復帰摂理歴史の真実

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■ 1. イエス誕生の秘話
     b. エバの堕落とマリヤの復帰


1. 神の創造目的


  目的を中心とした、変化と発展の愛

   「発展的四位基台と自同的四位基台」


 統一思想には、神の四位基台として“発展的四位基台”と“自同的四位基台”の二つがあります。

 発展的四位基台は心情を基(もとい)とした“目的を中心”に発展する神、即ち“創造の神”を表し、その目的こそが“神の創造目的”です。

 もう一つの四位基台である自同的四位基台とは“心情を中心とした四位基台”ですが、神が神で在り続ける“愛の神”を現しています。

 前者としての神には、“個別相”があり、無限な発展と希望があります。たとえ一卵性双生児であっても微妙なる違いがあり、そこには神の個別相としての“個性”の違いがあります。

 その様な目的を付与されて誕生したのが“アダム”でした。まさしく新しい生命が限りなく誕生する基(もとい)、“”としての“生命の木”だったのです。

 その創造目的の完成の為に“神の僕”として造られたのが天使だったのです。中でも“ルーシェル”はその天使界の頭(かしら)として最も重要な立場にいました。



2. エバの重要な立場

  心情を中心とした、不変なる絶対的愛を育む家庭の中心存在


 さて、もう一つの“自動的四位基台”ですが、「神は愛なり」と言われるように、神が神として自ら存在なされる神の本質であり核心である内容ですが、“愛は相対なくしてはその発生も存在も有り得ません”。

 二性性相の神の実体としてのアダムとエバ。エバが存在することによって初めて神の愛が現実の世界に具体的に現れる“最小基本単位”が家庭であり、その“愛の実現の要(かなめ)”になるのがエバの存在であり立場だったのです。



3. エバの堕落


  動機と経路


 さて、ここで聖書を見てみましょう。

 創世記 第3章

 @ 蛇は女に言った。

 「園にあるどの木からも取って食べるなと、“ほんとうに”神が言われたのですか。」

 A 女は蛇に言った。

 「“わたしたちは”園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました。」


 エデンの園の中央には「生命の木」「善悪知るの木」がありました。
 「生命の木」は創造理想を完成したアダム(男性)を象徴し、「善悪知るの木」は創造理想を完成したエバ(女性)を象徴していたのです。

 神の創造理想とは “三大祝福” を意味します。

 神の心情(愛)を中心として “心と体が一体となった人格” を備えた男性(アダム)と女性(エバ)が、互いに愛によって一つになった時 [第一祝福] 、家庭に真の子女が産みふえて “神の愛(四大心情圏)” が実現され [第二祝福] 、神の目的を中心として “全ての万物を真の愛によって主管” する地上天国が実現される [第三祝福]

 心情とは、“他の為に” と言う絶対無私の立場で、愛による限りない喜びを得ようとする抑えがたい情的衝動です。その衝動がアクションを成す。それが “” なので、愛には私利私欲があってはいけません。その愛は男性(アダム)と女性(エバ)の初愛の時に決定されるべきものでした。しかし、それが間違ったのです。絶対無私ではなく私利私欲の愛として “不倫の愛” “偽りの愛” が結実してしまったのです。

 問題は、エバが天使長ルーシェルの問いかけに答えてしまった事で堕落が始まって行きました。ルーシェルはエバが答えた内容を聞き知った時、現実のものとなって行ったのです。

 原理にはこの様にあります。
 「元来、天使長にも、創造本性として、“欲望” と “知能” とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを “比較し、識別する” ことができたのであり、またその上に欲望を持っていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心” を生ぜしめたのである。」

 この様な、“アダムに対する嫉妬心” こそが、神から離れ、神に背き、エバを誘惑する動機となったのです。


 B、C 蛇は女に言った。

 「あなたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、“神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。”」

 女はその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ…

 蛇である天使長ルーシェルは、エバを騙(だま)して言いました。
 「神が言っておられるようにとって食べても死ぬことはありません。むしろとって食べれば、あなた(エバ)も神のようになれるのです。」

 この様に、エバを騙した天使長ルーシェルも問題でありましたが、その後のエバのとった行動はそれ以上に問題でした。

 エバが天使長ルーシェルから聞いた言葉を “真に受けて”、自分の目で(自分の思いで)その木の実を見ると天使長ルーシェルの言った通りに見えたのでした。
 つまり、天使長ルーシェルがエバを見ているように、エバも天使長ルーシェルを見てしまったと言うことです。
 それ故に、「食べるに良く、目には美しく賢くなるには好ましい」と思われたのです。
 エバは天使長ルーシェルと愛の関係を結べば神の様に(天使長ルーシェルの様に)、自らの全ての疑問や悩みが解決して喜びを得られると思い込んだのです。

 しかし、ここではまだ踏みとどまれば道がありました。
 一歩踏みとどまって、神に尋ね返せば良かったのです。
 「天使長ルーシェルは、この様に言ってますが本当ですか・・・」と

 原理にはこの様にあります。
 「エバがルーシェルの “誘惑に引かれてくる気配” が見えたとき、ルーシェルはエバからいっそう “強い愛の刺激” を受けるようになったのである。」
 更に、
 「こうなるともう “矢も盾もたまらず”、ルーシェルは “死を覚悟してまで”、より深くエバを誘惑するようになったのである。」

 最後の部分の天使長をエバに置き換えてみると、
 「矢も盾もたまらず、エバは “死を覚悟してまで”、より深く天使長ルーシェルを愛するようになった。」

 この、「死を覚悟してまで」のところは、エバ自身の “良心の呵責から来る悲痛な本心の叫び” をを見殺しにしてまで、天使長ルーシェルとの愛の関係を結ぼうとした事としての “覚悟” と言えます。

 み言葉にある、「良心は両親に優る、良心は先生に優る、良心は神様に優る」は、堕落を再び繰り返さない、復帰の最も根幹となるところで、“死を乗り越えて” までも守り通さなければならない重量なみ言葉と言えるでしょう。

 ここで、“良心” について原理では、
 「このような良心作用の力は如何にして生じるものであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。即ち、“良心もまた、或る主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである”。我々は、この良心の主体を “” と呼ぶのである。」
 とあります。

 エバはまさしく、その授受作用の主体に “サタン” を置き、良心の代わりに “堕落性” を置き、その中に “堕落性本性” を据(す)えたのです。





 次に聖書には、
 「また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので…」
 とあります。

 さて、原理にこの様にあります。
 「エバは天使との霊的な堕落によって受けた “良心の呵責からくる恐怖心” と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る、“新しい智恵” を受けるようになったのである。」
 更に、
 「エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた “恐怖心から逃れたいと願うその思い” から、“アダムを誘惑” するようになった。」
 とあります。

 エバのこの様な、自己中心的思いからアダムを誘惑するようになりました。A
 どの様にエバはアダムを誘惑したのかは全く語られていませんが、“天宙主管の前に自己主管” と語られたみ言葉から察する事ができるかもしれません。

 結果的に“@”で起きたことが、“A”、“B”で再びアダムとエバとの間で起こったことに成り、結果としてアダムも堕落して“C”しまったのです。





  堕落の結果

 これまでの内容から、結果的にエバは、天使長ルーシェルをサタンに、アダムを堕落人間にと言う2つの事柄にかかわった重要な立場に立つことになります。

 ルーシェルエバ
 エバアダム
 の構図からすると、アダムの前にエバは天使長ルーシェルと同じ立場と内容で誘惑したと言う事になります。

 堕落は自己を中心とした動機から出発して、自己を中心とした愛の関係を結んだと言う事になるので、復帰は以下の様になります。




4. マリヤの復帰


  復帰と僕の立場


 さて、マリヤはエバが堕落で失ったものを取り戻さなくてはなりませんでした。エバは、“善の天使長とアダムを失った” のです。

 いいなずけの関係にあった、ヨセフとマリアのそれぞれの立場は、マリアに対してヨセフは天使長の立場”、イエスに対してマリヤは天使長の立場”にありました。
 マリヤもヨセフもそれぞれ天使長の立場を復帰する位置にありましたので、マリヤはヨセフに対して “妻” としての愛の関係をまだ結んではならなかったのです。

 当然、ヨセフもマリアを夫として愛してはならなかったのです。




5. 神の僕としてのマリヤ


  僕の立場を越えるもの


 この様に、天使長の使命を代理していたマリヤとヨセフは、イエスを真のアダムとして完成させ、イエスに花嫁を迎えさせ神の家庭を築かしめる重要な使命があったのです。

 その事によって、天使長の立場を超えて、マリヤとヨセフは “” の立場から “神の子女” としての立場に立って夫婦として出発していくことのできる日を迎えられたはずなのです。

 当然、イエスはメシヤ、救世主として人類の “真の父母” として立ち、全く違った人類て歴史が始まっていたことでしょう。

 しかし、ヨセフはもちろん、マリヤもその使命を全く果たせないまま、自分たちの思いを中心に結婚して子供を産み、結果として自分たちの間に生まれたのではないイエス様を愛せず、自分たちの間に生まれた子供たちだけを愛する結果となり “庶子” と言う立場が蕩減として残ったのです。

 これは、エリサベツとマリヤの関係が悪かった事が根本にあります。もっと言うならば、“イスラエル選民の産みの親” であるレアとラケルの仲の悪さから来るもので、解決されていない歴史の汚点をして残っているのです。

 その事故に、レアの子らがラケルの子ヨセフを殺そうとしたように、イエスを洗礼ヨハネは受け入れられませんでした。

 もちろん、ヨセフもさることながら、ザカリヤもその使命を果たせず、ヨセフの家庭もザカリヤの家庭もイエスを保護することはできませんでした。挙句の果てに洗礼ヨハネまで不信し、更には弟子たちにも見放されたイエスは十字架を避けられず、“復活” によって “救いの摂理” を繋げていくしか道が全く無くなってしまったというのです。



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