によって体得し実践 体恤 することを空海が解いた 『密教』 でした。

 空海と般若三蔵が「仏陀だ!」「イエスだ!」と論争になったのも、また、最澄の『理趣釈教』の借用を空海が断ったのもそのためだったのです。

 そして、後の時代には密教の究極の姿が即身仏として表現されたのです。



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