復帰摂理歴史の真実

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摂理としての韓国併合 <トップ> 広島・長崎の原爆投下と復帰節理の問題点

■ 2. 激動する東アジア
     k. 帝政ロシアにおける韓人移住民と38度線



<参照>
 帝政ロシアのアジア認識と韓人(PDF)  崔悳圭 (東北亜歴史財団



■ 帝政ロシアと韓人移民

 1. ロシアのスラブ主義と西欧主義

 1853年から1856年にクリミア半島を舞台とした戦争(クリミア戦争)で英仏連合軍に敗北した皇帝専制体制(ツァーリズム)のロシアでは、知識人の間にスラブ主義西欧主義という二大思潮に分かれました。
 スラブ主義の代表的思想家であるダニレフスキーは、アジアを「退歩」ヨーロッパを「進歩」のイメージで見るヨーロッパ中心の見方を批判して、アジア文明に対する公正な評価を試みました。このことは、ロシア地域に移住してくる初期の韓人移住民に対する温情主義となって、多様な同化政策をとりました
 ダニレフスキーは、ヨーロッパとアジアの区分は事実上名称の区分にすぎないとして、西方と東方を進歩と退歩に対立する概念によって裁断することは誤りであるとして、ヨーロッパ的とかアジア的という表現は単に人間が作った人為的区分に過ぎないとしたのでした。



 ※1 1860年北京条約によって中国からウスリー以東地域を公式的に譲り受けたロシアは、この地域の開発のアジア人、特に韓人移住者を積極的に受け入れました。初期韓人移住者たちはロシア農民と対等な待遇を受け、土地分配及び国籍取得においても特恵を与えられたため、家族単位の移民という特徴をもっていました
 沿海州への韓人の移住は1856年に始まり、1863年移行には韓人の移住は家族単位で行われ、初めに13家庭が移住しロシア国有地を開墾し ※2 ポシエト地域開拓村を建設しました。以後、開拓村を形成しながら韓人たちはユズノーウスリースク地方内陸に移住していきました。

 ※1 1860年前後の李氏朝鮮はとっくに経済的に破産し、軍事力もほとんどなく、政権は分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸前だったため、この頃既にロシアは南下をつづけて朝鮮国境まで領土を広げていたために、朝鮮からの移民も始まっていたのです。
 ※2 北朝鮮と中朝国境の白頭山を源とする豆満江河口近くで、ウラジオストク南端に位置します。



 2. 日本の拡大政策とロシア

 一方、ロシアにおける西欧主義の信奉者たちは、ヨーロッパ帝国主義諸国の侵奪を受けていたアジア文明圏の文化的水準を低く評価することで事実上キリスト教圏諸国の帝国主義的侵略を正当化しました。これは、日露戦争以降軍事大国に成長した日本に対する憂慮が「黄禍論」へ進化し、それが黄色人種移住者に対する分離と排斥政策へと具体化していくのです。
 日露戦争に敗北したロシアは、日本の膨張の阻止と東アジアに対する既存の影響力維持のために伝統的に敵性国家であった英国と協約(1907年英露協商)を締結すると同時に、対内的にも沿海州軍務知事ウンテルベルゲールが露領地域韓人移住者に対して人種主義に立脚した弾圧政策を強化したのです。
 なかでも19世紀後半のロシア知識人の代表的ヨーロッパ連体論者は詩人にして哲学者、宗教思想家であったソロヴィヨフ(左図)は、20世紀をキリスト誕生以後最大の大戦争、紛争およびクーデターの世紀と規定し対外戦争の中でも最も大きな戦争は19世紀末すでに日本に生まれた知識人運動である汎モンゴル主義がその原因となるはずだとみました。ソロヴィヨフの汎モンゴル主義は日本と中国が結合しその威力を発揮するとしています。

 模倣をするのがうまい日本人たちは恐るべき速度でヨーロッパの物質文明と低級なヨーロッパの諸思想を受け入れて新聞と歴史の本を通して西洋からヘレニズム、汎ゲルマン主義、汎スラブ主義、汎イスラム主義の存在を知り、ついにはパンモンゴリズム(汎モンゴル主義)という巨大な思想を宣する。これは日本を首長として異邦人即ちヨーロッパ人に抵抗し、積極的な闘争を展開することを目的として東アジアのすべての人民たちを一つに集結させる思想だ。
 20世紀初めヨーロッパがイスラム教徒との闘争に明け暮れていた時、その合間をぬって彼らは巨大な計画の実現に着手する。まず韓国を占領し、その後北京を征服し、そこで中国の進歩政党の助けを借りて老衰した満州王朝を転覆させ、それに代えて日本王朝を据える。さらに中国の保守派も同意したごとく、二つの悪のうち害の少ないほうの悪を選択するほうがよいという判断をしたためである。つまり、中国の独立はどちらにしても維持できないのだから、日本又はヨーロッパに服属することが不可避であるなら前者のほうがまだましだというのである。
 ヨーロッパ諸国がキリスト教宣教師の政策を支援しながら中国の精神世界を深刻に脅かしているとき、日本は中国の主人の座につき、対外的には中国の国権を抹殺しても中国人の日常生活の原則を壊しはしないのでこれはヨーロッパに不利な状況となりうるのである。
 したがって過去の日中間の対立は両者共にヨーロッパを知らなかったために高潮したが、目の前に共通の敵が現れたとき両国の類似の種族同士の間の対立は意味を失うこととなる。もはやヨーロッパは完全に異邦人であり、共通の敵となった反面、中国人は日本が主唱する汎モンゴル主義の旗のもとに過去において避けるすべなく断行したヨーロッパ化の過ちをただすだろう。
 日本人たちはこのように言うだろう。兄弟たちよ自分たちは西洋の犬どもから武器を取り上げ彼らを敗走させよう。もしも自分達に与して命令に従うなら自分達はアジアから「白い悪魔」を追い払うだけでなく本物の中華国家を創り上げよう。あなたたちは民族的誇りとヨーロッパ人に対する先入観をもっているが、それは幻想にもとづいた感情的なもので、冷徹な理性によって判断できないでいる。自分達は共通の利益のために道を提示しよう。反面ロシア、英国、フランス、ドイツはあなたたちを跡形ものこらないほどに分割しようとした

 賢明な中国人たちは日本のこのような主張に首肯しつつ、汎モンゴル主義の立場は強化される。したがって、日本は強力な軍隊と艦隊を建設し、これを中国へ移動させ、新しく強力な軍隊を構成することとなる。
 日本の将校達は中国軍を訓練したヨーロッパの教官に代わって満州、モンゴル、チベットの移民たちを有益な兵力として糾合する。以後彼らはトンキンシャムからフランスを追い払いビルマから英国を追い出しインドシナ半島を中国に服属させる。
 中国人の狡猾さと日本の活力を合わせた彼らはトゥルケスタンから400万の軍隊を募り中央アジアを侵攻しウラル山脈を越えて中部・東部ロシアへ押し寄せるものと予見される。そのためロシアは緊急にポーランド、リトビア、ペテルブルク及びフィンランドから軍隊を動員しようとするが戦争計画が出来上がってはいないうえに数的な劣勢によって敗戦を繰り返す。
 その後中国はドイツを侵攻、その合間にフランスはドイツに復讐戦を敢行しドイツもまた中国に敗北を喫する。そしてパリでは移民労働者たちの暴動が発生し東方の侵略軍に城門を開け放つ。そのため中国は英国を攻撃するが、後者は中国人を金銭で買収する。
 結局中国のヨーロッパ侵攻1年後に全ヨーロッパは中国に服属する朝貢国家となる。
 以上がソロヴィヨフの死亡年(1900年)に発表された『三つの対話』の内容の一部ですが、彼は潜在的な「黄禍論」にそなえるためにはヨーロッパ列強との連体の強化がロシアにとって必要であるという立場を固守しました。



 3. 韓人移民の苦悩

 韓人の露領地域移住を促進したロシア地方当局の包容と分離政策は、日露戦争の敗戦を起点として、韓人に対する抑圧と分離政策へと変化しました。
 日露戦争以後東アジアよりはヨーロッパを重視した新任外相イズボルスキーは伝統的に敵性国家であった英国と協商を締結して三国協商(英国・仏国・露国の三国)体制の樹立に寄与し、敗戦と革命の渦中にあったツァー政府の国内改革に必要な平和的な対外環境を作り上げました。
 このような傾向は、1906年プリアムール総督にウンテルベルゲルが赴任したことで顕著になりました。彼は遠東地域への移住はロシア人を優先で行われるべきだという立場をとって農業改革を行ったため、ヨーロッパ部から大規模な農業移住者を触発し、沿海州に 167,547人、アムール州には 91,932人が農業に定着し、金鉱採掘と鉄道敷設現場に 23,008人が到着したことによって、1917年時点で沿海州のロシア人とウクライナ人は 748,300人に達しました。
 一方、韓人は1917年には10万人、1916年の資料によれば遠東地方の中国人は 78,100人、日本人は 4,900人が居住していました。これに対してウンテルベルゲルはプリアムール地方の初期開拓史において韓人の勤勉性と謙虚な性格を高く評価しながらも、彼らが土地に定着しようという傾向が強く同化しようとはせず、ロシア内に「自分たちの国」を建設しようとしていると評価しました。そのため、韓人移住農の増加は土地の不足によって究極的にロシアの植民化を妨げる根本的な障害物となると見なされました
 こうして、ウンテルベルゲルは韓人たちのロシア国籍取得に強力に反対しました。その理由は、国籍を与えれば彼ら(韓人)に土地を分配しなければならず、それはプリアムールにおける彼らの立場をさらに強化することになるということでした。この韓国問題についてのウンテルベルゲルの見解は1908年3月8日の内務省宛の彼の書簡に反映されていて、これによれば、1905年日本が韓国の主人として振る舞いはじめて以来ロシアへの韓人の移住が急増しはじめ、これ以上の韓人への土地の分配が不可能になったが、彼らは他のう回路を確保して国家、富農、カザク人個人所有者、教会の領地、山林官の土地を借りており、彼らに対する統制が可能な地域から遠く離れたところに勝手に国有地を開墾しているというものでした
 さらに、韓人たちは土地を没収したあと、農夫から新しいタイプの黄色人種ユダヤ人になるはずで、むしろ黄色人種の農夫よりもっと恐ろしい形をとるだろう。そのため何よりも、彼らの居住地を焼き払い、どこへ追放すべきかについて妙案を考え出すことが必要だとしました。
 1908年、ウンテルベルゲルはハバロフスクにおいて、同地域への韓人への移住を防止するための対策を練るために州知事、通商産業体代表、プリアムール地域農業人の代表等が集まる協議会を設置し、黄色人種問題及び韓人問題を議論しました。この委員会では、外国籍の韓人及び中国人による小作を制限するための規定の作成が早急になされるべきであるという結論を下し、個人と国営事業場における黄色人種労働者の数を縮小し、国境地帯に居住するロシア国籍の韓人たちを沿海州北部地域とアムール地域へ移住させるべきであると結論づけました。
  • 1894年1月4日露仏同盟締結。
  • 1904年2月8日、日露戦争開戦。
  • 1904年4月8日英仏協商締結。
  • 1905年9月5日、ロシア、日露戦争に敗戦。
  • 1907年英露協商締結。これによって三国協商が成立した。
  • 1914年、第一次世界大戦始まる。
  • 1917年、ロシア革命。新たに誕生したソビエト連邦は翌年(1918年3月3日)にドイツとブレスト=リトフスク講和条約締結し、これにより三国協商は消滅した。
  • 1918年11月、ドイツ革命。
  • 1924年8月6日、第一次世界大戦終結。



■ 朝鮮キリスト教と金日成

 1. 抗日活動家の父と篤実な基督教の母をもつ金日成

  金亨稷(キム・ヒョンジク、1894年7月10日〜1926年6月5日。左図)
 平安南道大同郡古平面南里で金輔鉉(小作農民)の長男として生まれました。1909年15歳の時、17歳の康盤石と結婚。代々文盲でしたが、平壌の学校に通い字の読み書きを覚えて東洋医学を独学し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という無資格の漢方薬医を営みました。
 「順川医院」という漢方薬商は隠れみので、実際は「祖国光復会」という地下革命組織を設立し、独立運動を行い、社会主義の教育事業や普及啓発、同志糾合のための活動をした革命家であり、1917年3月23日には朝鮮共産主義者によって設立された新幹会傘下の朝鮮国民会議に入会して、武装ゲリラ(抗日パルチザン)を使用して独立運動をしたとされています。

  康盤石(カン・パンソク、1892年4月11日〜1932年7月31日)
 平安南道大同郡でキリスト教長老会牧師の康敦Uの二女として誕生し、使徒「ペテロ(岩)」の名に因み、女性の名としては珍しい「盤石」という名がつけられました。本人もキリスト教徒となり、1908年の17歳の時に金亨稷と結婚し、1912年に成柱(後の金日成)を生みました。
 1919年に夫が祖国光復会事件に巻き込まれると、1920年に、金日成を連れて南満洲(中国東北部)に移住し、夫の死後は息子の金日成を女手一つで育てましたが、1932年に40歳で死去しました。

金日成 (1912年4月15日〜1994年7月8日)

 金日成は満州の平城の小学校で学んだ後、1926年、満州の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校の華成義塾に入学しましたが、短期間で退学。この前後に父の亨稷が没しています。
 父親が没した後、金日成は吉林の吉林毓文中学(中国人中学校)に通いながら、共産主義に関係していた小さな組織に参加しました。彼はこの非合法組織の運動で逮捕されたため、中学校退学をよぎなくされたのです。
 金日成の中国共産党入党は、1932年とするものと1933年とするものと、二つの記録が中国共産党側の史料に残っています。したがって、これ以降に、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となりました。
 東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちでした。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清されたのです。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化しました(民生団事件)。金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては、第一路軍第二軍第六師の師長となったのです。
 1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになりました。
 しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになりました。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れたのです。ソ連に越境した金日成は、スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁されますが、その後周保中が彼の身元を保障して釈放されます。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊はソ連極東戦線傘下の第88特別旅団(旅団長は周保中)に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となりました。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となったのです。
 1945年8月ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領しました。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たしました。1945年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現したのです。
 金日成は、アメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指して1945年10月10日平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任しました。1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設しました。
 金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていきましたが、1970年代に至るまでの金日成派は、北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力でした。
 金日成派は満州派とも呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちで、彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇っていました。朝鮮戦争後、満州派は、外部からはソ連派との区別がついていませんでした。ソ連派は、金日成を中心とする親ソ共産主義政権を作らせるために送り込まれたソ連国籍の朝鮮人(高麗人)たちによって構成されていたのです。満州派はまず、ソ連派と共同して警察と軍を押さえることに専念しました。当時、植民地時代から朝鮮で活動していた共産主義者たち(国内派)が最大の勢力を誇っていたのです。このことから、金日成と満州派はまず国内派の粛清を開始したのです。
 金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できなくなると、1972年4月15日、金日成は還暦を迎えたとき祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生みました。12月27日朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日金日成は国家主席に就任した。新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記国家主席朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立したのです。さらに1977年には、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体チュチェ思想」を国家の公式理念としました。

<参照>
 ・ 「南北統一への道:チュチェ思想と統一思想   統一思想研究院副院長 大谷明史 (PDF・本サイト



 2. 韓国キリスト教の選民思想

 韓国教会はイスラエルの民が神から選ばれたとする「選民思想」を韓国人に当てはめました。すなわち、特に優れた能力があるわけでもない韓国人を、神は自らの民としてお選び下さったというのです。それによって、韓国人は、神と契約を結んだことになるとして、初期の段階で朝鮮の奇蹟的成長に感激した外国人宣教師たちは Chosen(朝鮮)の表記に神から選ばれた人々、すなわち「選民」の意味を与えていました。1919年の三・一独立運動以前に『選民』という雑誌が発刊されています。韓国教会では、植民地時代に「民族的苦難」という意識から内面的信仰を重んじる神秘主義的傾向が強まり、それが当時の日本教会からは「ユダヤ的・旧約的キリスト教」と見られていたことがしてきされています。
 「選民思想」に付随して、韓国のキリスト教会、とりわけプロテスタント教会は、神の福音を強調する、すなわち現世利益を肯定したことによって社会に広く受け入れられ、大きく発展していったと言われています。例えば、牧師は、広い家に住みたいというような具体的な希望を、神に祈りなさいと信者に指導するというような、個人の欲望を教会が正当化し、その欲望が法的、倫理的に不当なものでなければ問題はないとしたのです。
 韓国では、キリスト教が植民地時代の抗日独立運動と結びついたことによって知識人階級に受け入れられ、彼らの社会的結束を強めたという側面があります。独立運動家のすべてがキリスト教信者ではなかったとはいえ、キリスト教が独立運動の精神的支柱の役割を果たし、「民族的苦難」から救われる選民思想に結び付いたことで、民族意識を覚醒させました。こうしてキリスト教が韓国の民族宗教としての色彩を帯びていくようになったのです。



 3. 北朝鮮の教会

 朝鮮半島のプロテスタントの布教は当初、北部からアプローチされました1866年、プロテスタント宣教師ロバート・J・トーマス(左図)が平壌で最初の殉教者となりましたが、彼を斬った朴春権(右図)という人物は、処刑直前にトーマスが差し出した聖書を読んで信者になったと言われています。その後、平壌の教会は、平壌が「東洋のエルサレム」と呼ばれるまでに成長しました。1938年には朝鮮半島には約60万人の信者がいて、約75パーセントが平壌を含む北西部に居住していました。
 日本統治下の独立運動の拠点となり、1930年代から始まった神社参拝の強制に教会が拒否したため、その弾圧はキリスト教が北朝鮮地域でより盛んであったため、その地域の教会とミッション系の学校は大打撃を受けました。
 当時の北朝鮮地域では、プロテスタント教会に多数の知識人が集まり、社会に対して大きな影響力を持っていました。終戦後、教会内ではかつての神社参拝の是非をめぐって内紛が起きましたが、彼らは政治的に素早い動きで、基督教社会民主党や基督教自由党などの政党を組織し、1945年末までは、北朝鮮地域のキリスト教徒たちは共産主義者たちとも友好関係を保っていましたが、次第に対立を深めていったのです。
 金日成は、その成長過程においてキリスト教的な環境で育ちました。前述したように金日成の両親、とりわけ母親は熱心な信者で、名前はキリストの弟子であったペテロを意味する「盤石」とつけられました。かつてのチルゴル教会は、金日成の母方の祖父が役員(長老)を務めており、母の盤石が幼少期から通ったところで、金日成も幼い頃この教会に通っていました。




■ 終戦後の分割占領ライン

 なぜ敗戦した日本は分割されず韓国が分割されたのか

<参照>
 ・ 「1945年8月15日、なぜ朝鮮が分割されたのか   成大盛



 1. 38度線朝鮮分割の経緯

ブルース・カミングス (1943年9月5日〜)
 アメリカを代表する歴史修正主義の歴史家で、シカゴ大学スウィフト冠講座教授。専門は、政治学、朝鮮半島を中心とする東アジア政治。
 「朝鮮分断を歴史的に正当化するべき理由は何もない。仮にどこかの東アジアの国が分断されなければならないとしたら、それは日本であるべきだった。
 その代わりに、朝鮮、中国、そしてベトナムが、いずれも第二次世界大戦の帰結として、分断された。また、朝鮮分断の口実になりうるような国内的な背景も何もなかった。38度線とは人々がこれまで一度も意識したことがない線なのであった。」(ブルース・カミングス「現代朝鮮の歴史」p302〜3)




 第二次世界大戦(1939年1945年)中のテヘラン会談1943年11月2812月3日)において、アメリカ大統領ルーズベルト(上左図)がソ連首相スターリン(上右図)に対日参戦を要請すると、スターリンはそれを約束しました。
 さらに1945年2月にルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の3ヵ月後に「日ソ中立条約」を侵犯して対日参戦するよう要請したのです。ルーズベルトはその見返りとして、日本の領土である千島列島南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益(日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益)をソ連に与えるという密約を交わしました。(ヤルタ密約
 1945年4月12日午後1時15分ルーズベルトに突如死が訪れ、副大統領であったトルーマン(左図)が何の準備もなしに大統領に就任しました。
 トルーマンは、ヤルタ密約を知らされて驚かされたが、ソ連が密約で得たものがほぼソ連の軍事能力の範囲内であり、ソ連の対日参戦によってアメリカの負担が軽減されるので仕方がないものと認識しました。しかし、日本降伏後におけるソ連の強大勢力化に対して警戒しなければならないことも同時に認識していました。
 1945年6月18日、米国ホワイトハウスの会議で出された対日戦争を完了する上での対日勝利の方途は以下のようなものでした。
  1. 海空軍による封鎖・空襲
  2. 日本本土侵攻(九州、関東)
  3. ソ連の対日参戦
  4. 原爆投下
  5. 条件提示のための対日声明
、  5つの方途が提出されましたが、封鎖と空襲(ありうる原爆投下予定都市を用意周到に除外していた)はすでに実施されていて、他の4つの新たな方途が、日本帝国を降伏へと追いつめる段階で諸般の事情が考慮され出されたものでした。
 ところが、7月上旬、ポツダムへの直前の米国軍部には、なんとかアメリカの支配的発言権が守れるならば、可能な限り米軍の負担を軽減するため、連合諸国による日本の共同占領を実質化しょうとしました。
 この流れを極限まで押し進めたのが、統合戦争計画委員会(JWPC)が起案した事実上の日本分割占領案(左図)です。
 この日本分割占領案の内容を簡単に見れば、占領開始期は、軍事的状況から米国がほぼ単独で占領せざるを得ず、23ヶ師団・85万人の米軍を投入する。日本の抵抗が大きいとして、組織抵抗が終わった後も日本各地における反乱やサボタージュに備えるため、1年間はこの大軍を維持する必要があるが、米軍を早急に帰国させるべく3ヶ月目からの占領第2局面には米軍83万5千人を撤退させ、各連合国に肩代わりさせる。英国5ヶ師団・16万5千人。中国4ヶ師団・13万人、ソ連6ヶ師団・21万人。さらに1年を経た後の第3局面では各国兵力を半数以下に削減し、英軍2ヶ師団・6万5千人、中国軍2ヶ師団・6万人、ソ連軍3ヶ師団・10万人として米軍は4ヶ師団・13万5千人、全体の3分の1強を占めるのみとする。尚連合軍が占領軍を派遣する占領開始後3ヶ月を経た第2局面において、北海道と東北地方全域をソ連軍の排他的占領に任せ、九州・中国地方を英軍に、四国を中国軍にそれぞれ委ねる。米軍が担当するのは、関東、中部、近畿の本州主要部分である。そのうち首都東京は英、中、ソの3ヶ国からも各1ヶ師団を醵出する共同占領とし、また近畿は中国軍2ヶ師団と協力して占領する。したがって北海道・東北地方のソ連軍は5ヶ師団、九州・中国地方の英軍は4ヶ師団、四国の中国軍は1ヶ師団という配分を計画していました。(五百旗頭真「米国の日本占領政策-戦後日本の設計図 下」 p216〜7)

<参照>
 日本占領・安保・再軍備 ――日本軍(旧支配機構)は解体されたか」   纐纈厚(PDF)

 この日本占領計画作成作業中のまっただなかに開かれることになったのがポツダム会談でした。7月17日からポツダムで始まった大戦最後のトルーマン、スターリン、チャーチル(後にアトリーと交替)の3巨頭による頂上会談が開催されました。アメリカが草案をつくり、まだ対日戦には参加していないという理由でソ連には事前に見せず、英、中の賛成を得て7月26日日本への降伏要求の最終宣言ポツダム宣言)が発表されたのです。
  1. 日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去。
  2. 平和・安全・正義の新秩序ができ、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合軍が占領する。
  3. 日本の主権は、本州・北海道・九州・四国と連合国の指定する小島に局限される。
  4. 日本軍隊の完全な武装解除。
  5. 戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化の障害の除去。
  6. 日本経済と産業の維持の保証、再軍備産業の禁止。
 ポツダム会談前日に原爆実験成功の報告を受けたトルーマンは、政府と軍部とを区別していることを示唆し、原爆の威力をほのめかすことで、ポツダム宣言を日本政府に受諾させられると思ったのかもしれませんが、そうはなりませんでした。
  • 7月28日、日本は躊躇し、鈴木貫太郎は戦争へ邁進。
  • 8月6日、トルーマンは焦って広島に原爆を投下する。
  • 8月8日ソ連の間髪容れぬ対日宣戦布告
  • 8月9日長崎に原爆を投下
  • 8月10日日本は国体維持条件で降伏受諾申し入れがあった。
 かくしてポツダム宣言を突きつけて15日目に日本は降伏したのですが、その時点で米国の対日占領計画作成は最終段階にありました。事実上の日本分割占領計画書が出来上がったのは8月16日だったのです。この占領計画書作成過程の最終段階で米国の戦争指導者たちは、ソ連軍がこのまま進撃すれば朝鮮全土、北海道まで解放占領する勢いに懸念し、急遽、国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)のジョン・J・マクロイが2人の若い将校に隣室で朝鮮を分割する地点を見つけるようにと指示しました。それは8月10日から11日にかけての深夜のことで、作業に与えられた時間は30分だったのです。2人は地図を見ながら「アメリカ側に首都を含めることができる」という理由から、北緯38度線を選んだのでした。これが朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域として確定され、一般命令第1号に含まれたのです。
 その理由は、
  1. 露・日が1896年(日清戦争終結の翌年)、38度線を境界線として朝鮮を分断する交渉をしたことがあり、同じような交渉は再度、1893年(日露戦争の前年)にも行われたこと。(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源第一巻」p181)
  2. 日本の大本営が本土決戦に備えて38度線以北を関東軍の管轄とし38度線以南の朝鮮軍を大本営の直轄としたこと。(大森実「戦後秘史8」講談社刊 p48)
によるものです。
 38度線提案が出され、38度線条項を含む一般命令が討議されている間にソ連軍は8月12日に朝鮮北部に入り進撃していて、8月15日には千島攻撃を開始するところだったのです。米軍はというと、まだ沖縄に留まっていました。一般命令第1号は、8月15日マッカーサ元帥に打電され、ソ連にも打電されましたが、スターリンは翌日ソ連軍による北海道北半部占領を提案しましたが米国から拒否され、ヤルタ秘密協約遵守の言質をもらってこの38度線分断をそのままを黙認したのでした。
 そして8月15日に日本政府は、天皇の権威でやっと軍部の抵抗を抑え込み、天皇が戦争終結の放送をし、全日本軍に戦闘停止命令が発せられました。
 こうして、38度線条項を含む一般命令第1号は1945年9月2日マッカーサ元帥によって発せられたのです。



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