復帰摂理歴史の真実

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失われた12支族と東洋 <トップ> 儒教の持つ意味

■ 1. 人間堕落と三位神と偶像崇拝
     b. 仏教とキリスト教


小乗仏教と大乗仏教

 前ページで扱った、原始仏教は出家して修行を積んだ特定の人しか救われないというものでした。

 ところが、これが多くの人の不満と反感の的となり、これに対して思案していた所にキリスト教が勢力を伸ばして来ました

 その事が脅威に感じた仏教徒らは、大きく二つに分裂していくことになりました。

 そして、西暦2世紀ごろ、「大乗仏教」が誕生することになったのです。

 それまでは、「小乗仏教」と言う概念はありませんでした。新しい仏教と区別するための概念として下記のように分類することになったのです。

小乗仏教」 : 原始仏教の流れを汲んだもので、悟りに重点を置き、出家者しか救われず仏になれないとする。
大乗仏教」 : 小乗仏教に対して、在家者も仏になれるとした。永遠の仏」の存在としての神的存在を説いている

 そしてまた、大乗仏教自体も次のように分類されました。

顕教毘盧遮那仏」 : 宇宙の中心にいまします真理そのものなる仏=目に見えない永遠的存在者
密教大日如来


 この顕教密教はどちらも太陽を意味するとしていますが、大日如来」の方が“読んで字の如く”より明確にそれを示しているでしょう。

 さてその意味合いは左図のようになりますが、明確に説かれた教え「顕教と、明確にはできず、秘密裏に説くことしかできな教え「密教とは、つまり 『 体得 』 ・ 『 体恤 』 的伝授のみを可能とするものです。大乗仏教ではこの「密教」を上位に置いて重要視して来ました。

 それ故に、釈迦が厳しい修行を無意味としましたが、大乗仏教の「密教」においては再び必要な内容としてとらえられました。(以上の内容は、別章で詳しく扱うことにします)


 さて、それから偶像崇拝ともなりかねない仏像ですが、仏像は紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王の帝国はインドまで達していて、深く交流していました。その時のギリシア彫刻に影響を受けて仏像が作られるようになりました。

毘盧遮那仏は、ペルシアの太陽神信仰(ゾロアスター教)の影響によって、インドでは太陽神ビシュヌ」となり、のちに大乗仏教の「毘盧遮那仏」となりました。




大乗仏教とキリスト教

 イエスの12使徒のトマスバルトロマイは、西暦1世紀頃インドへ伝道に来ていました。メソポタミア地方のパルティアで伝道した後インドに来たと言われています。

 トマスがインドに着いたのは西暦52年、インド南西部のマラバル海岸に着き7つの教会を建てると、インド南東部のミラポールに行き、王をはじめ多くの民を改宗させています。

 その時、バルトロマイはヘブル語の「マタイの福音書」を持参していました。(「イエスの弟子たち」参照)


トマスの伝道

 インダス河付近のガーブルゴンダラを領有していたバルチャの王ゴンドファルは、宮殿建築のため建築家を募集していましたが、目をつけられたトマスはそれを断りました。しかし、その夜イエスが現れて彼を励ましたので、トマスは王の宮殿をユダヤの技法を用いて石造りの宮殿を建てたと言われています。

 トマスは、王の厚遇を受けその報酬を貧しい人達に分配して沢山の人を伝道しましたが、この事が王の誤解を受けて投獄されることになります。

 しかし、トマスが奇跡的に牢獄から脱出した後、王の弟が死から蘇って「天国に行くと、トマスが王のために建てた宮殿がありました」と告げました。この出来事から王は驚いて回心し、トマスから洗礼を洗礼を受けたと言われています。

 こうしたインドでの宣教後、トマスはチベットを通り、中国へ伝道に赴き、今の北京あたりまで来たとされています。その後インドに戻り、72年殉教しています。


クリシュナ

 ヒンドゥー教主神のひとりの太陽神ビシュヌの化身、インドの神「クリシュナ」。

 これは、インドにおけるキリスト教の発展にいらだったバラモン教徒がつくりだしたもので、「クリシュナ」とは、ギリシア語でクリストス、つまりキリストのことです。

 当時のインドでは、一部の限られた出家者しか救われないとする小乗仏教が、「(イエス)の御名を呼ぶ者はだれでも救われる」と説いたキリスト教思想を取り入れ、より多くの人々を救いに導くことのできる大きな乗り物とした「大乗仏教」は、インドの哲学者「龍樹」に始まりました。

 また、「馬鳴(めみょう)」の作った釈迦の伝記「ブッダチャリタ」は、新約聖書の福音書が混入されたと思える内容がところどころにみられます。




弥勒信仰


 弥勒信仰は、使徒トマスがインド宣教をした後に、一世紀半ば以後、仏教界で信仰される様になった再臨思想です。これは、使徒トマスが説いた「再臨のキリストの仏教版」と言って良いでしょう。

 インドのマイトレーヤ、中国のミレフ、日本のミロクはいずれも、ヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストを意味します。この弥勒信仰が中国から朝鮮の新羅で盛んになりました。

 当時の朝鮮半島は高句麗百済新羅に分かれていて、百済の仏教と新羅の弥勒信仰は根本から違っていました。新羅の古墳からはローマン・グラスの出土やその構築法などは、高句麗や百済とは全く異にしていました。ローマの事を「羅馬」と表記しますが、新羅は「新しい羅」、つまり、新しいローマを意味しているのかもしれません。

 その新羅の代表的寺院で、世界遺産にも登録された「仏国寺」からは、景教の十字架や漢文の聖書、『イエス・メシア経』などの景教の教典も発見されています。



 弥勒像の右手の親指と他の指一本で三角形を作り、他の三本の指を伸ばしているのは、1908年中国西部・敦煌で発見された景教の大主教を描いた壁画の遺跡と全く同じ指の形で、これは三位一体神信仰を表現したシンボルとされています。





景教とは


 『景教』は、「光り輝く教え」の意味で、中国の“”の時代に栄え、のちモンゴルで栄えました。

 431年エペソ宗教会議で、コンスタンティノポリス総主教ネストリウスが「異端」として追放されました。

 ネストリウスは当時のローマ・カトリックが「新約聖書」の教えに逸脱した風習に染まっていることに抗議すると、「異端」として追放され、彼と信仰をともにする東方キリスト教徒たちは東方へ伝道を開始しました。これが、シルクロード付近で爆発的に広がり、各地にキリスト教会が造られました。800年頃は西側よりも東側がはるかに多かったと言われています。

 景教の教会は、はじめ「波斯胡寺ペルシア寺)」と呼ばれていましたが、ペルシアのゾロアスター教会の意味も含まれてしまうため、「大秦寺」と改称されました。

 景教碑の文章からは、三位一体の神を愛し、愛と信仰に燃え、ローマ人への手紙13章1節「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」と言うみ言葉に忠実に、聖書』忠実に宣教を行いました

 まさしく、第一に従い、第二に「上に立つ権威」に従い、為政者(皇帝など)の信仰と良い政治のためにも祈りを捧げました

 景教徒達は中国に来れば、中国人として生き、現地の人々のためにすべてを捧げて仕え、そこで骨を埋めたと言われています。


高野山の景教碑



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