復帰摂理歴史の真実

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■ 2. 激動する東アジア



朝鮮を属国にしていたい清と独立させたい日本

 清は周辺諸国と、周辺国の君主が中国皇帝に使節を派遣して臣下となる意向を示す(朝貢)と、これに対して皇帝が官位・爵位を与えて君臣関係を結び(冊封)、中国は宗主国で周辺国は属国という支配・従属関係が成立していました。

 しかし、1880年代になると、清と朝貢・冊封関係を維持する国は減り、主要国では朝鮮を残すのみとなりました。

 一方、朝鮮政府は、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結し、これを江戸時代の日朝関係の延長と考え、日本以外の西洋諸国と外交関係を結ぶつもりはなく、自国は自主の邦」であるとしながらも、中国に従う属邦属国)であると考えていました。



 1879年の日本による琉球処分(琉球藩廃止と沖縄県設置)を清は朝貢国琉球の消滅と受け止め、危機感を高めました。

 清の対外関係を担っていた李鴻章は、ロシアと日本を牽制するために、朝鮮に清と朝貢・冊封関係を保ったまま欧米諸国と条約を結ぶよう勧め、これに朝鮮も同意しました。

 これは、黄遵憲(在日清公使館参賛)の著書『朝鮮策略』が大きく影響していました。同書には朝鮮はロシアの進出を防ぐため、「中国に親しみ日本と結びアメリカと聯なり」、自強を図るべきことが説かれていたことの影響によるものです。

 1882年の朝鮮とアメリカとの間で行なわれた条約締結交渉(米朝修好通商条約)は朝鮮とアメリカが直接交渉するのではなく、中国の天津でアメリカ海軍提督シューフェルトと朝鮮の宗主国である清の李鴻章の間で交渉が行なわれ、交渉に入ると李鴻章は、条約に「朝鮮は久しく中国の属邦であるが、内政外交はこれまで自主を得てきた」という条項を入れることを主張しましたが、シューフェルトはこのような条項は西欧的外交の概念とは相容れないとして朝鮮が清の属邦であるという文言は条約案に明記されなかったという経緯がありますが、朝鮮の仁川での条約調印の際に次のような措置がとられました。

 条約とは別に、朝鮮国王は「朝鮮は清朝の属邦であるが内治外交は朝鮮の自主である」という内容の親書をアメリカ大統領に送り、朝鮮は自主の国であると同時に、清の属国であることを確認しました。

 この後、朝鮮はイギリス・ドイツと条約を締結しましたが、そんたびに同様の文書を相手国に送り、清は伝統的宗主権を根拠に朝鮮の外交に介入するようになりました。




壬午事変

 李氏朝鮮では、国王の信任を受けた王妃や皇太后の一族が政権を握る世道政治勢道政治の伝統があったため、王妃の勢力が強まるとともに、王妃の出身である驪興閔氏の一族が政権の中枢を占め、当時の朝鮮政府は閔氏政権と称されました。

 『朝鮮策略』によって、国王高宗と高官たちはロシアへの危機感を高め、対欧米政策を転換し、国内では「自強」を図るための開化政策を開始しました。1880年12月に近代的な行政機構として統理機務衙門を設置し、軍制を改革すると、朝鮮最初の西洋式軍隊である別技軍を創設し、訓練担当者に日本公使館付武官堀本礼造工兵少尉を招きました。さらに日本に紳士遊覧団と称する視察団を派遣して、近代的な文物制度を調査させたのです。

 一方で、保守的な儒学者は、政府が『朝鮮策略』を配布して開化政策を進めたことに反発しました。全国各地の儒生は開化論者を非難し、国王や閔氏政権の失政を論難しました。この運動が高まると、政府から退けられていた大院君は、1881年に閔氏政権を倒し、わが子の高宗を廃して庶子の李載先を王位に即けようとしたが失敗しました。



 日朝修好条規による開港後に拡大した日朝貿易は、日本を介してイギリス製綿製品を輸入し、日本へは金地金と米・大豆などの米国が輸出され、朝鮮社会に影響を及ぼしました。なかでも米穀輸出問題は開港後の首都漢城ソウルへの米穀の供給不足と米価騰貴をもたらしたのです。各地域でも、開港場へ向けた穀物流出により、米穀不足の状態が生じました。

 このような米穀の供給不足と米価騰貴は漢城に居住する兵士をを含む都市下層民の生活を直撃し兵士と民主による閔氏政権の進める開化政策に反対する暴動壬午事変)が発生しました

 壬午事変の直接の原因は、13ヶ月も滞っていた兵士への米の支給をめぐるトラブルで、1882年7月19日に、ようやく支給された米は、倉庫を管理する役人の不正のために屑米や砂の混じる劣悪なものでした。これがきっかけとなって開化政策のなかで冷遇されていた在来軍隊の下級兵士が反乱を起こしたのです。



 7月23日に西大門の日本公使館が襲撃され、公使館を脱出した花房義質公使らは死傷者を出しながら、翌24日仁川に逃亡し、イギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰りました。

 また、閔氏は女官に変装して王宮を脱出して、実家のある驪州に身を隠しました。このため、高宗は事態収拾の術を失い、大院君に政治の大権をを委ね、復活した大院君政権は、開化政策を白紙に戻しました。さらに、行方不明の閔妃は、死亡したとして葬儀が行われたのです。



 日本側は長崎に逃げ帰った花房公使からの電報で、7月30日に壬午事変の発生を知ると、翌日の閣議の決定を受けて、井上馨外務卿は花房公使に朝鮮政府に対する公式謝罪賠償金支払いなどの要求を内容とする訓令を与え、軍艦三隻とともに仁川に向かわせ、さらに軍艦と歩兵一大隊を追加派遣しました。

 清は8月1日黎庶昌駐日公使からの電報で、事変の発生と日本の軍艦派遣を知りました。このときに、朝鮮政府は壬午事変鎮定のために清に派遣を求めると、母の喪に服していた李鴻章は、北洋大臣代理の張樹声馬建忠と軍艦三隻を派遣させ、馬建忠から事件の首謀者の大院君を捕らえて事変を鎮圧すべきであるとの意見が届き、呉長慶の率いる淮軍を派遣しました。

 日本政府は清が属国論を主張して、日朝の交渉に介入する場合、日清間の直接対決は避けられないと考え、一時は対清開戦を決意しますが、やがて清が日本との対決を考えていないことがわかると、日本政府は清への対決姿勢を変え、柔軟な交渉路線へと転換しました。

 8月20日、漢城で馬建忠は花房と会見し、清は日本と開戦の意図はないことを強調し、事変の平定と国王による執政に戻すことが目的であると述べ、8月26日には、一連の事件の実質的責任者と見なした大院君を拘束し天津に連行しました。そのうえで馬建忠は、朝鮮政府に対して日本側の要求を呑む形で花房公使と交渉するよう指示し、次いで呉長慶の配下の袁世凱と協議し事変を平定しました。

 その後、清の介入で再び大院君から高宗に政権が戻されると、死んだはずの閔妃も王宮に帰って、閔氏政権が復活したのです。8月28日には日朝交渉が再開され、8月30日には済物浦条約日清修好条規続約が結ばれました。

 済物浦条約では、事変首謀者の処刑日本人被害者の葬儀挙行日本人被害者遺族と負傷者への補償金5万円支払い賠償金50万円支払い公使館保護のための日本軍の漢城駐屯謝罪使の日本派遣を決め、また日朝修好条約では開港場釜山元山仁川の遊歩区域拡大漢城南方の揚花鎮の開市日本外交官の内地旅行権を朝鮮に認めさせました

 清は朝鮮に対する宗主権を強化し、貿易面で「中国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結し、両国は従来の朝貢貿易と国境貿易に加えて開港場での貿易を行なうことになりました。ここで重要なのは、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」の前文に朝鮮が清の属邦であることが明記されたことで、清と朝鮮は互いに開港場に商務委員を派遣しましたが、朝鮮在住の清の商務委員のみに領事裁判権が認められた片務的なもので、事実上の不平等条約でした。




甲申事変

 漢城の名門官僚の子弟で、開化派金玉均朴泳孝洪英植徐光範金允植らは、1880年代に閔氏政権が開国・開化政策をとると、彼らは政府の実務を担当し、外交使節として日本やアメリカに派遣された者もありました。清国の宗主権が強化されると、清の影響を排除しようとする金玉均、朴泳孝らの急進開化派と、清との宗属関係を維持しながら漸進的に改革を進めようとする穏健開化派に分かれていきました

 1883年清はベトナムをめぐってフランスと戦闘状態になり、1884年4月には朝鮮に駐屯していた淮軍の半数が清仏戦争に備えて引き上げ、1884年8月清国はフランスに宣戦しました。

 壬午事変の際に清に連行された大院君が帰国するという噂が広まり、動揺した朝鮮国王高宗は日本に接近するようになります。日本にはフランスから清に対抗するための同盟締結の誘いかけがありましたが、日本はこれに応じず中立方針をとりました。



 清仏戦争が進行すると、日本は朝鮮に対する清の影響力排除を意図して、1884年10月30日竹添進一郎公使が漢城に帰任すると、対朝鮮積極政策を行ないました。親日的な急進開化派に接近し、対清戦争を公言するなど、朝鮮政府内の親清派を威嚇しました。

 金玉均、朴泳孝らの急進開化派は1884年12月4日郵征局(中央郵便局)の開局記念祝賀会を機としてクーデタを起こし、出席していた閔氏の最有力者である閔泳翊を襲い、国王を昌徳宮から景祐宮に移し、竹添公使に日本公使館警備兵の出兵を求めました。そして急進開化派は、急を聞いて景祐宮にやってきた閔氏政権の有力者を殺害し、翌12月5日には国王高宗を擁して新政権を樹立12月6日政治綱領を公布しました

 これに対して、袁世凱は朝鮮政府に清軍の出兵を要請させて、新政府を攻撃し日本軍を破りました金玉均は国王を開港場の仁川に移して日本軍の来援を待つことを主張しましたが、竹添はこれに応じず漢城を脱出して仁川に逃れ、急進改革派のクーデタ(甲申事変)は失敗しました

 このことによって、金玉均と朴泳孝は日本に亡命し、漢城に残った洪英植らは殺害され、朝鮮国内では親日的な急進開化派の勢力が勢力が消滅しました。このとき、日本軍人と日本人居留民は30余名が殺害され、公使館も消失したのです。

 日本政府は、井上馨外務卿を特派全権大使として派遣しましたが、井上は竹添公使が暴走して朝鮮の内政に干渉したことを隠蔽して、日本側が事変の被害者であったことを朝鮮に認めさせ、謝罪と賠償を要求しました。1885年1月公使館消失と日本人が殺害されたことに対する朝鮮政府の謝罪と賠償を内容とする「漢城条約」が結ばれたのです。



 日本政府内では、朝鮮問題に対する二つの対外路線が対立しました。一つは、対朝鮮・対清開戦は極力避け平和解決を図りながら、清の朝鮮実質支配を阻止し、甲申事変以前の状態に復帰させようとする、井上外務卿や伊藤博文宮内卿ら長州派の主張で、もう一つは、対清開戦を恐れず強硬方針を取るべきとする、高島鞆之助樺山資紀仁礼景範野津道貫らの陸海軍内の薩派であり、甲申事変の根本原因は、朝鮮の戦争ではなく日清の対立であり、日本の台湾出兵1874年、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の処理を巡って対立した清政府に対して、明治政府が行った台湾への軍事出兵)以来、清の対日感情は悪化し、早晩開戦は避けられないので、交渉は無意味であるとの主張でした。

 しかし、竹添公使の稚拙な内政干渉の結果として生じた甲申事変とその失敗は、朝鮮政策を担ってきた井上・伊藤らの長州派の大失策となって、薩派の発言力が高まっていきました。

 さらに、対朝鮮対清強硬論が支配的な世論と、対清開戦熱を煽った民間の好戦的ジャーナリズムは、薩派・主戦論者の背中を押して、清との交渉に臨むために決められた政府の対清要求項目は、朝鮮からの日清両軍の撤退など、清の拒否が当然予想される強硬なものとなり、清が日清両国軍の撤退を拒否したときには、戦争を行なうことが決まったのです。

 この様な状態の中で、井上外務卿と対清交渉を担った藩閥政府トップの伊藤博文は厳しい立場に立たされたのです。



 1885年3月14日、特使として天津に到着した伊藤博文は、平和解決を望むイギリスが事前に清を説得していた李鴻章との交渉で、両国がたがいに朝鮮への再派兵権を認め合い軍隊を撤兵させることで妥協が成立し、1885年4月、「天津条約」が成立しました。

 この条約成立と同じ頃、朝鮮南部の巨文島英露対立が発生し、イギリスが占拠する事件が発生しました。日本政府内ではロシアが朝鮮に南下するのではないかと不安が高まり、朝鮮政策の第一目標が、清勢力の拡大阻止から、ロシアの朝鮮への浸出阻止へと転換したのです。

 このため日本政府は清と提携する必要が生じ、日本は清が宗主国であることは認めないものの、清の朝鮮への影響力強化を黙認するようになりました。1885年6月、井上外務卿は、清国側に「弁法八ヶ条」を提起して、日清が協議したうえで、清主導のもとに朝鮮政府の改革を行い、ロシア勢力の浸透を阻止することをめざしたのです。

 しかし、井上外務卿がロシア脅威論を強調し、朝鮮問題に対する日清英の協調体制の構築を提起したものの、この段階でのロシア側は対日協調を基軸としていたこともあり、朝鮮への浸出は能力的にも、意図としても持っていませんでした。ところが、このことからに両国が軍備を拡張する中で、朝鮮に欧米列強に対する抵抗運動が発生して日清の衝突(日清戦争)へと向かっていくのです。




日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像  大谷正

 1894年の夏、日清両国が朝鮮の「支配」をめぐり開戦に至った日清戦争。朝鮮から満州を舞台に戦われた近代日本初の国家間戦争である。
 清の講和受諾によっていったん終わりをみるが、割譲された台湾では、なお泥沼の戦闘が続いた。
 本書は、開戦の経緯など通説に変更を迫りながら、平壌や旅順の戦いなど、各戦闘を詳述。兵士とほぼ同数の軍夫を動員、虐殺が散見され、前近代戦の様相を見せたこの戦争の全貌を描く。




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