復帰摂理歴史の真実

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日本と東アジア情勢 (韓国キリスト教編) <トップ> 激動する東アジア

■ 1. 幕末以後の日本
     g. 日本と東アジア情勢 (韓国・中国・ロシア編)



 1853年、ペリー艦隊が日本に来航し、アメリカにより日本の鎖国体制は打破され、その後、アメリカが南北戦争により、東アジアへの進出がおろそかになると、イギリスとフランスが日本に接近し、フランスが幕府を支持し、イギリスが反体制派の薩摩藩と長州藩を支持しました。

 ところが、イギリスが支援する薩長連合が幕府との戦いに勝利し、フランス本国ではナポレオン3世の権威が低下すると、日本の指導者たちは、「大英帝国」 が全盛期を迎えつつあると分析しました。

 一方、朝鮮では儒者が中国の 「中華思想」 や 「華夷秩序」 の影響を受け、キリスト教徒に対して迫害を加えると、多く信者が処刑されました。1882年、アメリカからプロテスタント宣教師を迎え入れるようになって、伝統的、保守主義的思考から脱し、西洋近代化の香りを漂わせてくるようになったのです。(前ページ参照)

 また、ロシアは、南下政策を国の基本方針とし、清国や朝鮮への進出を策していました。




ロシア情勢


国境問題

 1809年探検家の間宮林蔵が実地踏査を行なうまで、樺太がユーラシア大陸と分離した島であることが判明していない未開の地でした1790年には、日本人が樺太南部の大泊に定住するようになり、交易の拠点や漁業基地とされていました。

 1806年には、ロシア軍艦が大泊を襲撃するなど、不確定な国境を巡り、日露の緊張状態が続いていました。

 1855年、幕府は日露和親条約を締結 (江戸幕府によって日露間で初めて国境の画定が行なわれた) しましたが、条約で日露国境が定められ、対馬列島のうち、択捉島以南を日本領とし、得撫島以北がロシア領に編入されました。樺太は、両国の雑居と決定されたのです。

日露和親条約の主な内容

・ 千島列島における国境を択捉島と得撫島の間とする。
・ 樺太は国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。
・ ロシア船の補給のため、箱館、下田、長崎の開港。
・ ロシア領事を日本に駐在させる。
・ 裁判権は双務に規定する。

 1869年7月、ロシアは樺太南部に1,200名の兵士を駐屯させ、実力行使により、樺太の全島支配を策すると、日本人がロシア人から暴行や迫害を受けるようになり、手出しができずにいるなかで、1870年10月から、日本政府はロシア側と交渉を開始しました。

 同じころ、岩倉具視を団長とする遣欧使節団がロシアに到着すると、ロシア側から、北千島の日本領有と引き換えに、樺太をロシアの領土とすることが提案されました。

 このころの外務卿は肥前閥の副島種臣で、樺太の南北分割案を唱えていましたが、明治6年政変 (征韓論政変) では西郷派に属していたため、外務卿を辞任してしまいました。

 薩摩閥の大久保利通を首班とする政府は、樺太 ・ 千島交換を前提に、ロシアとの交渉を開始することに決しましたが、当時の得撫島から占守島までの北千島は、ラッコが生息し、少数の先住民が住むだけの未開の地だったのです。


 1875年5月、日本、ロシアの両国は樺太千島交換条約を締結しました。

 ロシア交渉の特命全権公使に任命された榎本武揚は、樺太の雑居解消と北千島の交換という前提で基本合意していたなかでも、日本人の樺太住居権や漁業権を承認させましたが、開発が進行しつつあった樺太を放棄し、国境問題を解消させはしましたが、ロシア帝国が潜在的に抱く南下政策に対し、警戒感を抱き続けました。

 この問題 (ロシアの南下政策) を危惧して、「征韓論」 ではなく 「遣韓論」 を唱え、対ロシアに備えようとした西郷隆盛でしたが、政局の違いから追い出されてしまうのです。



シベリア鉄道

 1891年シベリア鉄道 (左図赤線) のウラジオストックへの全通計画しました。計画決定後、直ちに建設を開始しましたが、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進め、1904年の日露戦争の最中に、ようやく全線開通しました。

 これは、日本にとって重大な脅威となったのです。山縣有朋がロシアの朝鮮への進出を警戒し、ロシアとの実力の格差を認めながらも、将来的には対抗しえる軍事力の強化を主張しました。





中国情勢

明から清へ

 1644年に代わって北京に遷都し、中国の統一王朝として東アジアに君臨し、第4代康熙帝から第6代乾隆帝の時代に全盛期を迎えました。

 中国では、自国民以外は夷 (未開の野蛮人) とみなす 「華夷秩序」、または自国だけが文明国と考える 「中華思想」 が外交政策の基準とされました。

 もともと明王朝からみれば、満州 (中国東北部) に発祥した清王朝は、典型的な “夷” だったのですが、中国全土を支配下に従えると、華夷秩序や中華思想を外交の基準として、アジア諸国にとどまらず、欧米諸国も“夷”とみなし続けたのです。

 清国は、明国の時代とは違い、対外貿易を積極的に推進しました。清国の商人は日本にも進出し、長崎では唐人屋敷を舞台にして通商関係を保持していたのです。

※注 「中華思想」 と 「華夷秩序」 はもともと中国の言葉ではなく、中国以外の国が中国をこのような言葉で表現したものです。“漢” の時代に “異民族でも漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる” という華夏族にみられた傾向を特徴付けた言葉です。この頃、中国に隷属していた韓国は儒教だけではなく、俗に言うこの「中華思想」や「華夷秩序」もその中に取り入れました。その典型が高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級である “両班” といえるでしょう。もともとの本来の儒教には、その様な概念は存在せず、漢民族の道教が変化して朱子学に発展し、儒教として扱われてきました。日本でもこの朱子学の台頭によって、天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのです。)

<参照>
漢民族
「中華思想」を誤解する日本人
儒教の持つ意味(このホームページ)
道教
朱子学


敗戦での弱体化により領土の縮小


 1840年から1942年イギリスとアヘン戦争が、1856年から1860年イギリスとフランスの連合軍とアロー戦争 (第二アヘン戦争) があり、清国の敗戦となりましたが、清国は敗戦への反省もなく、華夷思想を見直し、欧米諸国からの侵略に対抗しようとする機運は高まらないまま、1870年李鴻章が清国の首相に相当する直隷総督に就任しました。

 李は洋務運動 (西洋技術の積極的導入を基盤とした改革) を積極的に推進し、清国の政治組織や軍隊の近代化を策しました1871年6月、日本は、元宇和島藩主の伊達宗城を全権大使に任命し、清国は李鴻章を交渉担当に選任して条約の交渉を開始し、7月に 「日清修好条規」 が締結されました。この条約は、両国の立場を尊重した対等条約だったのです。

日清修好条規の主な内容

・ 相互に外交使節を常駐させること。
・ 領事裁判権を相互に承認すること。
・ 領土に関しては「両国に属したる邦土もおのおの礼をもって相まち、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」。





 また、太平天国の乱やアロー戦争 (第二次アヘン戦争) による清国内の混乱に乗じたロシア帝国は、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、1858年5月28日に中国北東部、アムール川中流のアイグン (現黒竜江省黒河市) においてアイグン条約を結びました。

 この条約によって、1689年ネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州 (現在の沿海州) は両国の共同管理地とされました。また、清国はロシアにアムール川の航行権を認めたのです。

 左図 (右側の薄い赤が外満洲、現在のロシア極東) は、満州地域のうち、1858年アイグン条約1860年北京条約で、清からロシア帝国に割譲された部分です。(外満州





朝鮮情勢


 江戸時代の日本の将軍に、朝鮮国王は外交使節団として通信使を派遣しました。通信使の往来により、両国の信頼関係が深まるとともに、学問や文化の交流の機会としての役割を果たしました。

 1811年には、徳川家斉の11代将軍就任の祝賀にたいして、通信使は財政難を理由に江戸への往来を断念し、対馬での書状交換で帰国してしまいました。以後、通信使は復活することなく、徳川幕府は崩壊してしまうのです。

 1863年、26世国王に就任した高宗は、11歳に過ぎなかったことから、高宗の実父である大院君が国政の実権を掌握すると、肥大化した官僚機構の整理や、税制の抜本的見直しなど、中央集権を目指した改革を強力に推進しました。しかし、その一方では、西洋諸国からの改革要求には拒絶していました。

 日本を開国させた欧米諸国は、隣国朝鮮にも圧力をかけ、1866年には、フランスが江華島に艦隊を派遣1871年には、アメリカも艦隊を派遣し開国を要求しました。しかし、大院君は武力に屈することなく、交渉に応じず、仏米艦隊は撤退を余儀なくされたのです。


(閔妃の写真は、下記のページから採用しました。)
閔妃の写真はなかった
閔妃殺害事件に関する報ステのウソ


日朝修好条規(江華島条約)の締結

日朝修好条規の主な内容

・ 朝鮮の主権を尊重 (清国との宗属関係を否定)。
・ 釜山、仁川、元山の3港を開港。
・ 日本の無関税特権。
・ 日本の領事裁判権の承認。

 1873年国王の高宗が21歳に成長すると、大院君は隠退を余儀なくされました。高宗は、父の大院君よりも妃の閔妃を信頼し、閔妃のもとには、大院君の改革路線や排外主義に反対する勢力が結集して、大院君を失脚へと導いたのです。


 1875年9月20日、日本海軍の軍艦 「雲揚」 は、江華島沖で測量中、朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃したため、反撃しました (江華島事件)。大久保利通を首班とする日本政府は、自国軍艦への砲撃を不当行為として、賠償金と通商条約の締結を朝鮮へ要求しました。1876年2月10日、特命全権大使に選任された薩摩閥の黒田清隆は、軍艦6隻を率いて江華島へ上陸しました。「砲艦外交 (軍艦の威力で相手を威嚇する外交) 」 により、朝鮮側との摂政の結果、「日朝修好条規」 を締結させることに成功しました。

 条約は、第一条で両国の平等をうたいながらも、日本優位の不平等条約でした。第一条で定められた 「朝鮮は自国の邦である」 という規定は、独立国としての権利承認より、清国の属国ではないことの証明の意味合いが強いものでした。

 条約締結後、日本は友好関係を深めるよりも、朝鮮に対して優位な地位を築くための策謀を続けました

 大院君失脚後、朝鮮王朝を主導する閔氏一派は、日本の背後に控える欧米諸国を恐れ、日朝修好条規に調印しましたが、欧米諸国との間にも、不平等条約の締結を余儀なくされて、朝鮮は開国されることとなったのです。



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