復帰摂理歴史の真実

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激動する東アジア <トップ> 日英同盟締結

■ 2. 激動する東アジア
     a. 日清戦争


甲午農民戦争と日清両国の出兵

伊藤内閣の成立と苦悩

 1892年8月第二次伊藤博文内閣が成立すると、欧米諸国との不平等条約改正に取り掛かり、1893年7月5日陸奥宗光外相(左図)は条約改正方針を閣議に提出し、19日に伊藤と陸奥が天皇に会って、条約改正方針の裁可を受けました。交渉はイギリス、ドイツ、アメリカを優先するとしましたが、ドイツ、アメリカは消極的であったため、イギリスとのみ交渉に入ることとなりました。
 しかし、戦艦二隻の建造を含む海軍予算と積極的な産業振興や災害救助の政策を実現する積極型予算を議会に提出した政府と、政費節減・民力休養(軍事費を含む行政費用を節約して地租軽減を行えという民党側の主張)という民党と対立しました。また、条約改正問題をめぐって対外硬派が現行条約励行建議案を衆議院に提出したため、1893年12月30日衆議院は解散されました。
 対外硬派勢力は議席を減らし、政府に妥協的な自由党は躍進したものの、貴族院で近衛篤麿公爵らを中心とした伊藤内閣批判勢力が形成され、全国の新聞雑誌記者が連合して対外硬派の主張を支持し、反政府気運を煽ったため事態打開の方途を失い危機に陥った伊藤内閣は、日英間の条約改正交渉が妥結することを見込んで、伊藤首相は天皇と会談して1894年6月2日衆議院を解散しました。

 現行条約励行論」は、ジャーナリスト徳富蘇峰の雑誌『国民之友』が提唱したもので、国民的運動によって現行の条約を厳密に実行することで、在日外国人に不便を与え、完全な条約改正(治外法権撤廃と関税自主権回復)への糸口としようとする主張のこと。


朝鮮の東学とキリスト教

 西学に対する「東学」の正当な流れを受け継いで、「天道教」が朝鮮の新宗教が生まれました。

<参照>
日本と東アジア情勢 (韓国キリスト教編)
東学・天道教と統一原理

 1824年、慶州に生まれた崔済愚1860年に「東学」を興しました。東学は儒教を基幹としながらも多くの点でキリスト教の影響を受けましたが、イエス・キリストに相当する存在はなく、人々の救いを目指しているとはいえ、キリスト教における「原罪」に相当する観念も存在しません
 東学は既存の宗教とは全く相容れない存在であったため、朝鮮当局はキリスト教と同一視して弾圧し、1864年3月10日に崔済愚は大邱で斬首され、東学の経典は焼却されました。
 第二代教祖の崔時亨は、東学の経典を暗証していたので復元が可能となり、「天主の主はわが心主の意」であるとして「人は、すなわち天なり」と説き、1894年に彼らを中心とした集団が、欧米列強の朝鮮侵略に対して生じた抵抗運動である東学農民運動(左図)が起こりました。


甲午農民戦争(東学の蜂起)

 朝鮮では開国後、1880年代に日清の貿易競争によって、外国産綿布の輸入、金地金や米穀・大豆の輸出が急増して民衆の貧窮化が進みました。これに対して朝鮮王朝は財政危機に陥って貧窮化した民衆への対策を打てず、各地で民乱が発生しました。
 この頃、朝鮮で民衆に影響力を持った「東学」は第二代教主崔時亨のもとで、朝鮮南部一帯に広がり、崔時亨は政府の弾圧を避けるため「守心正気」の内省主義を東学教徒の求めました。しかし、一方で民衆の変革志向に期待する東学異端派も存在し、1894年2月に全羅道の穀倉地帯にある古阜で、東学異端派の指導者全ボン準(左図)が地方官吏の苛斂誅求に蜂起しました。
 この蜂起は一時収まり、4月末に再蜂起すると、全羅道、忠清道の東学異端派の参加により拡大し、総勢 6、7000人となった彼らは漢城に進撃して、武力で閔氏政権を打倒し、国王に自らの衷情と弊政改革の実現を訴えようとしました。
 東学農民軍の武器は火縄銃・刀槍という旧式武器で、戦闘にも慣れていませんでしたが、政府が鎮圧のために派遣した官軍を5月11日に古阜近くの黄土ヒョンで破り、つづいて東学農民反乱の鎮圧と招撫を命ぜられた両湖(ヤンホ:全羅道と慶尚道)招討使洪啓勲配下の新式武装の京軍を5月27日に撃退し、全州の守城軍は戦意がなく農民軍は5月31日無血入城しました。
 洪啓勲は農民軍を追撃して、6月1日に政府軍を率いて全州城外に到着すると、城内に砲撃を加え、農民軍は多数の犠牲者を出して撃退されました。
 この後、休戦交渉が開始され、農民軍は27ヶ条の弊政改革請願を国王に上達することを条件に、6月11日和約に応じ、全州から撤退しました。
 この全州和約が実現したのは、農繁期が近づき農民軍の戦意が低下したことと、日清両軍の朝鮮派兵を知り、農民軍も政府軍も戦争の危機を察知したのが理由でした。



 日本の外務省と陸海軍は、東学党の動向や全羅道での蜂起について情報を収集していました。東学農民軍が政府軍を破ったとの情報が伝わると、軍艦を朝鮮に派遣し、朝鮮在留日本人の保護を検討しました。また、状況が変化して清が派兵すれば、日本も派兵する必要が生じる可能性がるため、清の出兵に対する対抗出兵の可能性を検討し始めたのです。
 朝鮮政府は国王高宗と早くから、民乱を鎮圧するため、清に派兵を依頼することを議論して、日本の対抗出兵を懸念して結論を出せずにいましたが、5月31日の農民軍全州占領の報が、清への借兵依頼を決意させました。
 日本側は清軍出兵の情報を袁世凱から得ました。6月1日に日本公使館書記生鄭永邦が、3日には杉村濬代理公使が、それぞれ袁世凱を訪ね、時局を議論し、両国の出兵について話し合いました。
 袁世凱は鄭と会談した後、日本側には今回の朝鮮内乱を利用して積極策を採る意向はない、公使館・居留民の保護を目的とする日本側の出兵規模は歩兵一中隊を超えないと思われる、よって日清衝突の可能性は薄いと判断し、李鴻章に出兵依頼の電報を打ちました。
 杉村は鄭が袁世凱から得た情報を、「全州が昨日反乱軍の手に落ちた。朝鮮政府は清の援軍を求めたと袁世凱が語った」という電文外務省に発信され、これによって6月2日の閣議で伊藤首相が二度目の帝国議会の解散を決め、朝鮮への出兵も決まったのです。


日清戦争開戦前

 @ 伊藤首相の協調論と陸奥外相の強硬論

 出兵に踏み切った伊藤首相は、日清協調を維持しつつ清と交渉を行って朝鮮の内政改革に着手し、朝鮮を清と日本の共通の勢力圏にしようとし、清軍との衝突回避方針をとりました。これに対して、陸奥外相は日本も清に対抗して出兵し「朝鮮に対する権力の平均を維持」する必要があると述べて、「閣僚皆この議に賛同」して出兵が決まりました。閣僚のだれもが、出兵の真の目的は朝鮮での清国との覇権抗争にあると理解していました。
 この後、陸奥は日清開戦論者として行動し、開戦の準備が進められると、新聞紙上に対清強硬論が掲載され、国民の間で対清強硬論・開戦論が力を増し、開戦論者の背中を押すこととなったのです。



 さて、この時すでに朝鮮の首都漢城は平穏で、全州を占領した農民軍は和約を結んで撤退していました。しかし大兵力を送った伊藤内閣は、何らかの成果を得て局面を打開する必要があったのです。
 伊藤は6月13日の閣議で、日清共同して農民軍の鎮圧にあたり、農民軍鎮圧後に日清共同して朝鮮内政改革にあたることを、清と交渉するよう提案しました。閣議はこれを了承しようとしましたが、開戦を望む陸奥の反対で決定できませんでした。
 同日の閣議後、伊藤は汪鳳藻駐日清公使と会談し、閣議に提案した伊藤案を協議しました。汪公使が日本軍の撤兵を強く主張したので、伊藤は妥協し、両者は内乱終結後に日清両国軍が撤兵し、その後で朝鮮内政改革について協議することで合意しました。この伊藤・汪合意が実現すれば、日清開戦はなかったのです。
 ところが6月13日での伊藤首相の提案に、6月15日の閣議で陸奥は

日本軍を撤兵させないで朝鮮の内政改革について清と協議を行う
清が内政改革に不同意の場合も日本単独で内政改革を進める

という二項目の追加を提案しました。これに対して、日本国内に撤兵に反対する強力な「衆意(多数の意見)」が存在し、政党各派にも対外強硬論が強まり、9月の総選挙を前にして伊藤内閣は撤兵に踏み切れなくなり、伊藤はこの陸奥の提案を受け入れました。
 6月16日、陸奥外相は汪公使を呼び、閣議で決定した方針を伝えました。これに対して、21日、汪公使より清側の回答が伝えられました。

内乱はすでに平定しており共同鎮圧の必要なし
内政改革は朝鮮政府自ら行うべきものであり、日本は朝鮮自主論をとっているので内省に関与するのは矛盾している
内乱鎮圧後の日清相互の撤兵を定めた天津条約に従い速やかに撤兵すべきである

というものでした。
 同日、清側の回答を承けて、政府と統帥部を交えた閣議は、混成旅団残部(第二次輸送部隊)の派遣を決め、日清開戦は不可避であることを確認しました。さらに22日の御前会議では、政府と統帥部に加え、元勲の山縣有朋松方正義も参加して、清側の主張に全面対決する対清回答(第一次絶交書)と第二次輸送部隊の派遣を最終的に決定しました。明治天皇は政府の開戦方針に懐疑的でしたが、内閣・統帥部・元勲の一致した意向の前に、これらの決定を承認しました。
 第二次輸送部隊は6月24日に宇品を出帆し、29日に漢城郊外の龍山に到着し漢城城内に駐屯しました。

 A 英露の干渉

 6月30日、ロシアのミハイル・ヒトロヴォ駐日公使は、清と日本の同時撤兵を要求するロシア政府の厳しい公文を陸奥外相に渡しました。伊藤首相と陸奥外相はこれを拒否することを決めました。しかし、すでに6月25日のヒトロヴォ公使との会談で、陸奥外相は清が挑発しない限り日本から開戦することはないという言質を与えており、日本側からの強引な対清開戦は困難になっていました。
 これに並行して、イギリスのジョン・ウォードハウス・キンバリー外相が調停に乗り出し、ニコラス・ロデリック・オコナー駐清公使を介して清の意向を確認したうえで、ラルフ・ページェット駐日代理公使に対し、日本政府に日清共同で朝鮮内政改革を進める条件を確認し、交渉成立には両国軍の同時撤兵が必要であることを伝えるよう指示しました。
 日本にはロシアとイギリスの調停を同時に拒否する力はなく、伊藤首相も陸奥外相も、イギリスの調停を受け入れざるを得ず、早期に対清開戦を行おうとした日本側の方針は挫折しました。
 ところが、清は7月9日に、日本の撤兵まで交渉に入れることができないという予想外に強硬な返答を小村寿太郎駐清公使に告げました。10日には、西徳二郎駐露公使から、ロシアの武力干渉はないとの情報が入り、11日の閣議はイギリスの調停を承けて行っていた対清交渉路線を放棄して、開戦準備の再開を決めました。12日には、イギリスの調停を拒否した清に今後起きる事態の責任があるという第二次絶交書の送付を決定します。


 B 清政府の主戦論と開戦回避論

 日本の積極的な動きに対して、対朝鮮問題の責任者である李鴻章は日本との開戦回避に動いていました。彼は軍備拡張を進めた日本の動きを把握して、清と日本の軍備の実態を知っていたので、列国に働きかけて日本を押さえようとしていました。
 一方で、主戦論の中心人物は光緒帝(左図)と若い皇帝を補佐する側近の翁同和と李鴻藻でした。7月9日総理衙門が小村壽太郎公使に対し、イギリスの調停を拒否する強硬な返答を伝え、日本の開戦論を生き返らせました。
 このため、李鴻章は清国内の反対派に挟撃され、一挙に大軍を送って日本軍を圧倒しようとするしかなくなり、結局李鴻章は、7月19日牙山へ 2,300名の援軍を送る出動命令を下し、別に 6,000名を平壌へ送る計画を立てました。
 日本側はこの増援部隊派遣について、清の対日開戦意図を示したものであるととらえ、開戦に踏み切ることになったのです。






日清戦争(Wikipedia)




下関講和条約と台湾進攻

講和条約調印と三国干渉

 @ 下関講和条約

 日清の講和の模索は、旅順陥落後から始まっていました。中国海関(税関)の天津税務局グスタフ・デトリングが清政府と李鴻章の命を受け、1894年11月26日に神戸に到着し、周布公平兵庫県知事に面会し、伊藤首相に会って李鴻章の書簡を渡したい旨を述べました。このときは、政府はデトリングを正式な講和使とは認めがたいとして対応せず、彼は李の手紙を伊藤宛に郵送して帰国しました。
 この後、日本と清に駐在する米国公使が仲介して日清間の講和交渉が始まり、1895年1月31日、講和使節として張蔭桓邵友濂が広島に来ます。このときも全権委任状の効力問題で交渉に入ることができませんでした。伊藤と陸奥外相は両使節より有力で権限があると信じていた李鴻章を全権使節とする講和交渉を希望していたのです。
 1894年10月8日から日本政府は講和条件を検討しはじめ、陸奥は朝鮮の独立、領土割譲、賠償金獲得、通商条約の改定を骨子とする二案を作成し伊藤の了解を得ています。その後、米国の仲裁による広島講和談判を前にして、1895年1月上旬、陸奥は閣議に講和条件を示して同意を得、伊藤とともに広島に向かい、1月27日の大本営御前会議で講和条約案を決定します。陸軍は占領しつつあった遼東半島の広範囲な割譲を要求し、海軍はまだ占領していない台湾割譲を主張したため、伊藤と陸奥は、陸軍と海軍の要求を入れた条約案を作成して、早期講和をめざしました。
 領土割譲に応じて講和を実現するか、領土割譲を拒否して遷都をしてでも対日戦争を継続すべきかで議論は延々続き、3月2日に李鴻章は日本との交渉方策を上奏して、ここにいたっては領土問題もやむなしと述べました。これが認められ、李は領土割譲、賠償金支払い、朝鮮独立承認の三条件で講和交渉に臨むことになったのです。



 3月20日の第一回会談で、李鴻章は講和会談に入る前提として休戦条約を結ぶことを提起しました。日本側は、21日の第二回の会談で休戦は交渉を長期化させ、早期講和を妨げるとして休戦を拒否しました。李は、24日の第三回会談で休戦問題を撤回し講和交渉に入ることを宣言し、日本側もこれに同意しました。
 この3月24日、第三回会談が終わり(前後の人が肩にかつぐ輿)に乗って宿舎に帰る途中、李鴻章は小山豊太郎に拳銃で狙撃され、左眼下の頬に命中しました。列国の対日批判を憂慮した天皇は野戦衛生長官石黒忠悳と外科の専門家佐藤進陸軍軍医総監を派遣して治療にあたらせ、李は4月10日から交渉に復帰することができました。
 負傷を理由に李が帰国して交渉が中断することを恐れた政府は、李が主張した休戦条約を認めざるを得なくなったのです。3月30日に休戦条約が調印され、台湾と澎湖諸島を除くすべての地域で戦闘が三週間の期限付きで停止され、日清間の交戦は終了しました。

下関講和条約の要点
 @ 清は朝鮮が独立自主の国であることを承認する。
 A 日本に対して遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する。
 B 軍費賠償金として庫平銀二億両(日本円約3億1100万円)を日本に支払う。
 C 清と欧州各国条約を基礎として日清通商航海条約などを締結し、日本に対して欧米列強並みの通商上の特権を与え、新たに沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港し、さらに開市開港場における日本人の製造業への従事を認める。
 D 批准後三ヶ月以内に日本軍は占領地より撤退し、清が誠実に条約を履行することの担保として日本軍が威海衛を保障占領する。

 この他に別約では威海衛保障占領について具体的に諸条件を定め、休戦条約追加定約では批准書交換の5月8日まで休戦を延長することを定めました。


 A 三国干渉

 日清間で下関講和条約が締結された6日後の4月23日夕方、ロシアドイツフランスの三ヶ国の駐日公使が外務省に林董外務次官を訪ねました。彼らは遼東半島の日本による領有は北京に対する脅威となるのみならず、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和に障碍を与えると述べて遼東半島の放棄を迫りました(三国干渉)。
 極東地域に利権を持つイギリス・ロシア両国は日清間の開戦回避のため調停を試み、開戦後もイギリスとロシアは協力して早期の講和をめざしていました。下関講和会議が始まり、清を通じて日本の講和条約案を知ると、ロシアは4月8日、列強に遼東半島放棄を日本に勧告することを提案しました。ドイツフランスはこれに同意し、イギリスは日本との対立を好まず、また講和条約中の通商関係特権の拡大を知り、干渉への参加を拒否したのです。このためロシア政府は、4月11日に特別会議を開き、イギリス不参加のもとで対日干渉を行うかを議論しました。
 この結果干渉が決定したため、干渉実施後(11月8日遼東半島還付条約と付属議定書が調印され、日本軍が遼東半島から撤兵した)にはそれまでイギリスの介入を警戒していた日本は一転してロシアへの不信を強めることとなっていきました。


台湾の抗日闘争と朝鮮の義兵闘争

@ 台湾の抗日闘争

 三国干渉の結果遼東半島を清に還付したので、下関講和条約で獲得した領土は台湾と澎湖諸島だけとなりました。日本政府は軍令部長樺山資紀大将を台湾総督に任じ、近衛師団(師団長北白川宮能久親王中将)とともに台湾に向かい新領土を接収するよう命じました。
 台湾では、日本の領土となるのを拒否する邱逢甲ら地元有力者が台湾省巡撫(省の長官)唐景ッに独立を迫り、唐もこれを受け入れ5月25日台湾民主国総統に就任しました。ここに「虎旗」(左図)を国旗とするアジア最初の共和国が誕生し、フランスをはじめとする諸外国に援助と承認を求めるとともに、日本への武力抵抗を試みたのです。
 清側の引き渡し委員李経芳樺山は、6月2日基隆沖の横浜丸船上で台湾授受手続きを行いました。近衛師団は5月29日、基隆の東方から上陸を開始し、基隆と台北を比較的簡単に占領し、台北城占領以前に唐景ッは大陸に逃亡しました。そして6月17日に台北で台湾総督府の始政式が行われました。
 しかし近衛歩兵隊が抗日義勇軍の襲撃を受け、台湾南部に上陸して台南を占領する予定でしたが、作戦を変更して台北周辺の治安を確立した後、南進を図ることになりました。
 日本軍の侵攻に対して台湾側は激しく抵抗しましたが、10月19日、日本軍全軍が台南攻撃に移り台湾民主国は滅亡しました。そして樺山総督は11月18日、大本営に対して「今や全島全く平定に帰すと報告台湾平定宣言)したのです。しかし、日本軍が占領していたのは台湾の西部に過ぎず、台湾南端の恒春以南と、台湾東部、台湾原住民が暮らす山岳地帯は未占領であったため、これ以後も台湾の戦闘は長く続くことになりました。


A 朝鮮の閔妃殺害事件乙未事変と義兵闘争

 三国干渉後、朝鮮では日本の内政干渉や日本に協力して開化政策を進める金弘集内閣に反対する勢力はロシアへの接近を図り、国王の高宗や閔妃もこれに同調しました。
 この間、5月21日第二次金弘集内閣が金弘集と朴泳孝の対立で崩壊し、5月31日朴定陽内閣が成立し、朴泳孝が実権を握って改革を進めました。しかし、朴泳孝は閔妃暗殺計画を疑われ7月6日に日本へ再度亡命したのです。この結果、金弘集内閣が復活し、8月24日、第三次金弘集内閣が成立しました。
 一方、日本政府では講和条約の発効後、1895年6月4日に閣議で「新対韓方針を決定し、三国干渉後の情勢を反映して、「将来の対韓方針は成るべく干渉を息(や)め朝鮮をして自立せしむる方針を執る」こと、すなわち日清戦争中のような露骨な内政干渉が不可能となったことを確認し、性急な朝鮮の鉄道・電信の利権独占をあきらめました
 井上馨公使は6月に一時帰国して、帰国中に西園寺公望外相宛に提出した意見書で、朝鮮政府に対して清国賠償金から若干を供与することと電信線を返還することなどを提案しています。これは国王・閔妃のロシアへの接近を阻もうとするためのもので、井上公使は妻の武子をともない、7月20日に漢城へ帰任し、たびたび国王・閔妃に面談し 300万円の寄付金と電信線返還を提案しますが失敗に終わります。この後、井上は朝鮮駐在公使を辞し、8月17日三浦梧楼宮中顧問官陸軍中将(左図)が新たに朝鮮駐在公使に任じられ、9月1日、漢城に着任すると、新公使との引き継ぎを終えて井上は9月21日に朝鮮を離れました。
 井上が朝鮮を離れた二週間後の10月8日未明、閔妃の殺害事件が発生するのです。朝鮮の電信線を日本側で確保し続けたいと考えた大本営は、その意思決定の中心にあった川上操六(参謀次長兼大本営兵站総監)の意思が働き、三浦公使は川上と連絡を取り結託して企画すると、それを伊藤首相と陸奥外相が黙認了承し、陸軍の一部や海軍の諜報将校、さらに民間の「壮士」を動員して決行したのです。
 三浦公使と杉村濬一等書記官が中心となって、ロシアと結んだ閔妃排除を計画し、朝鮮政府顧問の岡本柳之助を中心に、領事館員と領事警察官、熊本国権党員で漢城日報社長の安達謙蔵などの日本人浪人、漢城駐留の後備歩兵第一八大隊(三個中隊)が実行にあたりました。
 三浦公使は閔妃殺害を、大院君の指示の下に起こされた朝鮮政府内の権力闘争にともなうクーデタのように見せかけようとしましたが、王宮内では侍衛隊教官のダイやロシア人建築家サバティンに目撃されて、そのような企みは失敗しました。また、閔妃事件の詳細と日本政府の真実を隠そうとする不誠実な対応は、当時朝鮮を訪問していた『ニューヨーク・ヘラルド』紙の大物記者ジョン・アルバート・コッカリルの記事によって世界に伝えられ、厳しく批判されます。
 日本政府は関係者を召還し、三浦公使以下49名の民間人は広島地方裁判所の予審に、軍人8名は第五師団軍法会議に付されましたが、1896年1月軍法会議は軍人8人全員を無罪とし、地裁の予審は三浦らの事件関与を認めたものの、殺害時の状況が不明のため証拠不十分として全員を免訴しました。また、朝鮮では閔妃殺害事件の後で成立した第四次金弘集内閣の下で裁判が行われ、李周会ら三名が処刑され幕引きが図られました



朝鮮王妃殺害と日本人 誰が仕組んで、誰が実行したのか  金文子 著

 本書は、これまで「閔妃の写真」として多くの本に掲載されてきた1枚の写真の考証から始まります(序章)。探索は、米国やイタリア、フランスで出版された書籍や雑誌にまで及び、その最初の掲載誌は日清戦争中に発行された日本の写真画報であることが突きとめられ、撮影された女性は王妃ではなく、宮廷の女官であると断定されるのです。
 これは一例ですが、本書をつらぬいているのは徹底した実証主義です。ソウルの公使館と東京の外務省や大本営との間で交わされた電信記録のほか、日本と韓国で発行されている記録や関係者の回想録など、広範囲にわたる史料を駆使することにより、事件の全容が解き明かされます
 著者は、悲運の王妃が生まれた1851年からちょうど100年後の1951年に日本で生を受けた在日二世の女性研究者です。
 これまで、陸軍中将の朝鮮公使・三浦梧楼を首謀者とする偶発的な事件と見られてきたこの事件が、実は日本政府と軍部により周到に準備された謀略事件だったことを実証した本書は、日韓両国の歴史研究に大きな一石を投じるとともに、この事件を近代日本と朝鮮・韓国との関係を考える上で欠かすことの出来ない重大事件として位置づけなおしたといえます。

金 文子(キム・ムンジャ Kim Moonja)
 1951年、兵庫県に生まれる。70年、大阪府立北野高等学校卒。79年、奈良女子大学文学部修士課程終了。79年4月から86年3月まで同大学文学部助手。98年4月から現在に至るまで、同大学事務補佐員。
 論文等「朴珪寿の実学──地球儀の製作を中心に」(『朝鮮史研究会論文集』17号、1980年3月)「李朝後期科挙制度について──直赴法を中心に」(『研究年報』24号、奈良女子大学文学部、1981年3月)「三・一運動と金允植──独立請願書事件を中心に」(『寧楽史苑』29号、奈良女子大学史学会、1984年3月)



 日本から派遣された駐在公使が、赴任国の首都で王妃を公然と殺害するという驚くべき行為について、日本政府は列国から強く非難され、朝鮮では、国母が殺害された事件をもみ消そうとした金弘集内閣への不信と怒りが強まりました。
 1895年12月30日、金弘集内閣は断髪令を交付しますが、伝統的儒学者たちは、断髪令は父母から受けた身体髪膚を傷つけ、朝鮮伝統の礼を毀損して西欧を模倣する倭(日本)にならうものだと非難しました。彼らは王妃殺害と断髪令発布に憤り、反日と反開化派をスローガンとして、各地で抗日義兵闘争に立ち上がったのです。
 朝鮮政府が義兵闘争への対応に忙殺されている間に、第四次金弘集内閣で排除されていた貞洞派の李範晋李完用らがクーデタを起こし、1896年2月11日、彼らはロシア公使ウェーベルと提携し、ロシア水兵に護送された国王をロシア公使館に移し、朴定陽を首班とする新内閣を樹立しました(露館播遷)。
 親日的な開化派は一掃され、日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招き、日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は最終的に挫折したのです。



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