復帰摂理歴史の真実
洗礼ヨハネと12使徒 <トップ> 原始キリスト教とイスラム教の出現

■ 第三章 第二節 イエスの30年準備時代と十字架
     b. 12使徒とパウロ

1. 12使徒 (後編)

 (1) 十字架前後の12使徒

  @ 12使徒要点

1. ペテロ (シモン)
2. ゼベダイの子ヤコブ
3. ヨハネ
4. アンデレ
5. ピリポ
6. バルトロマイ
7. マタイ
8. トマス
9. アルパヨの子ヤコブ
10. タダイ (ユダ)
11. 熱心党のシモン
12. イスカリオテのユダ
 → マッテヤ

 左図における太字の番号はイエスの親族。タダイは大ヤコブの子で、「ヤコブの子ユダ」と呼ばれた。


ペテロ(ペテロは「岩」の意、本名は “シモン” / 洗礼ヨハネの長子 / 漁師 / カトリック教会の初代教皇)
イエスを三度否認するが、自らを恥じて涙を流した。(マタイによる福音書26章)
地中海沿岸を伝道。ローマの迫害で、自ら志願して逆さ十字架の磔刑に処せらた。(外典『ペテロ行伝』)
サン・ピエトロ大聖堂(イタリア)。
アンデレ(ペテロの弟 / 漁師 / コンスタンディヌーポリ総主教庁の初代総主教)
▪ 洗礼ヨハネの弟子として歩んでいたが、イエスに出会い弟子になると、ペテロをイエスのところへ導いた。(ヨハネによる福音書1章)
▪ 旧ロシア領の黒海沿岸から、黒海に沿ってヴォルガ川付近まで伝道した。
▪ ギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑された。
大ヤコブ(使徒ヨハネの兄 / 貴族出身)
▪ 伝道の地スペインの守護聖人として崇拝を受けた。
▪ 西暦42年頃、エルサレムでアグリッパ1世の迫害により、斬首され、12使徒最初の殉教者となった。
サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂(スペイン)。
使徒ヨハネ(漁師ゼベダイの子 / 大ヤコブの弟 / 「ヨハネによる福音書」の記者)
▪ 最年少の使徒。
▪ 洗礼ヨハネの弟子として歩んでいた。
▪ イエスに聖母マリアの世話を託された。(ヨハネによる福音書19章25節〜27節)
▪ 復活の日の朝、空になっていた墓を真っ先に訪れた。(ヨハネによる福音書20章1節〜10節)
▪ ペテロとエルサレムで宣教、その後小アジアで伝道に努めていると、異教の祭司から毒杯を飲まされて拷問を受け、パトモス島に流された。『ヨハネの黙示録』は、このパトモス島で霊感を得て記したものとされている。
小アジアで、95歳で昇天。
フィリポ
▪ イエスの最古参の弟子の一人。
▪ 友人ナタナエルをイエスのもとへ導き、ギリシャ語を話す人達をイエスのもとへ導いた。
アテネで布教し、教会を建てる。
▪ 異教の地ヒエラポリス(現在のトルコ)で殉教した。
バルトロマイ
▪ フィリポから伝道された人物。
▪ 小アジアやアルメニアインドまで宣教に赴いた。
▪ 異教の地で殉教した。
マタイ(マタイは「神の賜物」の意、本名は “レビ” / 小ヤコブの弟 / 徴税人 /「マタイによる福音書」の記者)
エチオピアペルシアを伝道しましたが、迫害にあって殉教した。
トマス(トマスは「双子」の意、本名は “ユダ” / イエスの弟 / 大工)
▪ 猜疑心の強い人物でしたが、その疑いが晴れると、確信の人一倍強い人物となる。
インドまで宣教に赴きましたが、紀元72年に殉教して亡くなりました。
サントメ(聖トマス)大聖堂(南インド)。
<重要> 天竺聖トマス霊験記 杉本良男 著 / 国立民族学博物館研究報告 (PDF)
小ヤコブアルパヨの子 / タダイの父 / マタイの兄)
▪ エルサレムの初代教会では「義人」と称えられたが、ユダヤの祭司に迫害され殉教。
タダイタダイは「母の胸」の意、本名は “ユダ / 大ヤコブの子)
ペルシア殉教
熱心党のシモン(偏狭なユダヤ教原理主義者)
エジプトを主な宣教地としましたが、最後にはタダイとともにペルシアにたどり着き殉教しました。
<注意> 党としての熱心党は紀元前6年のユダヤの反乱を起源とし、紀元後のユダヤ戦争で形成された言葉。
<参照> 熱心党
イスカリオテのユダ
▪ 弟子たちの中で経理を担当していたユダは、イエスを銀貨30枚で祭司長らに売り渡したことに対して慙愧の念に駆られ、銀貨を返して事態の打開を試みようとしたが徒労に終わったことで失意の念に沈むと、裏切りによって得た銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺した。(マタイによる福音書26章14節〜16節、マタイによる福音書27章3節〜5節)
マッテヤ
▪ イスカリオテのユダの替わりに、くじ引きで当たり使徒となった。(使徒行伝1章15節〜26節)


2. パウロとペテロ

 (1) 裏切って悔い改めたペテロ、迫害後回心して裏切らなかったパウロ

  @ ペテロ

 しかしペテロは、三度もイエス様を知らないと否認しました。それゆえ天のみ旨とは完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係のない立場に立つようになったのです。そのようなことを知っているイエス様でしたが、死の道に向かっていく自分のあとを死守して、同情してくれる一人の人を探そうとされたので、愛する一番弟子であるペテロを振り返られたのです。このように一人の真の人を探そうとされたみ旨が、愛弟子ペテロを見つめるその視線の中にしみ込んでいたことを知らなければなりません。(「イエス様の生涯と愛」190p)

 天に向かう信仰路程において、永遠、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑わずに推し進めるイエス様を見つめる瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きようという衝動感が起きたことを知らなければなりません。不信の自我を悟ったときから、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいはお互いの生涯を比較しながら、自分の足りなさをより強く感じるようになったのです。(「イエス様の生涯と愛」192p)

 それからペテロは、どのようなことを感じたのでしょうか。自分の不信を感じると同時に、周囲の不信を感じたのです。罪のないイエス・キリスト、どこの誰に尋ねてみても罪がないというイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛り、むちで打って喜ぶのを見ながら、ペテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しく孤独な心を見抜くことができました。
 このような悔しい立場でも、天の道を守っていく姿を見せるイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の人々の不遜さを感じたのです。そこからイエス様の弟子ペテロは、イエス・キリストの味方になり得ない悪なる群れを滅ぼすために、主が再び来られるまで、周囲の不遜な勢力と戦おうと、正義感あふれる覚悟をしたのです。
 天に向かって歩んでいくイエス様の善なる不変の姿と、周囲の人々の不遜さは、天地の差がありました。それゆえ、瞬間的に振り返るイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自分の愚かだった生涯を精算することができ、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならないと決心をし、より一層神様に向かったのです。
 言葉なく、天のため地のため、万民のために亡くなったイエス・キリストの死を通して、ペテロはおのずと主を尊敬するようになり、その死の前に懺悔の涙を流して痛哭したのです。(「イエス様の生涯と愛」192p)


 “真の人” とは、自らの心に定めた信念を一途に貫く人のことを言います。その事はイエスが名付けたペテロ(岩)という名に表現されています。自ら死を恐れずイエスを愛することを誓ったペテロは、イエスの十字架を目前にしながらイエスを知らないと三度否定します。しかし、十字架上で神と人類を思い、弟子たちの行くべき道を推し量ったイエスの姿に、ペテロは “懺悔の涙” を流して慟哭したのです。

  A パウロ

<参照>
 聖パウロ生涯年表(PDF)

 パウロは復活されたイエス様に出会い、天の使命を受けました。そうして裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒の立場で異邦の国であるローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えました。
 パウロが十二弟子の殉教に代わり、洗礼ヨハネの死に代わって主を探し出したので、地上においては摂理的な軌道が異邦の国に移されました。こうしてパウロは、ローマ帝国に入り、独りで追われるようになります。宗教的に歓迎されない立場に置かれるようになったのです。
 しかしパウロは、イエス様が定められた摂理のみ旨一つを抱いて人類の十字架であるゴルゴタの道を行かれたように、ローマのいかなる迫害の矢にも屈せずに貫いて進みました。天のみ旨のためには、死も意に介さずに進んでいく姿がイエス様の姿を彷彿させたのです。
 そうしてパウロを中心としてキリスト教は動き、一つの家庭型を経て、部族型、民族、国家、世界型と経てきました。イエス様がゴルゴタの道を行ったように、パウロは天の使命を担い、十二弟子の代わりにサタン世界に対して死のゴルゴタの道を自ら進んで乗り出したのです。そうして、ローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたということを知らなければなりません。(「イエス様の生涯と愛」288p)


 パウロは回心後、一度もイエスの選びに対して裏切ることがありませんでした。ローマ市民であったパウロは、皇帝ネロの前で裁判があり、対したパウロの強い言葉に皇帝は感銘を受けて判決が先延ばしとなりました。しかし、その後も拡大し続けるキリスト教の勢いは皇帝ネロの思いを逆なでし、ネロはパウロに斬首刑を宣告したのです。パウロの影響力を恐れたネロは、見物人のいない静寂の中で刑を執行しました。

<参照>
 新約外典「ペテロとパウロの言行録」では両者がローマで会し同時に殉教す
 パウロの最期ご存じ??
 パオロの首が、とんとんとん・・・3回転がったところに泉が湧いた!?トレ・フォンターネ修道院

   a) サウロの回心

 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
 さて、ダマスコにアナニアというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人が入ってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおりに見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。(使徒行伝9章3節〜19節)


 パウロはローマ市民権保持者でしたが、ベニヤミン族のユダヤ人でもともとパリサイ派に属していました。エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(パリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んでいました。熱心なユダヤ教徒であったパウロは、キリスト教徒と出会うと迫害する立場の側に立ちます。
 ところで、ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人でした。初代教会においてユダヤ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との間で摩擦が生じたため、使徒たちに選ばれた人物です。ステファノは天使のような顔立ちをしていて人々を引きつけ、ユダヤ人の歴史を引き合いに出しながらユダヤ教を批判していました。このため、これをよく思わない者達によって訴えられ石打ちの刑に処せられたのですが、この場にはサウロ、のちのパウロが立ち会っていました。その時、ステファノの一途なまでの神と主イエスに対する信仰を見たのでしょう(使徒行伝7章54節〜8章1節)。その後、エルサレムの教会を迫害(使徒行伝8章3節)すると、その至る所でユダヤ人としての伝統を守りながらもステファノと同じような一途な信仰の姿を目の当たりにしたことが、サウロを回心へと導いたのです。これによって、信仰によって義とされるパウロ神学が生まれ、いかなる迫害や死に対しても裏切らないパウロとして選ばれたのです。

<参照>
 聖ステファノの殉教

 (2) エルサレム教団とアンティオキア教団

失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』 飛鳥昭雄・三神たける 著(学研出版)

 古代日本に渡来し、高度な技術で超巨大古墳から平安京まで建設する一方、3本柱の鳥居をはじめとする奇妙奇天烈な文化を残した謎の集団「秦氏」。その正体は、聖地エルサレムから消えたユダヤ人キリスト教徒だった。


 北朝イスラエルが偶像崇拝を行い滅亡したあと、南朝ユダでもフェニキアの宗教の影響を受けて偶像崇拝に陥ってしまいます。このため、北朝イスラエルはアッシリア捕囚となり、南朝ユダはバビロン捕囚となりました。
 南朝ユダではバビロン捕囚後、極端な律法至上主義者が現れ、食べ物から安息日ま規定まで「旧約聖書」にはなかった律法まで規定しました。これが、“モーセの伝えたもう一つの律法” とされる「口伝律法」を書物として体系化した物が「タルムード」で、処世術や経済、道徳、思想に至る “ユダヤ人の規範” となることが細かに記されています。

<参照>
 イスラエル12支族
 王国の分裂と滅亡
 フェニキア人
 カルタゴ
 フェニキアの宗教は、神道にそっくりである

  @ ペテロを筆頭としたエルサレム教団

 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝1章3節〜5節)


 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(使徒行伝2章43節〜47節)


 このエルサレム教団では、ユダヤ教の風俗や風習をわきまえたユダヤ教徒であることを自負していたため、非常に閉鎖的で、ユダヤ人以外は入れませんでした。
 ユダヤ人は「アラム語」を使っていたため――ヘブライ語(ヘブル語)とはアラム語のこと――ユダヤ人キリスト教徒のことを “ヘブライスト” と言いました。このアラム語は古代シリア語のことで、セム系の言葉です。これに対して、ギリシア語を使うユダヤ人キリスト教徒を “ヘレニスト” と呼びました。
 さて、ヘブライスト(ヘブライ語)の弟子の中にヘレニスト(ギリシヤ語)の弟子の数が増える事で、風俗や習慣の違いから亀裂が生じてきました。(使徒行伝6章1節)
 このヘレニストのひとりであった “ステファノ” は、パリサイ派と衝突し逮捕されると、偽証罪の判決を下され石打ちによって処刑されました(原始キリスト教徒最初の殉教者)。このことから、エルサレム教団は迫害を受けたため、サマリヤ地方へ散っていきます。こうして、ヘブライストとヘレニストの対立は決定的となってしまいました。

  A パウロを筆頭としたアンティオキア教団

 当時、シリアにはアンティオキア(左図)という都市がありました。アンティオキアでは、かなり早い時期から、原始キリスト教の布教が行われていました。そこへ、離散していた元エルサレム教団のヘレニストたちが集結して来ます。アンティオキアの住民の多くはギリシア人で、使われていた言語はコイネーギリシャ語であったため、コイネーギリシャ語を使うヘレニストは、ここを拠点に定め大々的な布教を開始しました。これが、「アンティオキア教団」の誕生となります。
 ところで、パウロはイエスの霊に出会うと改宗し(上記)、熱心なエルサレム教団のメンバーになりました。しかし、その中に自分を殺そうと企んでいる者の存在を察知すると、パウロは教団を離れて独自の布教を行うため、アンティオキアに向かい教団のリーダーとなりました。
 このアンティオキア教団は神殿にこだわらず、パウロを筆頭にイエスの福音を教義の中心に据え、コイネーギリシャ語を公用語としていました。

  B エルサレム使徒会議

 時がたつにつれ、アンティオキア教団では異邦人キリスト教徒が増えてきました。そこで、ユダヤ教のしきたりなどを知らない異邦人キリスト教徒に対して、割礼を受けさせモーセの律法を守らせるべきかどうかアンティオキア教団で大問題となり、パウロはエルサレム教団の使徒や長老の意見を伺うことになりました。
 この問題について、紀元49年アンティオキア教団とエルサレム教団との間で開催された会議を「エルサレム使徒会議」といい、異邦人に対しては、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくても良く、モーセの律法の戒律においても、偶像崇拝や淫らな行いなどをしなければ良いと決議されました。

 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わらしたちを奴隷にするためであった。わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、(というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務めにつかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパ(ペテロ)とヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこでわたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。(ガラテヤ人への手紙2章1節〜9節)


 その後、アンティオキア教団ではさらに異邦人が増え続け、ユダヤ人と異邦人が区別なく、同じ食事をとっていました。しかし、一般的にユダヤ人は異邦人と同じ食事をとることができないことになっていたため、この件における両者の相違として、ユダヤ人キリスト教徒だけのエルサレム教団と衝突してしまいます(アンティオキアの衝突)。
 ある時、たまたまアンティオキア教団にやってきていたペテロは異邦人と同じ食事をとっていました。そこへ、ヤコブによって派遣されたエルサレム教団の使者がやってきたため、彼らと同じ食事をとっているところを見られたくないペテロは、突然態度を急変させてしまうのです。これを見たパウロは、ペテロを強く非難しました(ガラテヤ人への手紙2章11節〜14節)。
 こうして、エルサレム教団とアンティオキア教団の対立は決定的とはなったものの、パウロはエルサレム教団との繋がりだけは求め、アンティオキア教団を離れ、単独で布教を行うようになりました。

  C ユダヤ人への迫害

<注意> 以下の内容では、原始キリスト教徒(クリスチャン)” とは、大半が異邦人となった “アンティオキア教団 のことを言い、ユダヤ人キリスト教徒” とは、“エルサレム教団 のことを言っています。

 紀元37年、古代ローマ帝国皇帝カリグラが即位します。カリグラは、自らを神であると宣言し、自分の姿に似せた彫像を帝国内の至る所に安置し、これを崇めるように国民に強要しました。これに対してユダヤ人は、偶像崇拝として頑強に拒みました。しかしカリグラは、激しく皇帝崇拝を強要し弾圧しました。
 やがて、政変によってカリグラが倒れ、クラウディウスが皇帝に立ってもなお迫害が続く中、パウロとペテロは異邦人への布教のためローマに上ります。当時のローマには、各地から連れてこられた奴隷や下級市民が多く、パウロとペテロの布教によって、爆発的勢いでキリスト教徒が増えていきました。そこで、古代ローマ帝国の支配者階級の人間は、原始キリスト教徒がテロや放火を行っているなどのデマを流したのです。
 紀元64年、皇帝ネロの迫害は熾烈を極め、ローマの市街を放火し、原始キリスト教徒の仕業であるとしました。これによって、ローマ市民が一斉に原始キリスト教徒を迫害し、殉教者は膨大な数に及んだのです。
 当時、古代ローマ帝国の属国だったユダヤは、エドム人の王ヘロデ・アグリッパ1世が支配していました。ユダヤ人ユダヤ教徒は、原始キリスト教徒に対して非常な嫌悪感を抱いていたため、ヘロデ・アグリッパ1世はエルサレム教団に対して、露骨なまでの迫害を開始すると、12使徒の大ヤコブを殺害してペテロの逮捕します。逮捕されたペテロは牢獄から脱獄しますが、再び向かったローマの地で殉教してしまいます。ペテロの亡き後、エルサレム教団を率いたのは小ヤコブでした。

クオ・ワディス(上・中・下)』 シェンキェヴィチ作/木村彰一略(岩波文庫)
 1951年アメリカで映画化。

 ペテロは立ち止まって言った。
 「あの明るいものが見えるかね。わたしたちのほうへ近づいてくるようだが」
 「何も見えません」ナザリウスは答えた。
 しかし使徒はすぐに片手で目をおおって言った。
 「だれかが日の光の中をこちらへ歩いてくる」
 しかし彼らの耳にはかすかな足音すらきこえなかった。あたりはしんとしずまり返っていた。ナザリウスに見えたのはただ、遠くでまるでだれかがゆすぶっているように木の葉が揺れ動いたことだけであった。光は平原の上にみるみる広がった。
 ナザリウスはびっくりして使徒を見た。
 「ラビ! どうなされました」彼は心配そうに叫んだ。
 ペテロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きとよろこびと恍惚の色が浮かんだ。
 突然彼は両手を前にひろげてひざをついた。口からはしぼり出すような叫び声が洩れた。
 「キリスト! キリスト! ……
 彼はだれかの足に接吻するように頭を地につけた。
 長い沈黙がつづいた。やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。
 「クオ・ワディス・ドミネ?(ラテン語。「主よ、どこへ行かれるのですか」の意味)……」
 その答えはナザリウスにはきこえなかったが、ペテロの耳は悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのをきいた。
 「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」
 使徒は身動きもせず、一語も発せずに、顔をほこりの中に埋めたまま地面にひれ伏していた。使徒が気絶したか、それとも死んだかと思ったほどであった。けれどもペテロはやがて起き上がって、ふるえる手で巡礼の杖を取り上げ、ひとことも言わずに7つの丘の都のほうへ向き直った。 <クオ・ワディス(下)p265〜p266>


 小ヤコブの信仰はユダヤ人キリスト教徒としての信仰であったため、異邦人への布教を積極的に行うパウロに対して厳しい批判を行っていました。紀元61年に小ヤコブは、大祭司兼衆議長アンナス2世に逮捕され、処刑されています。
 さて、ローマにおいて異邦人キリスト教徒が増えてくると、“イエスを十字架に磔にしたのはユダヤ人ユダヤ教徒たちである”という風潮が起こります。そして、原始キリスト教徒を迫害した保守的なユダヤ人ユダヤ教徒を、単に「ユダヤ人」と呼ぶようになったことによって、ユダヤ人キリスト教徒として構成されていたエルサレム教団(ユダヤ人キリスト教徒)は同じ“ユダヤ人”としての概念から、――原始キリスト教徒の中でも、異邦人がユダヤ人を差別したのはもちろんですが――2重3重の迫害や弾圧、差別を受けていました。

  D ユダヤ戦争

 紀元66年当時、ローマのユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物17タラント(1タラント34.2`)を持ち出したことにあったといわれています。これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こり、総督フロルスは暴動に参加し多くのユダヤ人を逮捕し、磔刑に処して事態を収拾しようとしましたが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてことで意思統一ができていなかったユダヤ人を結束させ、ローマ軍とユダヤ人たちとの間に本格的な戦闘が開始されたのです。(第1次ユダヤ戦争)
 ユダヤ人はパリサイ派やサドカイ派、エッセネ派を問わず戦線に立ち有利に進めていたものの、世界帝国ローマのの軍事力の前には次々と配送せざるを得ませんでした。
 紀元70年、ソロモン第2神殿が破壊され、死海のほとりにあるマサダ砦に立てこもった残党も3年後に全員自決し、8年以上にわたった戦争は幕を下ろしました。
 こうしてユダヤ人は、古代ローマ帝国における迫害の対象となって、地下でくすぶり続ける中で、救世主待望論が原動力となって反ローマ感情と独立願望が高まっていくと、紀元132年に、ユダヤ人の鬱憤が爆発し反乱が起きました。
 しかし、すでにユダヤ人は古代ローマ帝国の敵ではなく、紀元135年エルサレムは陥落し廃墟となって、荒れ果てたユダヤ全土を残して反乱は終結したのです。(第2次ユダヤ戦争)

  E 消えたエルサレム教団

 エルサレム教団は、ソロモン第2神殿が破壊される以前から忽然と姿を消していました。第1次ユダヤ戦争がユダヤ戦争が本格化すると見るや、ユダヤを出国し、ガリラヤ湖南方のヨルダン川東岸にある「ペラ」というギリシア人都市へ集団移住していました。当時の様子を4世紀の神学者エウセビオスは『教会史』の次のように記しています。

 エルサレムの教会の人々は、戦争の前に啓示を介してその地の敬虔な人々に与えられたある託宣によって、都を離れペレアのペラという町に住むように命じられた。そこでキリストを信じる人々はエルサレムからそこに移り住んだが、そのためにユダヤ人の第1の首都とユダヤの全地は聖なる人々から完全に見放された形になった。そして、ついにキリストや使徒たちへの悪質な犯罪のために、神の審判がユダヤに臨み、不敬虔な者の世代を人々の間から完全に絶ったのである。(『エウセビオス「教会史」(上)』 講談社学術文庫 / 訳:秦剛平


 古代ローマ帝国との戦いの最中、エルサレム教団の敵前逃亡はペラに“定住した”という痕跡も残さずにその後の足取りは途絶えてしまいます。
 しかし、エウセビオスの『教会史』ではペラと記されていますが、諸説によるとペラ(Pella)、コカバ(Kokaba:ペラの近郊)、コエレ・シリア(Coele Syria:現在のレバノン東部、ベッカー高原にある)に逃げたとあります。このコエレ・シリアの位置するベッカー高原にはバールベックというバアル神を祀ったとされる世界でも有数のローマ神殿跡があり、シルクロードを通って交易が盛んに行われていました。消えたエルサレムはこのシルクロードを通って、ユーラシア大陸を東へ向かったのです。



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