復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     e. 理趣経と生殖器のみ言葉


1. 煩悩から仏性への大転換(後)
 (1) 移民摂理と神の愛の根
<文先生のみ言葉>
 「全体全般全権全能の日」宣布 (PDF)
 「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」 (PDF)

  @ なぜジャルジンなのか

 なぜ私が南米を重視するかということです。それは時間さえあれば南米に心をはせて、そこにすべてを結びつけようとする心は、すべてを最終的に精算できる神様の心であるということを知っているからです。ジャルジンに「祝福家庭世界平和統一教育本部」があります、教育本部。天国に入っていける最後の手続きを踏める足場となるので、そこにすべて精誠を尽くさなければなりません。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)

 先生は時間さえあれば、南米に向かいますが、それは南米が好きで行くのではありません。み旨のすべての決定を……完全にきれいにするには、避けようのないことなので、南米のすべてに関心を抱いているのです。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)


    (@)明治元年に始まった移民摂理

 近代日本人の海外移民は、1868(明治元)年にハワイ、グアムへ労働者として渡航した。ハワイへは、1885年から9年間官約移民が送られ、1898年にハワイが米国の属領となると、ハワイから米本土への転住組も増加するようになった。1907年から翌年には、日米両政府の合意によって「日米紳士協定」が手交され、労働目的の渡航が制限される方向に進んでいく。ここで、日本人移民の送出先として注目されたのが南米、特にブラジルであった
 19世紀末からもっとも多くの日本人移民を吸収した米国では、日露戦争後、急激に増加する日本人労働者に対する危機感から排日の動きが現れる。1924年に米国でいわゆる「排日移民法」が制定されると、大量の移民の受け入れ先としてブラジルが注目され、日本政府が補助金を出して、ブラジルへの移民を奨励するようになる。1930年代には黄禍論が猛威をふるい、第二次世界大戦中には多くの日系人(移民とその子どもたち)が「敵性外国人」として迫害された。反面、日系人の大多数がこの時期にブラジルでの社会的・経済的基盤を形成したのも事実である
 そもそも南米への日本人移民は、ホスト国に全面的に歓迎されたものとはいえなかった。ブラジルでは1888年の奴隷解放によって不足した労働力を補うため、最初ヨーロッパ移民を導入する。戦前のブラジルでは、人種優生学に基づく白人化や脱アフリカ化のイデオロギーが強く、ブラジル当局はヨーロッパ移民を優先的に導入する方針をもっていた。20世紀初めになると、そのヨーロッパ移民が不足し、ブラジルは深刻な労働者不足に陥る。日本人移民は、奴隷の代替労働力であるヨーロッパ移民のさらなる代替労働力としてブラジルに導入されたといえる
 ブラジルにおける日本人移民の増加傾向は1930年代半ばまで続き、1933年から34年がそのピークで、その後急激に減少する。日本はブラジルを満州のように植民地化しようとしているという「計画」が報じられ、日本人の南米移民を「征服移住」と呼ぶだけでなく、「ブラジルは南米の満州だ」という過激な言葉で日本人移民ひとりひとりが潜在的兵士であるとみなすとブラジル国民大衆にうったえるものとなった。こうしてブラジル日系人は、人権が侵害され、活動が大きく制限された。しかし、当時の日系人は、サンパウロ州内やパラナ州北部の農業生産と流通に大きな影響力をもっており、日系の産業組合活動を禁じると、州内の農産物流通を止めてしまうことにうなる。皮肉なことに、戦時中の物資不足も手伝って、日系農業は大いに発展することになった
 戦後、米国では1960年代の公民権法施行以降、過去の米国政府による差別政策に自己批判の動きと、第442部隊兵士であったダニエル・イノウエら日系議員や日系団体の名誉回復の運動が始まり、1976年に当時のジェラルド・R・フォード大統領強制収容は「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」と公式に発言した。また、1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)に署名、米国政府は初めて公式に日系人に謝罪し、生存していた被強制収容者全員に補償金を支払った。ペルーの場合も、アラン・ガルシア大統領が第二次大戦中に日系人数千人を無作為に逮捕して米国の強制収容所に送り込んだ事実について正式に謝罪したのである
<参照>
 第二次世界大戦前後の南米各国日系人の動向 (国際日本文化研究センター 根川幸男 : PDF / 本サイト
 ハワイにおける日本人移民



    (A)根を通じて与える栄養は神の愛

 摂理的なみ旨から見て、今、世界を収拾し得る世界最高の首脳を集めて整理作業をする、この時に及んで、なぜ南米に行くのでしょうか? すべては、南米に行って根に栄養を与えなければならないからです。根を通じて芽が栄養を受け、枝が栄養を受け、幹が栄養を受けます。生きとし生けるものは、根を通して芽と枝と幹が連結するのです。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)


 ジャルジンは、ブラジル南東部の都市サンパウロの一地区。市街南西部に位置します。ジャルジンが根だとすれば、芽に当たる所はどこでしょうか。そこは、日本です(参照:「全体全般全権全能の日」宣布)。なぜなら、根で吸収した栄養を、先ずは芽が受けなければならないからです。
 日本の移民政策は、上記に示したように日露戦争(1904年〜1905年)後その印象が悪化していき、「排日移民法」制定後には「敵性外国人」に指定され、戦争も相まって日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民に対して凄まじい迫害が成された。
<参照>
 日系人の強制収容
 日米戦争とアメリカ日本人移住者の迫害

 強制収容者の多くが農民であった一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚や養鶏、豆腐や醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒やワイン、ビールの密造なども盛んだったという。南北米大陸の農業生産と流通の発展には、こうした日系人の多くの血と汗と涙が滲んでいることは否めない。
 これらのことから、1960年代から開始される文先生の日米韓の摂理と、米国での「公民権法」(1964年)施行以降から「市民の自由法」(1988年)に至るまでの重なりが、偶然ではないように見えるのは気のせいであろうか。

<参照>
 公民権に関する声明(1964 年)

・マディソン大会(1974年9月18日)
・ヤンキー大会(1976年6月1日)
・ワシントン大会(1976年9月18日)
 1976年に当時のジェラルド・R・フォード大統領が強制収容は「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」と公式に発言。
  1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)に署名、米国政府は初めて公式に日系人に謝罪し、生存していた被強制収容者全員に補償金を支払った。
 八定式(1989年8月31日、アラスカにて)

 この様な日系人の迫害からの解放と自由の獲得は、トルストイの「イワンの馬鹿」という作品を彷彿とさせる。これこそまさに文先生のいう絶対信仰・絶対愛の典型と言えるであろう。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5章44節)と言われた聖書のみ言葉もそれに符合する。
 以上のことから、地球を神に例えると、根に当たる半分は神の本性相、芽や枝や幹となるあとの半分は神の本形状に譬えられると考えられ、次に述べる “心情とロゴス” に該当する。

 <参照>
 アジア系民族・モンゴロイドがアンデス文明・インカ帝国を創った (神奈川放友会 中村豊 : PDF / 本サイト



  A 心情とロゴス

 その愛の道、その服従の道を行く間、サタンは永遠に陰の立場に入れません。陰の立場に入れないというのは、つまり、二十四時間のうち正午を中心として、日光によって陰がなくなるのです。それが夕方になれば生じ、朝になれば生じても、十二時にはなくなるように、その正午の立場に入っていけるのです。
 絶対信仰は、昼で言えば陰がないことを意味し、絶対愛も、サタン世界には愛の種類が多いですが、陰りのない愛を意味するのです。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)


    (@)なぜエバはルーシェルの誘惑に応じたのか

 『統一思想要綱』(頭翼思想)に、“本然の夫婦はそれぞれ神の陽性と陰性の二性性相中の一性を代表する存在である”(『統一思想要綱』p230)としているが、そもそも陽性と陰性は性相と形状の属性である。属性とは、“あるものに共通して備わっているとされる性質や特徴のこと” であるから、本来、男女の役割や立場の違いとして、本然の男性と女性は、神の本性相と本形状の実体として見るべきである。当然、人間の男子と女子には、男子にも陰性的要素が、女子にも陽性的要素が内包されているからである(右図参照 / 参照「父なる神とアダム国家」)。そのことによって、男子は奉仕者としての主体的な愛であり、女子はその愛によって子女を生み育む属性を備えて、その役割と立場を異にしている。この時、男子の愛は “真の愛”(アガペー)としての無償の愛でなければならないが、女子の愛は子女を生み育むという意味でいうならば、利他的な “慈悲” としての母としての愛と言える。

<参照>
 大乗経典における慈悲と憐愍 (東洋大学文学部教授 渡辺章悟 : PDF / 本サイト

 本性相と本形状を別の表現をすると、夜の神様と昼の神様だということができます。夜には見えなかった形体が、昼なら現れるのを比喩した表現です。それが心の神様、体の神様です。
 神様は心に当たる性相的な夜の神様を実体化するために、神様の体に当たる形状的な昼の神様を創造されました。自ら体の神様を創造されたのです。その動機は夜の神様です。夜の神様の中に定められた構想、すなわち抽象的な観念が一つの原則と数理によって、具体的に現れたのが昼の神様です。(『原理本体論』p102)

 ロゴスという言葉は原相論において明らかにしたように、原相内において創造目的を中心とした内的授受作用の産物、すなわち新生体を意味する。ここで、創造目的は心情が基盤となっているために、ロゴスにおいても心情がその基盤となっている
 宇宙はそのようなロゴスによって造られ、ロゴスに従いながら運行している。すなわち、ロゴスによって支えられている。そして人間もロゴスによって造られ、ロゴスに従って生きるようになっているのであり、人間はロゴス的存在である。
 ロゴスとは、すでに述べたように、原相の性相において、目的を中心として内的性相と内的形状が授受作用を行ってできた新生体であるが、内的性相の中の理性と内的形状の中の法則が特に重要な働きをなしているから、ロゴスは理性と法則の統一体としての理法になるのである。したがって人間がロゴス的存在であるとは、人間が理法的存在であることを意味するのである。ここにおいて、理性と法則の特性はそれぞれ自由性と必然性であるから、ロゴス的存在であるということは、自由性と必然性を統一的にもっている存在であることを意味する。すなわち人間は、自由意志に基づいて行動する理性的存在でありながら、法則(規範)に従って生きる規範的存在なのである。 (『統一思想要綱』p241)


 さて、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)とあるように、神にかたちに似せて創造された人間は、『原理講論』(p44〜p47)や『統一思想要綱』(p122〜p134)によると(参照「父なる神とアダム国家」)左図のようにアダムとエバの関係性が浮かび上がってくる。つまり、神の本性相に似せて男子としてのアダムと、神の本形状に似せて女子としてのエバを、神ご自身のかたちに創造されたのである。
 ところで、ロゴスとは理性(自由性)と法則(必然性)の統一体としての理法であり、堕落前のエバは自ら湧き出る愛されたいという感情に混沌としていました。エバの混沌とした心の状態を、神の心情に沿うように整えるには、神の心情に適う心の発露を、アダムが不変的●●●に発動できる主体的愛が必要でした。神のロゴスは不変であり、不変であることが “絶対” であるからです。この不変性が、愛において最も重要な意味を成します。それ故に、アダムが自らの内にロゴスを確立するまでに時間を要したのです。その合間に、ルーシェルはエバを “尤もらしい嘘” で誘惑し、堕落させてしまったのです。



    (A)絶対なる愛の確立と服従

絶対信仰

絶対愛

絶対服従

 「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)人間は、神の形状的な面だけではなく、性相的な面でも似せて創造された。しかし、これは神の創造原理によると人間自身の責任分担によって完成に至ることが可能である。
 そのためには、神の目的(創造目的)と一致した動機を普遍的なものとしなければならない、これが “絶対信仰” である。いわゆる神の目的を、自らの目的とすることである。そのような意味から、復帰原理のいう「信仰基台」は、「絶対信仰」に至るための出発点になるものであって、絶対的なものではない。また、これは人類始祖となるアダムの必然的な使命であった。
 ここまでは、天使界にも存在した使命である。しかし、次の段階にある “絶対愛” の段階は天使界に存在しない。そのため、天使界には陽性と陰性の相対的関係は必要なかった。そのため、神と天使の関係が陽性と陰性の相対的関係の立場に立てて、神は天使界を創造したのである。
 それでは、次の段階の “絶対的愛” ですが、それは神の本性相と本形状の関係に似ることです。神の本陽性と本陰性は、どちらも本性相と本形状の属性ですから、神の本質は “本性相と本形状の統一体” であり、完全に混然一体となった “唯一神” としての “愛の神” であるということです。  この “完全に混然一体となった” というのは、単に神の陽性実体と陰性実体としての結合としてのものではなく、神の本性相における男性としての陽性実体である男子と本形状における女性としての陰性実体である女子としての結合であって、その本質的な結びつきは、神の本性相(心)と本形状(体)の結びつきにようものです。そのためには、神の心情を動機としたロゴス(絶対的規範)の確立がアダムには必要であり、そのロゴスを自らの絶対的指針とするエバには必要となる。陽性実体と陰性実体としての性別によって混然一体となる意味ではない。
 最後の “絶対服従” であるが、絶対愛によって生まれた子女が氏族を造り、氏族が民族を造り、民族が国家を造り、国家が世界を造る。この世界が神の愛による理想世界として完成するためには、最初に築かれた絶対愛に “不変的に従う” ことによって成されることから文先生は「絶対服従」と語られたのである。故に、絶対服従とは絶対愛に服従することであり、この絶対愛を “真の愛” と文先生は表現していたのである。真の愛こそ神の愛であり、“神は愛なり” である



    (B)生殖器の道理

 生殖器を焼いてはいけません。神様が製造された主流思想がそこに連結されており、父母がその愛の歴史を通じて、家庭と世界を創造しようとする立場にあるので、生殖器を焼くことはできないのです
 「生殖器を焼け」というのはどうしてかというと、堕落したからです。堕落したので、そこまでも服従しなければならないのです。そのような基準を抱く場において、絶対信仰、絶対愛、絶対服従という論理を掲げたということを知らなければなりません。そのような信仰を持つようになれば、サタンが永滅します。個人的なサタン、反対し迫害して蕩減させたすべて、神様の心情に釘を刺したすべてが、一度にみな逃げていくのです。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)

 善悪の実とは何ですか? エバの生殖器です。すべて男性の生殖器が誘惑することができ、女性の生殖器が誘惑するのです。それでエデンの園とは何でしょうか? エデンの園が何か分かりますか? 男性と女性の二人が一つになった愛の体を意味します。一体となった園を指すのです。そこで生きなければならないのです。
 生殖器と絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準に立ったそこで生活してこそ、神様の永遠なる所有権となるのです! きょうがジャルジンに向かう十月八日なので、あらゆる勝利の盾の基盤の上で結論づけるのです。皆さんがすべて目をくりぬき、五官をすべて抜いてしまっても、この生殖器の道理を守らなければならないのです。(「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」)


 『統一思想要綱』によると、ロゴスは本性相における内的性相(理性)と内的形状(法則)の授受作用によって形成される理法とされる。理性は感性に始まり、悟性によって理性としての能力となる。それは、普遍的真理を求める能力または概念化の能力とされ、価値追及欲と価値実現欲として表現される。この過程には、自由意志に基づくことが必須とされるのは、先に述べたとおりである。
 ところで理性の出発点となるのは感性であるが、上記の「五官を抜いた生殖器の道理」というのは何なのか。また、何が「生殖器の道理」なのかという疑問が根本的に拭えない。この疑問に大きなヒントとなるのが、空海の説いた「六大」(「堕落論と即身成仏」参照)と「理趣経」である。このことは、このページの最後(2)に記すことにする。

 内的性相すなわち機能的部分とは知情意の機能をいう。知的機能は認識の能力であって、感性、悟性、理性の機能をいう。情的機能は情感性、すなわち喜怒哀楽などの感情を感ずる能力をいう。意的機能は意欲性、すなわち欲求や決心、決断する能力をいう。このような機能は内的形状に能動的に作用するから、内的性相は内的形状に対して主体的部分となっている。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であり、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいう。(『統一思想要綱』p27)

 このとき、初めの段階の認識が感性的認識であり、第二の段階の認識が悟性的認識であり、第三の段階の認識が理性的認識すなわち普遍的認識なのである。(『統一思想要綱』p27〜p28)




    (C)『原理本体論』に巧みに仕組まれた、とんでもない出鱈目デタラメ

 2008年から原理本体論教育が始まり、2012年の7月に『原理本体論』初版が刊行された。しかし、翌月の8月には文先生がソウル市内の病院に入院され、9月3日に聖和された。この『原理本体論』に下記のような独生女論(参照「独生子と独生女」)の前座ともいえる内容が記された。

 そのような人間は神様に似せて創造されましたが、@ 神様は人間を見本として万物をつくりました。実際には、万物を人間より先に創造しました。それなのに、どうして存在してもいない人間を見本として、万物の創造が可能なのでしょうか。それは、神様の構想が人間にあったからです。人間を創造しようというせんい条件を立てておき、先に万物を創造して、人間が生まれれば生きていける環境をあらかじめ造成したのです。神様の創造の究極的な終着点は、人間にありました。それで、あらゆる被造世界は人間に似るように創造されたと見るのです。(『原理本体論』p71〜p72)

 A 神様は男性格主体なので、女性を先惟せんいし、男性をつくりました。女性を先惟したという話は、その女性に合うように男性をつくったという話です。神様はエバのものが凹だという事実を先に知っていらっしゃったので、凹に合うようにアダムを凸としてつくったのです。アダムの凸は、父なる神様の凸に似たのです。(『原理本体論』p83)

 聖書には「神様がアダムを先につくり、アダムのあばら骨を取ってエバをつくった」(創2章21〜22節)とあります。B それはエバの価値がアダムの次だという意味ではありません。神様の心の中には、先にエバがいたということです。アダムをつくるとき、すでにエバの創造を先惟せんいしたという話です。
 上記(1.神様の二性性相)において、「神様は二性性相の中和的統一体として存在されるが、格位で見るときは男性格主体」だと述べました。C 男性格主体である神様には、その対象である女性が先です、それでエバの創造を先惟せんいし、そこに合うようにアダムをつくったというのです。(『原理本体論』p117〜p118)


 『原理本体論』では、“先惟条件” という言葉が初めて使用されました(赤下線@)。この場合、神は人間を実際の万物の創造よりも先に考え、構想していたということですが、わざわざ “条件” という言葉を付け加えたのは如何にも不自然です。これは条件ではなく、生まれてくる我が子のことを考えて、精一杯の準備をしようという神が人間の親として当然の発想であって、わざわざ “先惟” という言葉で表現をする必要もなく、“条件” と付け加えたのは次の事柄に関連付けようとした意図があったからといえます。それは、神はエバをアダムよりも先に考え、構想していたということ。つまり、神の構想には、アダムよりも先にエバの構想が優先されて存在していたということです(赤下線A)。しかし、ここにはとんでもない欺瞞が隠されています。それは神様は男性格主体なので、女性を先惟し、男性をつくりましたという一文です。『原理講論』によると、神が男性格主体であるのは被造世界全体に対してであり、ましてや陰性実体として創造されたエバに対応して使われた言葉ではありません陽性実体であるアダムに対応しての陰性実体としてのエバであって、アダムとエバは相対的関係であるといえます。『原理講論』には、「(神は)被造世界に対しては、“性相的な男性格主体” としていまし給う」(下記、青枠の青下線)と表現していますが、当然これには、「被造世界は(神の)“形状的な女性格対象」であるという言葉が対応していると言えます。これらのことは『原理講論』に表記されていない言葉を巧みにひるがえして、あたかもこうであるというように述べています。これこそ “独生女論” (参照「独生子と独生女」)の原理的根拠であるとでもいうようにです。
 更に、アダムとエバの存在価値にも影響を及ぼすとでもいうような内容をほのめかし(赤下線B)、神はエバに合わせてアダムを創造したと結論付けています(赤下線C)。これは、神の創造を冒涜ぼうとくし、文先生のいう「愛の権威●●●●」(参照「「全体全般全権全能の日」宣布」)を踏みにじる部分であると言えるでしょう。

 神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(『原理講論』p47)


<参照>
 世界基督教統一神霊協会の年表(神様王権即位式以降、天一国年号制定以降)



 (2) 神の核心的創造と理趣経

空海の風景(上)
  司馬遼太郎 著 中公文庫
 平安の巨人空海の思想と生涯、その時代風景を照射し、日本が生んだ人類普遍の天才の実像に迫る。構想十余年、司馬文学の記念碑的大作。芸術院恩賜賞受賞。(上巻)
 大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は哲学宗教文学教育、医療施薬、土木灌漑建築と八面六臂の活躍を続ける。その死の秘密もふくめ描く完結篇。(下巻)
 理趣経(般若波羅蜜多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的扮飾などはなく、その冒頭のくだりにおいていきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。
妙適清浄の句、これ菩薩のくらゐなり
欲箭よくせん清浄の句、是菩薩の位なり
しょく清浄の句、是菩薩の位なり
愛縛清浄の句、是菩薩の位なり

 妙適とは唐語においては男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。インドの原文では surata という性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内密教研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。筆者もそれにしたがう。インド人は古代から現代にいたるまで物事の現実の夾雑性をきらい、現実から純粋観念を抽出するというほとんど本能的な志向をもっているが、しかしこの語は性交の経典である『愛経カーマ・スートラ』においても媾合としてつかわれているというから卑語、隠語ではなくごく通常の用語として使われていたのであろう。これが長安に入って唐語に訳されたときに、妙適という文字があてられた。妙適は長安の口語ではあるまい。あるいは訳者がとりいそぎこういう造語をつくったのかもしれない。なぜなら性交の各段階に関する分類や言葉はインドにおいてこそそれが明晰で、ほとんどいちいち成分を抽出して結晶化してみせるほどに厳密であったが、インドにくらべて言語における明晰性のとぼしい中国にあっては造語をするしか仕方がなかったともおもわれる。

 妙適清浄の句というとは、文章の句のことではなく、ごく軽くというほどの意味であろう。「男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」という意味である。
 以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の各段落をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位である」と言いかさねてゆくのである。
 第二の句の、「欲箭」とは、男女が会い、たがいに相手を欲し、欲するのあまり本能にむかっての飛ぶように気ぜわしく妙適の世界に入ろうとあがくことをさす。この欲箭たるや宇宙の原理の一表現である以上、その生理的衝動のなかに宇宙が動き、宇宙がうごく以上清浄でないはずがなく、そして清浄と観じた以上は菩薩の位である……。
 ついでながらこの経典における性的運動を説く順序が逆になっている。「欲箭」の前段階が、「触」である。「触」とは、男女が肉体を触れあうこと。それもまた菩薩の位である。
 次いで、「愛縛」の行為がある。仏教経典における愛という語はキリスト教におけるそれではなく、性愛をさす。愛縛とは形而上的ななにかを指すのではなく、形而下的姿態をさす。インドのブンデルカンドの曠野にある廃都カジュラホの、そこに遺っているおびただしい数の愛の石造彫刻こそ愛縛という字義のすさまじさを物語るであろう。理趣経はいう男女がたがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。この経の華麗さはどうであろう。
 さらに理趣経は「一切自在主清浄の句、是菩薩の位なり」という。その一切自在の「自在」とは後世の禅家がしきりに説く自在ではなく、生理に根ざした生理的愉悦の境を言うのであろう。男女が相擁しているときは人事のわずらわしさも心にかかることもなにごともなく、いわば一個の人事的真空状態が生じ、あるいは宇宙のぬし●●もしくは宇宙そのものであるといった気分が生じ、要するに一切自在の気分が漂渺ひょうびょうとして生ずる。それも、菩薩の位である、というのである。

 筆者は、奈良の東大寺に電話をかけてみた。東大寺は空海以前の成立で、仏教における華厳けごんの体系を宗義とする寺である。しかし、空海が後年、真言密教の始祖でありながらこの大寺おおでらの別当として一時在山したため華厳のほかに真言密教の教義が入っているといわれる。「東大寺でもっとも多くよんでおられるお経は何ですか」ときくと、以外にも空海が自分の思想の核心においたこの理趣経であった。その後、高野山にのぼった。朝六時からの勤行ごんぎょうに出ると、そこでよまれていたお経も、理趣経であった。理趣経に性愛のなまなましい姿態的説明が書かれ、それがとりもなおさず菩薩であるということは、経典が唐音で音読されているためにわれわれにはその極彩色的情景を想い描くことなしに済んでいる。日本の中世にあってこの理趣経の字句的解釈を知った僧によって、この字句的解釈のみをとりだして性交こそ即身成仏にいたるぎょうであるとした一流義ができた。たとえば南北朝争乱期の後醍醐天皇がその熱狂的な信者になったりしたことがあるが、むろんそれは空海の本意ではない。空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄――形而上へ高めること――としてみればすべて真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである。(ただしついでながらこれは釈迦の思想ではない。釈迦の教団は、僧の住む場所に女の絵をかかげることすら禁じたほどの禁欲の教団であった)。さらについでながら、理趣経の文章が律動的な性的情景を表現しているということは、空海以後、それが漢語であるがためにあまり的確には知られることがすくなくて過ぎてきたが、大正期あたりから梵語学者の手でそれが次第にあきらかにされはじめた。ただ空海は長安においてインド僧から梵語を学んだためにそのいちいちの語彙ごいのもつ生命的情景も実感もわかりすぎるほどにわかっていたはずである。(『空海の風景(上)』p76〜p80)


  @ 「理趣経」から「生殖器の道理」へ

 話を前ページ(「堕落論と即身成仏」)の「六大」に戻そう。
 空海の「六大」だいとは、五官による五つの感覚に “” を加えた「」のことを言い、“識” とは事物の道理を知って分別できる自我であるとしているところから、“心” または “意” と同義とされる。つまり、明確な方向性をもった心(意思)といえる。これが、心と体が授受作用できる相対基準を持つための “目的” となる。
 この様になるためには、まず絶対信仰によって神の目的と一致した目的意識に立ち(左図 @)、神の心情に相対できる立場を確立しなければならない。そうすることによって神の心情に基づいた欲望(識:左図 A)に立脚した行動を成すことが可能となるのである。これが空海の捉えた “”(左図 B)の本質的意味である
 ところで、五官とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つを感覚する器官のことで、「理趣経」や文先生の「生殖器の道理」の意味するのは、これに “識” としての欲望を含めた “感性” によるものを指している。この “感性” こそ真の理性に至り、絶対愛に導く最も貴重な “感性” なのである。つまり、“識” という境地に立った心での相対者との性交による恍惚となった忘我状態は、五官を刺激する嘘のない如何なる刺激をも最上の美として、究極の喜びとなる愛の対象となり、互いの “身” による究極の一体感をもたらすというのである。これが “絶対愛” であり、神は人間の生殖器をそのような器官として造られたというのが「生殖器の道理」である。
 この忘我(無我)状態に至った “身” の喜び(満足)は、(神を受け入れる者への)無償の愛によって得る満足感(喜び)といえ、これはアガペー体恤たいじゅつの原点とも言えよう。何故なら、神の心情は、愛することを通じて喜びを得ようとするところにあるからである。


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