復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第一章 第二節 黄河文明と長江文明
b. 文先生誕生のルーツと日本の摂理 1. 朝鮮の起源と文先生 (1) @ 古朝鮮史 (@)夫余(扶余)と高句麗 夫余は中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家である。東明聖王(朱蒙:在位BC37〜BC19)が夫余から東南に向かって逃れ、扶余(朝鮮半島北部〜南満州:BC4〜AD5)の地に高句麗(BC1世紀〜AD7世紀)を建国した。 (A)箕子朝鮮から衛氏朝鮮(古朝鮮) 朝鮮には、建国神話として檀君神話があり、その神話上の国を檀君朝鮮と言っている。 <参照> ・ 『檀君神話』成立時期の周辺 (橋庸一郎 著:PDF / リンク元) 箕子朝鮮(左図:紀元前12世紀〜紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。首都は王険城(現在の平壌)。箕子(胥余)は、中国の殷朝の第28代王太丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。 つづいて戦国時代に七雄の一つ燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)が朝鮮半島を支配をし、さらに秦(紀元前905年〜紀元前206年)から前漢(紀元前206年〜8年)への交替期に生じた動乱(楚漢戦争)によって漢人の朝鮮半島への流出が続くと、流民の一人であった燕人の衛満という者が、漢の高祖(劉邦)の末年に衛氏朝鮮を建てた。衛氏朝鮮は実質的に最初の国家であると考えられている。現在ではこの衛氏朝鮮までを後の李成桂が建てた「朝鮮王朝」と区別して古朝鮮と言っている。 (B)高句麗・百済・新羅の三国時代と加羅(任那) 「任那(みまな)」から読み解く古代史 朝鮮半島のヤマト王権 1500年前の朝鮮半島南部には、「任那(みまな)」と呼ばれる地域があった。百済や新羅が歴史に登場する100年以上も前から、倭国がこの地を管理していたことが中国の史書に記されており、高句麗・広開土王の生涯を刻んだ「広開土王碑」の碑文にも「倭、任那」の記述がある。つまり古代日本のかなり早い時期から半島南部は、日本人の居留地、交易の中心地であり、朝鮮半島中南部を軍事的に押さえる要衝の地でもあったのだ。 任那の日本府の実像とは? 任那の衰退と朝鮮半島の動乱の関係とは? なぜ日本は新羅・唐と戦ったのか? 史料に基づいて、現代以上に国際的だった古代東アジアの真実に迫る! こうした中、高句麗は311年に南下を始め、313年10月楽浪郡を占領した。翌314年には帯方郡に侵入し、これを倒した。楽浪郡・帯方郡が滅んだことは、漢民族による朝鮮半島支配が終わったことを意味しており、東アジアの大きな変化をもたらした。まず、朝鮮南部の韓民族の馬韓(紀元前2世紀末〜4世紀中葉)・ 辰韓(紀元前2世紀〜356年)がそれぞれ統一されて百済(4世紀前半〜660年)・ 新羅(紀元前57年〜935年)が成立、高句麗とともに三国時代(紀元前1世紀〜紀元後7世紀)を迎えることとなった。 日本においても大和政権による統一が進み、倭の五王の南朝への遣使が行われることとなる。航海民族であった古代の倭人(下図)は、紀元前2〜3世紀に弁韓12カ国の一つ、狗耶韓国(伽那・加羅)を橋頭堡に、楽浪・帯方郡から中国本土への通交を重ねていました。朝鮮半島南部のこの地には、鉄を中心とする通商が拡大するにつれ、倭の居留民が増え、この地を総称する「任那(加羅)の地」となっていきました。 神功皇后(仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨)時代の倭国は、朝鮮半島において広大なものとなりました。一方、当時の百済は建国して間もなく、北方の高句麗による圧力を受ける中で、ただ倭国の全面的な軍事協力を求めざるを得ない状況にあったのです。そこで百済の世子(近仇首王)は、倭国へ同盟を求めて “七支刀” や “七子鏡” (下図)をはじめとする宝物を献上したのです(372年)。なおこれらの宝物は、中国の東晋(317年〜420年)の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝のものであった。この後日本に仏教が伝来(538年)し、日本の国造りが始まることとなったのである。 <参照> ・ 楽浪郡・帯方郡 ・ 正しく知ろう、韓中歴史懸案問題 ・ 伽耶とはどういう国だったのか ・ 加羅/加耶/任那 ・ 任那(みまな) ・ 日本へ向かった10支族 A 文先生誕生の背景と摂理に関すること (@)“龍明” という名前から
では、もう一方の “龍明” の「龍」の字は何を意味するのであろうか。これまで見てきたように、平安北道定州郡の位置するところは “龍の文明(遼河文明)”(参照「黄河文明と長江文明」)が実在した所である。龍は天を象徴していて、遼河文明は天を志向する心を持った文明圏といえる。文龍明という名は、この様な龍文明を文字通り表しているといえる。 ところで、遼河文明のルーツはどこかと言えば、ノアの子セムの子孫の一派である。前編でも述べたが、箱舟以降の初期に移り住んだ民族といえるのかもしれない。対して、南の “太陽の文明(長江文明)” は、メソポタミア文明から、或いはそれ以後に移り住んだセム族によって形成された農耕文明といえる。しかし、最も重要な分類をするならば、北の龍文明はイエスの十字架とは関わりが無く、南の太陽文明は多くの民族の流入によってイエスの十字架と関りを持つようになったことだといえる。 以上のことから、朝鮮半島は長い歴史を通じて古代中国の北と南の文化が混然と交じり合った状態となったが、文先生誕生のルーツは北の龍文明であるといえる。また、日本は明らかに南の長江文明もしくは黄河文明をルーツとし、文先生が龍(天を意味する存在)であるならば、日本は水中から天を目指す “鯉”(参照「黄河文明と長江文明」)となって飛鳥時代を迎えたことになるのである。 <参照> ・ 平安北道定州、文鮮明師の生家 ・ 文鮮明師自叙伝「平和を愛する世界人として」を100倍楽しく読む方法!!!!2 (A)水玉奉献式の「水玉」とは何を意味するのか?
水玉奉献式で使用された水玉は1つであるが、実際は水玉が大小2つと火玉が1つの組である(左図)。奉献式で使用されたものは水玉の小さいほうである。これまで述べてきたことから、この式典は重要なことを意味している。これを明らかにすることで、次に述べる「八定式」(1989年8月31日)以降の摂理がより明確になっていくのである。 さて、第32代崇峻天皇(?年〜592年)の御子である蜂子皇子(右図:562年〜641年)が、聖徳太子(574年〜622年)の勧めにより、宮中を逃れ、越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦(現山形県鶴岡市)に辿りついた。その時持ち合わせていたものが、水玉と火玉であるとされている。 この水玉と火玉であるが、仏教にキリスト教が融合したことに由来していることを率直に表現している(下図)。 前にも記したが、使徒トマスがインドに来て宣教を始めたことによって、トマスとその母(聖母マリア)と兄(イエス)が、それぞれ観音菩薩と阿弥陀如来と勢至菩薩に、ガンダーラでは観音菩薩と釈迦仏と弥勒菩薩として崇拝されたことを述べた(左図:参照「原始キリスト教と融合した大乗仏教」「御本尊 善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)」)。 水玉と火玉は、この観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩を中国南方の太陽文化(参照「黄河文明と長江文明」)の視点から表現した “玉” であると見られる。つまり、観音菩薩は水玉(大)でトマス、阿弥陀如来は火玉で聖母マリアを、勢至菩薩は水玉(小)でイエスをそれぞれ象徴したものであり、弥勒菩薩はイエスの再臨(再臨主)を象徴しているといえる。「火」はアンタレスの “赤” を表す「火」(参照「黄河文明と長江文明」」)であり、太陽を意味している(参照「儒教と道教の問題点」)。「水」はもちろん龍を表しているが、大小の違いは、仏教に直接関わったかどうか違いであると考えられる。もちろん、トマスがインドに訪れたのは、イエスの十字架後しばらくしてからのことであるが、生前イエスは、弟トマスにだけは東洋のことを語り継いでいたのかもしれない。小山田秀夫氏は、自身の著書でイエスが公生涯以前に東洋を訪れていたことを述べている。 <参照> ・ 羽黒山 蜂子神社御開扉 (B)水玉奉献式と日本の摂理的立場 水玉奉献式で用いられた水玉は、イエスの象徴物であることが分かった。更に、水玉は「龍」を象徴し、火玉は「鯉」を象徴していて、「龍」は「天」であり男(陽の極致)を、「鯉」は女(陰気の極致)とされるが、「鯉」はある条件を満たせば「龍」にも成れるとされ、その条件とは昇天志向をもって「龍門」を飛び越えることであるとされた。この「龍」は中国北方の龍神文化であり、「鯉」は中国南方の太陽神文化である。また、龍神文化は神聖数を「九」とし、太陽神文化は神聖数を「八」としていることから、1989年8月31日に行われた「八定式」と、この1993年11月11日に行われた「水玉奉献式」は一連の関係性があることが分かる。 <参照> ・ 黄河文明と長江文明 ・ 龍と鯉・馬・牛・羊・鹿・犬の関係 (広島大学外国語教育研究センター教授 李国棟: PDF / 本サイト) 付け加えるならば、原子核の周りを回る電子の道筋(正確には電子の動き回るところ)を電子軌道と呼ぶ。電子は、軌道が平面ではなく球状で立体的なのでその軌道を殻(電子殻)とも呼んでいる。電子の軌道(電子殻)は、大きい区分として内側から順に、K殻、L殻、M殻と層状になっている(右図)。ところが、ここに「最外殻電子は8個を超てはいけない」という重要な原則があるのです。この物理的原則は八数の重要さを物語っていると言えよう。 <参照> ・ 【図解】電子配置とは?例題で電子を並べる順番やルール、覚え方を解説! 改めて述べるが、文龍明先生が “龍” であるならば、日本国は “鯉” と言える。文先生が、何度も「日本の皇祖神は天照大神(女神)だね」と語られておられたが、これまで述べてきたことが起因すると考えられる。 (C)八定式後の摂理 これまで述べてきたことからすると、日本は中国南方の太陽神文化を受け継いだ文化であること。そして、その文化の神聖数は「八」であり、龍に対して鯉としての “昇天志向” があること。また、“安定した(変化しにくい)” 原子の最外殻電子数は「八」であること。そして、水玉奉献式で使用された水玉はイエスを象徴する「玉」であることだ。この赤下線部4点を踏まえて、下記の御言葉を理解し、さらにその下の摂理について吟味することとする。下記は、『宗族的メシヤ』(p334〜p336)に収録されていものを引用した。
なぜ八定式が1989年8月31日に行われたか。それは、日本が太平洋(大東亜)戦争で敗戦し、1945年9月2日に東京湾に係留した戦艦ミズーリの上で、公式な降伏文書への署名が行われたことに起因する。八定式が成された日は、それから43(40+3)年の蕩減復帰摂理期間としては最後の日となるのである。 日本が戦争によって失ったものは、日清戦争から日露戦争で得た戦勝国としてのプライドではない。神が摂理してこられた “母の国” としての信頼である。それがまさしく “不変なる昇天志向” によって裏付けられた天性的な母性としての “犠牲的愛” である。これは十字架上において、イエス自らが “神の子” としての立場と生命までもが失われるとしても、神の人類に対する愛を伝えようとしたことと同じである。 アラスカで八人の日本女性が自らの立場を度外視して、天の心情に自らの思いを馳せ、その摂理の行く先を安堵しながら、微動だにしない信仰を八年間捧げたのである。このことが、神聖数「八」を復帰を可能にし、「八定式」を宣布することができたのである。このことによって文先生の保護圏が確立され、長子権が復帰されたことによって “蕩減という障害なしに” 神の愛が水の如く流れ下ることができるようになったのである。同時に、日本は愛援時代を担う摂理的国家としての立場を取り戻したことを意味しているのである。
「八定式」以降、左記の期間において成されたことは、下記 @ の「父母圏解怨成事」としての一連の内容となる。
「水玉奉献式」は、上記 A の「イエス様の位置の解怨成事」に該当する。ここで付け加えておかなければならないことは、その後に済州島や水沢里において、日本食口の「訪韓修練会」が行われたことである。それは、以後の摂理に対して、サタンの反対が起こらないように、最も “肝” となる内容を修練された。 2003年2月6日における2回目の聖婚式は、成長期間を超えた段階における「聖婚式」となるが、ここから B の「アダム家庭の解怨成事」に向けた摂理が開始される。そして、2006年2月4日の「天一国指導者大会」に於いて文先生は、「顯進、何の話か分かっているのか? 國進、分かるか? 亨進は? 3兄弟が手をとり、アダム家庭において、三人の息子が一つになれず争って血まみれになり、涙の谷を作り、太平洋のような血の海を作った、そのような家庭の伝統を埋めなければならない責任がある」と語られた。更に、2007年5月13日には、“一体化したカイン・アベルを2013年1月6日までにお父様に捧げるよう韓お母様に指示” された。 しかし、一体化するどころか分裂し、更に分裂してお母様と國進様・亨進様と顯進様の3つに分裂してしまい、2013年1月6日が一年延長されてしまった。結局、一体化したカイン・アベルを天に捧げることによって成就しようとされた「アダム家庭の解怨成事」は失敗に終わり、文先生は2012年9月3日に聖和されたのである。 2013年2月22日に行われる3回目の聖婚式は、“夜の神様” を代理する文先生と、“昼の神様” を代理する韓お母様が聖婚式を行うことで、夜昼に分かれて摂理された神様が一体となり、唯一神として安息される全天宙が祝賀する日となったのであろうがそれが叶わず、C「父母の失敗の基盤を全部解消させる」ことができなかったのである。 <参照> ・ 太平洋戦争の終結 ・ 日本へ向かった10支族 ・ 「玉」とは・「玉文化」とは
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