復帰摂理歴史の真実

無料カウンター
日本のはじまり <トップ> 景教とその周辺

■ 1. 日本のはじまり
     a. 聖徳太子とその影響


物部氏と蘇我氏

 535年、極端な寒冷化のため世界的な異常気象が起こりました。

 火山活動が始まると、次第に噴煙によって日光が遮られ、気候の寒冷化はもちろん、多くの飢饉疫病をもたらしました。

 かつての宗教は力を失い、多くの人々がご利益のある新たな信仰を求めるようになると、朝鮮半島から「仏教は理解に難く、説明困難である」として、仏教が伝来されました。

 538年欽明天皇は、百済の聖明王の使者が仏像や経文を献じると、その功徳をたたえ、仏像礼拝の可否を群臣に求めました。

 蘇我稲目「仏像を礼拝すべし」と答えると、大連物部尾輿中臣鎌子「国神の怒りをまねく」と答えたので、天皇は蘇我稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許しました

 しかし、その後、疫病による死者がたくさん出るようになると、物部尾輿と中臣鎌子は “国神の怒り” として、天皇に仏像の廃棄を奏上して許しを得ると、さっそくを焼き、仏像難波の堀江に流してしまいました。

 このことをきっかけに、蘇我氏崇仏派物部氏廃仏派としての亀裂が深まって行くことになります




出雲に建てられた神道の思い


 左図はイスラエルに流れるヨルダン川です。

 出エジプトをしたイスラエル民族は、ヨシュアを中心としてヨルダン川を挟んで東と西に分かれました。

 ヨルダン川の東側には、「ルベン族」に、「ガド族」と「マナセ族」の半支族3支族

 ヨルダン川の西側には、「シメオン族」、「ユダ族」、「イッサカル族」、「ゼブルン族」、「エフライム族」、「ベニヤミン族」、「ダン族」、「ナフタリ族」、「アシェル族」に「マナセ族」の半支族10支族。(「イスラエル12士族」参照)

 ところで、この東側の3支族は(「失われた12支族と東洋」参照)、動物の“いけにえ”のない神殿を建設しました。

ヨシュア記22章10節
 ルベンの子孫ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。」

 この“大きくて遠くから見える祭壇”は、

ヨシュア記22章26-27節
 『さあ、われわれは一つの祭壇を築こう。燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、ただあなたがたと、われわれとの間、およびわれわれの後の子孫の間に、証拠とならせて、われわれが、燔祭と犠牲、および酬恩祭をもって主の前で、主につとめをするためである。こうすれば、のちの日になって、あなたがたの子孫が、われわれの子孫に「あなたがたは主の民の特権がありません」とは言われないであろう。』

 とあるように、動物を“いけにえ”とする場所(モーセの律法にでは、動物を燔祭として捧げられる場所が定められていました)としたのではなく、主は神である”と言う証拠として建設したとのべています。

ヨシュア記22章34節
 『ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った。「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである。」』



 さて、“大きくて遠くから見える祭壇”である背の高い一種の“高層神殿”はヨルダン川を挟んで東に・・・  日本海を挟んで東に建てられたのです。

 2000年の4月、「雲太・和二・京三」の雲太の跡が発見されたのです。

 雲太は“出雲太郎”で、「出雲大社」。
 和二は“大和二郎”で、「東大寺大仏殿」。
 京三は“京三郎”で、「平安京大極殿」。

 「出雲大社」が、高さ48メートルと、最も高かく、当時は正に“大きくて遠くから見える祭壇”だったのです。

 「出雲大社」は何度も建て直され、発掘されたのは13世紀のもので、中世の文献には高さが98メートルあったされています。


出雲大社建造の謎


 ところで、“大きくて遠くから見える祭壇”がそのまま出雲大社の建造になったのではありません。

 ルベン族、ガド族、マナセ族の3支族がアッシリアに捕囚になった時、そこは「シュメール」と呼ばれた地域で、「ジグラット」と呼ばれた高層神殿が長い階段と頂上の空中神殿としてあったのです。

 この「ジグラット」では、祭司や王が神殿にのぼり、神託を受け“大いなる唯一神アヌと一身同体になる神聖儀式”が執り行われました。

 その影響を強く受けた3支族は、他の失われた10支族の中の8支族とは別に北に向かい、やがて東を目指すようになったのです。


分立摂理とその変更」参照
失われた12支族と東洋」参照

冥界の支配者、君臨する女王」参照





「和をもって貴し」を願った聖徳太子


 災難続きの中、仏教の信仰にこだわった蘇我馬子は、敏達天皇(30代)にその許可を得ると、蘇我氏と物部氏の対立が一層の激しさを増していきます。

 蘇我馬子は皇位継承の立場にあった穴穂部皇子宅部皇女を殺害すると、崇峻天皇(32代)をも暗殺し権力を掌握すると推古天皇(33代)を即位させました。

 その日本最初の女帝である推古天皇頼みの綱としてたてたのが「厩戸皇子」こと「聖徳太子(574年2月7日〜622年4月8日)」です。

 こうして横暴を振るうようになった蘇我馬子に対抗して皇室の主導権を回復し、仏教に傾こうとしたのを日本古来の神道に立て直そうとしたのが推古天皇であり、聖徳太子だったのです。


「今、私の世においても、神祗の祭祀を怠ることがあってはならない。群臣は心を尽くして、よく神祗を拝するように」(推古天皇『日本書紀』より)


十七条憲法

 聖徳太子は、『天皇記」と『国記」を著しましたが、645年蘇我蝦夷によって焼かれてしまいました。

 聖徳太子のもう一つの著作620年11月である『先代旧事本紀』は、正しい国史を後世に残そうと生涯をかけて編集・記録したもので、推古天皇によって五十鈴宮大三輪宮四天王寺の祠に隠されました。

 その後千年ほどの時間が経過して発見されると神官らによって書き写され今に伝わっていますが、それによると、下記のように記されています。


「篤く三法を敬え」

 「十七条の憲法」に関する記述は、「日本書紀」では『篤く三宝(仏・法・僧)を敬え』とありますが、日本書紀」は「先代旧事本紀」の後に書かれたもので、聖徳太子が書いたものでもありません

 この「日本書紀」にある、“”は仏陀を、“”は仏法仏教)を、“”は仏僧を表していて、「篤く仏陀と仏法と仏僧を敬え」となり、あたかも聖徳太子が仏教の信仰を推奨していたかのようですが、「先代旧事本紀」では“三宝”ではなく“三法”となっています。

 “三法”とは当時代の3つの教えである、儒教仏教神道の3つの事です。

 つまり、聖徳太子は・・・
 仏教インドにおける神の道儒教中国における神の道であるとして、

 儒教枝葉であり、人々の文化と共に中道を説くもの
 仏教は、道の果実であり、人知のみのりとして、人の終わりの道を説いたものと説くと、
 神道は、道の根本であり、天地と共に起こり、人の始めの道を教えたものである」と、神道を根本として仏教や儒教との“”をもって、より良い国造りを成そうとした建国の理念が「十七条の憲法」だったのです。


 「今の儒学者がいうところの『神がいるような』という言い回しは、神がいないことを前提としている。わが国において神を祭るということは、目に見えない神の働きによって、すべての原点である天に立ち返り、魂に立ち還ることである。わが国には高天原より降った天神(天津神)、地に生まれた祇(くにつかみ=国津神)が、天地の初め以来鎮座している。このことは幼児でさえも知っている。今の儒学者がしきりに説いて広めることは、神の鎮座を疑わせることになるだろう。わが国においては、そのようなことを説いてはならない」(儒士憲法第12条)

 「仏教は、儒教・神道と共に国の三宝の一つなので、等しく国の保護をよく受けている。しかし欲と怒を生み出し、自分に我をおこすと、和らぎの徳を失い、闘い争う者は倫(みち)を廃れさせる。人を騙す者を人々の中に置いて、食べ物を与えてはいけない。道を廃れさせる賊(やから)を仏の中に置いて、仏の食べ物を施してはいけない(釈氏憲法第1条)

 以上は、「先代旧事本紀」の内容の一部です。



←“斑鳩”の語源となった「イカル

 さて、推古天皇の命によって聖徳太子蘇我馬子によって著された「先代旧事本紀」ではありますが、蘇我馬子は仏教一辺倒であったため、聖徳太子は飛鳥から離れるため「斑鳩宮」を造り、儒教・仏教・神道の学問寺として「斑鳩寺」を建てます

 ところが、621年に聖徳太子の母が死亡、2ヶ月後聖徳太子の后が死亡すると、その翌日には蘇我入鹿によって聖徳太子自身が49歳で暗殺され、643年には山背皇子とその一族を集団自決に追い込まれました。

 そして、仏教僧「道慈」が701年に渡り仏教を修め、718年に帰国して国政に関わる様になると、「日本書紀」の仏教関係の記述に関わり、「篤く仏法僧を敬え」とすり替えてしまったのです。



日本のはじまり <トップ> 景教とその周辺